「それ」 田島
七月十一日の夜も、昼の熱気が漂う熱帯夜だった。亜実たちが憶測で柏崎宅へ訪れた、あの日の夜である。鉄やコンクリート、アスファルトが放つ残熱は、東京二十三区外の八王子市でも例外じゃない。
モヤモヤした調子の田島が学習塾を出て、薄暗い歩道を早足に進んでいる。疲れながらでもせっせと歩く点は、今に始まった所作じゃない。移動時間を一分一秒でも節約するため……。
ただ今夜の彼は、赤信号で足を止める度、スマホでラインを確かずにいられなかった。普段は英語のリスニングを聞いているが、その夜は違った。
「ああ無情」
彼は塾の国語で黙読したばかりの、『レ・ミゼラブル』の邦題をぼやいた。実際、彼はそんな境地だった。
恋人柏崎とのラインが、彼の気分をもやもやとさせていた。彼が柏崎へ送ったスタンプに既読が一向につかない。これは、柏崎に愛想を尽かされたのではという疑念じゃなく、むしろ逆の意味だ。
彼は塾の昼休み(夏休み前の火曜日なので、一応登校日だが)に、自宅勉強中(母親いわく「登下校分の時間がもったいない」)の柏崎と、昼メシの画像を送り合ったのだが、彼が締めに送ったスタンプに、彼女の既読がつかずにいた。
既読がつかない原因は、亜実たちが訪れていたせいだが、田島本人はまだ知らない。突然の訪問者および騒動で、柏崎本人は気が動転し、恋人田島のスタンプに既読をつけ忘れていた。しかし、未読スルーぐらい大人でもよくあること。……そうだろう?
ともかく、事情をまだ知らない田島は、柏崎の未読スルーという珍事に、心中穏やかでいられなかった。「何か地雷を踏んじゃったかな?」と、彼なりに不安を抱いた。初めての事じゃなく、前回は「嫌味なスタンプを送られた」というこじつけな理由で起き、そのフォローで憔悴したのだ……。今回もその辺が理由かなと、田島は塾の授業中も考えさせられた。
そんな不安事や勉強疲れ、熱帯夜やらで、田島は矢崎との予定を忘れかけた。うっかり、例のT字交差点から一本西の交差点を渡ってしまう。あのまま帰宅してくれたほうが結果的にマシだが、後の祭りだ。
「おいおい、待ったんだぞ、おい」
例の交差点を普段とは逆方向から近づくなり、矢崎の声が聞こえた。時刻を確かめると、約束の日時(その頃は毎週金曜日の夜が定例だったが、その週は火曜日に変えていた。)に遅れている。とはいえ、五分足らずの遅刻だ。それでも、矢崎の口調には怒りがこもる。ただ今回は、彼なりに潜めませた声だ。
その夜現れた彼は、重く疲れた顔を浮かべ、地味でくたびれた服装で佇んでいる。幽霊のように薄ら存在しつつ、彼が醸す様相は色濃かった。
「ああっ、ゴメン!」
田島はまず謝った。こじつけな理由で柏崎に謝らされる場合と比べれば、これは快く謝れる。
「まったく……」
彼の謝罪を受け入れつつ、周囲を伺う矢崎。眼球だけでなく顔も動かし、神経質に周りへ注意を払っている。彼が彼女なら、防犯ブザーを鳴らし喚き出してるかも。
望美たちがおととい、彼の自宅を訪問したばかりのため、警戒モードは当然だ。正体不明(現地警察のお公式さん発表)の連中に、なぜか自身が狙われているのだから。また、現地警察に見張られている可能性は、少し賢い小学生なら考えつく(オリジンが協力者経由で圧力をかけたため、現地警察はそこまで本気でなかった)。
「ええっと最近、最近何か起きちゃったの?」
田島もバカじゃないので、矢崎の様子から何事かを悟った。
「……家でその、ちょっと騒ぎがな。そっちは家で何も起きていないか? 例えば、空き巣とか」
矢崎は田島にすぐさま問いかける……。勘のいい子供は嫌いじゃないけど好きでもない。オリジンの文民部なら、この交信を見終える前に狼狽えるだろうが。
「空き巣? いや、ボクんちでは何も起きてないよ。……学校とか塾でも、特に問題は」
田島が当時思い当たるとすれば、恋人とのラインぐらい。ただ、恋愛話なんて伏せるほうが賢明と考えたようだ。
「ああ、そうか。……実はな、恥ずかしい話だが、おととい家に賊が入りこみやがった。狂った奴らで、なぜか俺の帰りを待ってたらしい。それもその、母と弟を縛った上で……」
矢崎は自身の口から語りつつも、周囲への恐怖心を隠せていない。それを察した田島は、おとなしく聞く姿勢を示す。小学六年生ながら私立中学受験組だけあり、落ち着いている。面接も問題なくパスできただろうな。
当初の矢崎は、「狂った奴ら」へ恐れを抱かずに振る舞っていた。情けをかけられたり舐められまいと、小学校や塾で強気の姿勢(遺憾の意を唱える類じゃない)だった。しかし、二日ほど経った頃合いには、不可視なおぞましさが脳を蝕んでいた。「正体や目的がわからない存在に狙われる」という話を、二人ともフィクション作品(主に教育者推薦の模範的図書)やニュースで見聞きしていたものの、自らが経験するとは考えもしなかったはず。
リスクとして性被害は、女性だけでなく男性も受けかねない問題だ。身の危険を覚えるのは仕方ない。もっとも、望美たちの目的はマイクロマシン除去だ。
田島はまだ、自身もこの件に巻きこまれている事に気づいていなかった。亜実たちが柏崎宅へ入ってしまった話も、まだ彼の耳に入っていない。さすがに柏崎萌恵も、その件は堪えたよう。
矢崎の語り節(主に愚痴)を田島は黙って聞いていたが、やはり他人事に感じていた。「ウン」とか「なるほど」とか「そうとも言えるね」と、ギリギリ上手く相槌を打てているが、柏崎とのやり取りで培われたスキルでしかない。
「とにかく、今ここで話すのも危ないというわけだ。つまり、当分できるだけ会うのは止めにしないか?」
「悪くない話だね」
田島はそう返しながらも、心はざわついた。また、矢崎のほうは悔しさを覚えていた。二人とも中学受験を控え忙しい身だが、気晴らしの術をすっかり捨てる気は無かった。一年足らずの親交といえ、異変的な人間関係(人為的な現象だが)をいったんでも断つ事にためらいがあるようだ。どうして交信できるかを知らない以上、尚更なのは確か。
とはいえ、交信を一時的(受験が終わるまでだろう)でも止めてくれる提案はありがたい話だ。マイクロマシン除去さえ済ませれば、私もオリジンも二人の人生に関心を持つ必要もなくなる。他事に時間などを回せる。
……ところが、話は面倒臭い流れへ進んでしまう。これも後の祭りだな。
「いや、いっそ戦うべきじゃない?」
田島がそう言った。まったく、余計な火をつけてくれた……。
「戦う?」
「そう、そいつらと戦うんだ」
矢崎は「戦う」という選択の意味を十分理解できていた。第二次世界大戦で勝った日本に住んでいるため、至極当然だ。
だが、田島のほうは不十分な理解だろう。いわゆる「理解のある彼氏」の類似例でしかない。命が懸かっているため、なおさら無責任だ……。あえて言えば、「若者を戦場へ駆り立てる中高年論客」と変わらない。
「ああ、戦うのは悪くない」
矢崎もバカじゃないため、田島の無責任な言葉に違和感を覚えた。しかし、それまで示してきた姿勢から弱腰になれなかった。「俺は負け組の日本人じゃない」という誇りとメンツが、彼をそう作用させた。
誇りとメンツ。どちらも、田島に不十分なのは確かだ。論理的には半分同じ遺伝で、科学的には四分の一同じそれだが、住む世界による影響だとはもはや言えまい。
「ただ相手や場合によっては、お前も戦うかもしれないぞ? その覚悟あるよな?」
「ええっ! なぜボクも? なんでさ?」
ぞっとした表情を浮かべ、自らも周囲を警戒する田島。無責任かつ他人事の証だ……。
「なぜって、お前。今こうしてやり取りしてる事も、その、何か関係あるかもしれない。……警察の動きが悪いわけではないが、自らやれる分はやっておくべきだ」
矢崎が小声で言った。彼の本心や家族は、「警察の対応が急に鈍くなった」と嘆いている。オリジンが手を回したからとはいえ、警察不信を招いたのは当然だ。実際、オリジンは一連の事後処理について、現地警察とは丁寧に交渉する必要があった。かかったリソースは、最初の矢崎宅訪問の分だけじゃない……。
二人の交信は一分ほど途絶えた。いや、途絶ではなく停止だ。さらに正しくいえば、思考停止が起きた。
「おい?」
再び動かしたのは矢崎だ。彼の声に、田島はまず「ああ」と返す。
「……ありえる話だけどさ。けど、そいつら頭があの、頭が変な人たちだったんでしょ?」
「いや、奴らが狂ってなかったとすれば、一番思い当たる答えだ。……おどかす気はないが、お前も無関係じゃ済まない話だ」
矢崎の主張を聞き、田島は首を横に振る。ただ、一笑で済ませられる話じゃないと理解できたらしい。今や矢崎と変わらず、恐怖に脳を蝕まれつつある。交差点の各所へ視線をコロコロと移すなどしていた。中高年男性がやれば、不審者扱いされそうな所作だ。
「もし仮にそうだとして、ボクらに何ができるのさ? ……通報や正当防衛ぐらいだよね?」
田島は矢崎に問う。矢崎は答えに窮したが、それはノーコメントだからじゃない。田島に何を教えるべきかで迷ったためだ……。
言葉以外の「戦い方」は矢崎のほうが詳しいと、田島はよく知っている。既に不必要なほど、そして、さらに不必要な事柄を、彼は矢崎から伝授されたのだ。
一連の関係者へ、「不幸中の幸運」の花を手向けるとすれば、矢崎がその伝授を後日に遅らせてくれた点だ。「もし二人が時を忘れ、あの夜に伝授を済ませていれば、さらなるリソースが求められた」という、言葉を添えて。




