「それ」 田島
田島たち六年二組の一同は、修学旅行で広島県入りしていた。無論、広島焼きや牡蠣が目当てじゃなく、平和学習を現地でやるためだ。眼前にそびえるのは、原爆の子の像。
「ハイ、黙祷」
六年二組の男性担任教師がそう言うと、田島たちは私語を慎み、一分間の黙祷を始める。ただ、Z世代である彼らの一部はたった一分間も耐え切れず、こっそりスマホへ手を伸ばす。感心してやるべきか、田島と柏崎は大人しく目を閉じている。
彼らが捧げた千羽鶴の束は、捨てるほど大量にある他の千羽鶴と共に、専用ブースに吊るされていた。両腕を広げた貞子の銅像は、六月のささやかな日光に照らされている。梅雨入り前の晴れ日という天候は、矢崎がいる「これ」世界も同じだ。そして、同日同時刻に修学旅行で広島に来ている点も。
しかしながら、矢崎たち六年四組の一同は黙祷していない。感慨深げだ……。「これ」側の日本は第二次世界大戦で勝ったのだから……。そのため、矢崎たちが首を垂れる相手は佐々木貞子じゃない。彼女や中沢啓二(漫画『はだしのゲン』の作者)たち広島県民は被爆せずに助かった。そして、大人の事情に振り回されがちな『はだしのゲン』は存在していない。
「ハイ、黙祷終わり」
六年二組の担任がそう言うと、田島たちは目を開ける。田島は陽光に瞼をパチパチと開閉させていた時、矢崎の存在に気づいた。
「あっ」
思わず声を漏らしてしまう田島。すぐ隣りにいた柏崎が「ん?」と不思議がると、彼は何でもないフリを装った。
矢崎のほうも気づいたものの、何とか声を漏らさずに済んだ。しかし、「なんでコイツがここにいるんだ?」という表情は隠し切れていない。親友中野が訝しげに彼をチラ見した。
「じゃあ、資料館へ移動するよ。遅れないで」
田島たちの担任は、広島平和記念資料館へ一同を引率する。田島は立ち去る際に、矢崎の姿が消えた点に気づいた。賢い田島は、あの貞子の像も、自分と矢崎を結びつける何かがあると察する。
彼らの入れ違いで六年三組が現れ、同じように千羽鶴を捧げ、黙祷を始めた。そのクラスにもスマホへ手を伸ばす奴はいた。
「それ」の資料館の展示内容は、我々の世界とほぼ変わらない。唯一異なるのは、第二の被爆地が長崎ではなく新潟という点だけ。被爆再現人形が撤去済みという点は同じだ。あの三人を前にして、田島たちが平静を保てたかは気になるところ。
「これ」の資料館の展示内容は、我々の世界と大きく異なる。……述べることすらマズいかもしれない。建物は「広島原爆開発資料館」という名称で、展示物は被爆地であるモスクワで掻き集めた品々や核実験の映像だけでなく、日本製原爆を投下したキ91重爆撃機の縮尺模型なども置かれている。唯一の特攻機であるその機に乗っていた八人の手記が、厳かな雰囲気の中、読めるようになっている。当然だが、被爆再現人形がその資料館に置かれたことは一度もない。そこにあるのは、原爆の爆風を疑似体験できるというコーナーだ。
「うおっ!」
「すっげえ!」
戦勝国の日本国民である矢崎たち子供が、無邪気に楽しむ場だ……。現に矢崎や中野まで、激しく吹きつける爆風に興奮している。さすが「加爆国」の国民というべきか。
「それ」側の田島たちは物静かに見学している。高熱で溶けたガラス瓶の塊や、原爆症患者の写真などを見て、彼らは明らかに衝撃を受けている。無邪気な顔を浮かべ、錆びた三輪車と記念写真を撮る輩は一人も出なかった。
「……怖いね」
「ああ、ウン」
柏崎の言葉に頷くしかない田島。彼は原爆の恐ろしさを知ると同時に、矢崎もさぞ恐怖感を覚えていると考えた。
その時点でも、田島と矢崎は互いに勘違いしていた。二人はゴールデンウィーク中に何度か会い、話をすることができた。ところが、第二次世界大戦の話題には至れていなかった。田島は日本が負けたと思いこみ、矢崎はその反対だったから。そのため矢崎は、田島もこの爆風体験をさぞ楽しんだと考えている。
「なあ、もう一回やろう! もう一回」
「ああいいぜ!」
矢崎側のクラスメイト二人組が悪意なく話す中、彼と中野は被爆地の写真コーナーへ足を運ぶ。最初に目が留まった写真は、クレムリンだった建物の廃墟だ。どれほど大量のドローンに突っこまれれば、そこまでグシャグシャになるだろうか……。
沈痛な面持ちで、資料館を後にする田島たち。茶化す奴はおらず、涙ぐむ者が続出だ。彼らが次に向かうのは、平和記念公園中央に位置する原爆死没者慰霊碑だ。
「ああもう、暑すぎるよー。日焼け止め塗ればよかった」
愚痴をこぼす柏崎。過保護な事に、堂々と日傘を差す女子がおり、隣りの男子が迷惑そうな顔を浮かべている。そんな男子を見ても、柏崎は日傘を羨ましがっていた。彼女の兼用傘は観光バスにある。
「肌が少し焼けた程度で、萌恵が萌恵じゃなくなりはしないからさ。あまり心配しないで」
田島は彼女を気遣った。彼女はその言葉に気が軽くなり、彼に微笑みかけた。やがて彼らは、石碑の前で横へ広がる。
「…………」
田島はガイド(残り少ない被爆者)の説明に耳を傾けつつ、資料館のほうを見やる。矢崎の姿は見えないが、この近くにいる気配は覚えていた。
「どうしたの? ノート取らなきゃダメだよ?」
柏崎に注意され、田島は正しく向き直る。被爆者の爺さんがしわがれた声で、平和の大切さやらを必死に訴えかけている。とはいえ、田島はどうしても矢崎の件が気になり、爺さんの言葉はあまり耳に入らない。まあ彼なら、恋人の柏崎に後で写させてもらえば済む話ではある。
「何度も、何度も言うけど、ココに書いとる通り、失敗は二度と繰り返しちゃいけん、いけんのよ」
ただ、柏崎が広島弁を理解し、きちんとノートに書けたかは疑問だ。