「これ」 矢崎
矢崎も自宅に帰るなり、スマホでネットサーフィンをして、件の交通事故の情報に辿り着いていた。彼は詳細を読みこむと、頭を捻った。幸い、考えこむ彼をジャマする者はいない。
交通事故が起きたあの交差点や、初対面のおかげ庵が、自分と田島を関連付けているのは確かだが、他にもあのような場所があちこちにあるのだろうかと。例えば、小学校のどこかでたまたま。
その場合、田島とまた話せるわけだが、周りにクラスメイトでもいた場合、独り言を喋るキチガイ扱いされかねない。マスクを着けて話すにしても、きっとバレるだろう。とはいえ、田島だってその辺りは察してくれるはず。田島も自分がキチガイ扱いされるのはゴメンに決まっている。
畳に仰向けで寝転がりつつ、矢崎はしばらく考えていたが、部屋の時計を見るなり慌てる。思った以上に時が流れており、夕食までの勉強時間を浪費してしまった。彼は机に向かい、塾の教科書やノートを広げる。
しかし、あのおかげ庵がなぜ自分と田島を結び付けたのかを始め、考え事が次々に浮かぶ。鉛筆はしばしば止まり、ページをめくる間隔も長くなる。算数の問題(変な図形の内角)をやっているが、鉛筆の尖った先が点Pを何度もつついていた。
「これでは駄目だ」
彼は苦々しくそう呟くと、鉛筆を置き、スマホを手にする。
「おお、どうした?」
「ちょっと聞きたい事があってな。……今、時間いいか?」
「いいぜ。煮こんでる最中だから」
矢崎がライン通話をかけた相手は、親友の中野卓也だ。彼はすぐ近所には住んでいないが、幼稚園からの付き合いだった。
中野がまだ赤ん坊の頃、父親はいなくなった。母親が彼の世話でてんてこ舞いの間に、父親が不倫したのだ。不運にもそれはバレてしまい、離婚後は母親に育てられている。母親はイオンで夜遅くまでレジ打ちをしているため、夕食は彼が作る日のほうが多い。ちなみに今夜のメインディッシュは、カボチャと合挽き肉の煮物ときた……。
矢崎と違い一人っ子だが、パート収入と養育費による生活は楽ではない。団地(市営住宅)の家賃や光熱費を毎月ギリギリ払えるような有り様だ。生活保護一歩手前の母子家庭である。そのため、中野が進める中学校は公立校だ。妬みを持たれない、民度の低い学校だろう。
「SFもよく読んでるよな?」
矢崎が尋ねると、中野は「ああもちろん」と答えた。
本を買う金が無い(小遣いゼロ)彼は、図書室によく出入りしている。休日の行き先は図書館やブックオフだ。スマホを除けば、彼の趣味は読書だった。
「平行世界には詳しいか?」
「ハハッ、ようやく読書に興味が湧いてきたんだな」
「まあそんなところ」
親友相手でも、平行世界の田島との件はまだ早いと考えた矢崎。
「そんなら、『横たわるバッタ』というSF小説がピッタリだぞ。平行世界の日本が舞台の物語だ」
「へえ、我が国はどうなってるんだ?」
「……ああそれがな。大東亜戦争で日本が負けた歴史になってるんだ」
中野は小声で言ったが、矢崎にはショックだった。
「おいおい! 大日本帝国が負けるわけないだろ!」
「大声出すなって。面白い小説だったけど、結局は作り話なんだぞ」
電話口で矢崎を宥める中野。
「……悪いな卓也」
「いいよいいよ」
彼らは小学生らしく、時々こうしてやり合う。ただ、ツイッターで意見の合わない者同士がしつこくやり合う類とは違う。リアルで形成した仲からできるもの。
矢崎は深呼吸しながら、中野に悩みを伝えるべきか考える。丁寧かつ真剣な口調で話せば、彼は彼の話を信じるだろう。しかし、矢崎には踏ん切りがつかなかった。
「その本の世界みたいに、平行世界は存在すると思うか? ほら、異世界モノとかいうアニメも流行ってるだろ?」
雑談として尋ねる矢崎。中野には、彼が勉強の合間にライン通話をかけてきたと思わせるのだ。
「ああ流行ってるな。答えとすれば、それはありえる話だ」
中野はすんなり答えた。
「……なぜありえると?」
「例えばな。おれは毎朝、チョコスティックパンを二本食べていく。八本入りの内の二本をおれがどう選ぶかなんて、超能力でも使わない限りわからないだろ?」
彼が例に挙げたパンとは、いわゆる「片親パン」というヤツだ。
「それはそうだな。どれも同じだろうし」
「うん、ほぼ同じだよな。けど、もし選んだパンの中にネジが入ってたとしよう。食べたおれは口ん中でガリッとやる」
中野が歯をカチカチと鳴らしてみせる。
「痛いだろうな」
「まあ幸い、そんな事は一度も起きてないけどな。ところが平行世界のおれは、ネジ入りパンをその朝食べずに済んだ。ちょうどその日の昼前に、パンの会社が自主回収を発表したからだ」
「……なるほど、運のいいお前とそうじゃないお前が別々に存在するわけだな?」
「ああそうだ。それも世界丸ごとな。世界は簡単に分かれていくというわけだ」
即興な例え話を矢崎は理解できた。
「図書室で借りてきてやるよ。連休明けの八日に渡せばいいか?」
中野がオススメの本を代わりに借りてこようとしたため、矢崎は慌てる。読書する時間的余裕はないのだ。
「いや、それはいいよ。入試が終わったら自分で借りにいく」
「……おいおい、それならなんで急にこんな話を?」
中野の落胆した様子に、矢崎は罪悪感を覚える。親友である彼には伝えるべきか。
「実はその、理科の勉強でさ。宇宙のところでアインシュタインが出てきて、そこで平行世界に少し興味が湧いたんだ」
苦しいがごまかして、先送りにした矢崎。
「ふーん、アインシュタインって原爆作った奴だっけ?」
「違う卓也。原爆を作ったのはオッペンハイマーで、その次が仁科芳雄だ」
「おっ、そうなのか。おれが読んだ本には確か、アインシュタインがどうたらこうたらって書いてあった」
子供やバカが誤解しがちな話だ。(我々の世界では)オッペンハイマーが正しい。
「偉そうで悪いけど、六月に広島へ行くんだぞ? 勉強しておかないと恥かくからな」
「ハハッ、わかったわかった」
六年生である矢崎たちの修学旅行先は広島県だ。目的は違うものの、田島たちも六月に広島県へ行く。例年は五月下旬だったが、今年はG7サミットの関係で、六月上旬に変更された。
「家のことやって本読んでると、あっという間に時間が進んでるから、勉強まではなかなか」
弁解する中野に、矢崎はイラつきを覚えた。中学受験で自分は大変なのに、彼が子供らしく過ごしているのが気に入らなかった。
とはいえ、相手は幼稚園から親しくしている大事な存在。これ以上責め立てることはできない。
「月曜と火曜は休むからな。悪いが一人で登校してくれ」
中野は言った。月曜日と火曜日は塾で勉強するため、学校は病欠にするのだ。堂々と何ヶ月も休む六年生がクラスにいた身からすれば、彼はまだ真面目に通っているほうだ。
「どうせ勉強するなら学校ですればいいのによ」
「学校の授業は簡単過ぎるんだ。嫌でも塾に行かないと、私学へ行けなくなる」
「……ああそうらしいな」
中野は寂しげだ。何事も起きなければ、矢崎と中野は中学で別々になる。引っ越しや音信不通になるわけでないにしても、寂しく感じるのは自然だ。
「では、八日にまた学校で。教えてくれてありがとな」
「ラインは時々させてもらうぞ。賢一が勉強し過ぎて、頭がおかしくならないようにな」
「わかった。すぐ返せないかもしれないけど」
矢崎は中野にそう言うと、ライン通話を終える。
矢崎はスマホを机の隅に置くなり、罪悪感に襲われた。今の自分はまるで、親友の中野より知り合ったばかりの田島を優先しているように思えたからだ。事情が特殊とはいえ、親友を裏切るようだった。
LGBTを否定するわけではないが、矢崎と中野は同性愛者じゃない。男同士の固い友情というわけで、女性にもそれは理解できるはず。
「電子書籍でも読めるかな?」
矢崎はそう呟くと再びスマホを手にし、アマゾンのキンドルストアを開く。SF小説『横たわるバッタ』はすぐ見つけられた。