三章 再会
5代目風の王・インラジュール。
異名の通り、賢がつく魔王なんだなと、インジュは思った。
「ふむ。ルキルースの理は想いだとは聞いていたが、こんなこともできるのだな」
幻夢帝・ルキの居城・断崖の城に潜ってすぐ、ジュールはヘビクイワシの姿から人型に戻っていた。ルキルースは、想いが理を越えて作用する国だ。その力を使い、ジュールは仮初めの守護精霊という理を越えて、本来の姿を取り戻したのだった。
「それ知っても、できる人少ないですよぉ?」
『ビックリだワン』
波打つ金色の髪の、優しげな面立ちの美麗な精霊の姿に当てられながら、インジュは感嘆のため息を漏らしていた。インジュの肩で、恐怖の夢魔の片割れ、犬のぬいぐるみの姿をしたカコルも驚いていた。
「そうか?わたしには、おまえのほうがビックリなのだがな?」
どうやって動いている?とジュールは、カコルをサッと捕まえるとしげしげと見つめた。
『お、お手柔らかに頼むワン!』
カコルは緊張気味に、プルプルと身を振るわせた。どうやってこんな動きを?とジュールは興味深げだったが、これも生き物なのだと思ったようだ。フフとその面立ちに似合いの優しい微笑みを浮かべた。その見とれるほど綺麗な微笑みを見たインジュは、この人いろいろ反則だなと思った。
「生きたまま解剖する趣味はない。さて、幻夢帝の居場所はおまえにもわからないのだな?では、記憶の精霊か」
『万年桜の園ワン!今、チョウチョの羽根が生えた人達に占拠されてるワン』
「レジーナを押さえて、何してるんでしょう?」
「シェレラは、インティーガを忘れたのだろう?自分の記憶を取り戻そうとしたのではないか?しかし、それならばレジナリネイを捕らえている必要はないな。ええい。ともかく行くとしよう」
ジュールはカコルを急かすと、記憶の精霊・レジナリネイの住まう部屋への扉を開かせたのだった。
万年桜の園は、永遠に散る桜の咲き乱れる部屋だ。
ほのかに光を発する花が咲く、ルキルースの中でも1、2を争う美しい部屋だ。
「気配ありますねぇ。シェラに似てるってことは、花の姫ですねぇ。でも、人数少なくないですかぁ?ボクが正しいなら、2人ですよぉ?1人はレジーナなら、花の姫は1人ってことになりません?」
「ここはやはり、用済みということだな。ふむ。別の気配があるぞ」
ジュールとインジュは、レジーナの普段いる桜の古木の聳える丘の下に身を潜めていた。自分達の近くに、知った気配が現れた。
「インジュ、ジュール、手伝いにきた」
音もなく背後に飛び降りてきたのは、白銀髪の大男と、濡羽色の黒髪の美少女だった。
黒衣の大男は再生の精霊・ケルディアス――ケルゥと呼ばれていたなと、美少女の方は破壊の精霊・カルシエーナだったなと、ジュールは共にルキルースの精霊である彼等に対した。
「それは心強いな」
「兄ちゃんとリティルの為になるんならよぉ、なんだってやってやんぜぇ?」
「インファの命だったか。遠慮なく使わせてもらうぞ?上の状況、知っているか?」
答えたのはカルシエーナだった。
「うん。しばらく6人の花の姫がいたけど、今は1人残してどこかへ行ったよ。その1人も、どこからか来たの」
「入れ替わったんです?ってことは、シェレラの可能性高くないです?」
いきなり主犯ですかぁ?とインジュは、案外簡単に終わりそうと軽かった。
「もしくは、副官のような者がいるかだな。ん?どうした?」
ジュールは、ルキルース組に何か言いたげな視線を送られて、眉根を潜めた。
「あのよぉ、リャリスにそっくりな姫さんってよぉ、あんたの姫さんだよなぁ?」
「わたしの。と言われると語弊があるが、わたしの時代の花の姫だな。なんだ?ここにいるのはシレラなのか?」
「ジュールさん!槍は抜いちゃダメですよぉ?」
槍を風の中から抜いたジュールに、インジュはギョッとしてその手を押さえた。
「感情なく行かねば、わたしとて斬れないぞ?」
「斬っちゃダメですよぉ!話し合いましょう?決裂したら、ボクがやるんでジュールさんはうまく丸め込んでくださいよぉ」
得意ですよねぇ?とインジュに腕を押さえられ、ジュールは「まあな」と答えるより他なかった。
しかし、彼女と今更何を話せばいいのか、ジュールの心は穏やかではなかった。
「ねえ、ジュール、花の姫って、皆似た名前なんだな」
カルシエーナはよほど聞きたかったのか、ウズウズした様子でジュールに寄ってきた。
「ん?そうか?」
人懐っこい様子のカルシエーナに、ジュールはいくらか毒気を抜かれた。
「そうだ。初代はレシェラで、お母さんはシェラだ。ジュールのお姫様はシレラで花の乱を起こしたのはシェレラでしょう?」
「風の王も、似た名ではあるがな。初代とリティルを除いて、歴代王にはイン――風という言葉が入っているのだ。花の姫はどうやら、アナグラムだな。初代花の姫・レシェラ――命という言葉を並べ替えているようだ」
「並ぶとよぉ。誰が誰だかわかんねぇ」
「名などどうでもいい。敵の名など覚えても無意味だ」
「いいの?」
あまりの物言いに、カルシエーナは僅かに首を傾げた。
「15代目風の王の命を脅かしたのだ。捨て置けん。私怨などと言う下らん理由で、など、到底許せん」
「それはそうですけど……インティーガ、可哀想ですよぉ?シェレラさんも、記憶のない混乱の中でなんて、こっちも相当可哀想ですよぉ??」
「おまえは……可哀想で、リティルが死んでもいいというのか?」
「それはダメですけど、リティル、死にませんよぉ?お父さんが一緒なんです。絶対絶対死にませんよぉ。だから、ジュールさん、花の姫、斬っちゃダメです」
あっけらかんとリティルは死なないと言い切るインジュに、ジュールはハアと脱力した。
「ジュール、お父さんが許可していない。殺しはわたしも止めるぞ?」
わたしに勝てると思う?とカルシエーナは、ジッとガーネットのような瞳でジュールを見つめた。
「わかった、わかった。わたしとて、リティルを敵に回したくはない」
「ジュール、お父さんのこと好きなの?」
「好きだな。喰ってしまいたいくらいに。では、行こう」
ジュールは雄々しくオオタカの翼を広げると、花びらの舞い散る空へ舞い上がった。
「あの顔……マズいですよ!待ってください!ジュールさん!」
何がどうマズいの?とカルシエーナとケルゥが顔を見合わせているのを尻目に、インジュも慌ててジュールの後を追っていた。
シレラという花の姫が、どんな女性だったのか、ジュールは知らない。
知らないというのに、愛していたと想っていることが今では滑稽だ。魂となり、理から解放された彼女も、それは同じではないのか?
番という呪いから解放され、風の王に仇なした彼女達に、もはや風の王への愛情などないのではないのか?
命を産み出す力を持つ花の姫が、せっかく産み出した命を無慈悲に狩る風の王などを、愛すること自体不自然なのだ。わたしが未だに持っている想いは、呪いの様な魔法の残りかすだ。まだ、こんなものに囚われているというのなら、この手で、今度こそ断ち切る。と、ジュールは奥歯を噛み締めた。
15代目風の王・リティル。
初めに目を付けたときは、ただ、利用しようと思っていただけだった。
それが今や、守ってやりたいと思う友となった。
激甘だなと思う呆れた理想を掲げ、大真面目に恐れず突き進む姿に、面白いヤツだと思った。やけに若い外見だなと思ったが、精霊的年齢19才だと聞いた。それにしては、純粋じゃないか?と思った。グロウタースの民なら、もう少し世界を冷めて見ている年齢では?とずいぶん優しいリティルに思っていた。
それが、生い立ちにあることはインジュから聞いた。インジュはおしゃべりな男だ。多少の誇張はあるだろうが、グロウタースにいたひな鳥期と言っていいのか疑問だが、力がないために守られ奪われる経験をしていた。そして、その中には父と慕う3人の人物が含まれていた。
ジュールは、父親経験のある稀な精霊だ。彼の庇護欲を掻き立てるのに、十分な要素をリティルは持っていたのだ。ただそれだけだったが、できることをしてやりたいと思った。
叶わなかった恋の相手よりも、現実に関わった絆の方がジュールには大事だ。
ジュールにとって風の王の力を使う為だけにあった風の城を、しんと静まり返る薄暗がりのあの城を、温かな風で満たしているリティルという王に、仕えてもいいとジュールは認めたのだ。だから今、ここにいる。
リティルが言っていた。
「風の王は、みんなどっか繋がってるんだ。インティーガのことも、オレ、信じてる。おまえもそうだよな?”インジュ”」
リティルの言葉を、ジュールも理解している。リティルよりも大人な心が、至極単純な心を曇らせているだけだ。率いる力があるくせに、純粋性を失わないリティル。それを守る一家の存在。ノインという新たな精霊となってでも、リティルをそばで見守るイン。
14代目風の王・インに会ってみたかったなと、ジュールは思ってしまった。ジュールも父親だが、存在を賭ける勇気は未だにない。
ジュールは作り物の夜の空気を裂いて、丘の上まで一気に飛んでいた。
とっくに失ったこの姿で、また空を飛べるとは、夢とは何でもアリだなと小さく笑った。
「さあ、覚悟はいいか?迷魂は今も昔も風の王の獲物だ。シレラ、君とて例外ではない!」
桜の古木の根元に、2人の女性が座っていた。1人は、身長よりも長い黒髪の少女の面影を残す女性。そして、もう1人は、忘れもしない。リャリスの髪を緑に塗り替え、日に透かすエメラルドのような色をした瞳の美女。その姿は、5代目花の姫・シレラだった。
魔王の恋の終わりとしては、ふさわしい最後だな。数々してきた所業を思えば、この苦痛は妥当だろう。ジュールはニヤリと微笑んだ。
「インジュ?なぜ、あなたがここに?」
シレラは、生前の姿そのままに信じられないような者を見るような目で、上空のジュールを見上げていた。
わたしも同じ気持ちだ。ジュールはその言葉を飲み込んで、高らかに笑った。
「ハハハハ!わたしの異名知っているだろう?賢魔王……わたしにかかれば、これくらいのこと造作もないな。ああ、今はジュールという名だ。まだわたしの名を呼びたいのなら、ジュールと呼べ」
「あなたに会えるなんて……インジュ、いいえ、ジュール!わたしは逃げも隠れもしません!けれども、狩る前に問いに答えて!」
臆さず、槍を構える風の王を見上げる強い瞳。ジュールは、か弱いばかりだと思っていたシレラの中に、風護る戦姫・シェラを見た。風の王が繋がっているように、花の姫も繋がっているのかもしれない。だとしたら、あの健気に勇ましくリティルを守るシェラは、シェレラに賛同してしまったのだろうか。だとしたら、リティルはシェラと、戦わねばならない?ジュールの脳裏に、花の精霊のことで葛藤しながらも、リティルと共に世界を守ろうとしていた、黒髪に紅茶色の瞳という、花の姫にはない色を持った花の姫のことが思い
出された。
風の王の傍らにいることは、辛いだろう。自身も血にまみれる覚悟をし、リティルと共にいるシェラの姿に、ジュールは救いを感じていた。風の城にいるシェラを見ているだけで、風の王という存在が許されるような気がした。
花の姫は、風の王にとってなくてはならない存在だと、ジュールは今更ながら悟った。同じ風の王として、今を生きる風の王に命を落としてほしくない。
リティルからシェラを、奪わないでほしかったのはジュールだった。様々なモノに邪魔されて、いや、それを言い訳に向き合うことから逃げてしまった為に手に入れられなかった救いという名の光。それが、風の王にとっての花の姫だ。生前それを悟っていたなら、何かが違ったのだろうか?やめよう。そんなことを考えるだけ無意味だ。
ジュールは、まるで生きているかのように振る舞うシレラを見下ろし、あざ笑った。
「今更何を問う?わたしもすでに死した身だ!我が存在は、今を生きる風の王・リティルと共にある。リティルに哀しみを!よくも運んでくれたな!」
ジュールがついに掴めなかった花の姫の手を、リティルは取った。あの頃のリティルは、風の王の困難さを身に染みてはいなかっただろう。だとしても、シェラと血の繋がった父に「幸せにする」と誓ったリティルをジュールは尊敬する。そんな言葉を、嘘でも今もジュールは言うことはできないのだから。
「哀しみ?シェラのこと?……そうね、シェレラはもう止まれない。けれども、まだなんとかできます!シェラが、リティルを信じているかぎり!」
君はシェレラに加担したのだろう?インティーガの死に、リティルの死を重ねてしまったシェラの意識体を捕らえ、未だに放さない。状況が彼女は敵だと言っている。ジュールは言葉を鵜呑みにできるほど純粋ではない。
それ以前に、彼女の口から言い訳を聞きたくなかった。終わったと認識していることを、蒸し返されることほどの苦痛はないのだから。
「わたしを惑わすつもりか?もういい……わたしの思い出の方が幻想なのだとしても、穢させはしないぞ!」
シレラ目掛けて急降下したジュールの槍は、金色のドームに阻まれていた。割って入ってきたのは、インジュだ。ジュールには、想定内だった。
「おまえは死なない精霊だ。障害にはならん!」
ジュールの振り下ろした槍が、インジュの張った風の障壁を貫いていた。切っ先から迸る風が、インジュを襲いインジュは咄嗟に真後ろのシレラを抱きしめて庇っていた。
そのインジュの動きに、ジュールは冷ややかに手の内だなと笑った。
「痛たたたたたた!迷魂は狩らなきゃですけど!こんなやり方、ジュールさんらしくないですよぉ!ボクは!シェラを信じてます!だから、シレラさんのことも、信じます!」
ジュールの槍が、インジュの背中を浅く刺していた。このままシレラごと串刺しにするつもりなのだと、インジュにはわかった。そんなこと、彼女を突き放せば!と思ったが、ジュールの放った風が未だに獲物を探すように漂っていた。
ホントに、強すぎる。インジュは手合わせでもリティルにさえ勝ったことはないが、ジュールの強さは殺し合いなら、歴代3位のリティルよりも上だなと思った。
「人間からの転成精霊であるシェラは、おそらく花の姫の中でも特殊だ。花の姫も所詮は花の精霊!おまえも知っているだろう?花の精霊の醜さを!」
インジュの体の中を、徐々に槍の切っ先が入ってくる。ひと思いにやらないのは、ジュールもやりたくないのだと思いたい!
ダメだ!絶対にジュールにシレラを狩らせてはいけない!とインジュは、容赦なく心臓を貫きそうな槍の切っ先を感じながら、それだけを強く思っていた。
「し、知ってますよぉ!だから、花の姫は花の精霊に復讐したいんでしょうが!花の姫は今でも、風の王が好きです!いいんです?ホントにいいんですかぁ!ジュールさんも、シレラさんのこと、愛してる、くせにいいいいいいい!」
ドオンッとインジュの体からキラキラ輝く金色の風が解き放たれた。そしてその姿が異形に変わる。
長い頭髪を振り乱し、四肢がオウギワシのかぎ爪に変わり、尾羽を生やした化け物の姿。インジュの殺戮形態である、ジ・エンド・オブ・ザ・ワールドだった。
「――5代目、首を突っ込むつもりはなかったんだがなあ、陛下の命は絶対なんでな。止めるぜ?」
赤い瞳の魔獣は、殺気を振りまきながら上空のジュールを見上げた。
「できるかな?かかってこい、エンド!」
インジュの風に弾かれ、高い上空へ逃れたジュールはエンドを挑発した。
「余裕だねぇ。そんじゃ、遠慮なく半殺しな!」
この場にいたのが、インファだったなら、ジュールの目的は達することはできなかっただろう。ジュールは、躍りかかってくるエンドを見つめながら薄ら笑っていた。
「愛している?愛していればこそだ」
インジュの殺戮形態は異様に耳がいい。エンドはジュールの呟いた声が聞こえていた。なんだ?と視線を下へ向けると、シレラの下の地面に金色で魔方陣が描かれていた。
「おまえ!正気かよ!」
エンドは慌てて急降下した。だが、かなり上空へ誘い出されていたために間に合わない。
いつの間にか、桜の古木を覆うように風の障壁が作られ、カルシエーナとケルゥは閉め出されていた。
賢魔王・インラジュール。魔方陣を駆使し、無慈悲なまでに場を支配する。返り血すら浴びない冷酷な戦い方で生き抜いた王だ。敵と定めたモノを屠るためなら、地形すら変えることをいとわない。まだ「ここはわたしの戦場だ。巻き込まれたくなければ、去れ!」と無関係な命達に警告と、戦場全体を覆う風の障壁を展開するだけ優しい。
それが、甘いマスクで惑わせるような振る舞いをする彼の、本当の姿だった。
ジュールは冷ややかに地上を見下ろしていた。勝敗は、ジュールがインジュの風の障壁を破ったとき決まっていた。あのとき放った風は、インジュに襲いかかったが、それは目くらましだった。本当の目的は、シレラの下に彼女を殺す魔方陣を描くためだったのだから。
「今更無意味だ。わたしは間に合わなかったのだから。わたしは肉欲に溺れた最低な風の王。その認識のまま、逝かせてくれ。それが、せめてもの手向けだ」
やり直すことはできない。ジュールには、まだこの存在で片を付ける事が残っている。シレラと共には逝ってやれない。
魔王は魔王らしく、この場に君臨してやろう!花の精霊が噂した、血も涙もない恐ろしい王。噂などではない。本当の事だと君は知るだろう。ジュールの瞳は、魔方陣の中のシレラを見ていた。
ジュールの描いた魔方陣から、金色の風が竜巻を形作ろうと、溢れ出していた。
「話くらい、聞いてもいいんじゃないの?」
ニャーオ!と猫の鳴き声が空気を震わせた。幾筋もの直線的な殺気が走ったかと思うと、ジュールの張った風の障壁が網目状に切り裂かれて砕かれていた。そして、真っ正面から襲ってきた小さな者と、ジュールは反射的に切り結んでいた。
ジュールの視界に、瑠璃色の短いフワフワしたくせっ毛が揺れた。円形の刃――チャクラムで斬りつけてきたのは、蠱惑的な瑠璃色の瞳の小柄な少女だった。
「へえ、あなたも風の王様なのねぇ。あの人たぶん敵じゃないわよぉ?ウチらのこと、解放してくれたしね」
ウチら?ジュールはフフと楽しそうに笑う、フワリと膨らんで足首ですぼまるズボンに、チューブトップというエキゾチックな出で立ちの少女を、思わず観察していた。
「あたしはスワロメイラ。セリアのお姉ちゃんよ。セリア、知ってるわよね?」
「雷帝妃だな。では君は、行方不明の幻夢帝の護衛ということか」
たしかこのスワロメイラは、次女だったなとジュールは思い出していた。あと1人、長女のエネルフィネラという精霊がいるはずだ。幻惑の暗殺者、宝石三姉妹のことは、ジュールが風の王をしていたときにも有名だった。だが、ジュールはルキルースに行ったことはなく、彼女達とは接触しなかった。
しかし、エネルフィネラはどこに?ああ、姿の見えないその長女が風の障壁を斬ったのかと、ジュールは理解した。
「ご名答。ルキ様もほら。シレラちゃんは、シェレラの目を盗んでウチらを助けてくれたのよぉ?隙を見て、シェラ姫ちゃんも助けようとしてたんだから」
スワロメイラに咎めるような口調で言われ、ジュールは槍を引いていた。
「彼女の好意を無にできないからって、傍観してたんだけど、シレラちゃんもあなたが来たならもういいって、潔いもんだから、手、出しちゃったわよぉ!これできっと、シェレラにはバレちゃったわねぇ」
ほらほら来なさいよぉ!とスワロメイラの手に手を引かれ、ジュールは地上に舞い降りた。
地上では、エンドと人格を交代したインジュが疲れていた。その傷ついた背中を、殺されかけたばかりだとというのに、甲斐甲斐しく治癒魔法をかけているシレラがいた。
「インジュは超回復能力持ちだから、ほっとけばいいよ?」
漆黒の髪の間から猫の耳を生やした少年が、ニンマリと微笑んだ。得体の知れない雰囲気から、彼が2代目幻夢帝・ルキかとジュールは思った。ジュールの時代では幻夢帝は、眠っていて話せるような状態ではなかったのだ。
幻夢帝と話をと、ジュールが口を開きかけると、気配が動いた。
何気なく視線をそちらに向けると、ズイッとシレラに詰め寄られていた。その睨むような瞳に、ジュールは取り繕えなくて僅かに引いていた。
「ジュール、わたしはあの場で狩られてもよかったのです」
「……その割には、怒っているように見えるぞ?」
「あなたが問いかけることすらさせてくれないからよ!」
キッと睨んでくるその瞳すら、ジュールは初めて知った。ジュールは観念したようにため息を付くと言った。
「はあ、わかった。で?問いとはなんだ?答えてやるぞ?」
問うとシレラは、うっと瞬間躊躇った。言い出したのになぜ?とジュールは訝しがりながら彼女の言葉を待ってしまった。
「……あなたはわたしのことを、好きでしたか?」
はあ?ジュールが瞳を見開くのを、インジュは初めて見た。そして数歩蹌踉めいたジュールは、それでも立ち直ってきた。額に片手を置き、ジュールは一息後にやっと言葉を返した。
「わたしは、キッチリ振ったはずだが?」
ジュールの言葉に不満を露わに、シレラは声を荒げた。聞きたいことはそういうことじゃない!と言われた気がした。
「ではなぜ、わたしの名を呼んだのですか!世間知らずのわたしでもわかるわ!あんな愛しそうに……どんな夢を見ていたのですか?」
夢?いつだ?とジュールは身に覚えがなかったが、そういえばナーガニアが神樹の森で会っていただろう?と言っていたなと思い出した。
ジュールは決して弱い王ではなかったが、いつも無傷とはいかなかった。命からがらイシュラースに帰るなんてことも、1度や2度ではなかった。ナーガニアは素っ気なかったが、風の王の要請を断ったことはない。それどころか、神樹の森に戻るジュールに風の城に帰らなくていいのか?と幾度となく問うてきた。案じているのか?このわたしを?と不思議に思ったモノだ。
「覚えておらん!はあ、今更だな……その問いの為に、君はこの世に残っていたのか?」
「最後の時、あなたを見失った時から無意味だとは思っていたのです。ですが、次々に死に別れる姫達の話を聞いているうちに、逝く機会を逃してしまって……」
ナーガニアの同情で枝葉に匿われたシレラは、実はとっくに気持ちの整理を付けていた。しかし、殆ど風の王に関われずに死に別れる姫達を慰めているうち、逝く機会を逃し続けてしまったのだ。
「すまなかった。君がわたしを見失ったのは、生前冒した過ちのせいだ。わたしの魂は、蛇のイチジクという至宝に喰われる運命にあり、解放されたのはつい最近だ」
「ルキから聞きました。解放してくれたのはリティルだということも」
「それを聞いたから、シェレラを裏切ったのか?」
「いいえ。彼女の嘆きはわかりますが、風の王がよしとしないことをするべきではないわ。そうは思っていたのですが、わたし以外の花の姫すべてがシェレラに賛同してしまって、どうしようもなく……」
シェレラには初めから、どんな言葉も届かなかった。彼女はすでに、邪精霊だ。その方向へ振ったのは、忘れもしないあの男。智の精霊・無限の宇宙。彼の授ける知識が、どんどんシェレラを変えていった。彼女の痛烈な花の精霊への恨みと嫌悪が、告白すらできなかった内気な花の姫達の心を引き付けてしまった。
下手に敵対するような言動をするわけにはいかず、シレラは行動を封じられてしまったのだ。転機は、16代目花の姫・シェラの意識体が体から抜け出して、このルキルースに落っこちてきたことだった。
「シレラ、悪くない」
フワリと空気が動き、見上げると、桜の古木の中腹辺りに、長い髪をなびかせたレジーナが浮かんでいた。眠い以外の感情を読み取れなかったが、ジュールはなぜか行いを責められていることだけは感じた。
「シェラが抵抗してくれたおかげです。リティルならこの戦いを終わらせてくれると信じて、レジーナを解放し、ルキの居場所を突き止めました」
シェレラを始め、他の花の姫達の目がシェラをどう利用しようかと集まったことで、レジーナやルキの幽閉された部屋への監視の目がほぼなくなった。シレラはやっと行動を起こせたのだった。しかし、一足遅かった。ルキの力があれば、風の城へ行くことができたが、頼みの綱のリティルが花の精霊の襲撃に遭い、行方不明になってしまったのだ。寛大すぎるほど寛大な風の王・リティルのいない城に、不用意に近づけず、力を根こそぎ奪われてしまったルキの回復を待っていたのだ。
「大した姫さんだなぁ。シェラみてぇ」
ルキの解放まで1人でやってのけたのを察して、ケルゥはふーんと頷いた。
「ジュールさん、見事に見誤りましたねぇ。この人手込めにしておけば、今頃永遠の風の王は、ジュールさんだったんじゃないんです?」
「そ、そんな力わたしには……シェラには遠く及びません。けれども、時間の問題よ。シェレラの揺さぶりを受けて、シェラの心が揺らいでしまいました。最強の花の姫・シェラを動力に、八岐大蛇が起動してしまいます」
「やまたのおろち?」
カルシエーナが、ケルゥの肩でキョトンと首を傾げた。
「頭が8つある大蛇の化け物だそうです。グロウタースの民が創作した怪物だって、エンド君が言ってます」
「わたしの行動が見逃されたのは、シェラが落ちたからです。彼女は初めから、わたしを信用していなかったのでしょう」
「頭が8つ……だが、シェラの意識体が抜けてしまったのは偶然だぞ?シェレラは君を動力に使おうとしていたのではないか?計画を邪魔しそうな君を黙らせられるのだ。一石二鳥だ。わたしならそうするな。危うかったな、シレラ」
ジュールの言葉に、シレラは息を飲んだ。その僅かに恐れの見えた表情に、ジュールはハアとため息をつくと、行動に出ていた。シレラの行動力は本物だろうが、死線をくぐれる戦士ではない。これまで、ずっと、張り詰めていたのだな?と容易に知れた。
それなのに、よく、このわたしに殺されることを選べたな。と、ジュールは心底呆れていた。その上、殺そうとした相手に「わたしを好きだったか?」などと問うほどに、まだ好きだと言うのだから、もう、逃げられんなと思うしかなかった。
「イ、インジュ?」
「ジュールだ。5代目風の王・インラジュールに戻る気はないからな。だから、今なら言えるな」
ジュールはシレラを抱きしめていた。お互い偽りの体なのに、体温も柔らかな肌の感触も、確かに感じる事ができた。
「わたしは今も、君を遠ざけた昔も、愛している。共に逝ってやれなくて、すまないな」
シレラは、ジュールの胸を押して隙間を空けると、怒ったような瞳で見上げた。
「わたしは……何番目でもかまわないと言ったではありませんか!なぜです……インジュ……想っていてくれたなら、わたしを手に入れればよかったではありませんか!」
言いたいことはわかる。ジュールは、数え切れないほどの女性と関係を持ったのだ。その中の1人に、なぜ加えてくれなかったのか!と、シレラはそう言ってくれていた。
「ジュールだと言っている。君との子が、自然にできる方法を探していたのだ。わたしは風の王だ。いつ地に落ちるかしれない。わたし亡き後、君が生きていけるようにしたかったのだ」
ああ、こんな……自信のない顔もできるのですね。シレラの知っているジュールは、いつでも自信に満ちあふれていた。高らかに笑い、どんな強敵も練られた知略で屠る。そんな姿しかしらない。シレラは、腕を解かないでくれているジュールの胸にそっと身を預けると、その背に腕を回した。
「共に逝ってはいけないの?精霊は永遠の生き物。風の王でもなければ、死を知らない種族です。あなたを亡くし、それでも生きろというの?」
「もう死んでいるぞ?……それが、風の王達が花の姫を拒んだ理由だ。グロウタースの民のように、死という絶対の離別を乗り越えられない。わたし達の死が、最も守りたい最愛の命を道連れにしてしまうことを、わたし達は受け入れられないのだ。だからこそ、リティルは必ず帰る誓いを、シェラにしている。その誓いをできるほどの心強き王が、目覚めなかっただけだ。すまない……番という理が、風の王が拒んだとしても姫達を殺してしまった。ならばせめて、手を取り合えれば……」
シレラは、ジュールの死を知っている。自分の作った魔法とはいえ、彼は苦痛の中、死んだ。あのとき、何があったのかわからない。けれどもジュールは風の王という存在のために、自ら死を選んだ。シレラには感じられた。ジュールの心臓が弾け飛んだその衝撃。
今、抱きしめてくれる彼の体の中で、力強く脈打つ鼓動に、涙が溢れた。泣き出したことがわかったのだろう。背中にあったジュールの片手が、シレラの頭を優しく撫で始めた。
「それは……風の王のせいばかりではありません。シェレラが恨みを抱く理由です。わたし達は、わたし達のせいで風の王の評判を落とすわけにはいかなかったのです。それさえも、無意味でした。リティルとシェラの事を知れば知るほどに……」
「花の悪意などリティルの前では、可愛いさえずりだったな。シェラがいれば怖くないと、曇らないのだ。シレラ、教えてくれ。神樹の森の泉で、わたしを癒やしてくれていたのは君だったのか?」
シレラは涙を拭いながら、顔を上げた。
「そうです。あなたがわたしの髪の束を持っていてくれたから、あなたが神樹の森のどこにいるのかわかったのよ。なぜ、怪我をするとあの泉だったの?」
「泉の水に、治癒能力があるのだと思いこんでいた」
ジュールは、風の王の中で唯一治癒魔法を操れる王だった。その力も、産む力の溢れた生命なき森・神樹の森ならば威力が増す。森にあった泉は、ジュールの腰くらいまでの深さのある池だ。血を洗い流す目的もあり、そこを治療の場に選んでいたが、痛みと疲労で癒やしきれずに昏倒することもしばしばあった。そういうときに限って、目覚めると傷が癒えているばかりか、疲労も消えてなくなっていた。神樹の森の泉という特殊な場所に、癒やしの力があるのだと思い、ジュールは次第に、風の城へ帰らずに森に留まることが多くなっていったのだ。
「そればかりではないな。君のくれたお守りの中にあった神樹の枝。あれは、わたしの魔法の威力を高めてくれた。それすら気がつかなかった。賢魔王が聞いて呆れるな!」
「なぜ、持っていてくれたの?」
すぐに捨てられると思っていた。ジュールに振られたとき、本当に脈無しだと思った。しかし、諦められずにナーガニアを通じて、髪の束のお守りを押しつけたのだ。
ジュールを守りたくてしたことだったが、彼の居場所がわかるようにしていた。グロウタースでは、こういう行為をストーカーというらしい。してはいけない事なのだろうとは思ったが、止められなかった。
忘れもしない。ボンヤリ淡い白い光に包まれた夜の泉の傍ら。傷を負ったまま眠るジュールの白い顔。苦痛を感じているのだろう。眉間のしわと、僅かに乱れた息。癒やさないという選択はなかった。振られた手前、目覚めた彼の瞳に映る勇気はなく、シレラは逃げるように退散していた。そんなことを何度繰り返しただろう。あるとき、シレラは、ジュールのうわごとを聞いたのだ。
「シレラ……」彼は確かに名を呼んだ。花たちの噂で、ジュールが数々の女性と関係していることは知っていた。その中にも入れてもらえなかったというのに、彼は確かに、振って背を向けた女の名を呼んだのだ。
囁くような、甘い声……シレラの瞳から、涙が溢れた。そして、その場から逃げ出した。
「なぜです?なぜですか!インジュ……!」髪の束のお守りも捨てない。帰って来るのはこの神樹の森。そして、そして、夢の中で呼ぶ名がわたしの名!問いたかった。けれどもできなかった。彼の心にわたしがいたとしても、遠ざけることを選んだあの人が、本音を言うわけがない!また、辛辣な言葉を言わせてしまう……。ならば、バレてしまうまでの間だけでも、この森に帰ってくる彼を癒やし続けよう!そう思った。
「捨てられるものか!髪の束のお守りは、グロウタースでは、戦地へ赴く男に女が贈るお守りだ。捨てられるわけがなかろう?むしろ、なぜ、髪の毛だったのだ?」
「霊力で作れば、受け取ってもくれなかったでしょう?羽根はすぐに壊れてしまうし、髪の毛しかなかったのよ!」
「やられたな。君を手込めにしておけばよかった。シレラ、遠い未来で結ばれよう。君がわたしを愛してくれるなら。だがな!」
「勝手な人!けれども、わかりました。わたしは、あなたに愛されるまで追いかけます。巡り会ったときは、わたしと手を繋いでください」
シレラはそっと腕を解かせると、ジュールの手の平に手の平を重ね、指を絡めた。
その指に、ジュールも指を絡めしっかりと握り合った。
「ああ、今度は逃げないと約束しよう。シレラ、共に見届けるか?」
「はい。シェレラを残しては逝けません。彼女の魂まで砕かれてしまったら、インティーガが本当に浮かばれません」
シレラの意志ある言葉を聞いて、ジュールはなぜか複雑そうな顔をした。
「君は本当にわたしでいいのか?お人好しが誰かを思い出させるのだがなあ……」
「シェラとリティルを知るうちに、感化されてしまいました。リティルのために怒っていたあなたも、同じではないの?魔王と呼ばれていたあなたは、他の精霊のために動くような人ではありませんでした」
格好良かったわ!とシレラに笑われ、ジュールはフフと甘く笑っていた。
「ますます最低だな。リティルめ、このわたしに惨めな思いを抱かせるとは、侮れん」
「ウフフ、そうね。……ジュール、助けられますか?わたし、2人を助けたい」
「情報がいるな。シレラ、幻夢帝、わかっていることを教えてもらおう!」
シレラをやっと解放し、微笑みを収めたジュールは、逆らってはタダではすまないような、圧倒的な支配者のような雰囲気を醸していた。今の今までシレラに向けていた、甘い瞳とはほど遠かった。
「ジュールさん……いろいろ犯則ですぅ。でも、なんとか、なりましたねぇ」
シレラのことをナーガニアに告げられてから、ジュールは余裕がなかったが、やっと治まったらしい。やはり、風の王と花の姫は番なんだなと思いながら、それなのになぜ結ばれないんだろうか?とインジュは解せなかった。
賢魔王が復活したなら、ボク、もう用済みかな?と思いつつ、インジュは重い腰を上げた。
ジュールが来いと呼んだからだ。ケルゥとカルシエーナは?と見ると、2人はいつも通り傍観するらしい。
ルキは、インジュが桜の根元に来るのを待って、話始めたのだった。
「ボクが接触したのは、シェレラだよ」
「ルキルースにいたんです?」
「まあ、この国は潜伏するにはいいからね。ボクも、ナーガニアに頼まれなかったら、こんな危ない橋渡んなかったよ」
ルキは「ボクは戦闘系じゃない」と首を竦めた。
シェレラの居場所はすぐに知れた。
というより、断崖の城に戻ったルキの前に、彼女は現れたのだ。
「なるほどね。その姿であちこち出没してたんだね。ところで、ボクに何か用かな?」
その姿はどう見ても男性だった。大柄な男。確か風の城では『インティーガの影』と呼ばれていたっけ?とルキは舐めるように黒い靄を纏ったその人を観察していた。
彼女は、まるでフードを脱ぐような仕草をした。
「へえ、ナーガニアの言った通りだったね。君、どう見ても花の姫だよね?」
黒い靄は彼女から離れ、小柄で清楚な女性が立っていた。
緑色の髪に、シェラと同じ丸い光の粒が光っている。可愛らしい面立ちだが、シェラよりも年上に見えた。
「13代目花の姫・シェレラ。幻夢帝・ルキ、永遠の豊穣への扉、開いてください」
その部屋の事を、ルキは知っていた。ふーんと、ルキは感情の読めないニタリとした微笑みを浮かべた。
「レジーナをどうしたのさ?」
「傷つけてはいないわ」
「君、このまま進むと、風の王に狩られちゃうよ?」
「狩られる前に、目的を達するまでです」
スワロメイラとエネルフィネラがルキを庇って立った。水色の髪をポニーテールに結い、赤い袴を履いたエネルフィネラが、そっと背後のルキに警告した。
「ルキ様、風の城へ逃げて」
この城の玉座の間には、風の城直通の扉がある。エネルフィネラが警戒したのは、シェレラの背後に、ズラリと彼女と似た顔立ちの、モルフォ蝶の羽根を生やした女性達が現れたからだ。
「うん、危ない橋、渡ってるね。ねえ、永遠の豊穣に行って、何するのかな?」
「探し物があるのです」
「花の精霊にまつわる物。だよね?でもそれ、君たちにはあんまり意味がない物だと思うよ?」
「ルキ、それが何か知ってるんです?」
思わずインジュは話の腰を折っていた。
「君ねえ、ボク達がどうやって捕まったのか、それはいいわけ?」
話の腰を折られたルキは、あからさまに不満げにインジュを見上げたが、その目は笑っていた。
「はい。あ、いいえ!」
問われたインジュは本音が出てしまい、ルキは幻夢帝だった!と今更気がついて慌てて否定していた。ルキはニンマリと目を細めると、不安を煽るような声で笑った。
「君のその正直なところ、とっても好きだよ。まあいいや。ボク達3人と花の姫8人じゃ勝ち目なんてないしね。結論を言うと、ボクはその部屋にある物が何か知ってるよ」
ルキは1度言葉を聞いて、勿体つけるように皆の顔を見回した。
「花の王が花の王たる所以の記憶だよ」
「花の王?花の精霊は花の姫の眷属じゃないんです?」
インジュの驚きに、ルキはニンマリと笑った。
「それが、今回の事案の発端なんだよね。インラジュール、君、知ってた?」
「花の精霊のことなど、知らんな」
隠さず気に入らないという感情を露わにするジュールに、リティルとはずいぶん違う風の王なんだなとルキは感じた。
「実はね、このルキルースに花の王の記憶が封じられてるのは、初代風の王・ルディルが幽閉されて、2代目の風の王が死んだあたりなんだ」
「ずいぶん古い話なんですねぇ。原因わかりますぅ?」
ルキは首を横に振った。
「ボクもね、花の王なんてヤツがいることを突き止めたの、つい最近なんだ。ボクもね、最近の花のうるささには辟易しててね。超弩級の悪夢プレゼント計画してたんだよね」
クックックと、口が耳まで裂けた猫の表情でルキは不気味に笑った。
「ああ、弱点見つけるために記憶を漁ってたんです?じゃあ、偶然だったんですねぇ。花の王って生きてるんです?花ってすぐ散っちゃいますけど」
ルキはニンマリ笑いながら答えた。
「生きてるよ。目覚めた時からずっとね。花の王は古参の精霊だよ」
「誰だ?」
ずっと押し黙っていたジュールが、優しげな目元を刺すように鋭くして、低く短く問うた。怒りとは違うが、その雰囲気が恐ろしくて、インジュはビクッと身を振るわせてしまった。
「急かすね。今は牡丹って名乗ってる娘だよ」
「牡丹?……なるほど」
ジュールは彼女に心当たりがあるようだった。意外に思ったインジュは「知ってるんです?」と問うていた。
「わたしが、花の精霊が風と関われないように呪ったことは、知っているな?あれは、先代風の王――4代目がどうやって死んだかを調べたあとだ。花園に乗り込んだわたしの前に現れた花、それが牡丹だ」
「あなたが花園へ?」
シレラはとても驚いていた。それほどジュールと花園との仲は最悪だったのだろう。
「わたしとて、行きたくて行ったのではない!呪うには、現地に行くしかなかったのだ。あの花は、事情を知っていた。言い訳くらい聞いてやろうと思っていたが、この賢魔王に命乞いするでもなく、彼女は言った。風と花が関わらないようにできないか?とな」
「え?ということは?えっと、呪いをかけてって言ったの、その牡丹さんなんです?」
「そうだ。今、リティルに対する花園の態度を見れば、信じられんかもしれんが、わたしの時代まではことあるごとに群がってくる鬱陶しい精霊だった。そして、隠してもいなかったが、同時に風の王の噂を流していた」
「どうしてです?風の王が好きなのに、風の王の評判を落とすような噂流すって、矛盾してません?」
「花どもにはライバルがいたのだ。彼女がいる限り、風の王を手に入れられる花はいない」
「ライバル?…………それって、花の姫です?ええ!花の精霊って、花の姫と風の王の取り合いしてたんですかぁ?」
インジュはビックリしすぎて、いつも以上に反応が大げさになってしまった。
「4代目は、三角関係の痴情のもつれに巻き込まれ、その心の隙を突かれた。なんとも馬鹿らしい結末だ。わたしは目覚めてすぐ、ナーガニアから花園には絶対に近づくなと警告されたな。そして、花の姫を信じてはならないと言われた」
「リティルも警告されてましたねぇ。裏切られるぞ!って。それでも好きになっちゃうんですねぇ」
しみじみインジュに言われ、ジュールはバツが悪そうだった。
「っ……番だからな。受け継いだ知識から、ナーガニアには嫌われていると思っていたからな。意外だった。だが、シェレラの所業を見れば、ナーガニアの懸念、本当だったと思わざるを得ないな」
ジュールはシレラを見やった。言い訳はあるか?そう問われていることが、シレラにはわかった。無理もない。シェレラの行動は、風の王の命を脅かしているのだから。
「シェレラは、風の王に敵対したいわけではないのです。わたしも……本音では彼女に加担したい……。けれども、シェラとリティルの姿は、わたしの夢見たものです。あんな風に、手を、いいえ、手だけではないわ。心も、体も、魂さえも繋ぎたかった。羨ましくて、腹立たしくて、哀しくて……でも、リティルからシェラを、シェラからリティルを奪いたくないのです。想いは同じだと、皆の心を、信じたい……」
「君は、他の姫とは違うよ。風の王に告白できたんだからさ」
「みんな、告白すらできなかったんですねぇ。そんなに、花の噂酷かったんです?」
「つけ込まれる方が悪いのだ!現に、インティーガは花にもウケがよかったぞ?ヤツの罪は、恋人などという生ぬるい関係に甘んじたことだ。婚姻を結ばねば、花の姫は真価を発揮できん。奴め、その上有限の星に滅せられるという愚行まで犯しおって!シェレラには、これでも同情している」
「愛する人が、無実の罪で最も重い罰を受けちゃいましたからねぇ。ボクも可哀想だって思ってます。それで、花の王の力ってなんなんです?」
「縁結び」
答えたのは、音もなく舞い降りてきたレジーナだった。
「縁結びって、この人とこの人をくっつけよう!っていうあれですかぁ?花って、産む力の司じゃないんです?」
「それ、花の姫なんだってよ?ボクは、セクルースのことはよくわかんないけどね」
「なるほど……花の精霊が花の姫の眷属ではないとするなら、司る力が違うはずだな。レジーナ、花の王はなぜ、記憶と共に力までも封じた?」
「結んだ、縁、イシュラース、揺るがした。初代幻夢帝・ガルビーク、初代大地の王・ユグラ・テティシア、初代風の王・ルディル、初代花の姫・レシェラ、みんな、不幸」
「?初代幻夢帝?ルキって2代目なんです?それに、ユグラ・テティシア?テティシアローズと名前似てますねぇ」
初代幻夢帝の最後と2代目幻夢帝の誕生にリティルは関わっている。だが、インジュにとっては産まれる前の話だ。別段勤勉でもないインジュは、知らなかった。
「初代幻夢帝と初代大地の王はね、夫婦だよ。テティシアローズは、夫と簡単に逢えるように、テティシアが作った花なんだ。いろいろあって、ガルビークがテティシアを殺して、ルディルは三日三晩戦い続ける羽目になったんだ。初代幻夢帝を封じたのはレシェラだよ。そのあとルディルは、次元の牢獄に幽閉されちゃったね。初代を討ってボクを目覚めさせたのは、ケルゥ、君だったね」
ルキはニンマリと笑って、白銀髪の大男を見やった。遠巻きにしていたケルゥは、フンッと小さく鼻を鳴らすと、そっぽを向いてしまった。
「え?ケルゥも関わってるんです?」
「オレ様だけじゃねぇ。ルディルを次元の牢獄に送りやがったのは、ナーガニアだ。ルディルは、ガルビークの封印を守るために、原初の風と一緒に幽閉されちまったのさ。そのせいで風の王は……。風の王をよぉ、最上級精霊にしてたんは、おめぇだよ。インジュ」
「はい?ボクです?……ああ、原初の風ですかぁ。そうでしたねぇ。風の王が原初の風を受け継げなかったせいで、最上級になれずに上級止まりだったんでしたねぇ。にても凄いですねぇ。ジュールさん、自分で作った魔法で死ななきゃ、リティルのお父さんより生きたんじゃないんです?」
「さて、それはどうだろうか?原初の風を手に入れるか、花の姫を手に入れるかできなければ、どのみち死んでいただろうよ。死とは、それほどまでに強力な力なのだ。命の怨嗟に呪われた我々は、そのうち狂って有限の星に滅せられていただろうよ。そうなる前に、わたしは自作の魔法で、他の者は魔物に、インティーガは殺され果てた。生き残った風の王は、インだけだ」
「リティルのお父さんは、ノインだからです?それ言うと、リティル滅茶苦茶怒りますよぉ?それに、ノインの魂はノインの物です。今はインだった記憶もなくなっちゃってます」
少しだけインジュは寂しそうに、しかし、複雑そうな顔をした。
「ヤツが恐れているのは、インの記憶だ」
「どうしてです?風の騎士だったころにも、リティルと親子だった記憶、対価として差し出しててなかったですよぉ?ノインがリティルの世話焼いてたのは、ノインの意志ですよぉ?」
「インは、今でもリティルを守っているぞ。力の精霊として覚醒に、インの影から完全に解放されたものと思っていたが、インは、恐ろしい風の王だな。ノインはそのことを、身をもって知ることになるだろう。まあ、今はノインのことよりも、花の王のことだ。シェレラは、記憶を花の王に戻そうとしているのか?」
ジュールの問いに、シレラが答えた。
「シェレラの目的は、復讐のために花の精霊を滅ぼすことです。その記憶が王に戻れば、今、花の姫の眷属でしかない花の精霊に力が戻り、花の王は完全に復活するでしょう。その王を殺すつもりです。シェレラには、その記憶がなんなのか、花とはなんなのか、そんなことは関係がないのです」
「うーん……今でも、みんなが好き勝手恋愛してるのは、何者かわからなくても、牡丹さんがいるからですよねぇ。もし、王に戻った牡丹さんを滅しちゃうと、恋愛感情がなくなっちゃうってことです?」
「それはなんとしても止めねばならんな!」
「はい!絶対にダメです!」
恋愛大好きなジュールとインジュは、顔を見合わせて力強く頷いたのだった。
「それで、どうします?永遠の豊穣って部屋に行ってみます?」
「君たちを送り込みたいのは山々なんだけど、シェレラに部屋を閉じられちゃってるんだよね」
「わたしとルキの力を合わせても、小さな穴が空く程度で、とても中へは入れません。どうしようかと思っていたところへ、あなた方が来たのです」
「そうか。それはますます、すまないことをしたな」
「穴……穴が空いてるってことは、中が覗けたり、声かけるとかはできますよねぇ。シレラさん、ジュールさんの歌好きですかぁ?」
いきなり歌は好きかと聞かれて、シレラは瞳を瞬いた。そして、恐る恐るジュールの顔を伺った。その視線を受けて、ジュールはなんだ?と首を傾げた。
「………………風の王の歌が嫌いな花の姫はいないです……」
そう呟いて、さらに消え入りそうな声で「風の奏でる歌を歌えるシェラが、羨ましかった」と言った。
「そうですかぁ。だったら、何とかなるかもですねぇ。ジュールさん、風の王を束ねる自信、あります?」
「ん?王達を呼び出して合唱しろというのか?ならば、指揮者として引き立ててやるからおまえが主導しろ。しかし、インティーガは召喚できないぞ?」
「シェレラさんは、シェラとリティルに任せちゃいましょう!っていっても、他の花の姫の心に歌声が届けばの話ですけどねぇ」
「どのみち、物理的には助けてやれん。王の歌の力見せてやろう!」
「はい!お願いします風の王様!レジーナ、ちょっと大変かもですけど、歴代風の王、6代目から12代目まで呼び出してください!……あれ?誰がいないんでしたっけ?」
人数が合わないと、インジュはシレラとジュールの顔を見た。
「8代目の風の王です。8代目の花の姫は未練なく逝けたのです」
「ああ、ヤンインか。あいつは……まあ、今は関係ないな」
……何かあったのだろうか。ジュールは何かを知っている様子だったが、彼の言うように今は関係のないことだ。
依頼されたレジーナは眠そうな瞳で1度だけ瞬きして、うんと頷いたのだった。
さて、こちらにできることはこれまでか。と、ジュールは至宝・記憶の万年筆で呼び出される風の王達を見つめながら、リティルとシェラの事を思っていた。
風の奏でる歌は、風の精霊の力ある歌だが、ただのレクイエムとして歌っていた王が殆どだ。それを、リティルは様々な心を乗せて歌う。それは、彼以外の風の精霊達が、様々な効果のある歌を歌うからだろうとは思うが、あれほどの歌唱力のある王は歴代いなかったのではないか?と思う。
ボンヤリしていたジュールの耳に、インジュが歌う軽やかな風の奏でる歌が聞こえてきた。
──君が守ると言ってくれるから わたしは隣で生きよう
──たとえ 辛くとも
──たとえ 輝きを失っても
──たとえ 疲れ果てても
──心に 風を 魂に 歌を 不可能じゃない 繋いだ手を 放さずにいこう
──願いの果て 君の微笑みに 会えたのだから
──わたしは この風の中 生きていける――……
こいつ……うまいな。とジュールは対抗心を刺激されてしまった。ああ、そうか。インジュが歌っているから、リティルもうまくなったのかとなんとなく思った。ジュールが、インジュの仮初めの守護精霊として風の城に滞在するようになり、まだそんなに長くはないのだが、インジュの歌を何度も耳にした。風の奏でる歌以外にも持ち歌のある彼は、デスクワークしながらでも気持ちよさそうに歌っていた。一家の皆からのリクエストに答えて、ピアノホールから曲を中継して応接間でゲリラライブしていた。皆が、楽しそうにしていた。ジュールの覚えている風の城の空気を、最早思い出せないほど、現在の城に満ちる風は暖かい。原初の風は確かに、風の王を、風の城を守っているのだ。
原初の風の力があれば、交われるが不能の風の王も、子を成せる。
娘のリャリスが、インジュに惹かれるのは当然だ。本当は、シレラと作るはずだった娘なのだから。
わたしにも、合わせる事くらいできるのだぞ?息を吸うと、ジュールはインジュの声に合わせて歌い始めた。
ジュールは、リティルがインファではなくインジュをこちらに付けた理由が、今やっと理解できた。シレラとの再会を恐れ、逃げたかったジュールの心を守り、想いを成就させてくれたのは、インジュだ。まったく面白い男だ。自身は、恋愛感情をなくした精霊だというのに。
もう、そばにいてやれる時間は残り少ない。いや、風の城に留まりたいのは、わたし自身の願望か?……別れとは、いつでも寂しい物だな。ジュールは想いに蓋をして、グッと前を向いた。その視線の先、ジュールと歌うことを嬉しそうにしているインジュと、目があった。
――花の姫は今でも、風の王が好きです!いいんです?ホントにいいんですかぁ!ジュールさんも、シレラさんのこと、愛してる、くせにいいいいいいい!
インジュの言った言葉が蘇る。そして、シェレラを滅せずに、ことを終わらせることの困難さを思った。
インティーガの魂が滅せられてしまった以上、シェレラの哀しみは癒えない。すでに死んでいる彼女には、失うモノは何もないのだ。救おうとするリティルとは、最も相性の悪い敵といえるだろう。
シェラ……フロインの霊力で満たされた体を、遠隔操作してどこかへ行った彼女は、リティルの敵だろうか?味方だろうか?
怒り、哀しみ、憎しみ。持ってもいい。振りかざしてもいい。感じる心があるのだから。だが、15代目風の王・リティルは、それらを超越した先にいる王だ。
愛しさ、喜び、優しさ。そんなモノを、恥ずかしげもなく振りかざし真っ向からぶつけてくる王だ。
――リティル……癒やしてやれ。おまえを想い、傷ついたのだ。シェラを連れ戻すことは、おまえの義務だ
「あれが八岐大蛇?戦ってるのは、あれ……シェラだよね?」
のぞき穴を観察していたルキが、ジュールを見上げてきた。場所を譲られ、穴を覗いたジュールは8つ首の大蛇と渡り合う、勇ましき戦姫の姿を見たのだった。
わたしは……どうなったの?
ここはどこ?酷く心許ない……。わたし、わたしは……確か、ノインと一緒に黄昏の大剣にダイブして……そして……
『リ、ティル……』
カサっと、手が濡れた青い草を掴む感触がした。え?っとシェラは顔を上げると、どこか、朽ち果てた円形に組まれた石畳の上に倒れていた。見上げれば、ドーム型の朽ち果てた屋根が目に入った。網目状に蔓を模した石造りの屋根で、本物の植物の蔓がまるで欠けた箇所を補うように生い茂っていた。
今は――夜?確かに、ノインと剣にダイブした時は夜だったが、その夜とは違うような気がした。シェラはゆっくりと体を起こしてみた。……大丈夫。体は問題なく動きそうだ。見回すと、円柱形の壁も網目状で、屋根と同じく、蔓が欠けた箇所を補っていた。とにかくここを出ようと、1箇所だけ開いたその場所から外へ出ようとすると、目の前に磨りガラスのような壁が現れた。
『これは……』
わたしと同じ力?注意深く触れると、それは、間違いなく花の姫の力で作られた壁だった。しかしシェラにはそれを作った記憶はなかった。
ハッとシェラは身構えた。
わたし以外の花の姫が、いる!そう直感的に思ったのだ。あり得ない。この世の理ではあり得ないが、今イシュラースに起こっていること自体、あり得ないことだ。
「目が、覚めたのね」
不意にかけられた声に、シェラは対峙した。白い磨りガラスの向こう、緑色の髪の、モルフォ蝶の羽根を生やした女性が立っていた。
『あなたは?』
「わたしは、13代目花の姫・シェレラ」
13代目……インティーガの恋人だった花の姫?これは偶然?偶然なワケがない。
インティーガは無実の罪で、初代力の精霊・有限の星に殺された。記憶の中で見た彼は、誰かを呪うような、恨むようなそんな人には見えなかった。最後まで、シェレラを想っていた。
リティルもそうだ。怒りは湧かないの?と問いたい事が多々ある。いつだって、怒りに身を焦がすのはわたしの方だ。そう、間違いを犯しそうになるのは、犯してしまうのは、いつだって花の姫の方だ。
『あなたなの?花園やわたし達の前に現れたあの黒い影は、あなただったの?シェレラ』
可愛らしい面立ちの、シェラよりも年上に見える彼女は、フフと小馬鹿にしたように笑った。
「あなたも、忘れてしまったことがあったのね?シェラ」
『散ったからではないわ』
ダンッという音と同時に、シェラは瞳を見開いた。シェラの瞳の中に、憎しみの籠もった瞳で睨むシェレラの顔が映っていた。こんな瞳を、シェラは今まで向けられたことはない。シェラは、彼女の緑色の瞳を見返した。
『花の姫は、散ってはいけないの。風の王を愛するとは、そういうことよ』
「王の寵愛を受けるあなたには、わたし達の気持ちなんてわからないわ!」
わかるわ。シェラはリティルに何度も振られた。婚姻の証ともなり得るほどの力を秘めた、一心同体ゲートをリティルの中に開けたのは偶然だった。開けないままイシュラースへ帰ってきていたら、開けたかどうかすらわからない。リティルは、精霊の夫婦ならば当然行うはずの霊力の交換を、その魔法の発動方法が情交だったために、なかなかしようと言わなかった。
しかし、彼女達の気持ちをわかるとは言ってはいけないなと、シェラは思った。結果的にシェラは、リティルのすべてを手に入れている。
風の王・リティルの隣も、その力も、心も、愛も「永遠の時間をオレと一緒に生きてくれ」という言葉も。花の姫達が手に入れられなかったモノを、シェラは、彼女達の恋い焦がれた風の王から惜しみなく与えられているのだから。
『あなた達は何をしようというの?』
わたしは、嫉妬の対象だ。花の姫達が、敵になることはあっても、味方になることはないと悟った。とするなら、逃れることを考えなければならない。
「花の精霊を滅ぼすのよ」
『!彼女達は、産む力を司っているのよ?その力を一時的にしろ失えば、世界は死に包まれてしまうわ。そうなれば、風の王がどうなるのか、わかっているの?』
フフフとシェレラは不穏に微笑んだ。
「シェラ、花の精霊があなたの風の王を襲撃したわ」
襲撃?花の精霊が?シェラは信じられないと顔に出てしまったが、妙な感覚に囚われた。意識を失っていたとき、リティルの苦痛を感じたような……シェラは自分の手に視線を落とした。
「?」
手が透けている?シェラは、自分の体をやっと見た。全身が透けていた。
これは、意識体?わたしは、体から心が抜け出してしまったのだと、シェラはやっと気がついた。
『……わたしは、こんな状態でもリティルを癒やせたのね?』
今は彼をそばに感じられないが、力を使った感触が確かに残っていた。リティルの傷は癒やせたはずだ。自然と笑みがこぼれてしまった。脳裏に浮かんだリティルの笑顔に思いを馳せていると、苛立ったシェレラの声がした。
「風の王は、花の精霊と一緒よ!サクラ!覚えがあるでしょう?」
サクラとの噂を知っているのだと、シェラは察した。そのことを用いて、わたしに揺さぶりをかけているのかと、シェラは冷静な心で思った。
『……知っているわ。風の王と恋仲になったと勘違いしている花ね』
リティル、気をつけて……お願いよ……。リティルの心が離れることはないと、シェラは微塵も疑う心が湧かない。ただ、リティルが隙を見せれば、花に奪われるかもしれない。リティルは好意を抱かれやすいのに、モテないと思っている。花相手にそんな隙は見せないとは思いたいが、そこだけは信用できなかった。
――あなたは、底なしに優しい人。花のことも、救おうとするわね。だからわたしは、そんなあなたを守るわ!
シェラは何度目かになる決意を再びしたのだった。
改めて、シェラはシェレラを見た。
風の精霊達がこなす大きな事案に、シェラは直接関わったことはない。リティルは、風以外の精霊を、極力核心には関わらせないからだ。
――あなたは、いわれなき憎しみを、これまでも向けられてきたのね……
シェラは、シェレラの背後からの無数の視線に気がついた。嫉妬。花の精霊達は、リティルを貶めるが、シェラには負の感情を向けなかった。だが、セリアやリャリス、フロインにはドロドロとした感情を隠さず向けていた。
それを、同じ花の姫から向けられるなんて……と、シェラは哀しくなった。ここにいる花の姫達は、シェレラの想いに賛同しているのではないの?と彼女達の心を鏡に映せたならと思ってしまった。
今、シェラに向けている感情は、花の精霊達が他者に向けているモノだ。そのドロドロした感情が、風の王の評判を貶めた。彼女達はわからないのだろうか。自分達が蔑む花の精霊と同じ瞳、感情を他者に向けているという事実を。
『あなた達は、花の精霊の何に怒っているの?』
「それを、花の姫のあなたが問うの?あなたには、怒りすらないの?風の王を手に入れたあなたには、わたし達の哀しみも理解できないと言うの!」
怒りが湧くから、花園には行かないのよ?とシェラは思った。そして、わたしは恵まれていると思った。シェラには風一家がいる。シェラの事を案じ、寄り添ってくれる家族がいる。真面目な顔で、悪意ある噂を消して回るラスがいてくれる。歴代の花の姫達は、花の噂にただただ耐えるしかなかったのだなと同情した。こんなわたしでは、彼女達のことをわかってはあげられないわねと、シェラは敵対の意志を固めざるを得なかった。
『風の王にとって、評判や噂は、些細なことなのよ。花たちの噂など、取るに足らないの。そんなことにいちいち心を乱されていては、世界を守り慈しむ誇り高き風の王の傍らになどいられないわ。ここにいるのは、何代目から何代目なの?』
「5代目からわたしまでよ。8代目はいないわ」
5代目……ジュールの花の姫?意外に思った。シレラはジュールに想いを告げている。振られてしまったが、ジュールの話を聞く限りでは、シェレラに賛同するとは思えなかったのだが……。彼女が恨めしく思うのなら、それは5代目風の王・インラジュールその人ではないだろうか。
『14代目がいない……』
14代目花の姫は、14代目風の王・インの想った姫だ。彼女もインとは結ばれていない。
「ああ、14代目は思い残すことはないと言っていたわね。あの娘の時代も花たちは酷いモノだったけれど、花の精霊のことをピンときてさえいなかったわ」
冷酷な風の王と引き籠もりの花の姫。変わり者同士お似合いだったんじゃない?とシェレラは忌々しげだった。
『彼女と8代目は、輪廻の輪に還ったの?』
8代目がいない理由はわからないが、未練なく逝けた姫がいることが、シェラには驚きだった。
「そうよ」
興味なさげに、シェレラは答えた。シェラは顔には出さずにホッとしていた。賛同しなかった花の姫を、手にかけているのでは?と8代目と14代目花の姫の身を案じたのだ。
14代目はどんな花の姫だったのだろうか。インという風の王を知っているだけに、彼が愛し、彼を愛した花の姫に興味が湧いてしまった。そして、インがリティルの父親なら、彼女は、リティルの母親――にはならないわね。と変なことを考えてしまって思わず笑ってしまった。そんなシェラの態度は、シェレラを逆撫でしかしない。
シェラは、シェレラの刺すような視線にやっと彼女に視線を戻した。
「ああ、そういえば、今代の風の王は、花の姫との番の絆を断ち切るつもりらしいわね」
番の絆を断ち切る?リティルは、何を考えているの?シェラは不穏な言葉に僅かに動揺した。それがわかったのだろう。シェレラは満足そうに微笑んだ。
「シェラ、あなた、なぜ意識体なのか覚えている?風の王は、あなたに浮気されたとお母様に詰め寄っていたわね」
シェラは瞳を瞬いた。わたしが……浮気?身に覚えがなかった。それよりも、インティーガが有限の星に殺される場面を見てからの記憶が、曖昧というかなかった。
「風の王は、あなたとの婚姻を破棄したいのかもしれないわね」
予想外の言葉に、シェラは動揺した。
リティルがわたしを、捨てる?あり得ないと想う心と、わたしが何かをしでかしていたら、あり得るかもしれないと思う心がせめぎ合った。
「シェラ、あなたは風の王と婚姻を結んで、そして離縁された最初の花の姫になるのね」
言い返せなかった。多少誇張されていても、リティルがナーガニアと何か話をしたことは確かだろう。そして、今、意識体である意味。
シェラは、動揺していた。何かを思い出しそうだった。それを、拒否しているような心の動きが、リティルを裏切ったからでは?とそんなあり得ないことをしてしまったのかも?とシェラに思わせてしまった。
「そんな惨めなあなたに、風の王を助ける手助けをさせてあげるわ」
シェラはガクンッと体が下へ落ちる感覚を味わったかと思うと、足が硬い地面を踏んでいた。顔を上げると、狭い球体?のようなモノの中にいた。
『ああっ!』
力を奪われる!シェラは球体の底に伏していた。
これは、何かの装置?グラッと球体全体が動くのを感じた。この揺れは、立ち上がった?のだろうか。なんにせよ、シェレラの思惑ならリティルにとってありがたくないモノに違いない。
彼女はもう、精霊とはいえない。復讐という炎に身を焦がし、嫉妬と欲望にまみれた醜い魔物だ。そうなった精霊を、リティルは邪精霊と呼んでいた。精霊としての義務も尊厳も失い、ただただ自分自身の目的を果たすために他を喰らう。
同じ花の姫として、哀しいが、今はシェレラよりもシェラ自身のことだ。
もし、リティルを怒らせてしまったなら、過ちを正して謝罪しなければならない。しかし、何をしてしまったのだろうか。リティルが怒るなんて、尋常ではない。早く、帰らなければとそればかりを思ってしまい、はたとシェラは思った。
今、とっくに生を終えているはずの花の姫達が存在し、花の精霊を滅ぼそうとしているという大変な時に、リティルに見限られないためにはどうしたらいいのか考えているなんて、わたしも大概ねと思ったのだ。
シェラは体を起こした。力を徐々に奪われているのを感じる。シェレラに、目的を達するための道具にされているのは間違いなさそうだ。では、それを打ち砕くには?
シェラは、胸の前で両手を組むと意識を集中した。
怒っているというリティルが答えてくれるかどうかはわからないが、彼と通じることができるか、試さないわけにはいかなかった。
『……………………やっぱり、体がないと一心同体ゲートは使えないわね』
一心同体ゲートは、シェラとリティルの体内に開いていて、互いの精神を繋いでいる。肉体と心、両方がなければ使えない固有魔法だ。リティルの危機に、無意識に彼を癒やすという奇跡を起こしたようだが、意識のしっかりしている今、そんな芸当はできそうになかった。
だったら体は?魂、心、体は絶妙なバランスで繋がっている。シェラは、死んではいないということだけはわかっていた。そして、今シェラがいるのはルキルースだ。なんとか体をルキルースへ持ち込めれば、この国の最大の力である想う力を使って、体を動かせるかもしれない。
『………………この気配は、フロイン?』
フロインはリティルとノインに限り、触れるだけで霊力を与える事ができる。彼女はどうやら、シェラの体が死なないように、体に宿っていたリティルの霊力を媒介に霊力を入れてくれたようだ。これなら、ゲートを開き、ルキルースへ体を引っ張り込めるかもしれない。シェラは試み、それは成功した。
『あとはここへ体を導けば……?この気配は……リティル?』
リティルもルキルースに?シェレラはリティルは花の精霊と一緒にいると言っていたが、状況が変わったのだろうか。シェラは意識を集中すると、視界を体と共有した。そして、リティルの気配のあるほうへ行ってみた。
そして、花とおぼしき精霊に攻撃される、古びた洋館にたどり着いた。この部屋からリティルの気配がしていた。そして、花の精霊と一緒にいると言ったシェレラの言葉は、正しかったようだ。花の精霊の気配がした。
シェラの心は、ズキリと痛んだが、花の精霊が味方しているのなら、リティルに道しるべを残すことができることに気がついた。その前に、作り物の花の精霊を退けようと、シェラは躊躇いなく弓を引いたのだった。
怒っているというリティルが、追ってきてくれるかどうかは賭けだった。
取り付く島もないのか、そこまで深刻でないのか、まったくわからない。体だけでは、リティルに何も伝えられないのだから、まだシェラの意識体に力があるうちにここへ導くことしかできなかった。
『リティル……追ってきて。あなたと面と向かわなければ、納得できないわ』
あなたが相手でも、あなたの隣に戻るために戦ってやる!その想いが、今のシェラの原動力だった。
疲労が、目をかすませる。しかし、昏倒している場合ではない。
シェラが思った以上に、事態は深刻だった。7つの頭のある龍?いや、蛇?が、明らかに封じられているか拒絶している茨の森を進んでいた。8つの頭があったのだが、魂が足りずに1つは切り落とされたようだ。1つ足りない?シェレラに加担している姫は7人のはずなのに、誰が離脱したのだろうか。
それが真っ直ぐ進む先に、何か大きな力を感じる。この7つ首の大蛇は、それを目指しているようだ。
その力が、花の精霊を滅ぼすモノということなのだろう。ならば、シェラができることは1つだった。
シェラは大蛇の進行を妨げるように巨大な茨の間から出ると、弓を引いた。
この大蛇の進行を止める!シェラの意識体を捕らえているこの球体を割れば、いいような気がした。
至近距離に体があることで、体と心の確かな繋がりが感じられる。これなら、戦える!
大蛇は鎌首を上げると、シェラに向かい白い光の球を吐き出してきた。それを、太い茨に紛れて躱しながら、シェラは矢を放つ。鱗に隠されているが、どこに球体があるのかシェラにはわかる。矢は、真っ直ぐに隠された球体目掛けて飛んでいた。その矢を、自身が傷つくのもかまわずに大蛇の首が阻んだ。
その行動で、シェラの憶測は核心に変わる。大蛇にとって、シェラの意識体が囚われている球体は大事なモノなのだ。
『それがわかれば、十分だわ』
その声は、シェラの体から漏れていた。シェラは矢をつがえると、鋭く放った。矢は枝分かれし、1本が3本、3本が9本にわかれながら大蛇を襲った。
『シェラ!八岐大蛇の心臓を砕けば、あなた散るわよ?』
シェレラの声だった。そんな警告をしてくるということは、この攻撃は有効ということねと、シェラは矢を放つ手を緩めない。
『わたしは、死なないわ』
『死なないだけよ!』
大蛇が光の球を打ち出した。シェラは矢を放ち、その球を貫き消した。
『散ったことを後悔しているの?』
『っ!そうよ……わたしが忘れなければ、あの人を……守れたかもしれないのよ!』
ブンッと大蛇の太い首がムチのように振るわれた。シェラは咄嗟に白い光と金色の混じる風花の盾で防ぐが、吹き飛ばされていた。風花の盾に守られたシェラの体は、太い茨を断ち切りながら飛ばされ、様々な花びらの舞う壁にぶつかって止まった。
『忘れることは、死んだのと同じ。あの人が、わたしを盾に生き残ったと言われ、信じてしまった!すぐに偽りだとわかったわ。けれど……』
『インティーガを、尋ねなかったの?』
ぶつかったショックで、息が詰まったがそれ以上の怪我は負わなかったようだ。シェラは、緑色の光の中、無数の花びらが舞う結界の前で弓を構えた。
『あの人が、どんな人なのかもわからないのよ?何も言わずに風の城へ引き返して、そして出てこなくなったあの人を追いかける勇気なんて、なかった!』
『会うことができないまま、インティーガは有限の星に殺されてしまったの?』
ギロッと大蛇の瞳が怒りに満ちた。
『わたしに嘘を吹き込んだ花の精霊を、許せなかったのよ!それなのに……それなのに!なぜ庇うの?インティーガ様!』
シェラは息を飲んだ。突っ込んで来た7つ首を迎え討ったが、やはり防ぎきれなかった。シェラは押し込まれるように結界諸共吹き飛ばされていた。
無数の花びらが解放されて散る。茨の台座に絡め取られた、真っ黒で光を通さない巨大な宝玉は、何かの種子のように見えた。
『インティーガも花を庇ったのね?やっぱり、風の王なのね?』
どんなに悪意を向けられても、風の王は命を守る。間違いを犯したのはやはり、風の王ではなく花の姫だったのだ。
『シェレラ!止まって!あなたはインティーガの想いを無駄にするの?あの人が命を賭けて守ったモノを、壊してしまうというの?』
『あの人はもういないわ!どこにもいない……輪廻の輪を捜しても、巡り会うことはできないのよ!あの時、花が嘘をつかなければ……花が噂を流さなければ、皆、風の王と愛し合えたのに!』
――5代目とあなた以外、告白もできなかったような人達が、血にまみれて戦う風の王の傍らに立てたとは思えないわ。ねえ、リティル、本当にわたしたちは番なの?
立て続けに攻撃を受け、さすがに地に舞い降りて膝を折ったシェラは、番だという関係に初めて疑問を持った。
リティルは歴代最弱だったが、他の王も危ない橋を渡っている。無傷で君臨したのはインただ1人だ。あの豪快で歴代最強の太陽王・ルディルでさえ、風の王だった当時、レシェラの世話になっているのだから。
花の噂があったからといって、告白もできないような弱い意志で、風の王の妻などできないとシェラは思う。
傷つきながらそれでも風の城へ帰ってくるリティルを想い、シェラは怒りが湧いていた。
シェラは、巨大な種子を背に舞い上がると、両手を水平に広げた。
『あなた達が、風の王に選ばれなかった理由がわかったわ』
空気が冷える。その寒さに気がつき、大蛇が動きを初めて止めた。
『風の王を守るのはわたしだと、言い切らないからよ!風の王の妻となれる者は、王を守る意志を持つ者だけよ!花の噂などに尻込みするような、そんな弱い心で……彼の隣に立てるわけがないでしょう!』
冷気が突如物体となって姿を現した。槍の様な氷柱が大地を凍らせて無数に生えながら、大蛇を襲っていた。
『あ――うっ……』
シェラの背中で、モルフォ蝶の羽根が崩れ消えていた。体に残っていたフロインの霊力を、使い果たしてしまったのだ。空中にあったシェラの体は、糸を断ち切られた人形のように落下していた。
――あと……少しだったのに……リティル……
視界が闇に閉ざされ、意識体のシェラは瞳を開いた。体とは辛うじて繋がっているが、霊力を使い果たしてしまった体をもう1度遠隔操作できそうにない。視線を上げると、球体を覆っていた鱗がところどころ剥がれ、外の様子が辛うじて見えた。
『うう……ああ……リティル!』
シェラの猛攻から立ち直った蛇が、あの黒い種を砕こうと一斉に鎌首を上げた。白い光の球を一斉に作られ、シェラは急激に力を奪われていた。
あれが砕かれた先に何が起こるのか、あれがなんなのかシェラにはわからない。わからないが、リティルを守り損なったことだけはわかる。
シェラは打ち出された7つの球が黒い種を襲うのを見つめながら、無力に絶望していた。
まばゆい光が、すべてを白く染めた。シェラの霊力なら、あの宝玉は跡形もなく消え去っただろう。
光が落ち着き、あたりは刹那真っ暗な闇に覆われた。
「オレ、防御魔法苦手なんだぜ?」
ため息交じりのその声を、シェラは確かに聞いた。顔を上げたシェラは、黒い種の前に立ちはだかった小柄な風の王の姿を見たのだった。
ルキルースではよくあることだが、同じ扉に入ったのに、皆同じところには出られない。意志の力が大きく働いている部屋では、常識的な現象だ。リティルは、インファとラナンキュラスとはぐれていた。そして、本命を引いたのはリティルだった。
「ジュール、この黒い種みてーのが花の王の記憶なんだな?」
リティルはこの巨大な茨の蔓がのたうつ部屋に入ってすぐ、どこからともなく聞こえるジュールの声で、何がある部屋なのか、戦う相手のことを聞いていた。
『そのようだな。そして、八岐大蛇の心臓にはシェラが囚われている。体が応戦していたが、無事か?』
黒い球体を背に庇ったリティルは、チラッと下を見た。この茨の台座に抱かれた黒い丸い種の足下に、シェラが倒れているのが見えた。
茨には白い巨大な花が咲き、発光している。その光があたりを照らし、十分に全容が見えていた。
「なんともいえねーな。けど、そこにあるってことは、まだ生きてるってことだな。とにかく時間は稼ぐ!頼んだぜ?風の王!」
八岐大蛇を見据えたリティルの姿が、大きな鼓動と共に変貌する。
――止まってくれよ?そうしてくれねーと、君たちを、斬らなけりゃならなくなっちまうんだ!
闇夜を裂く、切なげな遠吠えと共に姿を現したのは、金色の翼を持つ金色の毛の混じった灰色のオオカミだった。リティルの殺戮形態・ジョーカーだ。
八岐大蛇に匹敵する巨体で、ズシンッと地を揺るがして大地を踏みしめたリティルは、地を蹴り八岐大蛇に襲いかかっていた。
怯えた感情を感じる。それでも白い光の球を打ち出してくるその首を、リティルは手加減して押し戻す。7つの首が鞭のように入り乱れながら、その上白い光の球が飛び交うが、リティルにはどんな攻撃も当たらなかった。リティルの前と背後から襲いかかった首が、避けられて互いにぶつかる始末だ。
戦いに不慣れな花の姫達で助かったなと、リティルは軽くいなしながら内心思っていた。
ジョーカーは攻撃特化だ。防御力はほぼなく、超回復能力に使っていた力さえも攻撃力と素早さに振ってしまっている。こんな大きな怪物相手では、変身せざるをえなかったが、気をつけなければ首を切り落としてしまう。
『シェラ!どこだ?シェラ!』
シェラの体は、容赦なく八岐大蛇に向かって矢を放っていたようだが、リティルにはそんなマネはできなかった。体を遠隔操作できたシェラなら、こんなに近くにいる今、一心同体ゲートが機能するのではないか?とリティルは、淡い期待を抱いて心で呼びかけた。
『――リティル……』
弱々しくも聞こえてきたシェラの声に、リティルは一瞬気が緩みそうになった。
『聞いて……蛇の心臓は首の付け根……躊躇わないで、わたしを――信じて!』
「信じてるさ!君は、オレの隣を離れねーだろ!」
見れば、八岐大蛇の枝分かれした首の付け根の、欠けた鱗の間から淡い白い光が漏れていた。リティルは鋭い爪の両手で、その鱗を剥ぎ取った。
「シェラ!」
ガラス玉のような球体の中で、シェラが倒れ込み動かなくなるのを、リティルは見た。
ホントに大丈夫なのか?とリティルは、球を割ることを躊躇ってしまった。
『風の王!この球体を割れば、シェラは死ぬわよ?』
「……そうみてーだな。けどな、シェラのヤツ、信じろって言うんだよな」
シェラは信じろと言った。だから信じる。すかさず言ってきたシェレラの言葉で、リティルの覚悟は決まっていた。
『嘘よ!どうやってシェラと――一心同体ゲート?そんな、シェラの体はあそこに!』
トンッと、襲ってきた首を手の平で軌道を逸らしてやりながら、リティルは笑った。
「はは。ホント、すげー女だよ。王妃がやれって言ってるんだ。オレが躊躇うわけには、いかねーよな?」
リティルの片手の爪が鋭く伸びた。それを見たシェレラは、体が震えた。それは、倒される恐怖からではなかった。
負けた。その3文字が心と頭をよぎったからだ。それを拒否するように、シェレラの心に激しい炎のような感情が沸き起こった。
『おのれ!シェラ!』
ギロッと蛇の瞳が、黒い種の下で倒れているシェラの体に合わさるのをリティルは感じた。
ああ、そうくるか?同じ花の姫なのに、殺し合うのかよ?おまえら!リティルは、出会った風の王と争ったことはない。ひょんな事で関わることとなった初代風の王・ルディルと5代目風の王・インラジュール。2人とも、リティルに成り代わり風の王として君臨する力を持ちながら、片鱗もそんなことを考えてはいなかった。そればかりか、リティルが風の王を続けられるようにしようとしてくれた。歴代の優れた王達は、出会った時から味方してくれたのに、その伴侶となる精霊は、現在の花の姫を傷つけ、命さえも脅かしている。
哀しいな。その一言に尽きる。
司令塔であるシェレラは、黒い種とシェラの体、その2つに照準を合わせた。リティルがどちらを助けるか、見たいのだろう。
「シェラ、怒るなよ?」
リティルは、7つの口から白い光の球が打ち出される瞬間、体と翼を使って八岐大蛇を抱きしめていた。リティルの体と羽根の間から漏れ出た光は、まばゆい閃光となって闇を切り裂いたが、何かを破壊する力はなかった。
ドンッと強烈な破裂音がして、リティルの体は引き飛ばされていた。
「がはっ!……くっ……まだか?ジュール」
背中を黒い種に叩きつけられ、リティルの変身は解けていた。種は割れはしなかったが、リティルの背を中心に蜘蛛の巣状のヒビが入っていた。
防御力を捨てているといっても、ジョーカーの体は強靱だ。体のどこも欠けなかったのは、幸いだった。しかし、左側の損傷が激しい。左の片翼は消し飛ばされ、腕、足と骨を砕かれて、左目は開けなかった。殺戮形態は霊力の消耗が激しい。変身が解け、超回復能力が使えても、止血すら難しい状態だった。
「はあ……じゃあ、もう一曲、踊ってやるか!」
茨の太い蔓を足場に、黒い種を背に体を起こしたリティルは、自分達の魔法の衝撃から立ち直りつつある八岐大蛇を見据えた。動いた拍子に、リティルの顎から血が滴った。瞳の輝きは失わないリティルだったが、今度2箇所を狙われれば防ぐ手立てはなかった。
『リティル』
心に直接聞こえた声に、リティルは血の気が引いた。彼女が取る行動を、瞬時に理解したからだ。無事な右目を上げると、八岐大蛇の胸の球にもヒビが入っていた。僅かに、シェラの霊力が漏れているのがやっと感じられた。
『あと一刀。力が残っているわね?』
「渡さねーよ。おまえなあ……オレをこれ以上怒らせるなよ?」
リティルはスッと右手を前へ突き出した。その手に白い光の弓が、水平に現れた。矢はまだつがえられてはいなかった。
「一瞬でいい。蛇の動き、止めてくれ」
『……やってみるわ』
リティルの低い声に、シェラが僅かに怯えたのがわかった。だが、退けない。リティルの中に残った花の姫の力をシェラに渡してしまえば、彼女がとる行動は1つだ。あの、ヒビの入った球体を内側から割る。ヒビが入ってあれだけ力が漏れ出しているのだ。中は力で充満している。そんなものを内側からでは、確実に爆弾のように弾け飛ぶだろう。あれだけ疲弊していれば、シェラでも防御しながら攻撃は難しい。
外側からリティルが砕き、シェラには防御に徹しさせる。それしか、彼女を救う方法はないのだ。
しかし、1度だ。1度で、確実にあれを砕けなければ、もうリティルには抗う術がなかった。7つの首に阻まれることなく、あれを射貫く。片眼で、片手しか使えないリティルでは当てられる確率は低かった。
「外すなよ?オレ!」
弦も矢もなかった弓に、白い光に金色の風を纏った矢と弦が現れた。
――さよなら 止まない雨
――手の平を空に掲げれば 金色の光が 君にさす
――恐れない わたしには 言葉がある
――歌え 君のくれた言葉を 今こそ 響かせて
――青空の向こう 君に この歌が届く――……
口を使い、弓を引こうとしたリティルの耳に、かすかに歌声が聞こえた。
その歌声は、八岐大蛇にも聞こえたようだ。首が次々に声の主を捜すようにキョロキョロしだした。
その歌声は徐々に大きくなっていく。1人ではないその歌声。
効果、絶大だな。リティルは、シェレラの声を無視してバラバラに動き始めた首を見て思った。最早、統率を失った八岐大蛇は立ち往生するしかない。動きの止まって無防備に晒されたその心臓に向かって、リティルは、矢を放っていた。
突き進む力の塊に気がついたのだろう。7つの首が矢を見たが、もうどんな行動も取れなかった。矢は、吸い込まれるようにシェラのいるその球体に突き刺さっていた。
溢れ出す白い光が八岐大蛇を包む。その目も眩む光に瞳を閉じながら、リティルは右手を伸ばしていた。絡まることのない指を探して。
歌声。あんな歌で目的を忘れてしまうなんて!
八岐大蛇の体が光に焼かれて消滅する。強烈なのに、魂を守るような優しい輝き。顔を上げたシェレラは、他の花の姫の魂が渦巻く金色の風に捕らえられている様を見た。1人人型に戻ったシェレラは、捕らえようとする風を白いナイフで断ち切った。
「まだ、終わりじゃないわ……」
黒い種を見やったシェレラは、八岐大蛇を退けたリティルが、力を使い果たして地に落ちるのを見た。そびえ立つ茨の台座に抱かれた黒い種。無防備なその姿。
「勝つのは……わたし……」
なぜ、止めるの?
花の精霊の死を願ったシェレラを、ボロボロに傷ついた体でインティーガは止めに来た。
忘れてしまったわたしには、もう価値がないから?
花の精霊を庇うインティーガの姿に、シェレラは強行した。そして、それを、インティーガは身を挺して阻止した。シェレラの魔法をまともに受け、黒く染まっていった片翼。蹲るようにその場に頽れたインティーガは、シェレラの行いを、ただ「やめろ」と言ったのみで、怒ることも、責めることもなかった。
インティーガに味方してもらえなかったことが、哀しくて悔しくて、シェレラはその場から逃げた。取り残されたインティーガを風の城へ戻したのは、シェレラの母であるナーガニアだ。
どうやったのか、逆転の治癒という、全身の血が沸騰して死に至らしめる花の姫の固有魔法をナーガニアは解き、インティーガがシェレラに殺されるのだけは阻止したが、傷が深く、彼は城から出られなくなった。
ナーガニアは、インティーガのもとを訪れているようだったが、シェレラはどうしても行くことができなかった。インティーガと関係があったのに、そのすべてを忘れてしまったことが、後ろめたかった。そして、風の王の意に反したことをして、その上彼を傷つけたことが怖かった。
それでも行こうと葛藤していたシェレラの耳に、花たちの噂が届いたのだ。
『城に閉じこもっている風の王は乱心していて、花を滅ぼそうと画策している』
理解できなかった。シェレラの怒りから身を挺して救ってくれた人に、そんなことを言うなんて、信じられなかった。
「そんなに滅ぼされることが望みなら、滅ぼしてやる」
花の精霊でもあるシェレラは、何となくだが不死身である花の命がどこにあるのかわかった。それは花園にあると、漠然と知っていた。怒りに目の眩んだシェレラは、インティーガに従う風が監視していることを知らなかった。風の報告を受け、シェレラを止めようとした力というモノに疎かったインティーガは、シェレラが死という力に手を出そうとしていると勘違いした。
そして、インティーガは、死を求めていると勘違いした有限の星の刃にかかって、死んだ。
それが、わたし達の物語。
シェレラは、黒い種の真下に立った。
これが、花の精霊――花の王にとって重要なモノであることは知っているが、なんなのかは知らない。知りたくもない。
これを壊すことで、花の精霊でもある花の姫に、どんな影響があってもかまわない。魂を砕かれてしまったインティーガの魂と、どんなに輪廻を繰り返しても出会うことはないのだ。輪廻を繰り返せば、いつか、風の王の魂と巡り会えるかもしれない他の姫達とは違う。
なぜ、他の姫達が神樹の枝葉に残ったのか、シェレラには疑問だ。生まれ変われば記憶はお互いなくても、その魂とは出会えるかもしれないというのに。
長い時を経て、記憶の精霊・レジナリネイにやっと会えたシェレラは、インティーガとの記憶を取り戻していた。レジーナは、すんなりその記憶をくれた。
普段は仏頂面なのに、こちらが少し甘えると、戸惑ったように、しかし笑顔をくれる彼の姿。愛しかった。英雄王と呼ばれた、わたしの愛した人。
その輝かしい名は、力の精霊に討たれるという不名誉に穢された。
シェレラは、モルフォ蝶の羽根を羽ばたかせると、黒い種のヒビの前に立った。ヒビはよく見ると、リティルの血で濡れていた。
こんなに傷ついて、それでも悪意しか吐かない花の精霊を守るために、王妃に弓引いた彼に、確かにインティーガを見た。
「風の王……愛しいわたしのすべて……」
シェレラは、手にしたナイフを、ヒビに突き立てた。