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二章 囚われの風の王

「忘れられる痛みを、知れ。おまえの存在は、苦痛だ。捨てた記憶を、思い出せ」

誰もいない夜の廊下で、シェラは影に遭遇していた。

ブラウンの絨毯が引かれた廊下には、中庭に面した窓の間に、等間隔に並ぶ円柱型の見掛柱に取り付けられたランプが、明るく廊下を照らしている。そんな中立った影は、昼間見るよりも異様に映った。その影は、言いたいことだけ言ってかき消えた。

「……知っているわ……そのせいで、リティルは、傷ついたのだから……」

シェラは、すべての記憶を消されたことがあった。幸いにも、思い出すことができたが、忘れている間の記憶もきちんとある。

リティルは、シェラの心を想って、婚姻を解消しようとまでした。今思い出しても、リティルの取り繕った優しい微笑みが、シェラには痛い。

 シェラは、宵闇に沈む中庭を見下ろした。

「忘れたく、なかったのよ?」

顔の判別はできないというのに、シェラは、あの影が憎しみを向けていることを感じていた。彼は本当に、13代目風の王・インティーガなのだろうか。

シェラの知っている風の王と、彼の感情はかけ離れていると思えた。

シェラの知っている風の王は、1人だけではない。

リティルを生み出し育てた14代目風の王・イン。

初代風の王で、現在は夕暮れの太陽王・ルディル。

強引にインジュの守護精霊に身をやつしている、5代目風の王・インラジュール。

そして、夫である15代目風の王・リティル。

皆性格は違うが、共通して優しく正しい。とても、恨みを抱き、それをまき散らすようには思えなかった。

「リティル……あなたは、その笑顔の下で、忘れたわたしを、恨んだの?」

どうして忘れたんだよ!そう言って、怒鳴ってくれてもよかった。だが、リティルはシェラを気遣うばかりで、責めなかった。そして、記憶をなくしたシェラを、変わらず愛してくれた。辛かっただろうに、シェラの負担を考えて記憶を戻すことさえ禁じて、また1から愛してくれた。思い出を共有できない寂しさを、抱えていたのに……

「シェラ?」

俯いていたシェラは、名を呼ばれて顔を上げた。廊下を歩いてきたのは、ノインだった。

「どうした?」

「影に遭遇して、少し落ち込んでいるの」

シェラは、憂いを帯びた微笑みを浮かべた。ノインは大丈夫か?と言いたげに、顔をしかめた。

ノインの容姿は、14代目風の王・インその者だ。そのことを、シェラは今更思い出していた。もう、ノインとの付き合いの方が長く、インとは異なる性格故に、彼をインと混同することはない。

今更、インのことを思い出したのは、インラジュールのせいだろう。

 ノインは、無言でシェラの隣に並んで来た。

「ノイン、あなたは大丈夫?」

「ああ。オレは、失った記憶を取り戻してもいいと許可を得ているが、オレの意志でそれをしていない。恨まれるのならば、恨めばいい」

「誰も、あなたを恨んだりしないわ」

「わかっている。君のことも、誰も恨んだりしない」

ノインは、控えめに涼やかに微笑みながらシェラを見下ろした。

「リティルは、ずっと優しかったわ……。とても、傷ついていたのに……」

シェラは再び俯いた。

「リティルは、忘れてしまったオレに、哀しみをぶつけ、寂しいと、ただ怒るだけだった。恨みや憎しみとはほど遠い。開き直った今、思い出など、また作ればいいと言う始末だ。オレは、そんなリティルに甘えている」

「リティルに、素直にぶつけてもらえるあなたが、時々羨ましいわ」

「君には強がっているな」

「ええ、そうよ。……ノイン、記憶を戻さないのはなぜ?」

「……君は、オレに思い出してほしい思い出があるのか?」

「少し寂しいと感じる時もあるわね。ノイン、この城で黒いこれくらいの虫を見たことがあるかしら?」

シェラは、親指と人差し指で何かを挟むような仕草をした。その大きさに当てはまる虫に、ノインも覚えがあった。「ああ」と言ったところで、隣のシェラにいきなり抱きつかれた。

完全に不意打ちで、ノインの口から驚きの声が漏れた。

「わたしは、あの虫が苦手で、応接間でたまたま隣に座っていたあなたに、こうやって抱きついてしまったの」

わざわざ羽根を使い、首に抱きついていたシェラは、すぐにノインを解放した。

「ごめんなさい、リティルには内緒にしてね」

「あ、ああ。了解した……」

気恥ずかしそうに笑うシェラに、ノインは動揺しつつ何とか微笑み返す。そんなノインの様子に、シェラはクスッと微笑んだ。

「あの時と、同じ反応をするのね。あなたにない物は思い出だけ。なくても、支障はないわ。あなたは、変わらずあなたなのだから」

「君は、変わってしまったのか?」

「ええ。皆、失う前のシェラの面影を、探しているようだったわ。あの人とケンカが絶えなくて、神樹に帰れとまで言わせてしまったわね」

「それは衝撃だ」

「リティルとあんなにケンカしてしまったのは、あの時だけだったわ。わたしには、思い出がとても大事だった。あなたは、知りたいと思わないの?」

シェラの見上げる視線から、ノインは視線を外し宵闇に沈んだ中庭を見下ろした。

「オレとリティルは、兄と弟ではない。リティルがオレを兄と呼ぶ事実はなかった。転成前のオレが、リティルとどんな関係を築いていたのか、気にはなるが、リティルに兄と呼ばれている今が、オレには心地いい。思い出を取り戻すと、オレはリティルに、兄と呼ばせることをやめさせるような気がする」

「そうかもしれないけれど、今のリティルは頑なに、あなたを兄と呼ぶと思うわ」

「なぜ、そう思う?」

「あなたは、リティルのそばに来てくれたときから、あの人の兄だからよ」

「この存在は、リティルの父なのだろう?なぜ、兄だと?」

「あなたを産み出したのが、インだからよ。インは、リティルに必要な物が何か、わかっていたのよ。リティルにはもう、父親の庇護は必要ではなかったわ。ただ、心細かっただけ。そばにいて、世話を焼ける存在として、年の離れた兄という心に作り替えたのよ。リティルに光を見ていたのは、インも同じだった。インはとても孤独で、冷たい死に掴まれて凍えていたから……」

歴代最も長く生きた王――インには、花の姫も原初の風もなかった。命を奪われる者の嘆きの呪いである、血の穢れにすでに限界まで冒されていた。それでも生きていた彼はやはり強いといえるが、やはり、果てる運命だったとシェラは思う。

彼にあったのは、おそらく歴代1番惨たらしい死だっただろう。それを、彼の手で生み出された息子のリティルは、無意識に救った。凍った瞳で表情筋の死んでいたインは、リティルとの最後の時、温度のある瞳で優しく笑い、そして、惜しむように泣いたのだから。

その時のインの笑顔は時を止め、応接間の肖像画の中に今でもある。

「この体が冷えやすいのは、そのせいか」

「!寒さを感じているの?」

案ずるシェラに、ノインは優しく涼やかに微笑んだ。

「リティルのそばに、この城にいれば寒さを感じない。大丈夫だ」

「昔から、感じていたのかしら?あなたも無駄に強がってばかりいたから……。ノイン、素直でいて。隠されてしまったら、守れないわ」

「努力しよう」

そう言って笑ったノインは、きっと言わないのだろうなとシェラには思えた。大人の男性なのだ。しかたないと理解はしているが、癒やし手としては、気が気ではない。

 本当に、風の王は心配ばかりかけるのだから!と、シェラはフウと小さくため息をついた。そして、ふと思う。

「ノイン、あなたはインティーガが、花の姫を恨んでいると思っているの?」

「その点はよくわからない。が、ヤツはリティルに刃を向けた。許すことはできない」

「信じられないわ」

「……リティルと同じことを言うのだな。君は、風の王を知っているのか?」

「知っていると言うほどではないけれど……インもルディルも、そんな目にあったとしても、恨まないと思うわ。インティーガは錯乱してしまったというけれど、それすら、わたしには信じがたいわね。英雄王と呼ばれていた王なのでしょう?精霊的年齢も、ルディルと同じくらいよね?そんな成熟した人が、恋人でしかなかった花の姫を失ったくらいで狂ってしまうなんて、とても……」

太陽王・ルディルは、ずぼらで豪快な三十代前半の男性だ。英雄王と呼ばれたインティーガは、その異名のイメージから、落ち着いた大人の男性という印象を受ける。19にしては大人びているが、十代のリティルの精神とは比べものにならないだろう。

「インティーガのことを、知る方法はないかしら……」

「レジナリネイのところへ?」

「できれば、リティルに知られたくはないわね。影の事だけではなく、魔物も多いけれど、インファでさえレジーナのところへ行かないわ。避けているのか、何か事情があるのかもしれないわ」

勘ぐりすぎではないか?とは思ったが、シェラはリティルの心を常に心配している。リティルの心に波風立てたくないのだなと、思えた。その心は、ノインにもわかる。

ふと、ノインは、自分が所持している精霊の至宝・黄昏の大剣のことを思い出した。

「シェラ、君は確か、物体の持つ記憶にゲートを開き、ダイブすることができたな?インティーガは、黄昏の大剣によって討たれている。この至宝は、一部始終を記憶しているはずだ」

「剣の記憶に……やってみましょう」

お互いに伴侶のある身だ。互いの部屋は使えないが、幸い、この城は使われていない客室がたくさんある。2人は、1番近い客室に入った。


 至宝・黄昏の大剣。

世界に幕を引く剣と言われている。故に、世界の刃である風の王を滅する、言わば、風の王の天敵だ。その宿命に従い、先代の力の精霊・有限の星は、乱心したインティーガを討ったのだ。

炎のような赤い陽炎を纏った大剣を、ベッドの上に置いたノインは、緊張気味に両手を胸に押し抱いたシェラに場所を譲った。

「ノイン、わたしの肩に触れていて。潜るわ」

シェラは1度大きく息を吸うと、黒光りする鞘に収められた大剣にそっと触れた。

すると、2人の意識は何もない暗い空間に引きずり込まれていた。眼下に、巨大な存在感を持った記憶があった。2人は頷くと、その記憶に向かって舞い降りたのだった。

 ここは……風の城の応接間?シェラは、コの字型に置かれたソファーと机を見て、懐かしさを覚えた。現在の応接間にあるソファーの数は、倍くらいある。それは、城に暮らす住人が増えたからだ。この数のソファーで事足りていたころはまだ、血の繋がった家族だけで暮らしていた。先の見えない戦いの中で、リティルと生き残るために手探りで戦っていた。家族4人で、今日という日を何とか生き延びていたが、歴代の風の王達は、たった1人で戦っていたのだなと、シェラは冷たい孤独に思わず、胸の前で祈るように手を組んでいた。

隣のノインが身動きした。どうしたのかとその方を見たシェラは、ハッとして身を強ばらせた。何もない広間に、2人の人物がいたのだ。

 片眼を潰された、がたいのいい男性が、見覚えのあるひげ面の男性に向かって手を伸ばしていた。片腕も折れているのか、包帯を巻かれているが、それも解けかかり、その服の下も傷ついていそうだ。

あんなに怪我を……シェラは今すぐ駆けよって傷を癒やしてあげたい衝動をグッとこられた。これは過去だ。干渉することのできない幻だ。リティルと、リティルの血を分けた子供達とノインには、超回復能力が備わっている。彼がリティルだったなら、傷のすべてを時と共に癒やせる。だが、リティル以外の風の王は、超回復能力を持ってはいなかった。

そして、花の姫の愛すら受け入れてはくれなかった。花の姫の手を取っていれば、あんな怪我、瞬時に癒やすことができるのに……シェラは悔しさを感じてしまった。

 あの、傷ついた男性が、インティーガなのだろう。異名の印象よりもずいぶん若い外見だ。彼に詰め寄られている赤い髪の大柄な中年男性の姿は、シェラの記憶にもある。

何かとリティルに目をかけてくれた、力の精霊・有限の星だ。

度々風の城を訪れていた彼に、リティルは嫌みを言っていたが、インファも彼には悪い印象はないはずだ。シェラの淹れる紅茶を、目元を緩ませて飲んでいた姿が思い出される。

必要以上に馴れ合わないように。そうリティルと有限の星は、その一線を守っていたように思う。おそらく2人は、敵対しなければならない未来を、思い描いていたのだろう。そしてそれは現実となり、彼は彼の主だった初代太陽王・シュレイクと共に、風の城に討たれた。彼の魂を葬送したのは、リティルだ。

「――死は、どこだ!」

インティーガが叫んだ。

「求めてはならん。落ち着け!」

「教えてくれ!行かねば……行かなければならない!」

足が言うことを聞かない様子で、インティーガは倒れた。彼の背には、片方だけオオタカの翼があった。その翼は、真っ黒に染まっていた。

「行かなければ……有限の星!」

危機迫る彼の様子に、縋られた有限の星が怯むのが感じられた。

「近づくな」

有限の星の警告を無視して、ズルズルと彼は迫る。

「近づくな!インティーガ!」

有限の星は大剣を振り上げた。彼の足に、インティーガの手が届く。

「死は、死はどこにある!行かなければ!行かなければ、彼女が……!」

最早これまで。有限の星は、大剣を振り下ろしていた。

 その光景を目をそらさずに見ていたノインは、背後のシェラの様子がおかしいことに気がついた。

「あ……リティル……」

震えるシェラの瞳が、金色の風となって消えていくインティーガに注がれていた。

「シェラ?あれはリティルではない!しっかりしないか!シェラ!」

風の王が斬られる場面など、花の姫に見せるものではなかった。普段気丈に皆を守っているシェラが、こんなに脆く崩れさるなど、ノインにも想定外だった。

「インティーガ!ああ、何ということを!あなたは何をしたのかわかっているのですか!有限の星!」

突如、ゲートが開き応接間に飛び込んできた者がいた。白い光のような髪に、鹿の角。彼女は神樹の精霊・ナーガニアだ。

彼女がなぜここに?震えるシェラを支えながら、ノインはナーガニアの声に顔を上げた。

「こうするより他――」

切っ先を下げた有限の星は、苦しげに呟いた。

「まさか、あなたほどの人が、彼が正気か否かわからなかったと言うのですか?」

咎めるナーガニアの言葉は、有限の星にとって本当に想定外だったようだ。彼の瞳に、戸惑いがありありと浮かんだ。

「なに?」

怒りをぶつけるナーガニアの手には、いくつもの瓶が抱えられていた。あれは、癒やしの薬?ノインは、瓶の中の液体の色に見覚えがあった。

「インティーガは、正気でした!城から出なかったのは、怪我のせいです。見てわかるでしょう?」

彼はまともに歩くこともできなかった!とナーガニアは怒りを滲ませていた。翼も片翼。飛ぶこともままならなかっただろうなと、ノインも思った。

「しかし!翼は黒く――」

「……娘のせいです。インティーガは、止めようとしただけです!命の期限に逆らうと、彼は約束してくれたというのに!ああ……浅はかな花……!そんな者の言葉を信じ、風の王をよくも……!」

ナーガニアは、立ち尽くす有限の星の足下に膝を折ると、ちりぢりに消えていく金の風に手を伸ばした。もはや、掴むことも触れることもできはしなかった。

「あなたを助けられず、ごめんなさい……。願わくば、後の王よ、インティーガに安らぎを」

消えていく金色の風を見つめながら、ノインは無念を感じていた。これは、恨んでも――

「――間違いだった……の?」

思わぬ者の出現に、繰り広げられた会話に呆然としていたノインは、シェラのつぶやきにハッと我に返った。

「間違いで、リティルは……」

絶望と怒りそして――シェラの瞳に宿った感情に、ノインはハッとして彼女の両肩を掴んだ。

「シェラ!死したのはリティルではない!13代目風の王・インティーガだ」

このまま憎しみに支配させてはいけない!ノインの声に、シェラは視線をノインに合わせてきた。

ノインを見て、現実に心が引き戻されたのかもしれない。はあ、はあと苦しげに息をするシェラの瞳に、僅かに正気が戻った。

「イン――ティーガ……うう……ノイン……リティルに、リティルに知らせて……」

光が弾ける。白いまばゆい光が去ると、ノインは気を失ったシェラを抱きかかえて膝をついていた。

「シェラ?シェラ!」

シェラの意識は、戻ることはなかった。


 風の王と花の姫は、結ばれることが運命づけられた番という関係だった。

その枠の外にいたのは、おそらく、初代風の王・ルディルと15代目風の王・リティルだろう。

 ルディルは、至宝・原初の風の守護者だった。彼は至宝を持つモノの恩恵で、霊力が無尽蔵に湧く固有魔法・霊力の泉と、血の呪いを浄化する・禊の癒やしを持っていた。花の姫を手に入れなくとも、世界最強で向かうところ敵無しだったのだ。

そんな彼が、初代花の姫・レシェラと婚姻を結んだのは、レシェラのアプローチが鬱陶しかったからだ。神樹を通る度、好きだと言われ続けて気がついたら、婚姻を結んでいた。

 そしてリティルは、グロウタースで14代目風の王・インに作られた異色の風の王だ。

風の王となる前から、シェラに心を奪われていた。シェラも、花の姫となる前、人間だったころからリティルを好きだった。風の王と花の姫が番であることを知ったのは、2人ともイシュラースに引き揚げてきた後だった。その時はすでに夫婦で、それを知ったリティルは「ああ、じゃあオレ達永遠に離れられねーな!」と言って笑った。

 番という運命の枠外にいた風の王だけが、花の姫と結ばれ、運命づけられていた者達がことごとく悲恋を歩んだ。

しかし、世界を股にかける風の王ならではだなと、ナーガニアは思っていた。

死を導く風の王と、命を産み出す花の姫。反属性だ。世の理に精通する風の王が、花の姫を傷つけまいと遠ざける愛し方をするのは、もっともだと思う。

だというのに、娘達は!ナーガニアは、ハアと深くため息を付いた。

「ナーガニア!」

神樹の中でボンヤリしていたナーガニアは、名を呼ばれ、神樹から抜け出した。

「婿殿?どうしたのですか?わざわざ足を運ばなくとも、千里の鏡で話ができるでしょう?」

「ああ、そうだな。でもな、これは面と向かって話さねーといけねーんだ」

いつも笑顔のリティルが、今日は硬い顔をしていた。何かあったのだろうか?とナーガニアはリティル達風の城を案じた。

「ナーガニア、インティーガの死に立ち会ってたんだな?」

え?なぜ、それを婿殿が?とナーガニアは一瞬混乱した。いや、風の王は世界を守る為、世界中の不具合を正す仕事をしている。インティーガのことなど、調べるのは容易い。今やっと、そこへたどり着いただけだとナーガニアは思いなおした。

「ついに、たどり着いたのですか……はい、私は彼の死に立ち会いました。本当は止めるつもりでしたが、間に合わなかったのです」

「そうみてーだな。なあ、有限の星はどうして、インティーガがおかしくなってるって思っちまったんだ?あのおっさんが、包帯男に詰め寄られたくらいで、ビビるとは思えねーよ」

「花たちの、噂のせいです。花の姫に振られた風の王が、城に籠もって復讐を考えている。風の王は、乱心したのだと……。インティーガの怪我は酷く、その姿を目の当たりにした花たちは彼を貶めたのです」

「おっさん信じたのかよ?信じられねーな」

「有限の星は、インティーガの黒く染まった翼と、死を探す彼の言葉に惑わされてしまったのです」

「黒い翼……確か、自殺を図った。とか聞いたな。確かなのかよ?」

「そのように取られても、仕方がありません。しかし、誤解です。復讐しようとした私の娘、シェレラを止めようとしての事故です。シェレラが逆転の治癒を使うことを止めようとして、酷い怪我を負っていたことも相まって、インティーガは命の期限をつけられてしまったのです」

「逆転の治癒?シェレラは何を殺そうとしたんだ?」

シェラも使える固有魔法・逆転の治癒。体を巡る血を沸騰させ、内側から破壊する恐ろしい魔法だ。それを、戦わない花の姫だったシェレラが?そんな魔法を使わなければならない場面とは、風の王に危機でも迫ったときとしか考えられなかったが、その時、シェレラにはインティーガの恋人だった記憶はなかったはずだ。

ナーガニアは黙ってしまった。

「ナーガニア、シェラが黄昏の大剣にダイブして、インティーガの死を、オレの死と混同しちまって目が覚めなくなっちまったんだ。オレ達風の王が繋がってるのと同じように、花の姫も繋がってるんだ。オレは全員助ける。だから、教えてくれよ!」

ああ、取り返しのつかないことをしている娘の事も、何も聞かずに全員助けると言ってくれるのですね?そういうあなたが、とても心配です。そう思いながら、リティルに縋ってしまう私は、とても狡いと、ナーガニアは瞳を伏せた。

「シェラ……切り離された存在でいてくれればよかったというのに……番という鎖が、あの娘のことも縛ってしまっているのですね……?」

花の姫は、すぐに死んでしまう世界の刃を守るため、世界が用意した番だ。しかし、風の王は受け取らなかった。

姫の力を手に入れれば、生き残ることができるかもしれないというのに、誰一人として世界のくれた恩恵を受け取ろうとはしなかった。

「花の姫と風の王の番の運命、断ち切ろうと思うんだ」

「!」

「勘違いするなよ?オレは何があってもシェラを手放さねーよ。違うんだ。好きだって想う以上のことを、シェラはしちまうんだよ。オレが死んだわけじゃねーのに、散りそうになったりとかな。そういうモノに左右されねーようにしてーんだよ。まあ、オレ以外の風の王のことまで愛すなよ!ってことだな」

「浮気……」

「ああ?」

「いえ、なんでもありません」

「そうだよ!浮気された!って思っちゃったぜ!オレの名前しか呼んでなかったって、ノインが言ってたけどな。オレとインティーガを見間違えるわけねーだろ!」

体格差!あと年齢!とリティルは吠えた。

「それは……しかし、シェラは――」

「わかってる。けどな、オレ、怒ってるんだぜ?」

「婿殿……」

「シェラは誰にも渡さねーよ。で?誰に復讐しようとしてたんだよ?」

「花です」

「花?花って、花園にいる花の精霊か?」

「彼女達の噂のせいで、シェレラはインティーガを遠ざけるしかなくなったのです。逆恨みと言われればそれまでですが、打ちのめされていたシェレラの怒りと絶望は相当のモノでした。止めに入ったインティーガは、花から死を遠ざけようとしたのですが、あの人は、さほど力に精通してはいませんでした」

「脳筋っぽいもんな。オレも人のこと言えねーけど。それで、有限の星に詰め寄っちまったのか」

「私の不注意です。あまりの傷に、せめて傷を癒やそうとクスリを取りに行っている間に、有限の星がインティーガを尋ねてしまったのです」

「おっさん……昔っから間が悪かったのかよ。せめて峰打ちにしろよな!黄昏の大剣は、風の王を殺す剣だ。それで斬られたインティーガの魂は粉々になっちまったよな?ナーガニア、シェレラ、どこにいるんだ?」

「!」

一連の事を起こしたのは、インティーガではない。それがリティルの結論だった。彼はやはり、風の王だ。ノインから過去を聞いたリティルは、それを確信していた。

だとすると、今、イシュラースを脅かしているのは、シェレラということになる。とうの昔に、番の理でインティーガの断罪と共に散ったはずの彼女は、生きている。そうとしか、考えられないのだ。

「わかりやすいあんたが、大好きだぜ?インティーガの心が暗躍してるってのが今のところの風の城の考えだぜ?でもな、過去を考えたら、復讐しそうなのはシェレラの方じゃねーのか?そもそもな、風の王は、忘れられたくらいで、最愛の花の姫を恨んだりしねーんだよ!大事すぎて手が出せねー、それが風の王だ!オレはバリバリ手出したけどな」

そんなことはなかったくせに。とナーガニアは思った。リティルは、シェラが初心だった為に、イシュラースへ夫婦となって引き揚げてきたのに、忙しさを言い訳に、なかなか初夜に踏み切れなかった。シェラが初めての相手ではなかったのに、踏ん切れなかったリティルもまた、風の王だ。

「婿殿……シェレラの居場所は、私にもわかりません。シェレラだけでなく、娘達はあの皆既日食の日から、私のもとを去りました」

「待てよ!娘達?ナーガニア!どこに姫達を匿ってたんだよ?姫達は迷魂になってねーんだぜ?どうやって?」

「娘達は神樹の花です。この枝葉に匿っていました。いつか、哀しみが癒えたら、その時の風の王に葬送してもらうつもりだったのです。しかし、シェレラを匿ったときから、それは変わってしまいました。婿殿、一連のこと、しでかしたのはインティーガではありません。シェレラです」

「インティーガを殺された復讐だよな?シェレラは、今も花を滅ぼすつもりなのかよ?ナーガニア!あんたも、それに加担してたのか?」

忘れてしまった者と、忘れられた者の前に現れた影。憎しみと哀しみを感じたと、遭遇した皆が言っていた。

引き継いではいけない感情の1つだ。死して肉体から離れた魂は、風に導かれドゥガリーヤへの門を潜るとき、記憶と感情を真っ先に剥ぎ取られる。

記憶は、このイシュラースを2分する、太陽王の統治する昼の国セクルースと対となっている幻夢帝の統治する夜の国・ルキルースへ降り、うたかたの夢として蓄積される。

感情も、どこかへ封じられる。その行く先は、リティルにはわからない。

「許せるものではありません!リティル!あなたも、彼女達にはあらぬ事を言われ続けているではありませんか!あなたが何をしました?風の城は、この世界の為に、傷ついているというのに!」

ナーガニアは声を荒げた。

まあ、遠慮しなけりゃならねーぶんだけ、鬱陶しいけどなー。とは、思うが、滅ぼす?考えたこともなかった。

「……それでもオレは、花たちを守るぜ?」

「なぜです?あなたが一言、目に余ると言ってくれさえすれば、ルディルもルキも動けます!」

「だからだよ。風の王は命の導き手だ。そのオレが、多様性を否定しちまったら、どうなるんだよ?たまにルディルに叱られるくらいでいいんだよ」

そう言って、リティルは何のことはないような顔で笑った。その正しさに、ナーガニアは何も言えなくなる。

「花の姫達か……そんな何人もいるなんて考えてなかったぜ……何人いるんだ?」

「5代目から13代目まで、8代目を除くの8人です」

8代目?8代目ってたしか……と思わなくもなかったが、それよりもリティルには、5代目花の姫が含まれている事が衝撃だった。

「5代目?インラジュールが振った姫からかよ?結構酷い振り方したって、あいつ言ってたぜ?それでもかよ?あ、その娘だけ標的がインラジュールってことは?」

ナーガニアはそんなことはないと、首を横に振った。憂うその瞳から、ナーガニアはインラジュールにも同情的なのだと感じられた。

「シレラが贈った髪の毛を、インラジュールは捨てずに持っていました。彼にしては軽率でした。あの髪の束に何が仕込まれていたのか、知らなかったのですから」

「髪の毛?ああ、戦地に行く男に関係のある女が、髪の毛のお守りを渡すっていうあれだよな?よくそんなこと知ってたな。それは、オレでも捨てられねーよ。そのお守りで、インラジュールの本心を知っちまったのか?」

その髪の毛の中に何があったのか、明かさなかったがジュールは知ってるなと、リティルは思った。彼はその髪を使って、リャリスという娘を産みだしているのだから。だが、知るのが遅すぎた。ジュールがシレラのことを知れば、なんと思うのだろうか。

「そうです。そしてシレラは、彼の崩御と共に逝こうとしたのですが……インジュの魂が見つからず、彷徨い泣いていました。その様があまりに憐れで……風の王の不在という混乱期を利用して、この枝葉に匿ったのが始まりでした。それからズルズルと……申し訳ありません、婿殿」

5代目風の王・インラジュールの魂は、生前蛇のイチジクに触れてしまったために、至宝に喰われてしまった。シレラがいくら捜しても見つけられなかったのは、その為だ。

「やっちまったものはしかたねーよ。これを機に、全員送るぜ?」

「そうしてください。私が浅はかだったのです」

「なあ、ナーガニア、シェラは目を覚ますよな?呼びかけても、まるで手応えがねーんだ」

「あなたが尻込みするとは、意外ですね。精神ダイブは試みたのですか?」

「インファに止められてるんだよな。ジュールも、ああ、インラジュールな、あいつも慎重だしな」

「インジュの言うことは軽んじてはいけません。あの人は、賢魔王と呼ばれた賢者です」

「ああ、知ってるよ。……シレラ、いるんだよな?会わせていいのか?」

「無責任なことですが、あなたの思うとおりになさい。知られた以上、私はあなたの味方です」

ごめんなさい、娘達……最後まで味方でいようと思ったが、シェラにまで危害が及び、リティルがインティーガの真実にたどり着いた。これ以上死者に加担しては、現在を生きる王と姫の命が危ういと思えた。だが、ナーガニアにできることは少ない。

「ありがとな。なるべく泣かさねーようにするよ」

じゃあなと、空へ舞い上がったリティルを、ナーガニアは見送ってしまった。どこへ行くのか、そこへゲートを開くと、申し出ればよかったと、ナーガニアは後悔することになるとも知らずに。


 風の城まで飛んで帰ろうと思ったのは、少し1人で頭と心の整理をしたかったからだ。

シェラが意識不明になり、ノインから報告を受けたその足で、リティルはナーガニアのところに飛んできた。1人では!と言うインファの叫びを無視してきてしまった。追いかけられなかったのは、シェラの様子が思いの外重篤だったからだ。インファにもジュールにも、精神の所在がわからなかった。ただ眠っているのではないかもしれない。それが、2人の見解だった。

「シェラ……どこにいるんだよ?」

リティルは、シェラがあの影の言葉に思いの外参っていることをしらなかった。

シェラが記憶を失ったのは、リティルのせいだ。リティルが目を付けられなければ、シェラが狙われることもなかった。確かに、シェラに忘れられて辛かったが、それ以上にシェラの方が辛かっただろうと思っているリティルは、彼女を責めることはなかった。それが、いけなかったのかもしれない。

シェラに1度でも「どうして忘れたんだよ!」とぶつけていれば、こんなに罪悪感を持たせることもなかったのかもしれない。

『忘れられる痛みを、知れ。おまえの存在は、苦痛だ。捨てた記憶を、思い出せ』

あの言葉を、シェラと同じ花の姫が?しかも、忘れた側が?インティーガの影を装っても、当時を知る花はどれくらいいるんだ?とリティルは疑問だった。

そんなことを言って、響く花は、最近記憶をなくした花だけじゃないのか?

『死とは何か。本当に憎むべきモノは何か、わかるか?』

忘れられた方にも出るシェレラは、いったい何がしたいのだろうか。

花の精霊への復讐?彼女達を虐殺したとしても、花の精霊は不死身だ。記憶を失って、再び同じ存在として咲く。

ナーガニアもルディルも、あのインラジュールでさえ鬱陶しがるが、どんなに諭したところで、性根は変えられない。花たちが噂好きなのは性分だ。そういう存在として、受け入れるしかないとリティルは思っている。

まあ、確かに、毎度毎度あれだけ悪意のある噂をでっち上げられるものだな、とは思うが。

「記憶を思い出せ……か。それを言われたシェラは、まだ大事なことを忘れてるのか?って思ったって言ってたな。花も、記憶を取り戻してーって思うのか?」

あの影が出るのも、オレのせいにされてたなーと、リティルは思い出して苦笑した。悪いことはなんでもかんでもオレのせいって、可愛すぎて気にもならねーよと、リティルは余裕だった。

この世界に起こる事案のすべては、風の王の管轄だ。影が出る事象を解決できないのは、風の城のせいなわけで、花たちのいうことも間違いではないのだ。仕事を妨害されるのは困るが、キャンキャン吠えられてもリティルは気にならなかった。近づかなければいいと、そう思っていた。

 さて、帰るか!と進路を風の領域へ取ったところだった。

白い、フワフワしたモノが大群で飛んでくるのが目に入った。なんだ?と目を凝らすと、それは、タンポポの綿毛のようだった。しかし、とてつもなく大きかった。

これは、たぶん触れてはいけないヤツだとリティルは瞬時に判断していた。あんなものにかまっている暇はないと、迂回しようとすると、リティルはゾクッと身の危険を感じて、辺りを見回した。

「いつの間に……」

綿毛が四方八方から接近していた。これは早めに逃げたほうがいいと、リティルが羽ばたくと、まだ遠いというのに、綿毛が揺れた。

「!」

接近していた綿毛が触れ合う。その途端に、大爆発が起きていた。連鎖的に起こった爆発で、爆風がリティルを襲っていた。爆風から立ち直ったリティルは、神樹の森を襲う、綿毛爆弾を見た。爆風で飛ばされた綿毛が森に落ちたり誘爆したりして、森を傷つけていた。

「ナーガニア!」

振り向いた神樹の枝が爆発で折れて、森に落下するのを見たリティルは、声を伝える術はなかったが神樹の精霊の名を叫んでいた。

リティルの心臓は高鳴っていた。「娘達を枝葉に匿っていました」と言ったナーガニアの言葉を思い出していたのだ。シェラの意識もあそこにあったとしたら?弱ったシェラが爆発に巻き込まれる姿が、脳裏をかすめていた。

リティルは防御魔法が苦手だ。インファのように、神樹を包み込む風の障壁を作ることはできない。リティルができることといえば、風を操り綿毛を遠ざけることだけだった。

リティルの操る強風で、神樹の枝葉が揺れ、傷ついた枝が折れ切れて森へ落下していく。フワフワと漂う綿毛爆弾が隣の綿毛に触れ、爆発と誘爆を引き起こしたが、竜巻のように神樹を包み込んだ風が壁となって、神樹は爆風から辛うじて守られた。

神樹は、大人が20人いても取り囲めるかわからないほどの大樹だ。その大樹を包む竜巻を起こし続けることは、風の王であるリティルであっても容易いことではない。

どこから打ち上げられているのか、大本を断たなければとは思うが、リティルは防戦を強いられていた。気の抜けない状況下で、風の城と連絡を取ることさえできなかった。

――これをやってるのは、花なのか?

この綿毛は、どうみてもタンポポだ。短絡的に考えれば、今神樹の森を攻撃しているのは花の精霊ということになる。だが、なぜ?リティルは、その理由を思い描けなかった。

「しまった!」

 白いモノが、視界の端をかすめた。ハッと辺りを確認すると、もう逃げられない位置まで、綿毛に接近されていた。

身を強ばらせたリティルの体に、綿毛が、触れた。

ドンッと爆発が起こった。その爆風に煽られ、周りにあった綿毛が次々誘爆する。

至近距離からの爆発で、意識が飛びそうになったが、なんとかリティルは持ちこたえた。体を殆ど吹き飛ばされたが、リティルの体内には、シェラの無限の癒やしが1度だけ使える彼女の霊力があった。森へ落下していきながら、その力を使うタイミングを計っていると、心の中に声が響いた。

その声は、聞こえるはずのない声だった。

『あなたのすべてをわたしが守るわ。だから、癒やしを使わないで――』

「シェ・ラ……?」

そんな、まさか!シェラは心の所在すら不明な状態だ。その彼女が、リティルと繋がる一心同体ゲートを通して話しかけていた。動揺するリティルの体が、白い丸い輝きに包まれ、体が元通り癒やされていた。体が癒やされたことで、緊張の糸が切れてしまった。リティルは意識を失い、森へ落ちた。

『あなたを、守るわ……』

遠のく愛しい声。リティルは手を伸ばしたが、シェラに届くことはなかった。

 どれくらい意識を失っていたのだろうか。リティルが意識を取り戻すと、森の中の地面に倒れていた。

「無傷とは思いませんでしたわ」

「――無傷じゃねーよ……吹っ飛んだぜ?シェラがいなきゃ、今頃16代目にバトンタッチだ。君は、サクラだよな?」

大げさではなく実際にそうだった。傷はシェラの固有魔法・無限の癒やしで、すでに1つもないが、体は吹き飛ばされた衝撃を覚えている。リティルはショックで、指1本動かせなかった。今襲われれば為す術はなかった。一難去ってまた一難だ。もうすでに風の城から誰かが来ているかもしれないが、所在を伝える術さえなかった。

「はい。こちらへ。ここにいては、花たちに見つかってしまいます」

サクラは楚々と近寄ってくると、リティルの体を支えて立たせた。

「君が、首謀者なのかと思ってたぜ?」

「あの、根も葉もない噂ですか?わたしとあなたが恋仲で、姫様に知られてしまったために引き裂かれたと?誰が信じると言うのですか?」

サクラは、こんなツンケンした精霊だっただろうか。いや、散ってまた咲いたんだから、オレの知るサクラじゃねーよな?と思い直した。

「……少なくとも、花は信じてるんじゃねーのかよ?オレは、君を弄んだ極悪人で敵視されてるぜ?」

「火のない所に煙は立たないと申しますが、わたしとあなたの間に、何があったのですか?」

そりゃ気になるよな?とリティルは思ったが、教えてやることはない。

「知ってどうするんだよ?オレは、シェラを裏切らねーよ」

「わたしの片思いだったということですね?叶うはずのない恋を、花たちは笑ったはずなのに、どうしてこんなことに?」

サクラは、本気で腑に落ちない様子で首を傾げた。

「もともと、オレへの風当たりは強かったんだ。花たちは、噂のネタを探してただけだぜ?」

「あなたは、怒ってもよいと思いますよ?花園を滅ぼしてもいいくらいの不敬を、わたしたちはしています」

綿毛爆弾で襲うなんて、リティル様が死んだらどうするつもりだったのでしょう?と、サクラは本気で怒っていた。

「はは」

花の精霊から、こんな言葉が聞けると思わなかった。リティルは思わず笑ってしまった。

「リティル様!」

「ああ、悪い。それをしたって、君たちは何も学べねーよ。オレが、かかわらなけりゃいいだけだろ?」

「もう、手遅れです。わたしたちは、あなたと、関わってしまいました」

「おまえ、惚れるなよ?」

「自意識過剰ですね。と言いたいところですが、わたしはあなたが好きです」

ああ、まったく。どうしようもねーなと、リティルは惚れやすい花の精霊に困った。

「ごめん。君の気持ちは受け取れねーよ。サクラ、オレが間違ったんだ。君に告白されたとき、オレは君の気持ちを受け取った。オレが返さなかったら、セーフだと思ったんだよ」

それを聞いたサクラは、目を丸くした。瀕死の者がくれるといった心をもらうことは、そんなにいけないことなのだろうか。リティルは合点がいかなかったが、サクラと議論すべき事ではないと、心に納めた。

「なるほど。合点がいきました。やはり、花は滅ぼされるべきですね」

サクラは辟易して見えた。そんなにあることないこと言われてるのか?とリティルは少し同情した。

「花に噂のネタをやったオレが悪いんだぜ?」

「お人好し。ですがリティル様、わたしに攫われてもらいます」

そう言ってサクラは、ある聞いたことのない名を呼んだ。2人の目の前に、ルキルースへの扉が開いた。


 ルキルース?おいおい、聞いてねーぞ?とリティルは内心焦っていた。

花の精霊はリティルと同じ、昼の国・セクルースの精霊だ。しかも、かなり早いサイクルで散ってしまう。そして、記憶は保持されない。イシュラースのことを、何も知らないと言っても過言ではないくらい無知な精霊が、花の精霊だ。

そんな彼女達が、地続きではないルキルースを知っているはずがない。リティルは、そう思っていた。

「リティル様!大丈夫ですか?」

目がチカチカするような、ショッキングピンクで埋め尽くされた部屋に足を踏み入れると、ラナンキュラスが駆け寄ってきた。

「ラナン――キュラス?」

マズイ、吹き飛ばされた衝撃から体が立ち直ってきて、今度は精神が疲労を訴えていた。

「ああ、ここは夢工房です。インマの夢を作ってるらしいですよ?」

インマ?なんだっけ?とボンヤリしてきた頭で考えていると、何やらハート型をしたベッドに寝かされた。

うう、眠い……しかし、花の企みがわからないまま、意識を失うわけには……。ハキハキしたラナンキュラスの声を聞きながら、リティルはすでに、彼女が何を言っているのかすら理解できなくなっていた。

 寝たらダメだ!

ハッと気がついたリティルは、風の王夫妻の寝室にいた。

ベッドの上で、体を起こそうとしたリティルは、フワリと押し倒されていた。なんだ?誰だと藻掻くと、抱きついてきた者が顔を上げた。

シェラ?

あり得ないと思って、なぜあり得ないと思ったのかわからなかった。ここは、風の王夫妻の寝室だ。ここで、シェラ以外の女性と、一糸まとわぬ姿でいることはあり得ない。では、あり得なくないのでは?リティルは思考がうまくまとまらなかった。

「お、おい」

濡れた瞳で微笑むシェラに唇を奪われて、リティルは慌てて押し戻した。押し戻されたシェラは、拗ねた瞳で1度退いたものの、戸惑うリティルの手を取り、再び迫ってきた。

「うあっ」

スッと近づいたシェラの顔が、リティルの首に埋められ、リティルはゾクッと快楽を刺激された。おかしい。体の反応がいつもと違う!これは違う!説明なんてできないが、これは違うと、リティルはそれだけは強く思った。

やめろと引き剥がそうとしたが、シェラは強引に迫ってきた。ついにリティルは叫んでいた。

「オレは、シェラと以外、こんなことしねーんだよ!」

そう叫んだ途端だった。ハッと気がつくと、シェラはリティルの足下に座っていた。しかも、服をきちんと着ている?自分も確かめると、リティルも服をちゃんと着ていた。

「リティル、これは夢よ?」

シェラの声に、リティルはやっと安堵していた。助かった!と心の底から思ったのだ。

「夢でも、この夢は違うだろ?オレには君だけだ。そう言わせてくれよ」

シェラは困惑しているようだった。

「そうは言っても……夢の中でさえ、わたしがわかるの?」

それを、君が言うのかよ?とリティルは思って脱力した。夢の中だからって、許していいのかよ?君が?と言いたかった。

「ああ、わかるぜ?君のくれた霊力が教えてくれるんだよ。はは、君になら魅了されてやるぜ?シェラ」

名を呼ばれたシェラは、フフと嬉しそうに笑った。

「リティル、そばにいるわ。だから、安心して眠って」

「ああ、悪いな。いつも守ってくれて、ありがとな」

リティルの隣に寄り添って座ったシェラは、見上げる夫の頭を撫でた。とても、リティルの中にある霊力が、夢の中でシェラの姿になっただけとは思えなかった。それはさきほど、一心同体ゲートを通して傷を癒やしてくれたから、そう希望を抱いてしまっているだけだ。

わかっていた。リティルが目を覚ましても状況は変わっていない。シェラの意識は、行方不明のままだ。

「なあシェラ、どこにいるんだよ?」

「知っていても、今のあなたには教えられないわ」

そりゃそうだ。リティルは手を伸ばすと、困り顔のシェラの髪に触れた。

「無事だよな?」

「ええ」

「起きたくねーなあ」

目を覚ませば、シェラが別の風の王の崩御を目撃して散りそうになったという事実と、また向き合わなければならない。

シェラはオレの花の姫なのに。その想いが消えない。彼女の慈悲深さは知っているが、他の風の王にまでその命を左右されてほしくなかった。

「リティルったら……」

「はは。冗談だよ。シェラ、手放さねーからな?」

シェラは嬉しそうに微笑むと、しっかりと頷いたのだった。

…………………………………………………………

 リティルに話しかけていたラナンキュラスは、その瞳が徐々に光を失っていくことに気がついていた。どうしたのか?と名を呼んでみたが、リティルは答えることなく、瞳をゆっくりと閉じてしまった。

「寝かせてあげて。神樹を守るために、1人で戦ったのよ?」

ラナンキュラスを止めたのは、牡丹だった。

「え?でも、神樹はあれくらいじゃ、ちょっと枝が折れるくらいでビクともしないんじゃ……」

「それを守ってしまうのが、リティル様です」

牡丹に引き離されたラナンキュラスのいた場所に、サクラは立った。見下ろす瞳は怒っているようで怖かった。

「この子がリティル様なのねん?」

甘ったるい高い声が聞こえ、甘ったるい匂いが鼻孔をくすぐった。ラナンキュラスは思わず咽せていた。

この部屋の主である夢魔、淫魔の夢・サキュウだ。バニースーツを着たウサギのぬいぐるみの姿の彼女は、この部屋で淫らな夢を作って世界中にばら撒いている。

「知ってるの?」

ラナンキュラスは、問いかけた。

「ルキルースじゃ、リティル様のことは有名よん。恐怖ちゃん達と仲良しなんだけど、会わせてって言っても、あの子達会わせてくれないのよん。あなた達のおかげで、夢がかなったわん」

ヒュンッと空を飛び、サキュウは遠慮なく、眠るリティルの頬にその小さな体ですり寄った。

「あらあら可哀想~!すっごく疲れてるわん!サキュウの夢はい・や・しよん?王妃様の夢、見せちゃうわん」

え?っとサクラ以外の花の精霊が困惑した。ラナンキュラスは、何を想像したのか、その顔が見る間に真っ赤になった。

「い、癒やされるなら、いいんじゃないかしら?」

ドギマギしながら、キンモクセイが後ずさった。夢とはいえ、現実でも乱れるのでは?と思い、逃げ出したい気持ちと興味が入り交じっていた。

「!サクラ!何をしているの?」

眠るリティルに片手の平を向けるのを見て、牡丹は過ちを察した。

「夢よ。リティル様が寝るのはシェラ様よ?誰も傷つかないわ」

そうなのだろうか?姿が最愛の王妃なら、夢なら、中身がサクラでも許されるのだろうか。牡丹は迷ってしまった。

「――う……あ」

ピクッと僅かにリティルがのけぞって、その唇から吐息が漏れた。行為のことを知ってはいても、経験のない牡丹は、たったそれだけで混乱してしまった。サクラを止めるのも忘れて、見入ってしまう。

しばらくリティルは、苦しげに身動きしていたが、いきなり叫んだ。

「オレは、シェラと以外、こんなことしねーんだよ!」

声と共に、サクラの手が弾かれていた。

「――シェラ様……」

痛そうに手首を押さえたサクラが、憎らしげに呟くのを、牡丹は聞いた。この瞳に見覚えがある。牡丹は、壁際で所在なさげにしているキンモクセイに視線を合わせていた。

ノインに恋をした彼女も、こんな目をしていた。そして、キンモクセイは、こともあろうにフロインの心臓に毒矢を放ってしまった。風の精霊でありながら、フロインは不死身の精霊だという。彼女は無事だったが、激怒したノインに斬られ、散って、今再び咲いた。キンモクセイには、ノインに狂おしいほどの恋心を抱いた記憶は欠片も残っていない。

 牡丹は、その後キンモクセイの様子を確かめにきたリティルに「なぜ止めてくれなかったのですか!」とぶつけてしまった。

リティルはただ「ごめんな」と謝罪の言葉しか繰り返さなかった。洗いざらいぶつける牡丹の言葉を、リティルはずっと聞いていた。反論することも、怒ることもなく、ただ静かに。

本当は、牡丹にもわかっていた。リティルがキンモクセイを止めなかったのは、自分達の手で結末を導かなければならないからだと。きっと、リティルには、キンモクセイの恋心を打ち砕くことなど簡単だった。干渉しなかったのは、散ってしまう記憶でも、今、物語を紡いでいるのはおまえ達だろ?と残らない短い生だとしても生きろと、言ってくれていたのだと。

――やめてください、リティル様……わたし、あなたに恋してしまう……

牡丹は、そんなリティルに恋をした。そばで見ていただけのサクラと同じように。

その後、リティルが花園を訪れることはなかった。リティルの姿を見たのは、散り際のサクラに情けをかけ、シェラがリティルを呼び寄せたその時だった。

牡丹は、その一部始終を見ていた。

会ったことも、言葉を交わしたこともないサクラの淡い恋心を、リティルは「ありがとな」と心はやれないけど君の気持ちはもらっておくよと、照れたように笑っていた。

なんて、幸せな結末――サクラがわたしだったならと、牡丹は思わずにはいられなかった。

その後の草花の所業は、ある意味読めていた。見苦しい嫉妬だ。

あんな噂、風の城の執事がすぐにもみ消すと思っていた。だが、一向に消えなかった。調子づく草花たちに牡丹は、焦った。だが、風の城に足を運ぶ勇気はどうしても持てなかった。

 そして影の噂。始めは相手にしていなかったサクラが、リティルと自分との間に何があったの?と疑問を持ち始めた。サクラの心は、リャリスが指摘した通り、リティルと何かあったのだという方へ期待もあって傾いていった。

ラスが噂をやっともみ消したが、それはもう遅かった。サクラの中にあった『種』はもう、芽吹いていた。

サクラは、なくした記憶を求めた。その想いは、浅はかな草花たちにも伝播した。取り戻さなければならないほど、大層な経験もないくせに。

草花たちはどこまで愚かなのだろうか。事もあろうに、自分達が記憶を保持できないのは、風の王のせいだと言い出した。

それはいくらなんでも!と、牡丹と樹木の花の精霊達が諫めた。しかし、彼女達はもう止まらなかった。

神樹の森に綿毛爆弾を忍ばせ、ゲートを通るリティルを狙っていたのだが、シェラのゲートを使い風の城から直接移動してしまう彼等が、神樹の森を訪れることはそうそうないと油断していた。

墜落してきたリティルを拉致したのは、あの場に放っておいては、暴走している草花たちに何をされるかわからないからだ。

「やめて!サクラ、どうしたの?どうして、リティル様を傷つけようとするの?あなたは、リティル様が好きなんでしょう?」

「そこを退いて、ラナンキュラス。好きよ。好きだわ!愛しているわよ!だから、ほしいのよ。この人が!」

振り切れた激情――!牡丹は血の気が引いた。

牡丹は、その時期にしか咲けない命の短い花だが、実は、1度も散っていない花だった。なぜだかわからないが、創世の時代から生きている、古参の精霊なのだ。

この激情を何度も目にした。花たちの主人、花の姫が風の王を想って、彼等の死と共に散るその時に。

決して散らない花である神樹の花の精霊が、王の名と共に愛を叫んでそして散っていった。

――ああ、インジュ……!わたしを手に入れてくれさえすれば、その命を、お守りできました……!あなたの愛する子供達と共に、生きられたのに!なぜですか?インジュ!

最初の激情を聞いたのは、5代目風の王・インラジュールの崩御の時だった。

1度は振られたシレラが、インラジュールも気がつかないところで、彼を守っていたことを、牡丹は知っていた。そして、インラジュールが、本当はシレラを愛していることも知っていた。

牡丹は、インラジュールのかけた花園から出られない呪いをすり抜け、花園を出られる唯一の花の精霊でもあったからだ。

わたしは、教えればよかったの?2人の仲を取り持てば、2人は幸せになれたの?わからなかった。どうすればいいのか、わからなかった。わからないまま、多くの風の王が地に落ち、そして花の姫が散った。

そして、インティーガとシェレラが手を繋ぎ、些細なことでその手が離れ、そして――

牡丹は、そのすれ違いを正すことができた。しかし、それをしなかった。キンモクセイを止めなかったリティルを責められない。リティルの姿は、わたしの姿だった。止めてほしかったのは、わたしだったと、牡丹は震えていた。

――助けて……わたしはわからない。誰か助けて!

牡丹は、リティルを守ろうと立ちはだかるラナンキュラスに、サクラがナイフを突き立てるのを見ていることしかできなかった。

「きゃあ!」

背後でキンモクセイの悲鳴が聞こえた。牡丹がハッと我に返ると、サクラとラナンキュラスの間に、黒い大きな犬が割って入っていた。その背後、リティルを守るようにもう一頭、ユキヒョウがいた。

いったいどこから来たのか、唐突な乱入だ。

ドーベルマンはサクラを突き倒すと、ラナンキュラスをヒョイッとその背に乗せ、開いた扉にユキヒョウと共に飛び込んで行った。

 助かった、の?牡丹はその場にへたり込んでいた。その背後でリティルを攫われた!とサキュウが怒っていた。


 神樹の森で、大規模な戦闘があったことは、風の城にすぐに知れていた。

応接間のソファーで、瞳を閉じて、次々にもたらされる風の声に耳を傾けているインファの様子を、皆は固唾を飲んで見守っていた。

すでに、ラスと、彼の妻である歌の精霊・エーリュ、どうしても行くと言い張った、インファの妹である風の姫巫女・インリーが神樹に向かっている。シェラは目覚めず、神樹が攻撃されているとあって、ゲートは使えなかった。

ラス達が到着する頃には、勝敗は決しているだろうが、最上級精霊で風の攻撃魔法に関しては天才的なリティルでも、危機を脱するのは難しいだろうとインファには思えた。

「……神樹の森を襲っているのは、綿毛の形をした爆発物のようです」

『綿毛?』

インファの向かいに長い足を投げ出して、器用に翼を組んでいたジュールが、低くインファの言葉を反芻した。

”影”の分析をしていたジュールだったが、シェラの意識が戻らなくなったことを聞いて、ゾナとリャリスに分析を任せて診察してくれていた。その矢先、単独で神樹に向かったリティルが戦闘に巻き込まれたのだ。

「タンポポの種です。花の精霊か、花と風の城を争わせたい何者かの仕業ですね」

「花ではないと?」

ノインは苛立ちを押し殺して、花の仕業だと決めつけたいのを堪えている様子だった。

「現時点ではなんとも言えませんね。神樹の森は不可侵です。その森に紛れられては、風といえども見通せません。それに。神樹の森が不可侵であることを花が、知っているとは考えにくいですが、花たちは知っていると思いますか?」

『さてな。あの女どもは、記憶を保持できない。が、精霊の遺伝子に刻まれている記憶に、そのことが入っていれば、知っているだろうな』

「本当にジュール様は、花の精霊が嫌いなのね」

この人壊れてるなと思えるほど寛大なリティルを見ているせいか、同じ風の王なのに嫌なモノは嫌だと隠さないジュールが、セリアには新鮮に見えた。

『……あれを好きになる者は、物好きだと思うぞ?その点君は美しくて好きだぞ?わたしの隣で、お茶でもいかがかな?その、様々な色の煌めきについて話さないか?』

本気でない口説き文句を並べるジュールに、セリアは「キャー!ジュール様!」と大げさに喜んだ。コホンと咳払いを1つして、セリアの夫であるインファは話を元に戻した。

「同感ですが、母の眷属ですからね、あまり無碍にもできません」

『あれが眷属である為に、風の王に近づけなかった姫多数だ』

「あなたの評判は最悪だったでしょうね」

『噂ではないぞ。数多の女性の間を渡り歩いていたのは、事実だ。そんなわたしに告白してきたシレラは猛者だな。他の王達はわたしからすれば、品行方正だったというのに、花の姫は誰一人告白していないというのにな』

「そんな人、振っちゃったんです?」

心底残念そうに、インジュがジュールを見やった。

『受けられるわけなかろう。噂ではなく、事実だからな。何番目でもいいなどと、このわたしが信じるわけにはいかないな』

「そのうち上手くいかなくなるって、思ってたって事です?」

インジュの言葉に、ジュールはフフと自嘲気味に笑った。

『……勝手なことだが、彼女と自然と子を成せる術が見つかったら、わたしの方から口説くつもりだった。存命中には、果たせなかったがな』

「哀しいです。ジュールさん!」

もう、終わった事。そうだが、今、記憶が具現化しているだけとはいえ、触れ合えて言葉が交わせるジュールを前に、インジュは歯痒く思っていた。

『フフフ、そうだな。だが、やはりわたしは選ばれないほうがいい。わたしだけが、幸せになってしまった』

「?どういうことです?」

『わたしは、シレラなくして、彼女との子を残すことに成功している。娘と2人、親子を楽しんでしまった』

リャリスに父と呼ばれているジュール。リャリスは、人の姿をしたジュールを1度しか目にしていないが、親子であることにはかわりはない。

今、ジュールといられて、リャリスは認めないとは思うが、楽しそうで嬉しそうだ。しかし、そこに母であるはずのシレラはいない。

「あ……で、でも……」

『フフフフ。まあ、それは置いておいて、リティルの行方、捜す術はないのか?』

「母さんがあの通りですからね。情報を集めるしかありません。グロウタースにいるということはないでしょうから、セクルースにいないとすれば、ルキルースということになりますかね」

『ルキルース……』

捜すのは困難だと、瞬時に理解するジュールと話をするのは楽だなと、インファは思ってしまった。

「まだ、決まったわけではありませんよ?しかし、ルキルースだったとしても、何とかなりますよ。うちには、ルキルースの精霊もいますからね」

そう言ってインファは、隣に座っているセリアに目配せした。

「ええ、任せて!でも、ルキ様どこに行ったのかしら?姉様達ともあれから連絡取れないし……」

セリアは宝石三姉妹の末妹だ。上に、2人の姉がいる。セリアは雷帝妃として風の城にいるが、彼女の2人の姉はルキルースでルキに仕えている。3人とも幻惑の暗殺者と呼ばれる隠密行動に長けた精霊であるために、滅多なことではやられない。

そのはずだが『ちょっと厄介な仕事をするから、ルキ様は手を貸せない。来るなら気をつけて』という短い伝言を受け取ってから、セリアの姉達は消息を絶ってしまった。

そんな伝言を受け取ってしまったが、ルキルースを探る手がないわけではない。現在彼の国には、本来ルキルースに住むべき精霊である、破壊の精霊と再生の精霊が行ってくれていた。

「ジュールさんは、ルキルースに詳しいんです?」

『詳しいわけがなかろう。思い出など、わたしには必要ない』

「思い出です?」

インジュはキョトンとジュールを見返した。

「ルキルースは、記憶を糧にできているんです。知っていますよね?部屋によっては、残留思念もウロウロしていますし、オレも、過去に関わったグロウタースの民と出会ったことがありますよ」

「え?それ、ちょっと楽しいです!」

インジュも、インファやリティルほどではないがグロウタースの事案に関わっている。そこで出会った人達と、短く道筋を重ね合わせている。

その大半がすでに故人だ。そんな彼等を、たまに懐かしく思い出すが、徐々に色褪せて消えていく。また、あの人に会えたら……そんな感傷に浸ることもあるのだった。

『楽しいものか。残留思念は、ファウジの死者召喚とは違うぞ?こちらのことなど見えていない、ただそこにいるだけのモノだ。あれならば、まだ迷魂の方が可愛げがある。そもそも、ルキルースには魔物が出ないではないか。レジナリネイに用がないのなら、行く必要のない国だぞ?』

「あ、そうですねぇ。でも、だったらどうしてリティル、たまに行くんです?」

インジュの問いに答えたのは、インファだった。

「ルキルースに友達がいるんですよ」

『幻惑の暗殺者か?』

ジュールは意外にも、名を知ってるだけだった。セリアは、彼の時代に出会っていたなら、口説かれたんだろうか?と思って、即、ないわねと思った。この人、女性に心を許しているようには見えないもの。と、思ったのだ。

セリア達、宝石三姉妹は創世の時代から生きている、古参の精霊なのだが、セリアに大昔の記憶はない。姉達は、ジュールのことを知っているのだろうか。

「リティル様、スワロ姉様と仲いいけど、たぶん違うわ」

セリアはそう言って、インファの顔を見た。

「ええ。夢工房の可愛い夢魔のお二人ですね。ああ、その手がありましたか。インジュ、セリア、反撃とはいきませんが、動いてくれますか?」

何かを思い付いたらしいインファに白羽の矢を立てられ、インジュは戸惑った。

「え?ボクです?」

「リティルがルキルースにいる場合、あまりいい状態ではないはずです。あなたなら癒やせます」

「それは、わかるんですけど……今、ルキルースには、ケルゥとカルシーが行ってますよねぇ?ケルゥなら、再生の力で傷くらい癒やせますよぉ。2人なら戦闘能力申し分ないし、ボクじゃなくても――」

不意に、机の上の水晶球が輝きだした。白銀の輝きは……再生の精霊・ケルディアスだ。程なくして、水晶球の中に、凶悪犯罪者のような顔の白銀髪の男性が映し出された。

『兄ちゃん、ルキルースヤバいぜぇ?バラ園が焼き尽くされてよぉ、レジーナが軟禁されてんぜぇ?』

バラ園には、テティシアローズと呼ばれる、ルキルース固有の花が咲いている。その薔薇の花の花びらには、使う者の知っている部屋なら、扉を抜けなくとも移動できるゲートに似た力があるのだ。幻夢帝・ルキを頼れない今、部屋という固有の空間が扉で複雑に繋がっているあの国を歩くためには、必須の花だった。

「ケルゥ、それは由々しき事態ですね。それをした者の情報はありますか?」

『あのよぉ、リャリス、そこにいるかぁ?』

ケルゥは言いにくそうに、智の精霊の所在を確認してきた。インファはなぜリャリス?と思ったようだった。セリアがそっとそんな夫の肩に触れると、呼んでくると言って席を立った。

「いるはずですが、確認します。なぜですか?」

『あのね、燃えたバラ園にいた人、リャリスとソックリだったの』

ヒョイッとケルゥを遮って顔を覗かせたのは、濡羽色の髪をした美少女だった。破壊の精霊・カルシエーナだ。

『彼女の髪の色は?それから、モルフォ蝶の羽根を生やしていなかったか?』

『どうしてわかるの?モルフォ蝶の羽根、あった。髪の色は緑色だった』

『シレラだ。インファ、どうやらわたしは行かねばならないようだ』

「不自然ですよ?あなたがここにいるのは偶然です。偶然に偶然が重なることはありえません。あなたを標的とした罠かもしれません」

このわたしを案ずるか?ジュールは当たり前のように止めてくるインファに苦笑した。

『フフフ、インファ、まだ最後の分析が終わっていなかったのだが、仕方がない。リャリスが捕らえたあの影、魔法により作り出されたモノだが、その霊力が問題だ』

「そこまで突き止めたんですか?さすがですね。それで、誰だったんですか?」

『13代目花の姫・シェレラだ。あの魔法がいつ仕込まれたモノなのか、それを調べていたのだが、その必要はなさそうだ』

「では、シェレラが未だに生きていて、この事態を引き起こしていると言うんですか?」

『生きてはいないだろう。同じ力の司は同時には存在できない。現在の花の姫は、シェラだ。シェレラは確かに死んだのだ。だが、彼女の力が働いている。彼女の何かが残っていることは間違いがない』

「インティーガが殺されたことへの復讐ですか?しかし、彼女は1度散り、インティーガを覚えてはいなかったはずです。インティーガは乱心していなかったという話ですが、有限の星は、あなたにインティーガは乱心していて、そして討ったのだと証言しましたよね?」

『あいつの言葉は信じられん。何かを隠している感じがしたからな。ノインから聞いた話でしかないが、ナーガニアに確かめた方がまだ信憑性はある。彼女も共謀している可能性はあるがな。そして、有限の星がこのわたしに嘘をついた理由を推測するに、あいつがシェレラの協力者だとしたらどうだ?あいつは、風の王の監視人だ。そして、当時の智の精霊・無限の宇宙は相棒だ。無限の宇宙は当然、死の安眠という儀式のことを知っていたぞ』

あのとき、蛇のイチジクに喰われて無限の宇宙の中にいたのだから、確かだとジュールは付け加えた。しかし、ジュールも彼が死に、主導権を得るまではまどろみの中にいて、無限の宇宙の中にいたときの記憶は曖昧だ。

しかし、記憶が曖昧なのは、故意だったかもしれないとジュールは苦々しく思った。

「花の姫なら、ゲートが使えますね。そして、無限の宇宙の助力があれば、死の安眠に時限魔法を仕込むことくらい容易いですかね。ですが、シレラのことはどう説明します?」

『わからん。行って、確かめるしかない』

オレが行きますと言っても、聞き入れてくれる雰囲気ではないなと、インファは困った。

ジュールは、こうして普通に存在して見えるが、無理矢理インジュの力を得て具現化しているにすぎない。風の城を出て、どれくらい行動できるのか、苦痛は伴わないのか、懸念することはたくさんあった。

 インファが困っていると、アトリエの扉が開き、リャリスが姿を現した。

「私がなんですの?あら、ケルゥとカルシエーナ?その暗さ、ルキルースですの?聞きまして?お母様の意識が行方不明になり、お父様は神樹の森で襲撃されて、行方不明ですのよ?」

『おいおい、聞いてねぇ!兄ちゃん、どういうこった?』

オレも知りたいです。と、インファは思った。

「説明できませんから、言わなかったんです。一連のことが、繋がっているのかどうかすら不明です」

「繋がっているかもしれなくってよ?あの影を作ったのは、13代目花の姫・シェレラですわ。そして、インティーガが殺されてから、25年から30年の間に仕込まれていましてよ。レシェラは、インティーガと時を同じくして死んでいますのよ?あら、ゲートですわね」

リャリスが、何もない広場に視線を向けた。見れば、ゲートが開き思わぬ者が姿を現す所だった。

「婿殿!婿殿は帰っていますか?」

長い黒髪を、三つ編みに結った少女に支えられ、ゲートを越えてきたのはナーガニアだった。

 次から次へと……とインファは頭痛を覚えながら、水晶球にルキ捜索の続行を伝えつつ、ナーガニアと妹のインリーのところへと急いだ。

「インファ!婿殿は?」

ナーガニアは無傷のようだが、取り乱しすぎて真実を告げていいものかと迷うほどだった。

しかし、嘘をつく理由もない。また、何もわかっていないことを説明しなければならないなと思いながら口を開こうとすると、インファの隣を影がすり抜けた。

『リティルは行方不明だ。何か知っているだろう?ナーガニア』

ナーガニアの前に立ったのはジュールだが、今の彼はオオタカですらない。ナーガニアは、リティルの事実と目の前に現れた見慣れない鳥とで、言葉を紡げないほど混乱しているようだった。

『ああ、わたしが誰かわからないか?そうだろうとも!こんな姿ではな!』

ジュールは、白い翼をバサッと優雅に開いて見せた。

「………………その物言い……インジュ、なのですか?」

大げさに芝居がかった言動。風の王は、初代・ルディル、15代目・リティルともう1人を除いて、皆物静かだった。そのもう1人、5代目風の王も異彩を放っていたのだ。

『そうとも!あなたの娘を手ひどく振った、鬼畜な色欲魔・インラジュールだとも!ああ、今はジュールと呼ばれている』

後ろで見ていたインジュは、ジュールの様子がいつになく大げさに感じた。もしかして、彼ほどの王でも、ナーガニアは緊張する相手なのかな?と思って少し驚いていた。

「インジュ……あなたはなぜ、シレラを受け入れてやらなかったのですか!」

目の前の鳥がジュールだと知るや否や、ナーガニアは怒鳴っていた。

『おお?できるわけがなかろう?わたしは、女性の敵というヤツだ。穢れなき美しき姫に触れる資格があると思うか?それに、もう、終わったことだ』

ナーガニアの反応が予想外だったのだろう。ジュールは呆気にとられたが、何とか言葉を返した。さすがですね。と、インファは思ってしまった。

「輪廻の輪に還れたなら、まだよかったでしょう。シレラを含め、8人の花の姫が還れずにこの世に留まっています!」

ナーガニアの暴露に、ジュールのみならずインファも驚いた。

『なにを言っている?風の王を欺くことなど――なんと!あなたはその枝葉に、姫達を匿ったのか?何の為に?一途な姫達のことだ、その哀しみが癒えることはなかっただろう?』

「ええ、ええ!あなたの言うとおりです。いつか哀しみが癒えたらと、そう甘やかしているうちに、こんなに……。インラジュール!シレラだけでも、あなたが解放するのです!」

最早、ナーガニアの叫びは懇願だった。

彼女の様子に、ジュールは徐々に冷静さを取り戻していった。

ナーガニアと言葉を交わすことはあっても、面と向かったことは殆どなかった。故にジュールは、ナーガニアから快く思われていないと思っていた。

当たり前だ。ジュールは色欲魔。そして、他の王達と異なる性格をしていると、自覚していたのだから。

『ナーガニア、教えてくれ。なぜ彼女は、わたしを想い続けた?花たちの噂は、シレラも知っていただろう?そして、それが真実であることは、ナーガニア、あなたにはわかっていたはずだ』

「シレラは知っていました。娘は、何番目でもいいと言ったはずです。意気地無し!あなたはシレラと逢瀬を重ねていながら!」

哀しみに染まった瞳に睨まれ、ジュールは驚いた。

『待て!逢瀬?会っていないぞ?わたしが振ったあの時から、わたしはシレラには1度も会っていない』

本当だった。チラリとでもその姿が見られたなら……そう思いながら、ジュールは会えないことにホッとしていたのだから。

「白々しい。ではなぜ、城に帰らず、神樹の森で眠っていたのですか!森へ来るあなたのもとへ、シレラは確かに通っていたのですよ?」

シレラは確かに、帰ってくるジュールに会いに行っていた。それがナーガニアの真実だ。それをなぜ、今更隠さなければならないのか。ナーガニアは理解できなかった。

ジュールとシレラがどんな関係であったとしても、それは当人達の問題でナーガニアの預かりしらないことだ。

ナーガニアはただ、風の王達が無事に生きていてくれさえすれば、それでよかったのだから。

『わたしは会っていない!シレラに想われていたことを知ったのは、死した後だ。だが、すべては遅すぎる。再び会えたとしても、わたしにできることは、葬送だけだ』

「かまいません。それを受け入れられないのであれば、もとより風の王の伴侶は務まりません。終わらせてください。インジュ……」

『望む、望まないにかかわらず。ナーガニア、娘達について、知っていることを話してもらおう』

ジュールはソファーへ踵を返した。彼が人の姿だったなら、今、どんな表情をしているのだろうかと、インファは思いながら、ナーガニアを促したのだった。


――して……目を、覚まして――リティル!

彼女の声がする。どこから?

この意識の闇から?それとも、目覚めた先?そのどちらでも、彼女に――シェラに呼ばれたら、従わないわけにはいかない。

もう少し、この心地よい闇にいたかったが、仕方がない。君のいない現実へ、いや、どうしてこんなに無気力なのだろうか。いつもなら何が何でも君を、追いかけるのに。

「リティル様!よかった……!」

リティルが瞳を開くと、湿った木の匂い――知っているかび臭い匂いが鼻孔をついた。

落ち着いた、色褪せたワインレッドの布張りのソファーに寝かされているのがわかった。「…………ラナンキュラス……?」

薄暗い部屋を、頼りなさげにランプの火が揺らめきながら浮かび上がらせていた。心配そうに顔を覗き込んでいた緑の髪の少女の名を、リティルが呼ぶと、少女は嬉しそうに笑った。

「はい!リティル様、夢魔のお知り合いがいるなんて、さすがです!」

夢魔?ここは?とリティルは視線を彷徨わせた。

「……残留思念の迷宮?どうして……?」

リティルはやっと体を起こした。知りすぎているくらい知っている場所で、リティルはホッとしていた。ここの夢魔との付き合いは長い。

「あの、リティル様が寝ちゃった後、その……サクラが……キンモクセイみたいになっちゃいまして。揉めてるところをここの夢魔さん達が助けてくれたんです」

キンモクセイみたい?恋心が暴走して、誰かに危害を加えた?

「オレ、殺されそうだったのか?」

「いいえ!その……夢の中で、いかがわしいことしようと……でもでも!シェラ様に邪魔されてたみたいでした!」

だんだん記憶が鮮明になってきた。そういえば、意識を失う前に連れ込まれた部屋は、インマ――淫魔の夢を作る夢魔の部屋だと言ってたっけ?とリティルは思い出した。

「なあ、どうして夢工房の夢魔のこと、知ってるんだ?」

「え?どうしてって言われるとわかりません。でも、サキュウのことは目覚めた時から知ってるんです」

精霊固有の知識ってことか。とリティルは納得した。精霊には、その精霊であるために、その精霊として目覚めた時から学ばなくても持っている知識がある。淫魔の夢魔のことは、その知識であるらしい。

「尋問みてーで悪いな。花の標的はオレだったのかよ?」

「……はい……花たち――っていっても、野の花達ですけど、記憶を思い出せ~って言ってくる影の人に影響されちゃって、それで、どうしてだか、リティル様のせいだってことになっちゃって、止めたんですよ?牡丹ちゃんが、リティル様に知らせるって言ってたんですけど……」

牡丹?リティルはなぜだか、ラナンキュラスが呼んだその名に、特別な響きを感じた。

「牡丹?風の城に知らせる術があるのかよ?」

「らしいです。あたし、わかんないです。はあ、牡丹ちゃん大丈夫かな?リティル様と一緒に攫われるの、あたしじゃなくて、牡丹ちゃんならよかったのに……」

「花の精霊のこと、教えてくれねーか?花は、忘れる理由、知ってたりするのか?」

ラナンキュラスは、困った顔をした。彼女はどうやら若い花の部類に入るらしい。

「牡丹ちゃんなら知ってると思います。だって、牡丹ちゃん、花の王だから」

「花の――王?!」

リティルは大声を出していた。

花の精霊に王がいるなんて、今の今まで知らなかった。しかし、おかしい。花の精霊は花の姫の眷属のはずだ。それは、花の精霊の主人ということだ。だのに、王がいるなんて……。

「きゃあ!びっくりした……はい。牡丹ちゃん、古参の精霊なんですよ?……大丈夫ですか?リティル様!」

散らない……花……リティルはズキッと頭痛を感じて、頭を片手で押さえた。その様子を見ていたラナンキュラスは、驚いて、けれどもリティルに触れられずにオロオロしていた。

「大丈夫だ。なんか、思い出しそうな気がしたんだ。じゃあ、牡丹は歴代花の姫のこと、知ってるんだな?」

「はい、たぶん。リティル様、花の姫様のこと知りたいの?」

「ああ。5代目から13代目までのな。その影の事案の解決に必要なんだよ」

ラナンキュラスは、その先を聞きたそうだったが、風の仕事に首を突っ込んではいけないと思ったのか、複雑な顔でリティルを見つめるばかりだった。

その顔が可愛かったが、花の精霊に心を許してはいけないなと、リティルは微笑みそうになるのを堪えて、この洋館の主を捜すように視線を彷徨わせた。

 残留思念の迷宮。恐怖の夢を作る、夢工房だ。この部屋では、思い描いた恐怖が具現化してしまう。リティルは、この部屋の主に懐かれ、たまに会いに来ていた。

『リティル様~!目、覚めたのワン?』

『リティル様~!大丈夫ニャン?』

ポポンッと、小さな爆発が起き、紙吹雪をまき散らしながら、猫と犬のぬいぐるみが現れた。

「カコル、ニココ!オレに用事だったのかよ?」

リティルは首を傾げた。

『そうなのワン!』

『レジーナが捕まったのニャン!バラの園も押さえられてるのニャン』

「ん?誰に?」

花の精霊に?綿毛爆弾はなかなか威力はあったが、リティルは怪我させられただけで計画性はなかった。

レジーナを捕らえ、バラ園を押さえるなんて、そんな芸当できるとは思えなかった。

『チョウチョの羽根がある精霊なのワン』

「こんな?」

リティルはラナンキュラスの背中を指さした。

『ううん。シェラ様と同じ羽根だったニャン』

シェラと同じ?ってことは、モルフォ蝶だな。とリティルはシェラを思い出していた。

シェラ――行方不明の意識は、ここ、ルキルースにいるのだろうか。

おっと、今はルキルースのことだったな。モルフォチョウの羽根と言うことは、花の姫だ。いよいよ動き出したらしい。だが、なぜルキルースなのかまったくわからない。

花の精霊は太陽王の統治する国・セクルースの精霊だ。どうやら、幻夢帝の統治する夜の国・ルキルースと繋がりがあるらしいが、暮らしているのはセクルースだ。

花の精霊に復讐したいのにルキルースを掌握する理由を、リティルには思い至れない。

「何人いるかわかるか?その中に、シェラはいなかったか?」

『シェラ様、そっち側なのワン?えっと……6人?ワン』

6人……ナーガニアは8人と言っていた。人数が合わない。だが、全員でいつも動いているわけじゃないかと、思い直した。

「バラ園と、レジーナ、今誰かいるか?」

『殴り込むのニャン?ルキ様も三姉妹もいないのニャン。1人じゃ危険ニャン』

「オレ、そんなに荒っぽいか?話がしてーんだよ。なあ、ここって安全か?」

話すにしろ戦うにしろ、どちらにせよ、ラナンキュラスを連れ歩けない。リティルは2匹にラナンキュラスを頼むつもりだった。

『わからないワン。サキュウのところからリティル様強奪しちゃったから、報復されそうワン』

サキュウ?誰だっけ?ああ、淫魔の夢魔かと思いながら、そんな夢魔の部屋で寝てしまったことに今更ながら身震いした。なんか、良い夢だったような?と思いながら、まったく思い出せなかった。

「バレるようなやり方したのかよ?」

『ケルゥとカルシーの化身の姿を借りたのニャン。ケルゥ達と繋がってるのみんな知ってるニャン』

ケルゥとカルシー?そういえば、ルキルースにいるはずだよな?とリティルは白銀髪の大男と濡羽色の髪の美少女を思い浮かべた。あいつらに手伝ってもらえば――

「ああ、インファに連絡取ればいいんだよな?」

ここで勝手に動いたら、インファとインジュ親子に叱られてしまう。

『それがいいワン。カコル達、何とかしてほしくて、都合よくサキュウに捕まってたリティル様を強奪したのワン!』

都合よく捕まってるって……なんか凹む言われ方だなー。とリティルは素直な2匹に苦笑した。

「はは。助かったぜ?ありがとな、2人とも」

そう言って腕を広げたリティルの胸に、2匹の夢魔は遠慮なく飛び込んで、リティルに両側から頬ずりした。

 さて、インファに怒られるか!と、リティルは手の平に風を集めると、水晶球を取り出した。皆の制止を聞かず、1人飛び出したあげく襲撃に遭い行方不明だ。インファは頭を抱えただろう。

「インファ」

『父さん?無事ですか?今どこですか?』

おや?インファにしては、余裕なさそうな?とリティルは思いながら、呼びかけにすぐ答えた息子に所在を告げた。

「ルキルースだよ。残留思念の迷宮だ。なんだよ?なんかあったのかよ?」

『ええ。母さんの体がどこかへ行きました。ルキルースに行っていませんか?』

「はあ?シェラの体って……意識が戻ったわけじゃねーんだな?ルキルースに来てから、近くにいるような気はしてるんだ。探してみるよ。ああ、ルキルースを花の姫達が侵略中だぜ?レジーナとバラ園が押さえられてる」

『そのようですね。花の姫達の目的は、花の精霊だということですが、具体的には何をしたいのか、知っていますか?』

「いや。ナーガニアの知ってる以上の事は知らねーよ。……インファ」

リティルが正直なことを言う前に、インファは口を開いた。

『いいですよ?父さんは母さんを探してください。花の姫との戦闘の指揮は、ジュールが執ってくれるそうです。ケルゥとカルシーに動いてもらいます。……どうしました?』

「いいのかよ!花の姫と花の精霊だぜ?風の王だっていっても、ジュールに押しつけるのは――」

建前を口にしたリティルの顔を、ジッとインファは見つめていた。探るような、案ずるような瞳で息子に見つめられたリティルは、怯んで口を噤んでいた。

『……父さん、母さんと別れませんよね?』

「はあ?」

唐突に何言ってんだ?とリティルは面食らった。

『番という理を破壊すると聞きました』

「ああ、そのことか。心配するなよ。そんなことで、オレと母さんの今までが壊れるわけねーだろ?」

『……はい。しかし、そちらも1人ではいけませんね……。誰を派遣しますか?』

「うーん……花に反感持ってねーヤツって……おまえとインジュくらいしかいねーよな?実はな、花の王ってヤツがいることがわかったんだよ」

花に反感を持っていない者?インファは思わず声を荒げていた。

『!まさか、花の精霊と一緒にいる気ですか?』

「ああ?今もいるぜ?姫達の狙いが花の精霊なら、保護しねーとだろ?」

『おまえはバカなのか?おまえを襲撃したのは花だと、執事が調べてきたぞ?そして、拉致したのも花だとな。おまえは、そんな者を信じて手元に置くのか?花と共にいるおまえを見て、シェラはなんと思う?』

見かねたのだろう。ジュールが割り込んできた。

「怒るかもな」

『怒るかもではなく、激怒だろうさ。花の所業にシェラはかなり参っていたぞ?加えて神樹の森での襲撃、仲間割れでの拉致、そして更に仲間割れしたのだろう?おまえと懇意の夢魔のところにいるということは、そういうことだろう?花とはそういう精霊だ。甘い顔をすれば、貞操さえも奪われかねん』

「それでも、滅ぼすワケにはいかねーだろ?それをしようとしてるのが、花の姫じゃなおさらな。インティーガの魂は砕けてるんだ。死者召喚でも出てこられねーくらい、心も壊れてるんだろ?レジーナの万年筆でも呼び出せるかどうか……シェレラの恨みは深いぜ」

『それを、わかっていながら、花の味方をするのか?』

ジュールの声が恐ろしく低い。その声は、敵を斬る前の風の王の声だ。

「おまえ、花の姫と争う気だろ?」

『致し方ない。だが、花を許すつもりもない。おまえは永遠の風の王だ。憂いは払うさ。すべてな』

こいつ、さすが魔王だなと、リティルの背中を冷たい汗が流れた。ジュールは、必要ならば、シェラ以外の花の姫達の魂も滅ぼすつもりだ。その中には、最愛だと言った5代目花の姫・シレラもいるというのに。

 これは、風の王として、誤れねーな。リティルは息を吸った。

「……インジュ、そこにいるよな?」

『はい。ボクが行きますかぁ?』

「インラジュールについてくれ」

これは賭けだ。正統派でいくなら、魔王になることを宣言したジュールに付けるのはインファだ。インファなら、ジュールと話し合いつつ、決裂しても渡り合えるだろう。

『ええ?いいですけど……リティルはどうするんです?』

白羽の矢が立ったインジュも戸惑っていたが、リティルに異は唱えなかった。

煌帝・インジュは、殺さない殺人鬼で風の城最強の精霊だ。場合によってはジュールと意気投合して殺戮に走る危険もあったが、ジュールを殺さずに止めることができ、インファよりも確実に守ることができる。

「ラス、ノイン、風の城頼むな!それで、インファ、おまえが来てくれ。おまえしかいねーんだよ」

インジュをジュールにつけてしまったら、もう、インファを動かすしかなかった。

ラスは、花園とセクルースに目を光らせねばならないため、風の城に置いておくしかない。

ノインには、ルキルースに来る理由があるが、記憶を失っている。ルキルースは記憶と想いの国だ。今のノインとは相性が悪いのだ。

『はあ、そうですね。わかりました。ジュール、お手柔らかに頼みますよ?オレを、息子と争わせないでください』

『それは、花の態度によるな』

ジュールの気配がなくなったのを感じた。どうやら、先にルキルースへ来るらしい。

心配してくれてるのに、ごめんな。理に触れないように、力もかなり制限し、姿や名まで偽って、助けようと来てくれたインラジュールを裏切ったようで、リティルは心苦しかった。だが、彼は風の王だ。風の王に滅びという引き金を引かせてはいけない。精霊は、世界にとって必要だから存在を許されている命だ。風の王は世界を守る刃。敵対しても、鬱陶しくても、守るのが風の王だ。その理を、15代目風の王の為に、捨てさせるわけにはいかなかった。

 あいつも、父親気質だな。と、リティルは、かつて、リティルという息子の心を守るため、大切な記憶や名まで賭けて”ノイン”という精霊として生まれ変わった、14代目風の王・インのことを思っていた。

――父さん、父さんがここにいたら、どうしてた?やっぱり、花の姫達と争う選択したのか?

そして、インなら新たに産まれること前提の、皆殺しだっただろうなと思ってしまった。


 夢工房の夢魔は、幻夢帝が使う、知らない部屋にも扉を開ける幻夢帝の扉を使う事ができる。カコルは、ジュールの手助けをするために、ニココはインファを迎えに行くために、風の城と繋がる断崖の城へ向かったのだった。

取り残されたラナンキュラスは、どこかオドオドしていた。そして、リティルを遠巻きにしていた。リティルは寝かされていたソファーから動かず、ラナンキュラスは白いクロスのかかった丸テーブルの前に座っていた。2人の前にはそれぞれ、豪華なアフタヌーンティーが用意されていた。

「あ、あの、リティル様……」

ラナンキュラスは、カコルとニココが用意していってくれた紅茶やお菓子に手を付けず、意を決したように声をかけてきた。ただ、どこかおどろおどろしいティーセットやカップケーキのデザインに、食指が動かなかっただけかもしれないが。

「ん?」

遠慮なく紅茶をポットから注いでいたリティルは、顔を上げた。

「あたしも、リティル様が好きなんです。その……あたしも……サクラやキンモクセイみたいになっちゃうんですか?」

どうやら、サクラの乱心は彼女の心に傷をつけたらしい。どちらの花の精霊の姿も目の当たりにはしていないが、乱心したキンモクセイは、フロインの心臓を止めている。サクラは、何をしようとしたのだろうか。恐怖の夢魔達に強奪されたことを、ラナンキュラスは救出と受け取っている。少なくとも、身の危険は感じたということだろう。

「オレにはわからねーよ。知りてーのはオレの方だぜ?どうして、ろくに話したこともねー相手に、そこまで入れ込めるんだよ?」

「わからないです……あの!どうして、あたし達いるんですか?今イシュラースには、花の姫様も、至宝・原初の風もあるじゃないですか。イシュラースって、安定してないといけないんですよね?どう考えても、あたし達……」

リティルには、散ってしまう前のサクラにも、今目の前にいて俯いているラナンキュラスにも、リティル達と大して変わらない心があると思えてならなかった。

何か、引き金があるのだろうか。花の精霊が破滅する理由が。

「そういうなよ。少なくとも、君も、散る前のサクラも牡丹も、オレにはまともに見えるぜ?野の花達は、オレを敵視してるよな?オレ、何かしたか?」

ラナンキュラスはフルフルと首を横に振った。

「あの子達が何をしたいのか、あたしにも意味不明です!樹木の花たちは呆れてますよ!」

だから、淫魔の夢魔を頼って花園を出たんだと、ラナンキュラスは憤っていた。

「ハハハハ!オレの執事が、誰が神樹の森に爆弾を送り込んだのか調べたんだ。たぶん、野の花達は、死んだ方がマシなくらいの目に遭わされてるぜ?」

「でも、散ったら忘れますよ。それでまた、リティル様を苦しめるんです」

「なあ、歴代の風の王に、あいつらはそんな態度だったのかよ?」

「え?どうでしょう……?あたし、リティル様以外、イン様しか知らないです」

イン?14代目風の王・インだよな?と、1代前の無表情で冷たい瞳の、彫像のように美しい風の王の姿を思い出していた。

「インか。どんな王だったんだ?」

ラナンキュラスは、リティルがインの息子であることを知らないらしく、そうですねーと、少し考えてから口を開いた。

「みんなに恐れられてた風の王様でしたけど、みんなが怖がるような噂を流せって、言ってきた珍しい人でした。風の王が花園に関わってくるの、もう何代もずっとなかったから、それを知ってる花たちはいろいろな反応してました」

良いも悪いもあったらしいなと、ラナンキュラスの言葉のニュアンスから察した。

「自分で流した噂だったのか……インらしいな。インも、花の姫と何かあったのか?」

14代目風の王・インは、赤き風の返り血王という異名の王だった。インと共に二人三脚でいた時のリティルは、父親がそんな異名の王だったとは知らなかった。リティルにとってインは、守ってくれるただのいい父親だったのだ。

「そういう噂はなかったです。無表情で怖い王様だったし、姫様は神樹から殆ど出ないお方だったんです」

お互いに秘めた恋?父親の恋バナなど聞いたことはないが、インもシェラには甘かった。

イシュラースへ戻ってから、花の姫と風の王が番の関係だと知ったリティルは、インと共謀し、闇の王という魔物を討伐するためのシナリオを書いたインと、14代目花の姫・レシエは当然そんな関係だと思っていた。

しかし、花の姫と結ばれた風の王は、初代とリティル以外いなかったと知って、不思議に思っていた。グロウタース・双子の風鳥島に現れた悪意・闇の王を狩るため、インは死を見据え、レシエは存在を賭けたのだ。その地でインはリティルに後を託して死んだ。レシエはインの崩御の前に人間の娘に力を譲渡し、存在をなくしている。

確かな絆もなく、そんなことができるのだろうか?

 反乱を起こした花の姫の中に、14代目花の姫・レシエはいない。レシエは存在はなくしたが、魂は最後まで彼女のものだったはずだ。神樹の枝葉に残らなかった彼女は、未練がなかったと、そういうことだろうか。

父の愛した花の姫。会えるなら、会ってみたかったなとリティルは思ってしまった。

「牡丹ちゃんなら知ってるかも。牡丹ちゃんは、呪いにかかってなかったから。神樹の森に、姫様を訪ねてたんです」

呪いにかかってない?花の精霊に、風に近づけば散る呪いをかけたのは、賢魔王・インラジュールだ。異名からして魔法に長けた風の王だったことが伺い知れる王の魔法に、抗えるとは、花の精霊に接した限りでは信じられない。

牡丹……力を隠しているようには見えなかったが、風の王が計れないくらい、強い精霊なのだろうか。

 訪れた沈黙に、気まずさを感じたのか、ラナンキュラスはやっと紅茶をカップに注いだ。

悪いな。早く誰か戻ってこないかな?と思っていることが明白なラナンキュラスの姿に、リティルは罪悪感を感じていた。だが、いつものように気さくには話しかけられなかった。彼女は、リティルが好きだと告白してくれたからだ。それは、彼女自身からの牽制にも受け取れた。ラナンキュラスは、恋心を暴走させたくないのだ。そんな彼女に、リティルは近づくわけにはいかなかった。

 花の精霊を標的にしている花の姫達は、花の王のことを知っているのだろうか。彼女達は今、どこで何を?それを考え始めたら、ここで足止めを食っている場合ではないと、心が急いてしまった。

いやいやいや、花の姫達のことはジュールに任せたんだろ!とリティルは、何とか走りそうになる自分を押し止めた。

オレのやることは、シェラを捜すことだ!そう思って、やはり、焦ってしまう自分がいた。

余裕がなさすぎて、嫌になるな。とリティルは、シェラが調合してカコルとニココに渡したという紅茶に視線を落とした。

シェラ……花の精霊と一緒にいることを知ったら、ジュールが言ったとおり怒るだろうか。それとも、何も言わずに傷つくのだろうか。

だが、風の王としては、花の精霊を滅ぼすワケにはいかない。

彼女達は、命を産み出す力の司だ。死を導く力を持つ風の精霊とは反属性だ。加えて、大地の精霊でもあるのだから、真逆の位置にいるといっていい。花の精霊が、風の精霊を受け入れられないのは、道理だ。それを、ジュールがわからないはずはない。

陰口や悪意ある噂は、恋愛という駆け引きの中の醜い部分だ。

叶わないものを、綺麗な涙で終わらせられるのは一握りの者だけだ。そうでなければ、創作の中でさえ、恋敵という役回りの者がいるはずがない。

 読む者に、鬱陶しがられ嫌われる恋敵。その役を、花の精霊が演じている。

ナーガニアが花の精霊のせいで、風の王と花の姫は悲恋ばかりだったと言いたげだった。しかし、花の姫と風の王は番だ。運命が、他の誰とも恋愛することを許さない。

それは、道筋の定められた物語の主人公とヒロインのように。

物語?花の精霊にことごとく邪魔され、結ばれない物語を演じている?まさか、風の王の番は、花の姫だけではなく、花の精霊も?

風の王は、ルディルが風の王の証だけを切り離し、幽閉された為に産まれた精霊だ。至宝・原初の風をルディルが持ったままだったために、風の王は最上級精霊だったルディルに遠く及ばず、上級精霊でしかなくなった。そんな風の王を助けるために、花の姫があるのだとリティルは思っていた。

だが、番であるはずの風の王と花の姫は一向に結ばれず、15代目までその翼を散らした。

なぜ、結ばれなかったのか?花の精霊が邪魔をしたから?そんなことで、番の運命が邪魔されるものなのか?そんな関係を、番といえるのか?いや、言えないはずだ。

リティルは、顔を上げた。ラナンキュラスに、牡丹のことを聞こうと思ったのだ。古参の精霊だという牡丹は、風の王と花の姫の悲恋の物語のことを知っているのではないか?と思ったのだ。その矢先だった。

 バンッと静かな部屋に音が響いた。

ラナンキュラスは、怯えて席を立てなかったが、リティルは正面の庭に面した窓まで飛んでいた。壁に身を隠しながら、そっと外を覗く。

「リティル様……」

見れば、震えながら、ラナンキュラスが近づいてきていた。リティルは咄嗟に、ラナンキュラスの腕を引き、自分の身を隠す壁に隠れるように捕まえていた。ラナンキュラスが「ひっ」と息を飲んだのがわかったが、外から中の人影を見せるワケにはいかない。

 カコルとニココが報復と言っていたが、主導しているのは?花の精霊か?とリティルは思った。墓場の庭にいるのは、幼い少女の姿で、蝶の羽根を生やした緑色の髪の同じ顔の精霊達だったのだ。

ルキルースには、幻夢蝶という警備兵がいる。幻夢蝶も若い女性の姿をして、蝶の羽根を生やしているが、裸で、白目のない黒い瞳をしている。同じ顔という共通点はあるが、今、この洋館を包囲している者達は、花の精霊に見えた。彼女達は無表情に、手当たり次第に、何か緑色の丸いモノを館に投げつけていた。あれの1つが、この窓に当たったのかと、リティルは十字に木の枠の入った窓から観察していた。

「リ、リティル様……」

「ん?」

館の前の墓場の庭を観察していたリティルは、ラナンキュラスの困った声に、振り返らずに反応を返した。

「あの……手、放してください……」

「ああ?手?」

何のことだと怪訝そうに振り返ると、リティルは未だ、ガッチリラナンキュラスの腕を掴んでいた。

「ああ、悪い。オレの後ろから出るなよ?見つかると厄介そうだからな」

リティルは別段気にも留めずに、パッと手を放した。そして、窓の外にすぐに目をやりながら、そう言った。その姿が本当に他意がなくて、ラナンキュラスはホッとしていた。だが、掴まれていた部分がいまだに熱い。想ってはいけない人だとわかっているが、触れてもらえたことがこの上なく嬉しかった。

「あ、あの、なんなんですか?」

ラナンキュラスは、リティルに触れないように注意しながらその背中に近づいて声をかけた。この位置からは、窓の外を見えなかった。

「ん?攻撃されてるんだよ」

「え?恐怖ちゃん達が言ってた、報復ですか?」

恐怖ちゃんって……可愛いな。とリティルは思ってしまって、思わず笑いそうになってなんとか堪えた。ラナンキュラスは、なんというか娘のインリーのようで、場をホンワカと和ませる。こんな微妙な関係でなければ、楽しくおしゃべりできる相手だったろう。

「どうだろうな?オレの目には、花の精霊に見えるぜ?」

「……じゃあ……サクラちゃんが……」

背後で、ラナンキュラスが俯いたのがわかった。再会したサクラは、ツンケンしていたが、理性的でまともに見えた。そんな彼女が、どんな暴挙に出たというのか、リティルには想像がつかなかった。

「オレが寝てる間に、そんなに拗れたのかよ?どこに拗らせる要素があったんだよ?」

「わかりません!サクラちゃんも始めは、リティル様を匿って、事情説明して、何とかしてもらうつもりだったんです!……リティル様に滅ぼされるなら、それでいいって……」

――やはり、花は滅ぼされるべきですね

サクラはリティルにそう言った。そんなこと言うなよ……リティルは、そう言わせたのが自分のような気がして、心が痛かった。

「滅ぼさねーよ」

「え?」

「滅ぼさねーよ!おまえたちの暴走恋愛体質には、何か意味があるんだ。存在してることには意味があるんだ!それを、鬱陶しいって理由だけで、殺したりしねーよ」

振り向かないリティルの怒っているような強い声に、ラナンキュラスは感動していた。そして、衝動を抑えきれずに、小柄な風の王に後ろから抱きついていた。

「うわ!おまえ、暴走するなよ?オレ、ホントにシェラ一筋なんだからな!」

動揺しても困っても、リティルは嬉しそうなラナンキュラスを突き飛ばすことはなかった。そんなリティルに抱きつきながら、ラナンキュラスは何度も頷いた。

「はい!それでこそ、リティル様です!」

大好き!そう思った。なぜ、サクラもキンモクセイも、これで満足できなかったのだろうか。一途に想う相手がいることを知っていたのに、想う人の笑顔を奪うことをして……そうしなければ、リティル様は、ノイン様だって未だに、わたし達の顔を見て笑ってくれただろうに。

「!」

リティルが急に身を固くした。何かあった?とラナンキュラスは慌ててリティルから手を放していた。

「シェラ!ああ?この窓はめ殺しかよ!」

ガバッと、窓に齧り付いたリティルは、開けられない事に気がついて焦っていた。

「シェラ!」

ラナンキュラスが恐る恐る覗いた窓の外、白い光の矢達が、墓場の庭を埋め尽くす花らしき精霊に襲いかかる光景を見たのだった。


 シェラは今、心も体も行方不明だ。

あれは、行方不明のどちらなのだろうか。今すぐ彼女のもとへ行きたいが、ここは残留思念の迷宮だ。主人である夢魔も不在では、館の中がどうなっているのか見当もつかず、下手には動けない。カコルとニココは、迷い込む者を恐怖に落とすことを生きがいとしていて、この館は見た目通りではないのだ。彼等の許可なく、行きたい場所には行けない。

「インファ!シェラだ!館の前で戦ってるんだ!早く来い!」

リティルは、水晶球に怒鳴っていた。

『了解しました』

インファの短い返事を待たずに、リティルは逸る心で庭を見下ろしていた。

館の前に立ちはだかったシェラは、容赦なく弓を引き、放てば数本に分かれて飛ぶ矢を何発も放っていた。

風護る戦姫。彼女は、あったかもしれない平穏を捨て、リティルの傍らで戦うことを選んだ。

彼女がこのイシュラースで、他の花の姫達と同じように目覚めていたなら、風の王の為、こんな道を選んだだろうか。シェラはきっと、傍らに立ち戦うと言ってくれただろう。それを受け入れられないのは、きっとオレの方だっただろうなと、リティルは彼女の後ろ姿に思ってしまった。

「シェラ……」

加勢など必要ないくらい、彼女は強かった。そんなこと、リティルはとうの昔から知っていた。戦闘向きではなかったとはいえ、花の精霊もどきは数が多かったが、それを、彼女は傷1つ負わずに蹂躙してしまった。わかりきっていた結果だった。

「届かねーのか?どこに行くんだよ!シェラ!」

花の精霊もどきを蹂躙し、シェラは館を振り返ることなく、門を目指して歩いていた。

窓に拳を叩きつけて叫んだリティルの声は届かず、彼女の姿が、門の外へ消えた。

 その直後、インファと猫のぬいぐるみの姿をしたニココが到着したが、時すでに遅かった。インファがリティルのいる2階の窓を振り仰ぐのが見えた。そんな息子に、リティルは首を横に振ったのだった。

「父さん、遅くなってすみません。母さんの体が独りでに姿を眩ませた原因が、わかったんです」

窓の外を見ていたリティルは、背後でしたインファの声に振り向いた。ニココの開いた扉を越え、インファがこちらに立っていた。

「フロインです。フロインが、母さんの体が消失しないように霊力を込めたようで、どうやら、動力を得た体を遠隔操作している者がいるようですね」

「シェラだ」

「確かですか?」

「ああ!あんな戦い方ができるのはあいつだけだ。あいつが体を呼んでるのか?迷いがなかったぜ?」

インファは何事が思案した後、口を開いた。

「母さんとゲートで話せませんか?体を呼べるほど意識がハッキリしているのなら、父さんの声に応えるかもしれませんよ?」

そうだ。あいつは、意識が行方不明なのに、綿毛爆弾で怪我したオレを助けてくれたんだったと、リティルは思い出した。リティルの肉体に開かれたシェラと繋がる一心同体ゲートは開いたままだ。リティルは一縷の望みを賭けて、シェラに心で声をかけた。

『シェラ!答えろよ!シェラ!』

繋がっている気配はあるのに、彼女は答えなかった。シェラの意識が行方不明になってすぐ、声をかけたときと同じだった。

「……ダメだ。シェラ……」

「あ、あの!」

気落ちしたリティルに、意を決したようにラナンキュラスが声をかけてきた。

「あたし、シェラ様の行った道、たどれます!たぶん……」

「ホントか?」

ガバッと近づいたリティルの顔に、ラナンキュラスは気圧されながらうんうんと頷いた。

「は、はい!あの庭に下ろしてください。早くしないと消えちゃう!」

そうラナンキュラスが言い終わるか終わらないかで、リティルが鋭くニココの名を呼んでいた。

 ラナンキュラスは、雷帝・インファが怖かった。

彼の妻であるセリアを妬む花の精霊もいるが、ラナンキュラスは気が知れなかった。彼はたぶん、簡単に花の命を奪えると思う。気落ちしたリティルの様子に、咄嗟にそんなことを言ってしまったが、ラナンキュラスは、ここで別れて花園へ帰るべきだと本当は思っていた。インファも怖いが、リティルを傷つけるかもしれない自分自身も怖かった。

 庭に降りたラナンキュラスは、シェラの残した鱗粉が消えていないことを祈りながら、消えていてほしいと思っていた。

消えていたら、ここで別れることができる。リティルに危害を加えてしまうかもしれない心配もなくなる。

だが、シェラの鱗粉は残されていた。それも、クッキリと。

「シェラ様、リティル様を拒んでないです。鱗粉はホントに儚くて見えにくいんです。でも、ここからでも門まで続く筋が見えます。あたしなら、追ってきてって受け取ります」

今、離れ離れになっているという2人に、何があったのかはラナンキュラスはあえて聞かなかった。風の王夫妻の仲睦まじさはイシュラース1だ。精霊は恋愛感情に希薄な種族だが、恋愛感情を持たない精霊達も認めるほどの仲だ。初めから、つけいる隙などないのだから。

「ああ!追ってやるぜ!ありがとうな!ラナンキュラス」

「はい!」と笑いそうになって、ラナンキュラスはハッとしてインファを振り返っていた。視線の意味に気がついたようで、インファは苦笑した。

「父さんと母さんの不名誉にならなければ、オレが動くことはありませんよ。その場合でも、いきなり斬ったりはしませんから、そんなに怯えないでください」

インファは、花の精霊に関わることは初めてだ。インファの考える女性その者で、その上あまり思慮深いとは言えない彼女達に、用もないのにあえて近づくことはない。

しかし、ラナンキュラスは思っていたよりも、分別をわきまえて感じた。

「なんだよ、インファ、怖がられてるのかよ?ラナンキュラス、インファは中立だ。大丈夫だぜ?」

中立……態度や言葉に出さないだけで、心情的にはラスや他の一家の者と同じですよ?と思ったが、インファはニッコリ笑うに留めた。

本当に反感を持っていないのはインジュだけだ。インジュは「花の精霊って、あんまり頭よくないですよねぇ?その上恋するようにできてるじゃないですかぁ。これくらいはしかたないですよぉ」ととてつもなく寛大だった。そこまで知らないはずのリティルが、ジュールにインジュを付けたことを、インファは内心驚いていた。この人は、どこまでわかってやっているのだろうか。インファは感心しつつ、疑問だった。

「は、はい……。……あの、インファ様……」

オドオドと明らかに怖がっているラナンキュラスが、インファを控えめに見上げてきた。

「なんですか?」

「怖いままのインファ様でいてください!あたし、いつ発症するかわからないんです!そうなったら、斬ってください。あたし嫌です。リティル様を好きな気持ち、あんな、ドロドロしたモノにしたくないんです!」

そう言って、リティルから距離を取るラナンキュラスが、インファの目からも健気に見えた。そして、凶行に走りそうな素振りはなかった。今はかまっている暇はないのだが、インファのお節介が目覚めそうだった。

「花たちも、望んでいるわけではないんですね?何か歪みを感じますね。解いてしまったのは、ノインですかね?」

「シェラじゃねーのか?どっちにしても、今は探れねーよ。ラナンキュラス、頼んだぜ?」

「は、はい!あ、あの……」

「ん?なんだよ?」

「インファ様のそばにいても、いいですか?そ、それと……嬉しいんですけど、かなり嬉しいんですけど!名前、呼ばないでください!ごめんなさい!」

そう言うとラナンキュラスは、インファの背中に隠れてしまった。

「……そんな警戒するか?やりにくいな……」

あからさまに避けられて、リティルはポリポリと頬を掻いた。インファは背中に隠れて、リティルを伺うラナンキュラスを見下ろして、まるで妹でも見るような目で苦笑した。

「しかたありません。健気な花に免じて、オレが防波堤になってあげますよ。それでは、行きましょうか」

 インファがラナンキュラスを促すと、彼女は緊張気味にインファの腰の辺りの服を掴んで歩みを進め始めた。「歩きにくくねーのかよ?」と問うリティルに、インファは「よくこういう縋られかたをしますよ?」とまったく動じていなかった。

インファが怖いと言っていたのに、とリティルはラナンキュラスを案じたが、彼女がインファ以上に恐れているのは、オレだったなと思い直したのだった。

「ニココ、この先はどこに繋がってるんだ?」

『仮面の樹海ニャン』

「仮面の樹海?へえ、どこにも繋がってねー部屋もあるんだな」

『リティル様、仮面の樹海からここに迷い込んだニャン。覚えてないニャン?』

「ん?そうだったか?覚えてねーなー」

明らかにはぐらかしながら、リティルはシェラの出て行った扉を開いたのだった。


 仮面の樹海は、ルキルースに不慣れな者が大抵落っこちる部屋だ。

梢の見えないほど背の高い木々の立ち並ぶ森に、3人と1匹は立っていた。

「ここは、懐かしいですね」

風の城に、幻夢帝の居城である断崖の城直通の扉ができてから、この部屋に立ち入ることもなくなった。この部屋は、どこへでも繋がっている部屋だ。すべての部屋への扉が、この広大な森の中に隠されている。だが、地図も指針もなしには歩けない。ルキルースは常夜の国だが、外ではきちんと時が動いている。彷徨えば彷徨うほど、外では何年もの月日が流れているかしれないのだ。

「はは、あんまり思い出してほしくねーな。なあ、どっちに行くんだ?」

名を呼ぶな!とラナンキュラスに言われてしまったリティルは、インファの腰にしがみつくようにしているラナンキュラスを見た。その視線からあからさまに視線をそらしながら、オドオドと彼女は視線を彷徨わせて、ある方向を指さした。

「オレ達が先行しますよ」

インファはニッコリ笑うと、ラナンキュラスをしがみ付かせたまま歩き始めた。リティルは物言いたげだったが、ラナンキュラスに近づくわけにはいかず、小さく同意した。

 インファの腰にしがみ付いているラナンキュラスは、どこかを凝視して一心不乱に歩いていた。まるで、何も考えないようにしているかのように。

抗っている?とインファは感じた。そして、彼女はキンモクセイの結末も、サクラのことも知っているのだと思い至った。彼女達の姿は、ラナンキュラスには好ましくなく映ったことは確かだ。インファは今まで、花の精霊とはまともに会話することは無理だと思っていたが、彼女となら話せそうだなと感じた。

「ラナンキュラス、あなたは、現状をどう考えているんですか?」

「え?現状?現状って……?」

「今の状況です。あなた方は、報われないとわかっている恋に振り回され、散り急いでいるように見えますよ」

そう言われたラナンキュラスは、自嘲気味に小さくため息を付いた。

「あたし達、始まり方はわかるんですけど、終わり方がわからないんです。たぶんですけど、宿命なんです。だって、あたし達、種を残さないといけないから」

「それにしては、報われない恋ばかりですね。せめて、相手のいない者を選べばいいと思いますよ?」

「そうですよね……好きって気持ちが、恋愛だけじゃないことを、あたし、知ってるんです。でも、恋愛になっちゃうんです。リティル様を好きな気持ちが、違えばよかったのに」

ラナンキュラスは、チラリと盗み見るように後ろを振り向いた。リティルは、ニココに戯れ付かれ、笑いながら何事か楽しそうに話していた。

ニココはリティルが好きなのだ。しかしそれは、恋愛感情ではない。笑うリティルの頬に遠慮なく戯れ付くニココの姿が、ラナンキュラスには羨ましく思えた。

そして、自分自身を腹立たしく思った。

「好意を持ったら即恋愛って、おかしくないですか?あたし達にも選ぶ権利――ないのかな?すぐに散っちゃうし」

口を尖らせていたかと思えば、落ち込んでしまった彼女の様子に、何とかしてやりたいなという想いが、インファの中に芽生えてしまった。これは、インファの性だ。理や自身の持つ力のことで悩める者を放っておけない。頼る者、問題を抱える者の相談に乗っているうちに、いつしか精霊達はインファを精霊大師範と呼び始めた。

「あなたを見ていると、ノインの気持ちがわかりますよ」

「ノイン様?えっと、風の精霊だった方の?」

ラナンキュラスは、インファを初めて見上げた。

「ええ。未だに皆さん見慣れないようで、ノインを困らせていますね」

「それは、仕方ないと思います。だって、どう見てもノイン様ですし……ノイン様、お元気ですか?」

ラナンキュラスがどれくらい生きている精霊かわからないが、現在力の精霊に転成しているノインが、風の騎士だったころのことを知っているのかとインファは思った。

風の騎士・ノインも、面倒見がよかった。彼のベースは、歴代の中でも導く力の強かった14代目風の王だ。そのせいだったのだろう。ノインもリティルもインファも知らないところで、精霊達に頼られていた。

力の精霊に転成し、以前の記憶のすべてを失っているが、ラナンキュラスが今のノインを知っているということは、彼は花園を訪れたことがあるのだろうか。

「ええ。元気に風の王の兄をしています。ノインは、あなた方をどうしようとしていたのか、知っていますか?」

風の騎士は花園と関係があった。それをインファが知ったのは、風の騎士と離れた後だった。彼のプライベートを詮索したことはなかったが、花園と関わっている事を、話してほしかったなとインファは、恨めしく思った。だが、インファは女嫌いだ。それを知っていた相棒が、この件でインファを頼ることはまずあり得なかったなと思い直した。

「無意味に散らないようにしようとしてくれてました」

「それは、散って再び咲くというサイクルを、なくそうとしていたということですか?」

「そうだと思います。でも、それ、無理です」

「でしょうね。花の理に触れる行為です。それを、ノインがしようとしていたとは、信じられません」

ノイン……あなたは何を考えていたんですか?もう問えない問いを、インファは抱いた。

風の騎士は聡明で知識もあったが、もちろん知らないこともあった。しかし、理に精通していた彼の行いにしては……他に、意味があったのだろうか?とインファが思った時だった。ラナンキュラスが、インファが思ったことと同じ事を口にした。

「インファ様は、他の意味があったと思いますか?」

「どうでしょうか?問おうにも、今のノインには記憶がありませんからね。しかし、今の花は破滅に向かっていると言っていいと思います」

それとも、理に触れなければ花の精霊を守れないと思ったのだろうか。彼なら、滅ぼすという選択肢はなかったはずだ。彼が花園に関わっていたときから、花の精霊達は破滅の予兆があったのだろうか。今、インファが導かなければ滅びへ向かうと危機感を持ったように、彼も、同じように思ったのだろうか。だとしたら、だとしたら頼ってほしかったと、インファは寂しく思った。

今のノインは素直で、リティルに仇なすか、なさないかが基準だ。

ノインは、今回の人選に自分が選ばれなかったのは、風の精霊ではないからだと思っているが、それは違う。騎士だった頃も、リティルが一番だった。彼が影で何をしていたのか、インファは知っている。騎士は、今のノインよりも容赦がなかった。

違うのだ。リティルがパートナーに選んだ基準は、同行者が敵に回る可能性も考えて、リティルの許可なく殺さない者だ。騎士は、リティルの前ではリティルの心に従って殺さなかった。インファも同じだ。リティルが「殺せ」と言わなければ、花の精霊を斬ることはない。だが、今のノインは、自己判断で殺してしまう。それを直さなければ、今後もリティルがパートナーに選ぶことはないだろう。

 インファの言葉に、ラナンキュラスは思い詰めた声で答えた。

「だったら、リティル様の手がいいです。リティル様はそんなことはしないって、言ってくれましたけど、今のあたしもそんなに長くはいません。新しく咲いたあたしが、リティル様を苦しめるなら、その前に、リティル様を知ってるあたしがいるうちに、滅ぼしてほしいです」

「可愛いですね」

「はい?!」

ラナンキュラスは飛び上がるほど驚いた。そして、その顔が見る間に真っ赤になった。

「可愛いと言ったんですよ。そんなあなたを狂わせる、呪い、といいましょうか。解き明かしましょう。あなたが散る前に、間に合わなかったなら、すみません」

「え、あ、そんな、こと……。……あの……記憶、記憶だけ守る方法って、ありませんか?」

おや、こんなたわいない、約束にもならない約束を覚えていたいと思うんですか?とインファは思い、記憶を蓄積できない存在では思って当然かと思い直した。

記憶……オレ達はどこに記憶を蓄積しているのか……消えた記憶はどこへ行くのか――とそんなことを考えそうになって、インファは何とか意識を今へ引き戻した。

「それは、今回の事案の発端ですね。花の姫は、忘れるあなた達の何に復讐したいんですかね?」

「!花の姫様があたし達を?」

知らなかったのか?とインファは意外に思った。花の姫達はルキルースだ。そこへ、花の精霊達もこうして入ってきている。彼女達の思惑はどこにあるのだろうか。現時点で、花の姫が何を企んでいるのか、インファにもわからなかった。

「といっても、現在の花の姫の企てではありませんよ?13代目花の姫・シェレラです。どうやら母は、巻き込まれたようですね。そして、抗ってくれていると信じています」

所在不明の花の姫・シェラ。彼女は最近、花園のことで精神的に参っていた。花の精霊を庇う態度の夫にも思うところがあったろう。インファは正直、母がシェレラについたとしても仕方がないなと思っている。インファの目から見ても、最近の花園の態度は鬱陶しい以外の何者でもなかったのだから。

「……」

「復讐されてもいいと、考えていませんか?いけませんよ?」

押し黙ったラナンキュラスに、インファは優しく諭す言葉を落とした。

「でも!サクラちゃんとの噂も、そのあともこれだけ横恋慕して、あたし……!」

そう言ったラナンキュラスが、インファを引き留めるように足を止めた。

 どうしたのかと、彼女を見下ろすと、ラナンキュラスは、ジッと前方を見ていた。

「…………ここで、シェラ様は誰かと戦った?」

ラナンキュラスは、インファから離れるとタタッと巨木の間に所々ある広場の1つに足を進めた。

「どうしたんだよ?」

「リティル様!シェラ様、ここで戦ったみたいなんです。それで、鱗粉が乱れてて……」

「追えねーのか?」

「2手に分かれてるんです」

「シラミ潰してる時間は?」

「間違えると、もう消えちゃうかも」

でも、どうしたら?この鱗粉が見えるのは花の精霊であるあたしだけ……。とラナンキュラスは途方に暮れた。

「父さん、母さんは本当に答えないんですか?」

「ああ?ああ……なんかな、全力で無視してるみてーなんだ。あいつ……ホントはすげー怒ってるんじゃねーのか?それで、オレの意にそぐわねーことをするからって、婚姻の解消考えてねーよな?」

「母さんがシェレラに賛同したと言うんですか?あり得ません」

と、信じてると言った方が正しいが、1つだけ、確信していることが、インファにはあった。

「言い切るな。どうしてそう思うんだよ?」

「母さんは父さんを絶対に裏切りませんよ」

「あいつ、犠牲気質だぜ?」

「……セリアが言っていたんです。せっかく苦労して手に入れたモノを、少しも譲るのは無理だと。今、父さんが言い寄られている状況で、風の王妃の座を賭けるとは思えません。それこそ、父さんが許さないでしょう?」

「ああ、まあな。じゃあ、あいつはどうして……」

「母さんの体を遠隔操作しているのが母さんなら、母さんの意識体は花の姫達に囚われていると考えるのが自然ですかね?現状を打破するために体を遠隔操作しているのなら、鱗粉以外に道しるべを残していると思うんですが……」

「鱗粉追えるの、花の精霊しかいませんもんね。あたしがいなかったら詰んでました」

うんうんとインファの隣で腕を組んで頷くラナンキュラスが、リティルには可愛く見えてしまい、思わず笑ってしまった。その笑顔を見て、ラナンキュラスはインファの背中にサッと隠れてしまった。ああ、ヤバイヤバイ和んじゃったぜ。とリティルはフウとため息を付いた。

「……誰か、他の花がいればいいのに……」

インファの後ろで、両手で顔を覆ったラナンキュラスが呟いた。どうやら、身悶えたいのを堪えている様子の彼女を、インファは首だけで振り返った。

「そう言えば、襲撃を受けたと言っていましたね。父さんが残留思念の迷宮にいることがバレているのなら、誰か近くにいませんか?」

襲ってきたのは花の精霊だったことを考えると、指揮している者がいるはずだ。それも、見える位置に。そうしなければ、結末がわからないからだ。

「えっ!でも、いたとしたら……危険なんじゃ……」

「そもそも、何と戦ったんでしょうか?」

「幻夢蝶じゃねーのかよ?ルキがいねーんだ、あいつら殺気立ってるぜ?」

ラナンキュラスは、背中で2人の風の精霊の話を聞きながら、狭い広場を観察していた。

幻夢蝶というモノがなんなのかわからなかったが、蝶というからには羽根があるのだろう。とすると、これだけ乱れているのは、シェラの他の鱗粉が混じっているのでは?と思ったのだ。

「?」

今まで鱗粉にしか目を向けていなかったが、その下、地面に何か――

ラナンキュラスはインファの背中を離れると、地面に身をかがめた。これは、花びら?ラナンキュラスは小さな薄紅色のそれを拾い上げた。

「……………………サクラちゃん?」

ラナンキュラスがハッと顔を上げたとき、輝く金色が視界を塞いでいた。

「――サクラ……!」

その声はリティルだった。ラナンキュラスを庇い立ったのは、リティルだったのだ。状況が飲み込めていないラナンキュラスを立たせたのは、インファだった。

 ラナンキュラスは、インファに庇われながら、リティルの背越しにどこから現れたのかわからないサクラの姿を見たのだった。


 ほしい。奪い取ってやる!

渇いている。植物に渇きは厳禁だ。これは、本能の渇望に等しい渇きだった。

抗えない。サクラは、正常な判断力を奪われていることだけは辛うじて認識していた。

恐怖の夢魔が、リティルを攫ったことを突き止めたサキュウを言いくるめて、彼女の力を借りて恐怖の夢魔の部屋を襲ったが、やはり戦い慣れた風の王はそれでは動じず、気味の悪い洋館は沈黙したままだった。

そこへ、どこからともなく、シェラが現れた。

またしても邪魔を!サクラは、焦りに似た怒りを感じたが、風護る戦姫と呼ばれるシェラに敵うはずもなく、リティルに会えないまま手駒として作った幻を消し去られてしまった。

シェラはリティルと合流するものと思っていたが、意外にも彼女は1人移動を始めた。もしかすると、もうリティルは別の部屋にいるのでは?サクラは蝶の姿に化身するとシェラを追った。

 シェラは、満月の光と思われる光の差し込む巨木の森を、迷いなく確かな足取りで歩いていた。

その、後ろ姿がとても美しく見えて、サクラの渇きは増した。

この人がいるから、リティル様は手に入らない!そんな想いが湧き上がってしまった。

シェラがいなかったとしても、リティルが選ぶかどうかわからないとわかっているはずなのに、ドロドロとした衝動が抑えられなかった。

気がつくと、サクラはシェラを後ろから襲っていた。簡単に避けられると思っていたが、サクラのナイフは、シェラの片羽根を傷つけていた。シェラは振り向くことなく地を蹴ると、すぐさま癒やした羽根で飛び去った。サクラは無視されたのだ。

彼女の淡泊な反応にも唖然としたが、何より、花の姫を衝動的に傷つけてしまったことに今更動揺していた。

「わたしは……なんということを……」

サクラはやっと、自分自身に恐ろしさを感じた。しかし、抗う術がわからなかった。

「あなたも同じだった?だから、ノイン様に殺される道を選んだの?キンモクセイ……」

敗れた恋の終わらせ方がわからない。わたしたちはなぜ、こんな苦しみを?そう思って、だから散ると記憶を失うのかと思い至った。この苦しみから解放されるため、わたし達は記憶を失うのだとサクラは悟った。

「リティル様……」

リティルに会えばこの苦しみは終わるだろうか。サクラの脳裏に、傷つけられても立ち上るような光を失わない瞳の、小柄な風の王の姿が思い出されていた。

皆を引き付けるその瞳……ラナンキュラス、キンモクセイ、そして、花の王である牡丹の心までも引き付けてしまった。キンモクセイと牡丹を、恋敵と認識してしまったサクラは、彼女達のところへは最早戻れなかった。リティルを庇ったラナンキュラスにナイフを向けてしまったから。自分を気にかけてくれたリティルを案じているキンモクセイ、ただリティルを想っているだけの牡丹を、傷つけたくなかった。

 シェラを追えず、思考の停止していたサクラは、花の気配を感じてモンシロチョウに化身すると木の幹に留まった。

現れたのは、雷帝・インファの腰にしがみついたラナンキュラスと、その後ろをついてくる、リティルの姿だった。

雷帝・インファという精霊のことは、サクラは噂程度しか知らなかった。とても見目麗しい精霊で、花たちの中には彼のファンがいる。ラナンキュラスは広場に先に入ってくると、キョロキョロと視線を彷徨わせた。どうやら、シェラの鱗粉を追ってきたようだ。

困っているようなラナンキュラスに、リティルが話しかけ、彼女は応対していた。その姿が、仲よさげに見えて、サクラの心を嫉妬が支配した。ラナンキュラスがリティルを避けている姿など、目に入らなかった。

ラナンキュラスが1人、風達から離れて無防備に広場の中程まで出てきた。サクラは、気がつけば膝を折った彼女の前に舞い降りていた。

「――サクラ……!」

ラナンキュラスを、リティルが躊躇いなく庇いに来るとは思わなかった。花の精霊が自分にとって危険な精霊であることを、彼は身に染みてわかったはずなのに……。

サクラは、不意に視線の交わったリティルの瞳を、止まった思考で見つめ返していた。

硬い表情。ラナンキュラスには、微笑みすら見せていたというのに……。

「ここで争っちゃダメです!鱗粉が消えちゃいます」

さらにインファに庇われたラナンキュラスが言った。彼女の肩に、見慣れない猫のぬいぐるみが乗っていた。ボタンの瞳で表情はないはずなのに、敵視されている視線を感じた。

「――え?」

硬い表情のまま、小さく息を飲んだリティルに、サクラは抱きしめられていた。

「ごめん!オレが君を選べねーのは、オレのせいなんだ!」

え?何を言って――とサクラは混乱していた。敵だとわかっている相手に、刃を向けるではなく抱きしめる彼の行動が理解できなかった。

「シェラがいるから、君を選べねーんじゃねーんだ!オレが、あいつを諦められねーんだ!サクラ、許せねーなら、オレを刺せ!それで気が済むなら、いくらでも!」

この人を、傷つけられるわけ――そう思って、サクラは、リティルの心を傷つけたことに気がついた。傷つけたくないのに、存在しているだけで傷つけてしまう。そんな存在になってしまったことが、サクラには酷く哀しかった。

――リティル様……わたし達は、止まれません……終わらせてもらう以外にないのです

サクラはリティルを突き放した。

「シェラ様はここを通りました。ラナンキュラス、この鱗粉の乱れが見えるでしょう?」

ラナンキュラスがハッとした顔をした。そして、察したようだったがインファの後ろで言葉を失っていた。サクラは、フフと冷たく微笑んだ。

「この鱗粉の量。わかるでしょう?シェラ様の羽根を散らしたのは、わたしです」

サクラは、リティルが斬ってくれることを期待した。それでもう、この存在がリティルを傷つけることはなくなる。それが、最善だと思った。しかし、リティルは辛そうに瞳を伏せていった。

「そうか……サクラ、シェラはどっちに行ったんだ?」

「リティル様!なぜですか!」

「シェラはな、案外嫉妬深いんだ。あいつが見逃したなら、オレが君を斬るわけにはいかねーんだよ。サクラ!教えてくれよ!あいつは、シェラはどっちに行ったんだ!」

リティルは揺るがない。ラナンキュラスはそう感じた。この人は、斬らないと決めたら絶対に斬らないと思えた。けれども、サクラも退けないような気がした。シェラの残した鱗粉は薄れ始めている。急がなければ、サクラが教えてくれたとしてもたどり着けないかもしれない。

 どうすればいいの?ラナンキュラスは焦る頭で懸命に考えていた。だが、経験の少ないラナンキュラスには何も導けはしなかった。

「牡丹ちゃん……」

どうして、ここにいるのが牡丹じゃないんだろう?と、ラナンキュラスは思ってしまって俯いた。花の王の牡丹なら……と自分の無力を呪っていると、振り向かないインファが言った。

「大丈夫ですよ」

顔を上げたラナンキュラスの耳に、どこからか、明るく歌う若い女性の声が聞こえてきた。この声には、聞き覚えがある。

「インリー様?」

ラナンキュラスがどこから?とキョロキョロしていると、インファがそっと背を押して隣に並ばせた。インファの手には、いつの間にか水晶球が乗っていて、歌声はその中から聞こえているようだった。

「オレ達風にも、命を奪う以外にできることがあります。オレの妹は、それができる風なんですよ?」

──心に 風を 魂に 歌を 君といられるなら 怖いモノなど 何もない

──花の香りが この身を包む 叫べ 風に攫われぬうちに

──痛みと 涙が 君を曇らせても 歌え この旋律を 心のままに――……

何とかなる!ラナンキュラスは唐突にそう思った。明るく元気づけるような歌声に、心は急浮上していた。それがわかったのか、インファが小さく笑う声を聞いて、ラナンキュラスは彼を見上げた。優しい見守る者の瞳で、ラナンキュラスを見下ろしてインファは笑っていた。そして「もう、一押しですね」と言うと、インファもインリーの声に合わせて歌い始めた。見れば、サクラが頭を抱えて苦しげに喘いでいた。

 そして、ついにうずくまったサクラの前にリティルは膝を折った。

「リティル様……わたしは、あなたを、傷つけたくありません……!けれど、どうしようもないのです!」

顔を覆って泣き出したサクラの肩に、リティルは触れていた。

「ありがとな。君は、オレの知ってるサクラだよ。君はオレに心をくれたとき、そう言ってたぜ?抗えよ、サクラ!」

「無理です!わたし達は所詮妖精!自我を持たない力の塊に過ぎません!」

流れる涙を拭わずに、桜はリティルに訴えた。

「自我ならあるだろ!オレを好きだっていう想いが、おまえにはあるだろう!知ってるなら教えてくれよ。花の精霊に、何があったんだよ!」

サクラは激しく頭を振った。

「わかりません。わたし達は本当に、妖精なんです……!リティル様……関わるべきはわたし達ではありません。花の王です……牡丹を、救ってください」

サクラはフワリと立ち上がった。その顔に浮かんでいたのは、あの日、散る間際にリティルに好きだと告白してくれたときに見せた、優しく幸せそうな微笑みだった。

「わたしの想った人が、あなたでよかった……」

――ああ……失いたくない……この想いだけ……

サクラの手には、ナイフが握られていた。あまりに綺麗な微笑みに見とれていたリティルは、彼女の凶行を、止めることはできなかった。

「サクラ!」

サクラはナイフを自らの心臓に突き立てていた。

『わたしは……誰の好きにもされない……!』

痛みに歪み、涙する瞳に確かな意志があった。リティルの腕の中で、サクラの体が無数の花びらとなって散っていく。

『笑って、ください……』

泣きそうな顔で見送るリティルの頬に、サクラは手を伸ばしたが、手は頬に届くことなく花びらに変わった。

「どうして……!諦めるなよ……!諦めちまったら、そこで終わりなんだ!」

――わかっています。けれども、渇きが、許してくれないのです……

サクラはすでに答える声を奪われていた。残せるモノがあるとするなら、笑顔だけ。殆ど知りもしない花のために泣いてくれるこの人に、せめて、明るい顔で覚えていてほしかった。散りゆくサクラは、微笑みを浮かべたまま瞳を閉じた。こんな、穏やかな心で散ることができるなんて、幸せだとそう思った。

――さようなら、リティル様

サクラの意識は途切れた。


 リティルは眠りに落ちたサクラの体を横たえると、顔を上げた。

「よかったのかよ?2人とも」

リティルの声で、2人はサクラを挟んで向かいに膝を折った。

「あなたが泣いているのだから、わたしが力を使う理由としては十分だわ」

神々しい女神は、その顔に似合いの微笑みを浮かべていた。

「妹の歌を撥ね除けて、死を選んだ精神に答えたまでです。その理由が、父さんを傷つけないためだというんですから、オレとしては救いたい命ですよ」

風の王夫妻の実の娘、風の姫巫女・インリーの風の奏でる歌には、争いを鎮め、死へ向かう心を繋ぎ止める力がある。その歌声に、共に歌う者の歌の力を底上げするインファの歌声が重なっていた。己を刺すことを選んだサクラは、特殊とはいえ中級精霊の身の上で、風の最上級と上級精霊の力ある歌に打ち勝ったことになる。

インファは、次元を斬ることのできる白い華奢な剣――風花の剣を使い、ここと風の城の応接間を繋げ、シェラの次ぎに強力な治癒魔法を操れるフロインを呼んだのだ。リティルが1番の女騎士は、副官の要請を快く受け入れて、サクラの死を食い止めてくれた。

「それに、サクラは道を示してくれました」

立ち上がったインファの視線の先に、薄紅色の細い線が森の奥に向かって描かれていた。

『桜の花びらニャン。こんなに散って、この人大丈夫ニャン?』

ラナンキュラスの肩にいたニココがヒュンッと飛び出して、薄紅色の線を踏まないように降り立った。

「死んだと思っているでしょうね。リティル、サクラのことはインリーが引き受けるわ」

見れば、インファの斬った空間に開いた傷のようなゲートから顔を出して、母親譲りの長い黒髪を三つ編みに結った思春期の女の子が、心配そうにその金色と紅茶色の瞳でこちらを伺っていた。インリーだ。インリーは、ゲートが閉じないようにしていてくれているようだ。

「ああ。あいつなら、話、聞いてやれるな。……インファ、牡丹を捜してくれねーか?」

インファはサクラを抱き起こしながら、未だ座ったままのリティルをため息交じりに見下ろした。

「言うと思いましたが、1人で行くんですか?」

「1人じゃねーよ。ラナンキュラスも一緒だぜ?」

「ええっ!?あああああの!あたしもサクラちゃんみたいになっちゃいますよ?」

「ならねーよ」

「え?」

「ならねーって、強く願うんだ。ルキルースじゃ、それが力になるんだよ。サクラは、その力を使って、インリーの歌を撥ね除けたんだ。フロイン、ニココ、インファについてくれ。シェラを見つけたらフロインに伝えるからな。ニココ、扉繋げてくれよ?」

ハアと、インファは聞こえるように大きくため息を付いた。

「それを承諾すれば、2人と1羽に大いに責められますよ。ジュールはあなたの保護者気取りですし、インジュとノインは、言わずと知れています」

「聞けねーって?」

「はい」

睨み合う、2人の間でラナンキュラスはオロオロしていた。険悪な雰囲気を吹き飛ばしたのは、フロインの打ち鳴らした手の音だった。

「花の精霊のことは、わたしとノインが風の城へ連行するわ。心配しないで。わたしとインリーがきちんと守るから。インジュがこっそり教えてくれたのだけれど、レジーナとルキを取り戻したそうよ。ジュールが何か企んでいるようだから、あなたも急いだ方がいいわね」

フロインはテキパキとサクラを抱き上げると、1度ゲートの中に頭を突っ込み、しばらくしてノインと共に頭を戻した。

「……おまえの命なく殺さないと誓おう。リティル、シェラを早く迎えに行ってやれ」

正直許したくはない。と、ノインの表情は硬かったが、彼は大人だ。リティルは張り詰めていた息を吐くと、やっと笑った。

「ああ、頼んだぜ?将軍夫婦!ニココ、2人をサキュウって言ったっけ?そいつの部屋に連れて行ってやってくれ」

『お任せニャン!』

ニココは、ヒュンッとフロインの肩に飛び乗った。

「インファ、ラナンキュラス、行こうぜ!」

ラナンキュラスは不安そうにしていたが、インファがそっと肩を叩くとなんとか頷いたのだった。

 フロインとノイン、ニココと別れ、桜の花びらの続く方へ向かうと、巨木の根の間に、古めかしい扉がぽつんと佇んでいた。

苔むし、一見すると木の一部のようで、絶対に見逃す自信がある扉だった。隠されている。もしくは、触れないでほしいという拒絶を感じる。

リティルは、この扉の奥にシェラがいると、根拠なく確信していた。リティルは、1度大きく息を吸うと、その扉を開いたのだった。


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