第2話 夢と過去
あの日の夕暮れ。僕は小学校のグランドで友達と遊んでいた。その中に瑞樹の姿は居なかったし、それに僅かな躊躇いも感じなくなっていた。
彼女は僕の傍には居ない。
瑞樹とは顔を合わすことさえしなかったし、言葉を交わすことは既に一年ぐらいしていなかった。彼女は完全に孤立し、学年の中でも浮いている存在だった。
「――あの女さ、なんかむかつくんだよな」
友達の一人が言った。彼の意識はボールに注がれており、何も考えずに口から漏れた言葉のようだった。
「分かる分かる。何かうざいんだよ。うまく言えないけどさ」
「なんであんな奴がこの学校に居るか分かんねーな」
「ははは。そりゃそうだ。ただこの学校に恥をかかせてるだけなのにな」
僕の友達は、瑞樹の話題で盛り上がっていた。ボールを投げながら、彼らは楽しそうに彼女の話をする。まるで昨日のドラマについて語るように、彼女の悪さを指摘しあう。
「だいたい。なんかいつも臭いんだよな」
そんなはずは無かった。小さい頃から僕は彼女と共に居たけど、彼女の髪はシャンプーの良い香りがしていた。
「確かに。あんまり近寄りたくないよな」
「ま、意識しなくても誰も近寄らないけどな」
軽く談笑する。
彼らにとっては、特に何でもない会話なのだろう。あくまで手軽な話題の一つとして、僕の「友達」たちは話している。
夕日が傾いてくる。烏が空を飛び、やがてスピーカーから五時を知らせるチャイムが鳴った。僕らはその場で適当に挨拶をすると、学校から去って行った。
僕は家が近く徒歩で来ていたため、みんなから置いてかれる形になった。
僕は小さくため息をついた。僕の息は見えない何かに吸い取られていくような気がした。僕はたった一人で家へと向かった。
そして、帰り道には彼女が居た。
僕らがさっきまで話題にしていて、学年で最も浮いているだろうである彼女。
瑞樹は転んでいた。
ひざを擦り剥いたらしく、結構大きな傷が出来ていた。そして何故か、額から血がどくどくと流れている。瑞樹は運動神経が悪い方ではなかったから、決して転んで頭を打ったわけではない。転んでもとっさに受身を取り、頭を打つなんていうまぬけなまねは彼女はしないはずだった。
彼女は僕に気付いて顔を上げた。
艶のあった長い髪はくしゃくしゃに乱れ、綺麗な目には涙を溜めていた。しかし、僕の知っていた瑞樹とは違い、唇を強く噛んでいた。彼女は以前は、そんな事はしなかった。
僕はその横を、何事もなく通り過ぎようとする。
彼女の怪我を手当てしようなんてものなら、きっと僕も苛められてしまう。人の気配が無いなら良い、とは思わない。どこかから見かけるかもしれないし、彼女自身が言うかも知れない。
だから、僕は彼女を助けられない。
僕は胸に罪悪感を感じながら、その横を通り過ぎた。彼女の目は最初から見ず、ただ何も無いように意識しながらその場を歩く。
「――隼人」
瑞樹は掠れた声で僕の名前を呼んだ。それは聞き慣れていた声とは違っていた。
「隼人。ボク、怪我しちゃった。ハンカチか何か持ってない?」
瑞樹は言う。
「無いんなら、家まで送ってってよ。……足、挫いちゃった」
僕は歩きながらそれを聞いた。
やがて、彼女は泣き出した。静かな嗚咽が後ろから聞こえ、思わず僕は足を止めた。そして背中を向けたまま、そこに佇んでいた。
日は沈み、段々と辺りが暗くなっていく。ほのかな青い光さえ、僅かになっていく。
やがて、歩き出すタイミングを見失った僕に、彼女は言った。
「ねぇ。――ボクを助けて」
それは懇願しているようで。慟哭のようで。僕は耳を塞ぎたくなった。
もういやだ。と僕は思った。
もう嫌だ。もう嫌だ。なんでこんなことをしないといけないんだ。僕は彼女の台詞に、命の全てが抜き取られたような脱力感を味わった。
僕は、――歩き始めた。
彼女を置いて、その場を一歩でも離れようと。鉛のような足を動かし、痛む心を鉄にして、僕はひたすら足を動かし続けた。彼女が何か言う声が聞こえたが、僕は聞こえなかった。
ずっと、ずっと歩き続けた。自分の家をも通り過ぎ、やがて自分の家でさえ見えない位置までくると、僕はようやく足を止めて、後ろを振り返った。
そこには誰も居なかった。
僕はその時、涙を流している自分に気がついた。視界がにじみ、風景が殆ど見えない。
涙を流す僕の頭上では、既に星が光っていた。
僕は地面に這い蹲りながら思った。
きっと瑞樹は、あの時どん底に居たのだ。そして彼女は最後の力を振り絞って助けを求めた。しかし、その願いは伝わることが無かった。だから、だから彼女は――
――次の日、アパートの屋上から飛び降りた。
瑞樹はその時、何を思っていたのだろう。それはきっと、今の僕が考えていることと変わらないと思う。僕だけじゃない。きっと世の中には僕と同じ事を考えている人が沢山いるだろう。
僕は、全ての現実から逃げ出したい。
そんな事は誰にも出来なくて、僕はその無力さに自分を呪った。
現実から逃げ出せない自分の弱さと、虐められるようになった自分のまぬけさと、――彼女を助けようとしなかった、自分の情けなさを、僕は呪った。
アスファルトの硬い地面が、僕の頬を傷つける。
身体の節々が痛く、もう少ししなければ立ち上がることも出来ないだろう。その状態で、僕はそこに這い蹲っていた。
太陽は燦々と輝き、沢山の人間に光をもたらしている。光が届かない人間も居るということを、太陽は知っているのか。どれだけ明るい光でも、現実という闇を照らすことは出来ないということを、太陽は知っているのだろうか。
やがて僕は目を閉じた。
このまま無になってしまいたかった。出来れば自分の身をミクロ単位にバラバラにして、この世から抹消させたかった。こんな恐ろしい世界に存在することが、本当に嫌だった。
気がついたら、僕は闇の中にいた。僕はきょろきょろと見回し、静かに歩き始める。
しかし僕が歩き始めても、僕の後ろには何の音もしなかった。いつも夢の中で僕を追いかけてくるあの気配は、まったくしなかった。
僕はそれを奇妙に思いながらも、僕は自分の家へと向かった。真っ暗な中でも、自分にはそこがどこか分かる。まるで輪郭だけ切り取られたような影絵の世界の中に居るように、僕は感じた。
僕は自分の家に行く途中、彼女に出会った。
「……瑞樹?」
僕は転んで涙を流している彼女を見て、知らぬ間に呟いていた。
それは恐れだったのか。それとも後悔だったのか。僕の声は自分でも分かるくらい震えていた。
「隼人? ――今更何しにきたの?」
彼女は僕を責めるような口調で言った。
「何をしにきたの? もう全部終わってしまったというのに。ボクが屋上から飛び降りた時、ボクは全部を終わらせたのに」
「……それは、違う」
僕は祈るように言った。
「何が違うの? ボクは四階建ての屋上から飛び降りた。そして、ボクは君の前から消えた」
「違う! 僕が知ってる記憶は、瑞樹が屋上から飛び降りて、それでも一命を取り留めた記憶だ!」
「――確かに、一命は取り留めた。だけどそれは、命だけ。後のものは、全部なくしちゃったよ」
彼女はそこまで言って、何も返せない僕に畳み掛けるように言った。
「酷いよ」
「――っ」
「酷いよ。もし隼人があの時助けてくれたら、きっとボクはそんな短絡的な事には手を出さなかったと思う。だけど、――君はボクを見捨てたから。ボクをどうでも良いと思ったから。それが分かったから、ボクは絶望したんだ」
「……だけど、しょうがないだろっ!? 僕は恐かったんだ! 君を助けて、世界に捨てられるのが恐かったんだ。……傷つくのが恐い。だから僕はずっと自分に嘘をつき続けるんだ。そうしないと、僕はすぐに死んでしまう」
僕は叫んだ。
自分が何を言っているのか分からなかった。彼女が死んだとき、僕は心の底から後悔したはずだった。だけど、彼女を目の前にして口から出てくるのは、ただの言い訳しかなかった。
ほんの嘘っぱちしか、僕の口は話せないのか。それとも、――これが真実なのか。
「君はボクを見捨てた。そしてボクは死んだ。……隼人がなんて言おうと、この事実はまったく揺るがないよ。そして、ボクはそんな隼人をきっと永遠に許さない。普段は友達の面をしていて、いざという時に助けてくれない。そんな君を、ボクは絶対に許さない」
僕は意識が浮上していく感じがした。もうすぐ朝で、僕は目覚めようとしているのだ。
意識が夢から現実へと移る中、彼女は最後に言った。
「――私は最後の最後まで、君を友達と思っていたのに」
僕は彼女の寂しそうな声を、薄れ行く意識の中で確かに聞いた。