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「これ」 矢崎

 グリーンティーの冷えた香りは、NGY1150のおかげ庵から。

 蜂蜜アイスコーヒーの冷えた香りは、NGY1180のコメダから。

 二つの異世界の芳香が混ざり、こちらの方へ流れ。……いや、そこまでは起きないし、混ざり合うのも少し後のこと。


 おかげ庵のあの店に、矢崎は一人で来ている。家族か中野と来店したことは何度もあったが、一人は初めてだった。彼は田島と交信すべく、とある四人掛けの席を店員に希望した。店員はそちらを一瞥し、彼の望みを叶えてやれると安堵する。

 たまたま混雑してなかったせいで、そこは空いていた。その四人掛け席こそ、田島と矢崎が初めて交信した場所だ。思い当たる共通点は、それぞれの異世界でも同じコメダチェーンという関係性だ。現地コメダも、現地日本国内で店舗を増やせていた。二つの異世界に限って言うと、複合体オリジンは彼らと関わっている。誤解を恐れずに言い表すなら、「戦略的互恵関係」や「パートナーシップ協定」だろう。……これ以上は後で語る。

 今語るべき話は、その二人が初めて交信できた場所で、再び交信し始めた事だ。「初対面」以来、二人はそこで交信していなかった。二人とも小学生なりの小遣いの上、勉強で毎日忙しい身だ。あの交差点での交信なら、いろいろと都合がいいのは確かである。


 お望みを叶えてくれた店員に矢崎は礼を言い、それから冷たいグリーンティーを注文した。そして、広い木製テーブル上に、塾の教科書やノートやらをパラパラ広げる。鉛筆は三菱のハイユニときた(小学生のくせに生意気だ)。

 小学校の教科書はテーブルの向かい側に置かれ、四人席を一人で使う風当たりを緩和中。学校配布のタブレット端末は充電中。

 女性店員がグリーンティーを運んでくると矢崎は、テーブル上の置いてほしい位置をそっと指差す。彼の視線は算数の教科書へ向けられたままで、「勉強してます感」を身にまとう。店員は彼の振舞いに吹き出すことなく、豆菓子や伝票も置き、厨房へと戻った。そして、他の客へ品を運ぶ。店内に漂う抹茶の芳香が、彼女の歩みにたなびく。

 グリーンティーを三口飲み、涼を取る矢崎。対面に田島の姿は見えない。彼の遅刻ではなく、矢崎が待ち合わせ時間のかなり前に着いたためだ。

 時刻表示を見ると、二人が決めた十六時きっかりより二十分早い。状況により時の流れは早く感じるものだが、彼には田舎で路線バスを待つように遅く感じたはず。

 時間の無駄に思えたらしく、勉強を再開する矢崎。塾の教科書はどれも既に読破していたが、もう勉強せずに済むわけじゃない。「予習アンド学習アンド復習」のループを、受験日まで繰り返さねばならない。強迫的に……。

 落ち着ける場所で勉強したいと親に許された外出だが、彼はもどかしかった。ひた隠す恐怖を露わにしないよう気をつけている。近くにいるかもしれない正体不明の連中(言うまでもなく望美たち)へ注意を払いつつ、その店に来た次第だ。現地マスコミに声をかけられもしなかった。現地警察の警護も尾行もない。

 彼が田島とその場で交信したい理由は、彼自身が落ち着きたかったから。つい先日自宅へ望美たちに上がりこまれ、自身の帰宅を待ち構えられた身だ。精一杯努力すれば、元の日常をすぐ取り戻せると考える者は、温室育ちの政治家や役人ぐらいか……。

 現地日本の愛国心教育もあり、恥や世間体への恐怖から遠ざかりたい矢崎。彼には、奔放しがちな田島との意識の違いもある。そのため彼は、自身が持つ知識を田島へ披露したい気持ちで一杯だ。典型的なマウンティングだが、彼はそれにより安心を得たかった。後々悔やむ流れになるが、彼は結局その日、自信や安心感と共に家路につく。


 時が十五時五十八分を刻んだ後、テーブルの対面側に田島がドゥンと現れた。約束した十六時を守れたわけだが、田島は矢崎を待たせた事に罪悪感を抱く。テーブルに置かれた教科書やらは見えないが、矢崎が持つ鉛筆は見えた。鉛筆の芯は丸みを帯びていたが、田島にはそれが「待たせた証」に見えたよう。

「待たせてゴメン」

田島が言った。とても早口かつ小声で。矢崎はコクリと頷くと同時に、彼を傾聴させられることに早くも喜んでいるご様子……。

 田島も初対面での事を思い出せ、同じテーブル席を確保できたわけだ。木製の重厚なテーブルを挟み、矢崎と田島が再び顔を合わせていた。座る位置まで初対面時と同じだ。

 ……ただ、田島の方は不運に見舞われている。彼はいつもの交信と違い、よそよそしさを纏っている。原因は私からは明白だが、矢崎の方は違う。田島が妙な素振りを見せる原因を、なかなか理解できずにいた。

 田島は右隣りをチラチラ見つつ、左手でジェスチャーを取り始める。それも始めは、隣りの人間に気づかれぬよう、極めて控えめな所作だった。

 最初の一言以降、田島は矢崎へ何も言葉を発していない。店員とのやり取りは矢崎も察せたが、それ以外でも何も話そうとしない。ただ、お粗末なジェスチャーを披露されている。


 矢崎は始め、田島がふざけていると考えた。あるいは、汚泥たる勉強続きで心身をやられ、狂ってしまったと……。そうなれば進学先は、ある意味特別な学校に変更だ(あの母親がそうさせないだろうが)。

 実際、矢崎の隣接学区では狂った小学生が現れ、タブレット端末でクラスメイトを殴る珍事が起きていた。矢崎はおふざけの方であるよう祈った。実質半分同じである自身が、絶対に狂わない保証はない。行き着く果ては、精神病院の隔離病棟……。

「もう止めにしないか? 俺もお前も時間を大事にしたい。……確か、まだ済んでないよな?」

彼は田島が中学受験を済ませた(手応えはともかく)のでは考え、田島側の受験日を思い返す。しかし、当時はまだ七月なので、それもありえないと結論づけた。

 言うまでもなく、矢崎と田島は互いの受験日まで伝え合っている。受験先は異なるものの、受験日や合格倍率、在校生の偏差値はほぼ変わらない。二人とも小学生ながら「大変な御身分」だ。どちらの東京都民も、都立の中学高校を敬遠している。

「…………」

田島は無言のまま、ぎこちなくジェスチャーを取り続けている。しかし、わかりづらい所作のせいで、矢崎になかなか伝わらない。今から十年以上前にネットミーム化した「故マンデラ氏追悼式のインチキ手話」にようだ。

 ただ矢崎は、おふざけや狂ったわけじゃない点を理解できた。バカじゃないものの彼が不器用な人間である事を、矢崎は知っていた。

「喉を壊してるのか?」

田島の喉元を一瞥し、矢崎は尋ねた。夏風邪にかかり、喉を傷めているのだと考えた。だから、先ほどの一言も小さく早口だったのだと。

 しかし、田島は首をそっと一度横に振る。……矢崎は眉間にシワを寄せながらも、感情的にならないよう努めた。ここは怒りじゃなく理解が求められる。

 矢崎は深呼吸を繰り返し、田島の酷いジェスチャーで生じるイラつきを抑えた。ノートを吹き流れる吐息が、灰色の消しカスを転がしていく。田島が現れるまでの約十五分間を彼は無駄にせず、勉強に励んでいた。消しカスの一部は、書き間違えた漢字やら。


 田島は不器用な小学生だったが、バカなわけじゃない。人生最大の不運さえ起きなければ、今頃第一志望の私立中学で一年生やってるはず。まあそれも、自国の将来を強く不安視し、自分を殺していなければの話だが。

 突然、田島はジェスチャーを止め、右隣りの誰かさんへ声をかけた。彼は笑顔でその誰かさんを見送るなり、大きく息を吐いた。それまで矢崎は忍耐を続けていたが、田島が息を吐くなり、状況がついに好転したと悟る。

「ねえ、悪いけど矢崎。今日はその、少ししか話せなくてさ」

田島のいつもの声に、矢崎は心の中で深く安堵した。

「なんだよ。何かあったのか?」

矢崎はそう返しながらも、田島の状況を少しでも早く理解しようと身構える。親友中野ほどじゃないが、彼は田島の身を実際案じていた。ただしそれは、恋心じゃなく親心の一種だ。大袈裟かつ哲学的に言うなら「父権主義」がしっくりくるか。

「実はその、彼女、いやじょ、女子と来ててさ。今トイレだけど、今日は少し、少し短くしか話せない」

田島は噛みながら一気に言った。言葉を選び話しているとしても、矢崎からすればショックでしかなかった……。

 半分同じ自身が、受験勉強と平行する形で恋愛に耽っている次第だ。自身と同じ苦労を味わっているはずにも関わらず、彼女をつくれているわけ。いくら中野という親友がいるといえ、「恋人持ち」というアドバンテージは、矢崎には強烈だった。二人ともほぼ同等の外見(二人とも母親似で「中の上」)に関わらず、パートナーがいるという格差は小学生でも重々しい。

 ……私のほうは既に知っていた現実的な格差だが、こう眺めているだけで悲しいもの。激流の中で、矢崎は素早く自身の話を披露しなければならなくなった。

 しかしまあ、後々の事を鑑みれば、良い人生経験や社会勉強になったと思う。当時の彼に同情できるかはさておき。

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