「それ」 田島
少年の田島健一は始め、自分は酷く疲れてるのだと考えた。勉強の日々で積み重なった疲れから、とうとう幻覚を見ているのだと……。自分によく似た姿が、薄らとテーブルの向こう側に浮かんで見えた途端、間違いなくそうだと確信できた。彼はこの春からやっと小学六年生になる身だが、その辺りの分別はつく。
ああツラいな……。こんな状態なっても勉強を続けなきゃいけないのか。向こうの自分もさぞ、漢字や数式の丸暗記に苦労してるだろうな。いやいや、ボクは何を言ってるんだ。
幻覚らしき相手に、心を掻き乱される田島。
実際、彼は日々勉学に励んでいる。喫茶店コメダで母親と共に息抜き中の今も、頭から学問は決して離れない。一学期の始業式をあさってに控えており、貴重な春休みの勉強時間を無駄にできなかった。
とはいえ、眼前の存在をこのまま無視して帰宅し、難なく勉強を再開できるとは思えなかった。百マス計算に取り組む最中でも、この件をつい思い出してしまい、集中を妨げられるのは間違いない……。何らかの答えを掴むべきだと、田島は考えた。あるいは、今日ぐらいしっかり休むべきだと。
テーブルに透明の感染防止用アクリル板は置かれていないし、背もたれが鏡になっているわけでもない。プロジェクターか何かで、田島と非常によく似た存在が映し出されているわけでもなかった。
その不思議な存在がいるのは事実だ。四人掛けテーブル席で、向かい合わせの格好で確かに生きている。田島自身と相手の姿は、非常によく似ていた。違う点は顔の一部分と服の柄に限られ、同一人物に近い。
ただし、その奇跡的な現象は、平行世界同士で特定の条件下において起きた事だ。初めて起きた現象ではなかったが、感嘆には値しない。交流が悪い展開へ移る恐れがあり、対応が急がれる。
格子窓のすぐ外は、大通りが交わる交差点で、信号が変わる度に何十台もの車が駆けていく。引っ越し業者などのトラックが忙しげに走る。二十三区外とはいえ、この喧騒は東京都内だけある。窓ガラスが安く薄っぺらい代物だったとすれば、店内もさぞうるさいだろう。
「誰だ?」
幻覚、彼自身はそう思う相手が話しかけてきた。潜ませた小声ながらハッキリとした口調でだ。とんでもなくヤバい展開が起きていると、田島は理解した。それは正解だ。
「お母さん、帰ったら一眠りしていい?」
彼は相手に答える代わりに、左手前側に座る母親に言った。当然の対応だ。誰だって精神上の健康を疑う。帰宅してベッドで眠るべきだと、彼は考えた。一眠りすれば、こんな出来事はバカげた記憶に化すと願って。
「風呂までならいいよ。けどどうしたの? 夜遅くまで勉強してたから?」
勉学と健康の両方を気にする母親が言った。彼女の目には、深紅のソファや木製のパーテーションしか見えていない。すぐ隣りに、息子の相手が座っているにも関わらず。まあ当然だ。
「すごく疲れるみたい。……何ていうか、そこに鏡があるみたい見えちゃうんだよ」
少し考えた後、彼は言葉を続けた。母親に体調不良を訴えかけたのだ。もちろん彼も、鏡が無いのはわかっている。
「鏡なんて無いよ。目が疲れたんじゃない? それならほら、スマホのせいで」
母親は言った。不安そうに息子の顔を覗きこんでいる。
無理な勉強による疲れではなく、スマホやSNSのせいだと強調したがっていた。彼女は息子を自慢に思っていたし、実際そうなるように願うばかりだった。彼女が今掲げる一番の目標は、息子を私立中学へ入らせる事だ。ツイッター(いわゆる「親管理」)でフォロワー数を増やす事じゃない。
「目は、目はそんなに疲れてないよ」
予想していたものの、相手は自分にしか見えないとわかり、田島はそう言う他なかった。マジメに説明しても、からかっていると言われるだけだと、彼は肩をすくめる。
「とにかく帰ったら一眠りするよ」
彼は母親にそう言うと、冷めたブレンドコーヒーを飲み干した。正面の相手を見ないように目を瞑って。
それから彼はボディバックを掴み席を立ち、足早に出入口へ向かう。気になりながらも、席のほうを振り返らなかった。母親は急ぐ息子の背中を不安気に見つつ、ハンドバッグと伝票を手にした。出入口のドアで鈴が鳴る。
四人掛けのテーブル席には、田島の「相手」だけが残された。お相手さんは困惑しながら、立ち去る田島を見届けたが、次第に姿が薄れて消えた。田島が相手と距離を取ったため、現象が終わったのだ。ひとまずは……。
田島の母親が会計を済ませる間、彼は店先の歩道をふらつく。始めは足元へ視線を落としていたが、どうしても気になり、格子窓から店内を見渡す。自分たちがいたテーブルを、バイトの女子大生が片づけているのが見えた。そこにいるのは彼女だけで、田島のお相手さんの姿はない。見えないとわかるなり、彼はピタッと立ち止まる。名も無き通行人が迷惑そうに、そばを通り過ぎていく。
「はあ……。なんだなんだ」
田島は自分に向けて嘆息をこぼした。日々の勉強のせいとはいえ、自分は幻覚など見てしまったのだと。彼は小学生ながら、自分自身を情けなく感じまでした。体調管理に失敗したと悔いた。
彼が目にしたのは幻覚ではないため、そこまで考える彼を可哀想に思う。また遭遇してもらいたいわけではない。
「ホントに疲れてるなら、今日はもう勉強しなくていいよ。朝までしっかり休みなさい」
店から出てきた母親が彼に言った。「嘘じゃないなら休ませてもいいか」という態度だ。
「うん、そうする」
彼は母親に信じてもらうべく、ハッキリとした口調で言った。
母親は頷いたものの、勉強を数時間分失う点を、彼女は残念に思った。何らかの損をした気分でいる。
「あっ、ただしスマホは禁止よ! 体を休めることが大事なんだから!」
通行人など気にせず、母親は声を張り上げた。何らかの損を多少でも埋め合わせたいらしい……。
「うん」
彼女ご自慢の息子は、スマホを母親へ渡す。幻などもう見るものかという気持ちでいる。
もっとも彼はすでに、今日の出来事は一生忘れないはずと覚悟し始めていた。帰宅後に翌朝まで眠りこんだとしても、無意識に幻の相手を探してしまうだろうと。