第1話 夢と現実
僕は闇の中を走り回っていた。
そこは夜という訳ではなく、ただ光が殆ど無いだけだった。世界からありとあらゆる光が消え失せている。しかし、僕には何故か周りに何があるかが見えた。
ここは僕の家のすぐ手前の道路だ。そして、このまま走っていくと正面には駄菓子屋があったはずだ。
僕はそんな事を考えながら、ひたすら足を動かし続けた。
ひたひた。
僕の数メートル後ろから、何かが跣で迫ってきているようだった。そいつは僕の少し後ろをぴったりとくっついている。
僕が走って距離を離そうとしても、そいつはその距離を保とうとする。
僕が立ち止まると、そいつも立ち止まる。
そいつとの間は開くことなく、かといって狭まることもなかった。ただそいつは、まるで背後霊のように僕の跡をつけていた。
僕は破裂しそうな心臓を酷使し、一メートルでもそいつから離れようとする。
走って、走って、走り続ける。僕はひたすら、ただ恐怖に突き動かされるように逃げた。
やがて、いつも通りの朝がやってくる。
僕は布団から起き上がると、時計を確認した。時間としては普段僕が起きている時間だったので、僕はそのまま起床した。
汗でぬれたシャツを着替えると、僕は学校へ登校する用意をした。
毎晩僕は、何かに追いかけられている夢を見ていた。
何に追いかけられているかはいつも分からない。ただ、圧倒的な恐怖を感じて僕は逃げ惑う。捕まったことは一度も無いし、逃げ切ったことも一度も無かった。
追いかけてくるだけで、捕まえようとしない。その奇妙さが、さらに僕の恐怖心を煽った。
暗闇で未知のものが接近してくる恐怖は、夢とは思えられないほど鮮明で、常に現実的なものだった。
学校に行っても、誰とも会話をしない。いや、誰も僕と会話をしようとしないのだ。僕が話しかけようとすると、人は僕を避けるように遠ざかってしまう。
途中から僕は、自分から話しかけるのを止めた。
そして僕は、クラスからどんどん孤立していった。完全な孤独。それはカッコいいものではなく、ただ闇のような暗さが在るだけだった。
中学の頃は、そんな事は無かった。しかし、中学の途中で転校してから、少しずつ僕の生活は崩れていったのだ。
何が原因だったかは分からない。何が決定的だったかは分からない。それでも僕は、周りとの壁を感じるようになっていた。その壁は次第に分厚く、強固なものへとなっていった。
やがていつのまにか、僕は虐めの対象となっていた。
何が気に食わなかったのかは分からない。ただ単にストレスのはけ口を探していただけかも知れない。僕はある日唐突に靴を隠され、そして財布を盗られた。
やがて教科書が破られるようになり、椅子に画鋲が散るようになり、靴はいつまで探しても見つからないようになった。
暴力が振るわれ、僕はそれから逃げたくて父親の財布から金をとって学校に行くのが日課になっていた。
僕は全ての現実からから逃げ出したくなっていた。
僕は小学生の頃、一人の女の子と良く遊んでいた。それは何も特別な感情があったわけではない。恋人なんてのはもっての他だった。ただ僕らは家が近くて、外で遊ぶ時は何故か一緒に遊ぶことになってしまっていたのだ。
「瑞樹は、生き物で何が好き?」
僕が彼女に聞くと、彼女は長く、艶のある髪を右手でいじりながら考える。
「ボクは鳥が好き」
そう答える瑞樹は、どこか寂しそうだった。まるで世界で自分しか存在していないような、そんな孤独感を彼女から感じた。
「ボクは鳥になって、空を自由に飛びたいんだ。そうしたら、きっと自分の大好きな世界に辿り着けると思うから」
僕には、彼女が何を言いたいのか全く分からなかった。
ただ、彼女は何かを諦めている、ということだけは漠然と分かった。彼女の目と、僅かに震える声が、それを物語っていたからだ。
瑞樹は全てから逃げたいと思っているのか。ある日突然自分の前から消えてしまったらどうしよう。そんな恐れが僅かに僕の心を覆った。しかし、そんなことは次の日には忘れてしまっていた。
殴られる。
人気の無い校舎の影で、僕は三人の生徒に囲まれていた。そうやって逃げられないようにされて、僕は殴られた。そして蹴られた。そして踏みつけられた。
理由は単純で、今日は金を持ってきていなかったからだ。
いつもいつも金を巻き上げられる。その金額は最初に比べて、十倍ほどに膨れ上がっていた。父親の財布から盗るのが嫌になり、そのまま学校に来たらそれが咎められる。
だから、これ以上迷惑をかけたくないと思いながらも、父親のお金を取ってくるしかないのだ。
そうやって暴力から逃げるしかないのだ。僕は弱くて、彼らには到底適わないだろうから。
蹴られ、殴られ、暴言を吐かれて、やがて彼らが去って行くのが分かった。僕は心底からほっとした。もう殴られなくてすむ。そして、それが毎日続くようにちゃんと明日はお金を持って来よう。
そんな情けない自分に、涙が止まらなくなった。
完全な闇。それだけが、自分の目の前に広がっていた。光一つ見えない。無明の闇。それは完全に僕を覆いつくし、静かに僕の心さえも蝕んでいるようだった。
泣いても泣いても、何も解決しないのは分かっているのに。
涙をいくらながしても、僕の居る現実は何一つ変わらないはずなのに。
それでも僕は、ただ人気の無い場所で泣いていることしか出来なかった。
小学五年生ぐらいだったと思う。
その頃から、僕はだんだんと瑞樹が苛められていると気付いていった。理由はどうだったかは、僕は違うクラスだったから分からない。ただ彼女はその頃にはもう人前で笑わなくなっていた。
彼女の顔に浮かんでいたのは、完全な虚無。
小学生の虐めは酷いものだった。完全な無視から始まり、暴力や暴言まで、虐めの実態は幅広かった。
僕はそんな現状を知って腹がたった。瑞樹を苛めている奴を、みんな殺してやりたいような衝動に駆られた。しかし、実際には僕は何一つすることが出来なかったのだ。
自分が苛められるようになるかもしれない。
そんなどうしようもない恐怖に、僕の怒りは押さえつけられた。彼女にはかわいそうだけど、自分で頑張ってもらうしかない。そう思うようになっていた。
既に瑞樹の傍に、僕は存在しなくなっていた。
その日の夢も、暗闇の中で誰かに追いかけられる夢を見た。相変わらずつかず離れず、僕の後ろをひたひたとついてくる。僕は泣き喚きながらそいつから逃げ回った。
絶対捕まりたくない。捕まったら絶対に助からない。
そんな恐怖が僕の足を突き動かしていった。
――お前はまだ逃げるのか。
どこからか、声が聞こえた気がした。僕は走るスピードを、もっとあげた。
――そんなに闇が恐いのか。光が無いことが、そんなに恐いのか。
聞こえる声を無視して、僕はひたすら走った。