「それ」 亜実
ターゲットである田島が、情報とは違うフロアでエレベーターを降りた件について、安藤は亜実に伝えた。彼女はそれを聞くなり、不機嫌そうになる。
「あなたもデータを確認してください」
亜実はそう言うと、自分のノートパソコンを立ち上げ、田島に関するPDFファイルを開く。安藤は双眼鏡をベッドに置き、自分もノートパソコンを開いた。
「私のほうでは十一階になっています。そちらは?」
田島の住所欄には、十一階を示す部屋番号が記されている。
「こちらでも十一階です。私も亜実さんも、情報は最新のもののはずですよ」
「……事務屋が入力ミスしたかもしれませんね」
「ええ、それは考えられます」
亜実と安藤は軽い溜め息をつく。
しかしながら、彼女らが持つ情報にミスはない。田島およびその家族は、十一階の一一〇三号に確かに住んでいる。
田島が十階で降りた事には理由がある。それも単純なものだ。
集団下校した彼は、柏崎と共にエレベーターに乗った。すると彼女は、「ゴディバのカップアイスがあるからウチに寄って!」と言い出した。七月のその日はとても暑く、短時間ならと彼は受け入れる。彼女の家は十階の一〇〇三号だ……。そして、彼がエレベーターから一人で降りた理由は、彼女が宅配ボックスを確認し忘れたと、エレベーターから降りなかったため。先に彼女の自宅へ向かったわけだ。彼女がアマゾンから届いた段ボール箱を手に、エレベーターで再び上がってきた時、亜実と安藤はまだPDFファイルを見つめていた。
「その箱の全部、話してた花火?」
「ウン、いろいろまとめ買いしちゃった」
田島の呆れ顔を尻目に、家の鍵を開ける柏崎。
「ターゲットの家は、一一〇三号ではなくて一〇〇三号が正しいかもしれませんね」
「はい、そういったミスが考えられます」
亜実と安藤はそう考えてしまう。
「とはいえ、念のため確認しておくべきでしょう。十階の他の部屋という可能性もあります」
どちらかといえば慎重派の亜実は、部屋番号四桁の下一桁も間違えているのではと疑う。PDFファイル記載の部屋番号は正しいのにだ……。残念ながら、それを彼女に伝えることはできない。
「誰かに行かせますか? 間違えてインターホンを鳴らしたことにすれば、それほど怪しまれないかと」
安藤が提案する。それを聞いた亜実は、仲間三人の顔を思い浮かべる。ロビーやインターホンにはカメラが搭載されているため、顔が記録に残ってしまう。
「豊川に行かせましょう。彼はルックスがいいから怪しまれないでしょ?」
ルッキズムでそう決めた亜実。豊川の外見や口調はなかなか優雅なので、あの三人の中では確かに怪しまれずに済むだろう。
「ええっ? まあその、ルックスいいですもんね、豊川さんは」
安藤は戸惑いを隠せずにいる。
「……彼に伝えてくれる? マンションへ行って、十階のどこにターゲットが住んでるか調べてきてって」
「は、はい了解です」
ノートパソコンを閉じ、スマホで豊川に命令を伝える安藤。
安藤を通じ命令を受けた豊川は、田島や柏崎が住むマンションの付近に車を止める。カムリから降りた彼は、周りに注意を配る。住宅街の小道に人影はない。離れた位置にある道路で車が時々行き交っているぐらいだ。
「不動産にするか」
彼は腕を伸ばし、助手席からジャケットとビジネスバッグを取る。そして車に鍵をかけると、マンションへ落ち着いた足取りで歩いていく。
彼がまず確認したのは、郵便受けの表札だった。しかし、十階の五部屋をはじめ、ほとんどの家庭が表札を付けていない。部屋番号のシールが貼ってあるだけ。十階の郵便受けを順番に少し開け、郵便物の宛名欄を探る。しかし、郵便受けの中は暗く見えやしない。
「飛びこみ営業みたいな事をやらされるとはね」
豊川はそう呟くと、郵便受けの前からエントランスへ移る。そこからロビーへ入るには、オートロック式の自動ドアを開錠せねばならない。
彼は一度、バッグからA4用紙を取り出し、それを自動ドアの隙間に差しこんで突破する方法を使おうとした。しかし、今回は侵入ではなく偵察が目的である事から止める。新築マンション販売のセールスマンを装い、エントランスのインターホンで順番に呼び出せば済む話だ。バッグから大きな茶封筒を取り出しておき、簡単なアンケート調査(ろくな物じゃない)ですと伝える流れだ。「いいですよ」と快諾する奴はまずいないし、もしそうなった場合は無視してしまう。
……一〇〇一号は留守で、一〇〇二号は老婆が応答した。長話を不安視した豊川だったが、幸いにも老婆はすぐさま拒否してくれた。
そして、柏崎の家である一〇〇三号にかけた。
「ハイ、どんなご用ですか?」
十秒ほど経った後、応答がする。彼女の家に訪れている田島の声だ。柏崎本人がトイレに入っていたため、彼が代わりに応じた。
「お住まいのマンションについてアンケート調査を行なっている者です。ご両親はいらっしゃいますか?」
男子小学生らしき声から、ターゲット本人だと確信する豊川。彼はまったく動揺することなく、封筒をインターホンのカメラに近づける。
「あー、えっと……。今、取りこんでて出られないんですよ」
田島は適当に言い返してきた。ここで正直に「両親は不在です」と言ってしまう子供はバカだ。
「わかりました。それでは失礼します」
豊川は軽くお辞儀をすると、その場を後にする。そして、インターホンのカメラから離れた場所まで来るなり、深々と息を吐いた。先ほどの巡回中に見つけた少年田島の声に違いないと、改めて確信した。残り二部屋には呼びかける必要もないと。
豊川はジャケットの内ポケットからスマホを取り出し、車へ戻りながら安藤に電話をかける。
「もしもし、上手くいきましたか?」
「ああもちろん。田島君は一○○三号に住んでるよ。あの声は間違いなく彼本人さ」
彼がそう言うと、少しも怪しまれなかったかと彼女が尋ねる。もし怪しまれれば注意をひく。マンションの掲示板に注意喚起の紙が貼られてもおかしくない。
ただ幸いなことに、田島は豊川がセールスマンだと信じこんでいる。豊川は任された事を一応は成功させた。しかしながら、彼に指示した亜実や安藤はうかつだった……。