「これ」 矢崎
もう一方の少年の矢崎賢一は、相手つまり田島の姿が消えた今も困惑していた。この場をどうやり過ごすべきかで迷っている。彼は彼で、自身の母親とのやり取りがある。小声とはいえ「誰だ?」と突然言い出した子供を、気にせず放置する親はいない。事実、彼の母親も不安そうでいる。その母親も普段から息子を自慢に思っており、立派な大人に育てあげようと一生懸命だ。
「どうかしました?」
「……えっと、向こうの席にいる人が俺を見てきて」
矢崎はそう言うと、顎先で離れた席にいる会社員を指し示す。
若い男性会社員が、閉じた東芝のノートパソコンに両腕を置き、冷えたグリーンティーの到着を待っていた。せっかちな人間らしく、店内のあちこちへ視線を移している。
矢崎たちがいるおかげ庵は、大変賑わっていた。順番待ちのリストには、一組の四人家族と二組のカップルの名が書かれている。
「みんな忙しいだけよ」
矢崎の母親は静かにそう言うと、温かいお抹茶を一口飲んだ。
「あ、ありえるね」
上手くごまかせたと、矢崎はほっと一安心。彼は抹茶オーレに手を伸ばし、一口飲む。母親には気づかれなかったが、その手は小刻みに震えていた。
{ああ、なんて情けないんだ。幻なんかに声をかけるなんて……}
彼は手の震えに気づくなり、自分を恥じた。彼は両手で自分の太ももをつねる。つい強くつねってしまい、痛みに顔を歪ませた。
「ちょっと大丈夫なの?」
母親に気づかれ、矢崎は焦った。額に冷や汗まで浮かべてしまう。
「だ、大丈夫だよ。少し、ほんの少し疲れてるだけ」
「そろそろ帰りましょう。家に帰ったら、夕飯までゆっくり休みなさい。では、ご馳走様でした」
母親はそう言うと、机上の伝票を手にした。そして、和装バッグから牛革の財布を取り出す。
「ご馳走様でした」
平静を装いながら、矢崎は手を合わせた。馬鹿丁寧な親子だ。
例の若い会社員は店員を呼びつけ、腕時計を彼女に見せつけた。いつまで待たせるのかというわけだ。女子大生の彼女はその腕時計が見掛け倒しの安物である点を見抜きつつ、会社員の文句(よほどグリーンティーが恋しいらしい)を聞いてやる。
親子は喫茶店を出た。そのおかげ庵の店先は、「それ」側のコメダと同様に大きな交差点だ。信号が変わる度に行き交う、何十台ものガソリン車の群れ。そのほとんどを日本車が占め、ドイツ車はまったく見当たらない。
建ち並ぶ商業ビルの看板は、どれも躍動感溢れる物ばかり。「己の足腰が国家を支える!」と書かれた運動靴の看板や、汗を流す労働者のイラストと共に「拓け、日本の未来を!」と書かれた看板が見える。我々の世界からすれば多かれ少なかれ、愛国主義的に思わせる。
人が確かな根拠を持って自国や自分を誇るのは悪くない。ただ、我々側や「それ」側の日本人は、その根拠を持ち合わせていない。何しろ、「これ」側の日本人は、大日本帝国として第二次世界大戦に勝利できたのだ。しかも被爆国じゃなく、むしろ落としたほうだった……。
母親を後ろに従えるような形で、少年矢崎は淡々と歩く。彼は歩き方がだらしなくならないよう気をつけつつ、幻の件をぼんやりと考えていた。自分はなぜあんなのを見てしまったのかと。
通行人は和服姿と洋服姿が半々だ。和洋折衷の服装も目立つ。洋服を着こなす我々の目からすれば、七五三やコスプレイベントのように見える。現に矢崎の母親も和服だ。家では間違いなく、『サザエさん』のフネのような割烹着姿だろう。
そして矢崎本人はというと、和洋折衷の流行りの服装だった。彼のクラスで流行中の国産ブランドで、クラス内で変に浮いてほしくない母親が買い与えた服だ。長ズボンは藍染めのデニムで、上着は小豆色の着物風カーディガンときた。彼はそれを気に入り、あさっての始業式もその服装で登校するつもりだ。
ちなみに田島の服装は、我々が想起する男子小学生のそれと変わらない。周りの流行に合わせ、変に浮かない服装だった。
「春休みの宿題はすっかり終わりまして?」
矢崎の背中に向け、母親が尋ねた。
「えっ? ああ、ほとんど終わっているよ。夕飯後に最後のページを解くだけ。算数の問題をね」
「そうなの。時間が余るようなら、予習を進めなさい。いよいよ小学生の最高学年なんですから」
母親は息子を、いつまでも自慢に思い続けたい。
「うん、わかっているよ」
彼本人はそう答えながらも、今夜は勉強が捗らないだろうと予想する。幻の件を脇へ寄せられないだろうと。
予想は的中した。
夕飯後、矢崎は自室で学習机に向かいながら、幻について悶々と考えがちでいた。結果、複雑な円柱の体積を求める最後の問題を解けたのは、日付が変わった頃だった。机上のデジタル時計が彼に、春休み最後の日だと告げている。母親が勉強の進捗を確かめに来なかったのは幸運だ。
「はあ……」
矢崎は予習までできなかった自分を恥じる。田島と同様に、彼も勉強熱心な性質だ。二人ともそれは母親譲りだった。
宿題を終えられた実感が湧かないまま、寝る支度を済ませる矢崎。彼は歯を磨きながら、洗面台の鏡で自分と向き合う。「やはりアレは鏡じゃない」と呟いた。その呟きは家族の誰にも届かなかった。
母親は皿洗い中で、帰宅した父親(カメラメーカー営業の仕事人間)はテレビを観ながら晩酌中。そして、二つ年下の弟は、ぐっすり夢の中。
矢崎は親友を誘い、あのおかげ庵へまた行こうかと考えこむ。そのとき、口元から歯磨き粉の白い汁がこぼれ、寝間着(今度は着物だ)の襟へ一滴垂れた。
{しまった}
彼は急いで口を濯ぎ、手拭いで襟の汚れを擦った。幸い、汚れは綺麗に消えた。何事も起きなかったように。
それから居間へ行き、両親に「おやすみなさい」と丁寧に言う。彼は返事をもらうと自室へ急ぎ、ふすまを締めてから大きく息を吐いた。ふすまを隔てた隣室で眠る弟が、体をピクリと震わせた。
「神様、幻なんてもう見ませんように。忘れてしまえますように」
八百万の神々に祈る矢崎。彼は神様の存在を信じていたし、真面目な日本男児たる自らを救ってくれると確信していた。
あいにく、そうはならない。