「これ」 望美
一方、「それ」の亜実たちと同様に、望美たちも判断ミスを犯していた。彼女たち三人はミスに気づく事なく、裏手から矢崎宅へ侵入していく。ターゲットの矢崎賢一が不在にも関わらず……。
矢崎宅の裏手は大人一人が通れるほどの幅で、日陰のため湿っぽい。灰色のブロック塀には透かしの穴が規則的に空いており、そこにつま先をかければ容易に越えられる。家の北側には勝手口のドア(竣工当時の物とは交換されている)と、キッチンの曇りガラス式窓があり、そこに人影が薄ら見える。矢崎の母親だ。しかし、夕食の支度に集中しているため、望美たちに気づいていない。彼女たちは安心して塀を乗り越え、勝手口付近に着けた。ドアの近くには水色のペールが置いてあり、生ゴミの異臭が少々漏れている。
しかし、鼻につく程度の異臭など彼女たちには些細なこと。代わりに興味を引いたのは、二階から漏れる騒音だ。
頭上の窓から、「このやろっ! このやろ!」といった悪態をつく声や騒音が聞こえてくる。テレビゲームに興じる少年の声だ。しかし、それは矢崎賢一の声じゃない……。
「やっぱり在宅ね。そんじゃ予定通りにいこう」
望美はそう言うと、鍋島と井上の肩を叩く。二人は勝手口のドアを開錠しにかかった。玄関ドアと違い、勝手口のほうはセキュリティが甘い傾向がある。対馬が手作りしたピッキングツールのおかげで、その鍵を開けるのに時間はかからなかった。
カチャリ。
二階でうるさくゲームに興じるのは、矢崎賢一の弟である賢二だった。小学四年生である彼は、任天堂スイッチでオンラインゲームに夢中だ。伸び気味の髪はボサボサで、服はパジャマのまま。一目でひきこもりの子供だとわかる……。彼の部屋は埃まみれで汗臭い。ふすまで隔てられた兄の賢一の部屋とは大違いだ。
GW以降、矢崎賢二はほぼ不登校だ。八王子市役所への社会見学もサボったほどで、やる気が感じられない。一応言っておくが、イジメが原因で通えなくなったわけではない。
本人および母親は五月病だと言っているが、兄の矢崎は快く思ってなどいない。弟の甘えであり、母親による過保護だと捉えている。けれども父親は、長男の矢崎賢一が欠けた分を補えばいいと考える始末。そのせいで、中学受験合格の期待がさらに重くのしかかっている……。次男の賢二を甘やかす両親に、賢一は嫌気を覚えていた。
それでも彼は自分自身のため、その時も塾で勉強に励んでいた。「夏休み突撃講座」とかいう大層な授業だ。小学六年生の夏休みという大事な期間を、受験勉強に昇華しようというわけだ。我々ゆとり世代のほぼ全員が当時、ゲームやマンション鬼ごっこやボウリングやらで忙しかった(Z世代の小学生にはできない経験だろう)。もし受験に落ちれば、人生のムダ遣いに等しい。
塾にいる矢崎賢一はともかく、賢二には危機が迫っている。すでに母親は台所で縛られ、望美たち三人が階段を上がってくる。古臭い木製のステップは軋むが、音が賢二の耳に届くことはない。フォートナイトの試合が終盤に差し掛かったところだから……。
「おらおら来いよ! 来いよ!」
まったくうるさいガキである。こういう奴が遊び場を荒らす。なにせ、一階で母親が縛られた事にまったく気づかないぐらいだ。どんなオンラインゲームでもスタンドプレーに精を出すことだろう。
二階の廊下に上がった望美たちは、賢二の喚き声やテレビの騒音のほうへ向かう。あまりのうるささに、彼女たちは床の軋みや足音など気にしなくなった。三人がドアの前に立っても、賢二は微塵も気づいていない様子で、ゲームに熱中している。
「さっさと片づけましょ」
小声ながら、望美が鍋島と井上にそう言った。さぞ面倒なガキに違いないと、彼女の顔は物語っていた。彼女は部屋のドアノブを握る前に、スマホでターゲットの顔写真を確認する。AIにより生成されたそれは間違いなく矢崎賢一その人だ。……けれども、ドアの向こうでうるさくゲームに興ずるのは弟の賢二だ。兄弟として顔つきは似ているが、勉強を強いられている兄とは違う。
「どうぞ」
鍋島が言ったのを合図に、望美はドアノブをガチャッとひねる。
「ん?」
さすがに賢二も、望美たちの襲撃に気づく。けれども、顔を彼女へ向けただけで、コントローラーは握り締めたまま。左手の指はLスティックを傾け続けている。アラサー女性の望美が先頭とはいえ、突然の恐怖にコントローラーを落としてもいいはずだ。
「何ですか?」
怪訝な表情かつ生意気な口調で、賢二は望美に言った。「やれやれ、変なメガネおばさんが来たな」という調子だ。望美は早くもイラつきを覚える。
「用が無きゃ、こんなところに来ないわよ。さっさと始めて」
彼女はそう言うと、賢二からコントローラーを取り上げる。テレビ画面で操作キャラが死んだのはその時だ。
「おいちょっと! 何すんだ、何すんだよ!」
キレ始める賢二。いいところでゲームを邪魔されるのは非常に不愉快だが、彼に対しては許される気がする。
「うっさい」
望美は素っ気なく言い、コントローラーをベッド上へ放り捨てる。壁にぶつけないのは良い判断だ。
賢二はイスから立ち上がり、ベッドのほうへ急ぐ。味方に復活させてもらえる奇跡を信じて。
……しかし、その奇跡は叶わなかった上、望美に背中を蹴り倒された。賢二は汚れた畳に倒れこみ、「痛っ!」と喚いたが、望美は罪悪感をまったく覚えなかった。それどころか、バタフライナイフをミニスカートの内側から出し、素早く刃を抜いた。途端に凍りつく賢二。ムダなクーラーが無くても涼しく過ごせそうだ。
「マ、ママ! 助けてママー! 誰か誰か!」
パニック状態で助けを求め、畳を這う賢二。しかし、母親は台所でしっかり縛られ、ゴリラのダクトテープで口を覆われている。そして窓は、分厚いカーテンで覆われており、誰かの耳には届かない。
望美の両膝が賢二の背中を押しつけ、彼の逃走を防ぐ。鍋島と井上は、マイクロマシン除去機をアタッシュケースから出し、用意を始めている。賢二は小学四年生の子供だが、やむを得ないと三人とも割り切った様子だ。
「ねえ、すぐ終わるから大人しくして。時間がかかればかかる分だけ痛い目みるよ?」
望美は刃先を賢二の右耳近くでシュンシュンと振り、脅しにかかる。子供殺しは原則禁止だから、まあ大丈夫だろう。
「ぼ、ぼくはいったい何したの? せ、先月のグリッチのこと? TKのこと?」
賢二は大粒の涙を浮かべながら、望美に聞く。
「ううん何も。アンタは何もしてないけど、今は大人しくしてほしいの。六年生だしわかるよね?」
望美がそう言うなり、賢二は首を横に振った。顎先で畳をこすりながら必死にだ。
「ぼくは四年生だよ! 六年生は兄ちゃんだ!」
そして賢二は叫ぶ。
「…………」
下手な嘘をつくなと望美が怒る流れはありえたが、そうはならなかった。嘘をついていないと察せたからだ。望美は硬直し、賢二の体格からそれは事実だと認める。しかし、今すぐ彼を解放するわけにはいかない。
「弟ってことじゃないですか? 兄の賢一は塾とか……」
鍋島がフォローするなり、望美は気を取り戻した。
「それじゃ待たせてもらうね」
ターゲットである矢崎賢一の帰宅を待つのだ。今さら出直すことは難しいし、おかしな流れになりかねない……。
「ハーゲンダッツが好きなの?」
賢二の背中を両膝で押しつけたまま、望美が言った。彼女の視線の先には、ハーゲンダッツの抹茶味の空カップが転がっている。ついさっき、賢二が食べた物だ。プラスチックの使い捨てスプーンもそばに転がっている。
「う、うん」
賢二が頷くと、望美は軽く笑みを浮かべた。七月九日も朝からクソ暑い一日だ。個人的にはスイカバーを選ぶ。
「下にまだある? バニラとか」
「ある、あるよ! バニラも抹茶も苺も! たくさんね!」
ひきこもり小学生の彼でも、事態がマシな方へ進んでいるのを理解していた。彼自身からすれば、それは正しいと言える。