「これ」 矢崎
熱帯夜にも関わらず、矢崎宅の食卓はカチンと冷え込んだ。
窓外から届く雨音は、その夜はやけに大きく聞こえている。重苦しい空気で、食卓は張り詰めていた。
矢崎とその母親の箸は止まり、沈黙は既に二分経過している。机上の主菜や白飯などが冷めていくものの、今は問題じゃない。居間から廊下へのドアが閉じられていなければ、情けない弟のはしゃぎ声が届いていたはず……。
知っての通り、矢崎は夕食の場で母親に、歴史認識を突然説いたわけじゃない。話の糸口として、あるSF小説のタイトルを口にしただけ。
ところが、その『横たわるバッタ』という名の小説本は、彼の母のような親たちから不評を喰らっている。性的や下品だからじゃなく、「くだらないし、けしからん」という理由から……。フィクションとはいえ、日本が戦争で敗北するという物語は、「これ」世界の日本人から受けが悪い。作者が同盟国のアメリカ人なので、日本国内でも出版や流通が渋々許されている。矢崎の小学校のように図書室に置けている所は少数で、たいがいは保守派の抵抗に遭う。
その話に付け加えると、保守派の過激な奴らは、置かれた本を破いたり、翻訳者を襲う事件を起こしたりもしている……。つまり、歴史認識に関しては、我々の世界でいう隣国の人々と変わらない性質というわけだ。
「あんな本を読むなんて信じられません! しかも今は大事な大事な時期ですよ!」
矢崎の母が沈黙を破り、ヒステリックに喚き始める。
「ス、スキマ時間に少しずつ、少しずつ読み進めてるんだ。寝る前とか」
声を震わせながらも、矢崎は言い返す。まだ半分ほどしか読み進めていないが、あの本を感情的に貶められる事は許せなかったらしい。
「アレは酷く長ったらしいだけの作り話ですよ! 寝る前は英単語の暗記にあてるべき時間です! どれだけ時間を無駄にしたのですか!」
母親は彼を問い詰める。喚き声に戸惑いながらも、彼は言い返しにかかった。
「それはつ、つまり、母さんは読んだ事があると」
「私は大人だからいいのです! 酷い作り話という話を聞いたものですから、人から借りて読んでみただけです!」
母親はそう言い、彼のつけこみを跳ねのけた。
「じ、時間を無駄にしたわけでなく、べ、勉強として教養も大事だと考えて!」
矢崎は釈明するが、彼女のような類には無駄な足掻き。
「まったくもう、屁理屈はやめなさい! あの作り話はダラダラ進むばかりで、読むのが苦痛でした! それにアレは健全な話でなく、悪い思想ばかりです!」
母親は読破済みだった。読んだ上での批評は正しいが厄介である。
教育ママの秀子は、自分の子供が自分に取って大事な時間を浪費されてしまう事が、よほど気に入らないようだ。しかし、彼女のような手合いは、自分が親やミソジニーに「女は本を読むな!」と言われた途端、怒り出す。
「わかった、わかった母さん。この話は終わりにする。わかりましたから」
矢崎は言った。内心悔しいだろうが、無難な返しだ。
彼が母親に問いかけたかった本題は、歴史認識と平行世界についてだが、今夜はお流れだ。強引に話し続ければ、母親はさらに怒り狂うか失神するだろう。そうなれば、明日の朝メシは誰が?
矢崎や田島はひとまず、「女性に苦労させられる」という点で共通している。この二人に限った話じゃないが、二人の場合は同じ女性が原因だ。
「受験が無事終わるまで、他の作り話を読むのは控えなさい! 国語で読みたい物があるなら、私の許しを得てからにすること!」
母親がそう言い切る。「母親の務めを果たしているだけ!」という、冷淡な態度だ……。
田島と矢崎の母親。二人の実質同一の母親である、ナントカ秀子。
もし彼女が、どちらか片方の世界で処女を生涯貫けば、田島健一と矢崎賢一へマイクロマシンが埋め込まれる運命は、当然起きない。まあ、どこか別の二人組がその役目を務めるわけだが。
二人の実質母親である秀子は、読書管理宣言を発した後、平静を取り戻す。彼女は箸を動かし、夕食を再び取っている。
彼女の長男である矢崎賢一は、母親の平静に胸をなでおろす。それを悟られることすら不味いようだが……。
母親がヒステリックに喚くというほぼ定番イベントは、中学受験勉強が本格的に始まる前から度々起きているらしい。「宿題済ませたの?」程度から、友達関係(中田家が団地という理由)にまで口を出すそうだ。なんとも過保護である。
「…………」
矢崎も夕食を再開したものの、味覚を感じ取れない。主菜が冷め、白飯が乾燥し固くなってしまった点だけじゃなく、不満や不足感が彼自身の中で渦巻いているのは明白だ。母親秀子は彼の心中を悟りながらも、気づかぬフリをしていた。これまでの子育てから、今度も不完全燃焼で終わると踏んでいる。
そして残念ながら、今度もその予想は当たってしまう。矢崎はそれから大人しく食べ終え、自室へ立ち去った。彼が示せた反抗といえば、締めの「ごちそうさまでした」を投げやりに言ってやったぐらい。せめてもののマッチョイズムだ。
……ところが、母親秀子はそれすら気に喰わなかった。彼女は帰宅した夫に、夕食で起きた事を言いつけた。無論、誇張した言い回しかつ感傷的に。
矢崎賢一の父親である鷹広は、妻の手前もあり、長男賢一を叱った。……いや、「叱った」という表現は控えめだ。「怒鳴りつけた」という表現のほうが、安直だがしっくりくる。我々の世界でいうと、養老院送り寸前の年寄りがするような叱り方だった。
見切りをつけた次男賢二に対する分も含め、長男賢一は両親に怒られがちである。不運な事情として、彼が生きる「それ」世界ことNGY1150の日本では、尊属殺人は未だ重罪だ。
父親の説教は感情的かつ精神論的だが、その世界で生まれ育っている矢崎賢一は耐えるしかない。それでも合間合間に、父親へ歴史認識や平行世界について問いかけたい気持ちが、彼の心中に湧いた。しかしながら、火に油を注ぐ展開に陥りやすい点は、小学六年生の彼でも察せた。
結果的に矢崎は、就寝時間を多少削ってでも、勉強時間をこなさなければならなくなった。学校だけでなく、塾からも宿題を出されている上、復習や予習もやらねばいけない。告げ口からの説教が起きなければ、彼はあと三十分は長く寝ていられた……。
――矢崎は恥ずかしさを堪えつつ、田島へ波乱の夜について話し終えた。前述のマッチョイズムもあり、自分が悔しさや悲しみを覚えた点は伏せていた。
それでも田島は彼がその晩、悔しさや哀しさに溺れながら眠りについた事を悟れていた。……さすが、同じ女を母親に持ち、交信のマイクロマシンを埋め込まれるだけある。




