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「これ」 矢崎

 夜空には星どころか、透ける月光すら見えない。東京の輝きだけが原因ではなく、単に雲で覆われているから。それでも、夜七時二十五分頃のNHK気象予報は、今夜中に関東地方が梅雨入りすると伝えていた。


 田島が先に去った後、矢崎は今の交信で自身が起こした失敗を悔やんだ。あらかじめ言っておくが、正直つまらない悩み事である。大人になれば、当時悩んだ自分をバカに思えるだろう。子供らしい純粋さだ。

 ご存知のように、彼には中野という親友がいる。彼は自身や田島が私立中学の入試を受けられる身分という事を、さも当然のように考えていた。

 しかし、金銭面から中野が私立中学へ進めない事をつい忘れてしまった次第だ。さらに彼は、中野も軍隊でなら御国の役に立てるだろうとまで考えてしまった。頭が悪いわけじゃない親友を、心の中でバカにしてしまった後悔だ。また、田島の「どこにも就職できなかったら行こうかな」という言葉に異を唱えなかった点でも悔やんだ。

 ……やはり、つまらない悩み事だと言える。人前で失言したわけでもないのに、彼は自分自身に嫌悪したのだ。「内心の自由」は彼の日本でも憲法で保障されている。ただ、「表現の自由」は不十分で劣っている。

 さておき、矢崎には他人や集団を重んじる傾向がある。「おおかた同一人物」と呼べる田島以上にだ。その集団主義的な傾向は遺伝子だけでなく、それまでの歴史や環境が作用したに違いない。周りの因子が、人間の内心に影響を与えたという単純な話だ。

 「どちらかといえば田島寄り」の平行世界で生きる、我々の大部分からすれば、矢崎の「これ」世界は異常と呼べるだろう。第二次世界大戦で日本が勝者側となった点はやはり大きい。

 ちなみに、「これ」世界には『NGY1150』という異世界コードが付き、「それ」世界には『NGY1180』が付いている。コードの数字は我々に発見された平行世界の順番を示す。つまり、矢崎の世界のほうが先に発見されたというわけだ。


 矢崎の後悔(自己批判とも言えるか)は、その横断歩道の前で十分近くもかかった。その間に、中高生や会社員が何人もそばを通り過ぎたが、佇む矢崎に声をかける者はいなかった。二十人足らずのサンプル数だが、「触らぬ神に祟りなし」ということわざはこの日本でもお馴染みらしい。ただ車のほうは、横断歩道の前で意味ありげに佇む矢崎を、注意深げに見ていた。自殺志願の子供を轢き、人生が狂っても構わないドライバーはいない。

 実際の問題として、受験勉強やその失敗を苦に自殺する子供は、「これ」世界ことNGY1150でも少なくない……(小学五年生から高校卒業までを奈良で穏やかに過ごせたオレからすれば、東京都民の教育方針は理解に苦しむ)。

 我に返った矢崎は、カシオの腕時計を見る。彼は「まずい!」と口走るなり、横断歩道を渡った。歩行者信号は点滅中で、渡る途中で赤色に変わったものの、それを咎める者もいない。



 自宅の玄関ドアを開け、家族に帰宅を告げる矢崎。普段より大声だが、交差点から自宅まで休まずに走り続けたため、声色には擦れがこもる。

「おかえりなさい。今日は遅かったですね」

台所にいる母親の返事が、廊下の先から聞こえた。矢崎は靴を脱ぎながら、玄関の飾り棚に置かれたアナログ式の置き時計を見やる。走った甲斐があり、門限の九時半まであと八分だった。これまで一度も門限を破った日が無いわけではないものの、彼は大きく深呼吸し一安心する。

 靴を整えた後、矢崎は聞き耳を立てた。二階の一室でゲームに熱中する弟賢二の声が聞こえてくる……。矢崎は怠惰な弟を心中で蔑むと同時に、正直羨ましく思った。弟ぐらい自由時間があれば、自身と田島が交信できる謎について、深く考え調べる余裕を持てるからだ。中野に詳細を話し、彼の協力を仰ぐこともできるだろう。

 中学受験を控えた矢崎や田島にその時間的余裕が無い点は、我々からすれば好都合だ。以前述べたように、こちらが先手を取れる。とはいえ、田島担当の亜実たちは先手でミスしたのだ……。


 矢崎は居間へ通じる廊下を歩きながら、「先生に質問してて遅くなった」と母親に言う。ありきたりな理由だが、母親は「ああそうですか」と納得した様子だ。台所に立つ彼女は、コンロで味噌汁を温め直している。パナソニックの炊飯器には保温中を示すランプが点き、同じくパナソニックの電子レンジでは主菜が温められていく。母親からすれば、勉強に努める矢崎への立派なディナーの御用意らしい。彼女と次男賢二はとっくに食事や風呂を済ませ、後は彼と夫の世話だ。

 実質同一人物である矢崎と田島の母親は、我が子を自身より高い学歴を付けさせようと必死だ。中学受験の件は言うまでもない。体罰こそしないものの、精神的な支配はあると言える。昔なら「教育ママ」で、今なら「毒親」という厄介な存在だ……。弟が不登校児と化した分、矢崎賢一にのしかかるプレッシャーはさらに強まった。

 しかしながら、高学歴志向な母親のおかげで、矢崎へも先手を打てそうだ。

 ちなみに、矢崎の父親である鷹広たかひろは、「家庭より仕事優先」という男だ。普段は妻に任せきりの癖に、デリケートだったり失敗したりした時に限って、口を出す手合だ……。

 そして、可哀想な事かつ他人事ながら、田島健一の両親も同様である。田島も帰宅後、作り立てじゃないディナーを取るところだ。


「母さん、聞きたい事があるけどいいかな?」

温め直し立ての主菜(サバの塩焼き)と白飯を一口ずつ食べた後、矢崎が母親に言った。台所に立つ彼女、スマホのラインで夫に帰宅時刻を尋ねている。

「あら、どんな事かしら? 話してみて」

母親はそう言いながらも、我が子がくだらない質問をしないよう願った。

「この前から読んでる本だよ」

「……それは勉強の本? まさか、漫画ではないですよね?」

ほら、わかりやすい反応だ。

「漫画ではないけど、勉強の本ともあまり言えない。……けれど、教養として読んでいる本だよ」

矢崎が慎重に言った。毒親に対しては、政治家や官僚のように言葉選びが求められる。

「そう。作者はどなたなの?」

「……作者の名前は忘れたけど、『横たわるバッタ』という長編小説だよ」

矢崎はそう答えた。あえて「SF」という言葉は避け、「長編」という言葉を使う。そこは賢かったものの、肝心のタイトルが悪かった。

 なにせ「戦争で日本が敗北する」という物語が、保守派に反日的だと批判されるSF小説だ。同盟国アメリカ発のフィクション小説にも関わらず、小学校の図書室に置くことすら反発されやすい。

 しかしながら、彼はその小説をまだ読んでいない身だ。来年の受験後に読むつもりでいた。この場でそれを挙げたのは、あくまでも話の糸口に過ぎない。

 彼は後悔したがもう遅い……。


 居間の窓を覆う分厚いカーテンと窓の向こうでは、小雨が降り始めていた。気象予報通りの梅雨入りだ。

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