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「これ」 矢崎

「昼みたいと、言ったんだよ」

「ああ、後ろの駐車場の話か?」

「ウン」

矢崎は田島が頷いた後、被っていたキャップを取る。紺色ベースのキャップには、原子力マークをモチーフにしたポップなデザインが踊っている。その帽子も「これ」世界側の土産物屋で販売されていた物で、矢崎が試しに被った二種類のキャップよりは控えめなデザインだ。


 矢崎はバーカウンターのチェアへ座る。このバーカウンターも「それ」と「これ」との接点らしい。一方の田島は、バーテンダーが本来立つ位置で立っている。彼が両ひじを机上に付けている点を除けば、バーテンダーと一人客の真似事のようだ。ジャックダニエルの空き瓶すら、彼らのそこには存在しないが。

「そっちでも原発事故は起きたのに、実際は緩々なんだね」

田島が言った。矢崎のキャップを褒める気は無いらしい。

「大人いわく『割り切る事』が大事なんだよ。これはこれ、それはそれという具合にな」

矢崎も田島と同じ男子小学生だが、押し負けてはいけない気分になっている。自分自身が生きる日本を否定されたようで、早くも必死だ。

「こっちの世界はアメリカに原爆を落とされたんだよ。今日の様子からすると、そっちの日本は落とされずに済んだみたいだね」

田島のほうも必死な気持ちだ。ただ本音では、「これ」世界の日本を羨ましく思っていた。赤の他人とはいえ、多くの日本人が死なずに済んだのだから。

「俺たちは原爆を落としたんだ。アメリカなどと共に、我が国は勝った」

矢崎はためらわずに言った。「これ」世界の正史だ。

 彼はその歴史を小学校で学んだばかり。中学受験の勉強もあり、彼は大東亜戦争(「それ」世界では太平洋戦争)の詳細を暗記できている。しかし、その詳細を田島が理解する事は無いだろう。平行世界の日本を舞台にしたフィクションとしか捉えられない。二人とも互いの世界を行き来できる立場じゃない上、移住したいとまでは田島も思わないだろう。価値観の異なる場所で生きるという事は、決して容易ではない。

「イヤな歴史を学ばなくて済むのは気楽だね」

嫌味を言った田島。矢崎は「まあな」とだけ言い、彼から目を背けた。そして、自身の周りを伺う。誰かに聞かれていないかと……。

 「これ」世界でも、ホテルのバーはコロナ禍により閉まった。バーカウンターなども同じように残されている。異なる点は、バーテンダーの爺さんが自殺した場所と方法だ。「それ」では従業員宿舎で首吊りだが、「これ」ではこのラウンジの真ん中で切腹した……。矢崎が周りを伺ったのは爺の幽霊を気にしたからじゃない。

 彼が気にしたのは、ラウンジに数人いる同級生の存在だ。彼も田島同様、このラウンジで相手方と交信できるかもと考え、ここへ来た身だ。ところが、静かで洒落たこの場所が同級生に知られたらしく、既に六人がたむろしている。ただ彼らは、互いに話すこともなくスマホを操っていた。それでも内一人は、バーカウンターにもたれかかっており、矢崎と田島の話が耳に入るかもしれない。バーのイスに座り、誰もいないカウンター内へ独り呟く様は、外聞がよろしくない……。

 そこで矢崎は、フルワイヤレスイヤホンを使うことにした。足元の袋(汚れた服入り)の中を探り、ソニーの携帯ケースを取り出す。そして、彼は両耳にイヤホンを着けた。スマホで誰かと通話してるように見せるためだ。

「そのやり方は悪くないね」

田島は感心すると、バーカウンターの向こうで身を屈めた。彼もフルワイヤレスイヤホンを着ける。使う物はソニーではなくビクターのそれだった。


「そっちも人が増えてきたようだな」

矢崎が言った。田島側のラウンジでも、入浴を済ませた同級生が続々と来ている。ロビーにいる大人に止める気は無いらしい。それどころか、ちょうど良い集合場所だと思っているんだろう。事実、夕食会場の大広間に近い点もある。

「ウン。もうすぐ夕飯だしね」

田島はそう言うと、両耳のイヤホンを念のため一度ずつ押した。音漏れのほうは問題ない。

「食べた後は、星空行軍って事で辺りを歩くんだろ?」

「……星空ハイキングの事だね。一時間ぐらいかけて山を歩くんでしょ?」

田島はそう言いながら、柏崎が無理やり手を握ってくるに違いないと考えた。怖がりじゃないにも関わらず、彼女は終始そばを離れないだろうと。初夏の夜空の下、みんなで森を歩きながら学ぶイベントだが、彼女にはデートというわけだ。普段の学校生活でも、田島と柏崎の交際は笑いのもはやイジメなほどなぐらい……。

「たった一時間か」

矢崎からすれば悠長に思えた。「これ」世界では貞操観念が強く求められがちだ。しかもハイキングではなく、最低二時間はかかる行軍だ。男女間(または同性間)の親睦を深める、ロマンなイベントじゃない。クラス別で星々を頼りに、夜の山林を進むという危険なイベントである。スマホは没収で、一番時間を要したクラスにはペナルティ(早朝ランニング)が与えられる。担任の先生も真剣なため、子供らしく楽しめはしない。

「呑気な日本だな」

余計な言葉だが、矢崎はつい漏らしてしまった。ADHDでもない彼がこうした失言をするのは珍しい。田島側の星空ハイキングが羨ましく思えたのだ。

「今日一日のお前の様子から察すると、そっちは徴兵逃れがたくさんいるだろうな」

失言が止まらない矢崎。彼は首相経験者じゃない。

「えっ、徴兵? ああ、軍隊はいないけど自衛隊ならいるよ。やっぱりその辺も違うんだね」

田島はそう言いつつ、自分自身が住む日本にもマシな点がある事を実感する。

「へ、へえ。それは何というかその……」

まさかの返事に戸惑う矢崎。彼も周りと同様、大人になれば徴兵される。例の弟(賢二)も避けられず、決して楽じゃない二年間を過ごす運命だ。女性は徴兵されないが、「これ」世界の男尊女卑を考慮すればそう悪くない。

「何? 今度は何?」

矢崎を詰める田島。彼は矢崎に勝てる事を見つけ、ニヤニヤと笑っている。

「い、いざという時にだな。そう、頼りなさそうだ!」

強く言い切ってみせた矢崎。

「……ウン、確かにそうだね。彼女いるし、何かトレーニングやっておかなきゃ」

田島は柏崎に引っ張られがちな自身に負い目を覚えた。危険な事に巻きこまれるリスクは当時無かったが、男性の自分が柏崎を守らなければならないというバイアスは既に抱いていた。

「それは悪くない。しかし、そんなお前に彼女がいるというのは解せないな」

矢崎は正直に言った。彼と田島の容姿は変わらないが、性格や世界の違いから起きる差異だ。いくら柏崎が強気な女子小学生とはいえ……。

「転石苔小学校の皆さん、一階の大広間に来てください。夕食のご用意ができました。転石苔小学校の皆さん、一階の大広間に来てください。夕食のお時間です」

矢崎と田島のやり取りに割りこむかの如く、アナウンス音声が響き渡る。ホテルスタッフによる夕食の案内だが、チャイム無しの突然の館内アナウンスで、二人ともビクッと反応せずにいられなかった。アナウンスが流れたのが同時だった点もある。きっと、夕食のメニューも同じ具合だろう。

「おーい、矢崎! メシだぞメシ!」

ラウンジの入口付近で、矢崎の親友中野が声をあげている。イヤホンをしていても聞こえる声量に、矢崎は失笑をこぼした。

 中野の脇を同級生たちが通り過ぎていく。中野も同級生たちも皆、お腹を空かせたご様子だ。明るい気持ちなれる資料館や公園を歩いたにも関わらず。

「誰かに呼ばれた?」

「ああ」

矢崎は田島にそう言うと、チェアから降りた。田島のほうは、両ひじをカウンターから上げ、足元の袋へ手を伸ばす。

「後でまた話す?」

田島が尋ねた時、矢崎は自身の袋を持ち上げていた。彼は田島と中野の顔を一度ずつ見比べた。それから件のキャップを左脇下へ挟む。

「いや、この旅行中はもう話さずに過ごさないか?」

矢崎も腹を空かせている。それは田島も同様だ。

「お互い余計に疲れるだろ?」

「……ウン、それもそうだね。ボクも疲れるし」

矢崎の提案に田島は乗った。今日のところはお互い様だ。

 矢崎がバーカウンターから数メートル離れた途端、お互いに姿が見えなくなった。出現と消失は既に十回以上繰り返しているが、当時は永遠の別れのようにすら思えた。


 さて、星空行軍および星空ハイキングについて述べよう。

 矢崎のクラスは五組中三組目という面白みの無い結果を残した。また田島自身は、柏崎に道中で密着されるという流れを辿った。

 二人とも結局その日は、心身ともに疲れさせられたというわけだ。彼らが布団に寝転がるなり、眠りについたのは言うまでもない。修学旅行一日目としては、最悪の過ごし方だ……。

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