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一章 英雄王の影

 現在は15代目風の王・リティルが世界の刃として、世界を守っていた。

底なしの優しさで魂を導く彼は、歴代1小柄で精霊的年齢が若かったが、烈風鳥王と呼ばれ、精霊達に慕われていた。

太陽の影に封じられた、死の蓋が開いてしまう、皆既日食を殆ど被害なく終わらせ、精霊達はますますリティルを称えたが、同時に、太陽の影から這い出ようとした巨大な骸骨の姿を、全世界に焼き付けてしまった。

 花園に住まう花の精霊達は、あんなものを皆の目にさらしたのは、風の王の失態だとリティルを、彼の率いる風の城を糾弾したが、多くの精霊が風の城に味方したために、大きな騒ぎにはならなかった。

だが、あの日を境に、精霊達の住まう異界・イシュラースで不気味な影が目撃されるようになっていた。

その影は噂の域を出ず、だが、風の城は影の存在を重要視し、解明へと動いていた。

「――その影、インティーガで間違いねーのかよ?」

風の城の応接間は、恐ろしく広いが、殆ど家具のない部屋だった。聳えるようなガラス窓のそばに置かれた、コの字型のソファーを中心に、城の住人と来客がゆったりと座れるように、二重にソファーが置かれていた。

 ワインレッドの布張りのソファーに座り、口を開いたのは風の城の主である風の王・リティルだ。

リティルは、金色の半端な長さの髪を、黒いリボンで束ねた、小柄で童顔な青年だ。彼の背には、風の王の証である金色のオオタカの翼があった。そんなリティルの、金色の光が生き生きと立ち上る瞳に頷いたのは、机を挟んで斜め向かいに座る、額から鼻までを仮面で隠した、リティルよりも十は年上に見えるミステリアスな男性だった。

仮面の穴から見える艶やかな黒い切れ長の瞳は、怒りを押し殺して見えた。

「ああ、間違いない。あの言葉を、オレはヤツ本人から聞いた。この場に、インラジュールを召喚できるのなら証言させたいくらいだ」

力の精霊・ノイン。

血の繋がりはないが、リティルとは兄弟の関係だ。ノインの背には、濡羽色のオオタカの翼があった。

「兄貴、私情挟んでるだろ?はは、オレを殺そうとしたって?同じ風の王としては、信じられねーな」

「オレも信じたくはない。記憶はなくしたが、オレも14代目風の王・インを源流に持つ者だ」

普段冷静なノインには珍しく、心を落ち着けられないらしい。そんなノインの様子に苦笑して、リティルは机を挟んで向かい、ノインの隣にいる、見目麗しい風の精霊に視線を移した。

同性でも思わず二度見してしまいそうなほど整った顔立ちの、髪の長い青年は、視線を受けて、金色の温かな切れ長の瞳をリティルに向けた。

金色の長い髪を、肩甲骨の辺りから三つ編みに結い、金色のイヌワシの翼の間に垂らしている彼は、雷帝・インファ。リティルの息子だ。

精霊は、その存在として目覚めた時から容姿が変わらない。その容姿は、父であるリティルよりも年上に見えた。

「インファ、インラジュールに話聞いてきてくれねーか?あいつ、オレに入れ込んじまったみてーで、オレとノインは会えねーんだよ」

「了解しました。父さん、彼に伝言はありますか?」

「ん?何とかやってるから、心配するなって言っといてくれよ」

照れたように困ったように笑うリティルに、インファはニッコリ微笑むと、城の奥へ続く扉に向かって、すぐさま飛んで行ってしまった。

 すべてを言わなくても伝わる息子の背を見送って、リティルは「さて」と自分の隣にいる1人の風の精霊に視線を合わせた。

インファは男性寄りの中性的な容姿だが、隣の彼は女性的で、キラキラと輝くような金色の髪をしていた。リティルの視線に気がつき、白に青と緑の入り交じる不思議な色の瞳を、向けてきた。

「インジュ、今のところ、何ともねーんだな?」

長い髪を、三つ編みハーフアップに結った、金色のオウギワシの翼を持つ風の精霊は、コクリと頷いた。

煌帝・インジュ。インファの息子だ。現在インジュは、件の影・インティーガの影に悩まされていた。

「ありませんよぉ。あんまり頻繁に出てくるんで、もう慣れちゃいました。死とは何か。本当に憎むべきモノは何か、わかるか?って、しつこいです」

ケロッとしたインジュは、精神的にも参っている感じはなかった。

「意味はわかるか?」

ノインの鋭い視線を受けて、しかしインジュは怯むことなく平然と答えた。

「はい、たぶん。忘れられちゃうことだと思います。でも、それが何です?生きていてくれることのほうが、いいに決まってます!」

不快感をあらわに、インジュはソファーに身を沈めた。

「……忘れたほうとしては、感謝しかないな」

「ハハ、オレそれで無茶苦茶おまえのこと罵ったよな!ハハハハ。よくオレのこと、嫌いにならなかったよな!」

「くっ、すまない……」

ノインの言葉に、遠慮なく笑ったリティルに、ノインは俯いてしまった。

「凹むなよ!言い返してくれよな!あの時は大人げなかったぜ。ごめんな、兄貴。おまえはこうやって戻ってきてくれたじゃねーか。思い出は、また作ればいいって言ってくれたの、おまえだぜ?」

ノインにとって、今こうやって隣で屈託なく笑っているリティルと一緒にいられることは、奇跡だった。

ノインは、命を繋ぐために今までの存在を捨てて、力の精霊に転成した。その時、代償としてすべての記憶を失ったのだ。

リティルは、ノインが記憶を失う切っ掛けに関わってしまった為に、忘れられた哀しみをどうすることもできずに、ノインとの関わりを絶つしかなくなった。今も、ノインには記憶がない。それでもこの城の住人に、あなたはノインだと受け入れられてここにいた。

「それを言った記憶すら、オレにはない」

「ノイン、ふざけて悪かったよ。怒らないでくれよ」

いつもならリティルの悪ふざけに乗ってくれるというのに、そうしないノインの様子に、リティルは傷つけた?と心配になった。

「いや、怒っているわけでは……気にするな、リティル。少々思うところがあるだけだ」

ノインは遠慮なく、本当に遠慮なく、風の王の頭をポンポンとその大きな手で叩いた。

「ホントか?また思い詰めて、とんでもねーことしようとしてねーよな?」

「それはない。案ずるな。リティル、オレはそんなに頼りないのか?」

リティルを心配させている要因が確かにあるが、力の精霊として覚醒した今、自分でも心が落ち着いていることがわかる。ノインは思わず問うてしまった。

「そんなことねーけど……」

あ、まだ距離感掴めてないんです?と、インジュは言い淀んだリティルに苦笑した。

「頼られてますよぉ、ノイン。リティルって、精霊的年齢19才ですよぉ?普段そう見えますぅ?見えないでしょう?でも、ノインといるときのリティルは外見と中身が釣り合って見えるんですよねぇ。それって、凄いことだと思いません?この世界で、可愛いリティルを引き出せるの、ノインだけなんですよぉ?」

……いいのか?おまえがリティルを可愛いなどと言ってしまって……とノインの顔に書いてあった。それに、19はもう大人では?とも読み取れて、リティルは笑ってしまった。

「ハハハ。強がってるのも疲れるんだよ。けど、可愛いのか?それはちょっと、我慢しねーとな!オレ、こんな容姿だからな、威厳ねーし。ってことで、ノイン、しばらく甘やかすなよな!」

「それは、無理だ」

ノインは即答で返してきた。素直というか、なんというか、これはちょっと照れるなとリティルは再び笑った。

「ハハハハハ!兄貴なおまえが大好きだぜ?ノイン」

「ボクもリティルは甘やかします!甘えてください!さあ、どうぞ!」

悪ノリするインジュに、ノインはまた物言いたげだった。今のノインを見ていると、記憶を失う前の彼も、これだけ言いたいことがあったのか?とも思えたが、ただ、ツッコミ気質なだけか?とも見えた。しかし、ツッコミ始めたら始終し続けそうだなと、それはそれで、疲れるノインも見てみたいと思ってしまった。

 肩書きを無視すれば、見た目からもわかることだが、インジュの方がリティルよりも遙かに精霊的年齢は上だ。そのインジュよりも、さらにノインの方が上だ。リティルは、18人の精霊が暮らすこの城で、下から数えた方が早い若い王なのだ。

「今は逆だろ?甘えさせてやるぜ?インジュ」

抱きついてきたインジュを引き剥がしながら、リティルは話題を仕事へ戻す。

「甘えたいのは山々なんですけどねぇ。ボクの前にしか出てきませんし、どうしたら……」

即仕事モードに切り替えられるインジュは、本当に器用だなと思う。

「話はできないのか?」

「いろいろ言ってみてるんですけど、言葉が返ってきた事ないですねぇ」

「いろいろって、何言ってみたんだよ?」

「わかりますけど、憎まないとか?あ、考えてみたら、同意は一回もしてないかもですねぇ」

「同意?忘れられて哀しいとでも言うのかよ?」

「はい。試してみる価値、ありません?あれはたぶん、生きてる人に何かさせたいんですよぉ。それか、取り憑くとか?取り憑かれると、ちょっと困りますねぇ。リティル、インラジュールさん、ここに召喚してくださいよぉ」

「”インジュ”にだって、限界あるぜ?まあ、待ってろよ。うちの副官が話しに行ってるんだからな。たぶん、何か考えつくぜ?」

「お父さんと相性悪くありません?だって、インラジュールって色欲魔ですよねぇ?お父さん、女性苦手ですよぉ?」

「しかたねーだろ?三賢者のうち2人があいつと縁ができちまったんだからな」

「ボクが会っちゃダメなんです?」

当事者ですよぉ?と言うインジュは正しい。だが、リティルは、インジュとインラジュールを会わせることに抵抗があった。

「へ?え、うーん……」

「リャリスのことなら、何言われても平気ですよぉ?何か隠してます?」

「そういうわけじゃ――」

「リティル、隠すの下手になりましたねぇ。いざとなったら、お父さんに庇ってもらいます。ので、行ってきますね!」

インジュはフワリと微笑むと、リティルの答えを待たずに翼を広げて、城の奥へ向かって飛んで行ってしまった。

「インジュ!」

「信じてやれ。インジュは情緒不安定なところはあるが、芯の強い精霊だ。傷のあるインジュに頼ることは気が引けるが、ヤツの影、野放しにはできない」

インジュを引き留めようとしたリティルの腕を机越しに掴み、ノインはピリピリと険しい顔をしていた。リティルは、素直に言うことを聞くと、ストンッとソファーに腰を下ろしたのだった。

「兄貴、インティーガをやけに警戒するよな?あのとき、何かあったのかよ?」

ノインは、生きてここにいるリティルに、真っ直ぐ視線を合わせた。あのとき、ノインが間に合わなければ、どうなっていたか……リティルは死んでいたかもしれない。

 あの時――リティルは、開いた死の蓋を閉じるため、自身の血と霊力を使い、1人戦った。皆既日食のあの日、風の王の行う儀式と重なってしまったのだ。

その儀式とは、死の安眠。風の王だけが挑める、10年に1度の儀式だった。成功すれば、死の力を弱めることができ、リティルはその儀式に持てる力をすべてつぎ込んで、死の蓋を閉じたのだ。

ノインは、転成精霊だ。元は風の騎士という名の精霊だった。現在は力の精霊だ。力の精霊となってしまったために、死の安眠から閉め出された。これまで、リティルと同じ金色のオオタカの翼で、強がるリティルをさりげなく守ってきたらしいが、風の力をなくしたためにそれができなくなってしまった。この儀式に、ノインは目覚めてからずっと、リティルと共に挑んでいたのに、皆既日食と重なるという最悪な状況で、ノインはリティルを1人行かせるしかなかった。それを覆してくれたのは、智の精霊・リャリスだった。

リャリスのもたらした、失敗すれば死があるかもしれないその方法を使い、ノインは、リティルの窮地に間に合った。

そのとき、ノインはリティルに刃を向けるインティーガと対したのだ。

リティルが覚えていないのは、魔方陣を維持する為、殆ど意識のない状態だったからだ。

「ヤツは復讐を仄めかした。蒔いた種というものが、あの影ならば育つ前に対処しなければならないだろう?」

「復讐か。いったい何に復讐してーんだろうな?」

「わからない。だが、世界に何かあれば矢面に立つのは、おまえだ」

「オレのことは背負うなよ?」

「それはオレの勝手だ」

「はあ。オレにそんなに入れ込むなよな。兄貴の力は、危険な力なんだぜ?オレ、嫌だぜ?風の王として、おまえと敵対するのはな」

「安心しろ。オレの中にあるおまえの騎士と父の知識が、オレを止めてくれる。大丈夫だ」

「ホントかよ?インジュ以上に何しでかすかわからねーからな、兄貴は!」

そう言いながらも受け入れて笑うリティルが、ノインには手放しがたい。今まで生きてきた記憶を失って、1からリティルとの思い出を作っていても、リティルの、ノインからすれば小さな手の温度は変わらない。この体が覚えていることも、確かにあるのだ。

何があったのかは知らないが、この体と心は凍えやすい。それを、リティルは笑顔1つで温める。ノインが生きるために、リティルは必要なのだ。それを、リティルは理解できないだろう。それでいい。ノインは生存本能に従っているだけなのだから。

故に、インティーガを許してはおけない。ヤツは、リティルに刃を向けた。ノインにとって、戦う理由などそれだけで十分だった。

――オレのことは背負うなよ?

そんな言葉で、オレを遠ざけてくれるな。風の騎士・ノインには、強がって反発ばかりだったというリティルが、力の精霊・ノインには素直なのは、今のオレが彼より頼りないからだと心得ていた。

 普段より感情的なノインの様子に、リティルは危うさを感じていた。

記憶を失ったノインは、記憶を失う以前と何ら変わらないが、記憶とは経験だ。知識はあるが、経験は赤子並。それでも精神はリティルよりも成熟した大人だ。大事ないとは思うが、気をつけねーとなと、リティルはノインを案じていた。


 5代目風の王・インラジュール。

インファにすれば、遙か昔に崩御した王だが、彼に会う方法が、この風の城にはあった。

鬼籍の書庫という、死者の一生が書かれた本が保管されている場所が、風の城の地下にある。その場所を管理する風の精霊は、鬼籍から死者の心を呼び出すことができる固有魔法・死者召喚を使えるのだった。

しかし、呼び出せる死者は、縁のない者と決まっている。

5代目風の王・インラジュールとリティルとノイン、そして時の魔道書・ゾナは、死の蓋が開いてしまう皆既日食の時に深く関わってしまい、友と呼べるほどの縁ができてしまった。故に、会うことができなくなってしまったのだった。

そして、風の王の養女である智の精霊・リャリスは、インラジュールの実の娘だ。現在の風の城と、5代目風の王・インラジュールは浅からぬ縁があるのだった。

 鬼籍の書庫は、風の城有数の美しい部屋だ。

天井には疑似の太陽が浮かび、照らされるは丘陵と小川の流れる庭園だ。花桃と、桃の果実、柳が植えられ、水榭と呼ばれる東屋が、蓮の浮かぶ池の畔に建っている。池をジグザグに横切る九曲橋がかかり、対岸にある水榭と繋がっていた。

「おお、雷帝殿」

出迎えてくれたのは、浅黒い肌の屈強な肉体の老人だった。白い膝裏まである長い髪をポニーテールに結い、背には骨となったハゲワシの翼が生えていた。

「ファウジ、死者召喚で5代目風の王・インラジュールを呼び出してください」

無常の風、門番・ファウジは、インファの言葉に頷いた。

「インジュ王とな?この間から引っ張りだこじゃな」

苦笑したファウジは、どこかインラジュールと今し方までいたような雰囲気だった。それは気になったが、それよりも興味があることがインファにはあった。

「どんな王なんですか?」

絆されやすいリティルはともかく、ノイン、それにゾナまでもが信頼を寄せる王とあっては、知識欲の塊であるインファは興味しかない。

しかも、彼の異名は、賢魔王なのだ。

「甘いマスクの、得体の知れない王にございまする」

壁のない水榭の中で、大きな水晶球の嵌まった机の前に腰掛けていた、病的に白い痩せこけた男性が答えた。黒い膝裏まである髪をポニーテールに結い、彼の背にも骨となったハゲワシの翼があった。

無常の風、司書・シャビだ。シャビに悪意はない。印象をそのまま口にしただけだ。

得体の知れない王。その印象は、インファにもあった。彼は知識を求め、有りと有らゆる知識を蓄える精霊の至宝・蛇のイチジクに触れてしまい、死後、その至宝に喰われてしまった風の王だ。そして、至宝を娘のリャリスに継承させるまで、至宝の代理守護者をしていた。風の騎士・ノインを、力の精霊に転成させたのも彼だ。

「インラジュールは、好色だそうですね」

「リティル殿が面会できなくなり、幸いで」

シャビは、嫌そうに視線をそらした。

「どういう意味ですか?」

「インジュ王の戯れよ!リティルにのう、味見したいと迫っておったわ」

「!?」

笑うファウジに、インファは絶句した。

「戯れではありませぬ!インジュ陛下は、本気でありまする。あのように、ベタベタと……あのお方は、利があるのならば、女性男性関係ありませぬ!」

同性を好む者がいることを理解はしているが、どっちでもいいというのは、どういう心境なのだろうか。さすがにインファの理解を超えていた。

精霊の交わりには特別な意味がある。相手と自分の霊力を交換し、お互いに相手の霊力を得るという儀式だ。霊力の交換は、とても強力な儀式である為に、婚姻を結んだ精霊同士でしか行ってはならないという暗黙のルールがある。

「これこれ、インファが引いておる。やめぬか。まあ、会ってみよ。一筋縄ではいかぬお方じゃが、味方じゃよ。のう?インジュ王?」

ザアッと、夜だとわかる風が渦巻いた。そして、シャビの向かいの椅子に、優雅に足を組んだ、波打つ髪のやけに優しい顔をした風の王が現れた。

「シャビ、覚えていろよ?人を色欲魔のように!だが、否定はしないがな!ほほう?美しい風の精霊だな。名は何という?」

インラジュールは机に頬杖をついて、上目遣いにインファを見やった。その様が何とも、インファから見ても魅力的に見えた。

「雷帝・インファ。15代目風の王・リティルの息子です」

「なんと、リティルの息子か!なるほど、温かい眼差しがあいつに似ているな。それで、わたしに何か用か?それと、リティルから何か伝言はないか?」

クルクル表情を変える様が、煌帝・インジュに似ているなと思ってしまい、インファは思わずニッコリ微笑んでしまった。

「ええ、何とかやっているから、心配するなとのことです。その節は、父がお世話になりました」

インファは深々と礼をした。インラジュールはフフと柔らかく嬉しそうに笑うと、顔を上げろと言った。

 インラジュールは、この、鬼籍の書庫で10年に1度行われる、死の安眠に参加してくれた。皆既日食と重なった此度の儀式に、何か不穏なモノを感じて、死者召喚でリティルを助けに来てくれたのだ。王ではないインファはその儀式に参加できない。故に、聞いただけだが、死の蓋が開くと同時に、溢れ出した鬼籍に眠る死者の心を、インラジュールは、ノインが来るまでの間1人で蹴散らし、魔方陣を展開していて動けなかったリティルを守ってくれたらしい。

「楽しかったぞ?縁ができてしまったからな、もう会うことは叶わないが、リティルが健在ならそれでいい。わたしに体があったなら、霊力の交換で力を渡してやりたかった。風の王は生きることが困難だからな」

「それはそうですが、さすがに了承しかねますよ」

さらりととんでもないことを言い出したインラジュールに、インファは表情を動かすな!と自分自身に念じながら、平静を装って苦言を呈した。

「なに、わたしが突っ込まれてやると言っているのだ、リティルに傷はつかん」

……どこまで本気なのだろうか。インファはからかわれているのでは?と疑い始めた。

「立派に浮気ですから、花の姫に殺されますよ?」

「フフフフフ。花は嫉妬深いからな。では、本題に入ろう。リティルが寄越したということは、インティーガが動き出したか?」

優しかったインラジュールの瞳が、一気に鋭さを増した。父に、リティルに肩入れしているだけあって、彼もインティーガが許せないようだなとインファは感じた。

「ええ。正確には彼の影です。死の安眠の儀式の際、インティーガは種を蒔いたと言っていたようですね。その影が種、ということでしょうか?」

「影……具体的にはそれは何をしている?」

それはと、インファは殆どない情報を話した。

「……インジュエルが固執されていると?他には花の精霊か……ううむ……」

インラジュールは腕を組んで、考え込んだ。

「すみません。情報が少なすぎますね」

「まあ、待て。情報が少ないのならば集めればいいだけのこと。あれから、インティーガの事はわたしも調べた。ヤツの乱心には、少しばかり同情もする」

「調べたとは?あなたは死者ですよね?」

そう言いながら、インファはファウジを少し見上げた。

「インティーガが気になるからと、度々死者召喚しておったのじゃ」

「成果はあったぞ?インティーガを呼び出そうとしたが、有限の星に斬られてしまったからな。鬼籍が消滅していた」

苦々しくインラジュールは腕を組んだ。

「有限の星とも話したが、最後はかなり危うかったようだな。奴め、有限の星に死はどこだと迫ったようだ」

ただ、有限の星は、何か隠しているなとインラジュールは感じていた。しかし、すでに死んでいるインラジュールにはこの部屋から出られず、具現化していられる時間にも限りがあり、お手上げだった。

「死とは、それだとわかる形で存在しているんですか?」

「それはわたしにもわからない。だが、もしかすると力の精霊・ノインならば、知っているかもな。ただし、それを問うのは酷だ。ヤツはリティルが命よりも大事だからな。死については、風の王は絶対に知ってはならないのだ。知れば、必ず取り殺される。それは、死を導く力を持つが故、死に引かれやすいからだ」

ノインが、父さんのことが命より大事?そこまで思い詰めてあの儀式に乱入したのかと、インファは相棒の心を案じた。表面上クールで大人ないつものノインに見えるが、心の中は違うのかもしれないなと、インティーガの話題に怒りを滲ませていた彼のことを、思い出した。

そういえば、皆既日食後、霊力と血を極限まで失って、休養のために魔物狩りに出られなくなった父のそばから、殆ど離れなかったなと、応接間のソファーでデスクワークしていたリティルの隣で、ずっと読書していたノインの姿も思い出した。

風の騎士だった頃も、リティルが一番大事だったが、今は力の精霊だ。弟を甘やかす兄という関係ができあがっているとしても、少しばかり不安になる。

「了解しました。聞かなかったことにします。さきほど同情と言っていましたが、乱心の切っ掛けは何だったんですか?」

「……ヤツは、花の姫と恋仲だった。しかし、一心同体ゲートも霊力の交換もしていない。そんなでは、花の姫には守りようがない。そして姫は、自分の身を盾にした」

「それは……」

男としても、風の王としても傷つきますねと、インファは冷ややかに思った。

風の王妃・シェラ。現在の花の姫だ。インファの母でもある彼女にも、自分を犠牲にしてでもリティルを守りたいという激情がある。だが、シェラは決してその手を使わない。今ある命を失わずに、リティルを助ける方法を常に考えている。それはひとえに、リティルの為だった。シェラは、自分の命が夫の命を脅かすことを知っている。母が聡明な人で、本当によかったと、インファは常々思っていた。

「花は不死身の精霊だ。だが、宝石と違って記憶は保持できない。姫はインティーガを忘れた」

「ああ、それで死とは何か。本当に憎むべきモノは何か、わかるか?です?」

不意にかけられた声に、皆一斉に水榭の出入り口を見た。

 そこには、乱入してすみませんと、すまなさそうに会釈するインジュがいた。

「すみません。ボク当事者なんで、インジュさんに会いたかったんです」

「かまわん。むしろ、わたしも会ってみたかったぞ。インジュ、さっきの言葉だが、わたしも聞いた。死の安眠の際、現れたインティーガが口にした言葉だ。いったい何を意味しているのか……」

インラジュールは、インジュを知っていた。いや、もしかすると、インファの事も知っていたのかもしれない。

「それ、忘れられちゃうことです。自分を覚えている人がいなくなったとき、第2の死が訪れるってリティルが言ってました。この言葉の死って、それのことなんじゃないんです?あとは、本当に憎むべきモノのことなんですけどぉ」

忘れられること?なるほどなと、インラジュールは納得したようだった。

「……認めたくはないが、ヤツは、忘れた姫を恨んだのか?」

「父さんを見ている限りでは、あり得ないと思います。あなたはどうですか?」

リティルは敵対した者の策略で、シェラに1度忘れられている。リティルには、シェラの記憶を戻す方法も協力してくれる精霊もいたというのに、シェラの負担を考えて、記憶を取り戻させようとはしなかった。寂しそうだったが、恨む?なぜ忘れたのかという怒りすら、リティルにはなかったように思う。

「わたしは……そもそも首を飛ばす勢いで振ってしまったからな……。あのときは、姫に刺し殺されるなら本望と思った。自分の事ながら想像するしかないが、姫に庇われ死なれたら、立ち直れる自信はないな。だが、恨む?やはり想像できないな」

罪悪感で死ぬほど落ち込むくらいか?と、インラジュールは冗談のように呟いた。

「ボクは……インティーガの気持ちが、わかるような気がするんです。死に別れることは哀しいですけど、もう会えないって事が、救いになるんです。でも、忘れられることは、違うんです。そこにいるのに、近づけないんです。思い出がある分、ずっと痛いです」

「おまえのその口ぶり、まるで体験したことがあるように聞こえるが、何があった?」

インラジュールの鋭い瞳に、インジュは見透かされた!と恐れおののいた。

「え?い、いえ!体験なんてしたことないですよぉ!嫌ですよぉ。あははは」

インジュは、インラジュールから逃げるようにあからさまに視線をそらした。それを許すインラジュールではない。ガシッと細く綺麗な指がインジュの腕を掴んでいた。

「おまえは確か、リャリスに言い寄られていたな。娘はおまえに何をした?」

え?どうして知ってるんです?この人!と、言わなければわからないと思っていたインジュは狼狽えた。

「ええ?な、何もないですよぉ?リャ、リャリスとはいい家族ですよぉ?」

「嘘が下手だな。洗いざらい吐いてもらおう」

「ひっ!お、お父さん!」

逃げようとしたインジュは、インラジュールに腕を背中で捻り上げられた。鮮やかすぎる!身の危険を感じたインジュは、インファに助けを求めていた。傍観していたインファだったが、フウとため息を付くとやっと言葉を発したのだった。

「オレは恋愛についてはわかりません。ですが、リャリスの行動はあまり褒められたものではなかったことは、確かです」

「ほお?」とインラジュールが冷ややかに言うのを聞いて、インジュはリャリスを庇っていた。

「ボ、ボクのせいですよ!恋人役なんて言い方したから、昔の人を忘れられないんだって思わせちゃったんです!リャリスを責めないでくださいよぉ!傷つけちゃったのは、ボクのほうです!」

「なるほど?失恋して、哀しみからおまえに関する記憶を捨てたか。それで、どうなった?」

「どうって?うーん、別の人を好きになった?」

あれ?怒ってない?インジュは、インラジュールの反応に戸惑ってしまった。

「ハッキリしない奴め!」

腕を更に捻り上げられ、インジュは悲鳴を上げた。

「いたたたたた!わかんないですよぉ!ボク、リャリスに近づけません!お、お父さーん!」

インジュは情けない声で、インファに再び助けを求めた。インジュなら、インラジュール相手でもその手を振りほどく事ができるはずだが、息子はあくまで穏便にすまそうというらしい。

インファは言葉を発した。

「今現在リャリスが恋愛しているのかどうか、オレではわかりかねます。一家の女性陣に聞いた方がいいでしょうね。ただ、少し見えた気がします」

「うむ。インティーガの影に遭遇した花の精霊、恋をしている最中に散った者ではないか?」

「ふええ?でも、忘れた方に化けて出ても、忘れちゃってるんだから無駄なんじゃないんです?現にリャリスは影に会ってないですよね?」

「……」

沈黙するインラジュールと、微妙な表情のインファ。インジュは瞳を瞬いた。

「え?会ってます?え?遭遇してても、意味わかんないですよねぇ?」

「リャリスの今日の予定、何でしたか?」

ボクに聞きます!?と思ったが、インファは確かリティルとリャリスが話していたとき、いなかったなと思い出した。

「ええと……シェラと花園です。たしか、行きたいってリャリスが言ってたんじゃ……」

ハッとインラジュールとインファの瞳が険しくなった。

花園は、花の精霊達の楽園だ。彼女達は噂好きで、異形の容姿をしているリャリスが姿を晒せば、ヒソヒソと容姿をネタにされてしまう。

そんな所に行きたいというリャリスの気がしれなかったが、頭のいい人の考えることはわからないと、インジュは遠巻きにしていた。

「花園に風の精霊はマズイが、説明する時間が惜しい」

「オレが行きます」

「うむ。だが1人では危険だ。ええい、しかたがない!裏技を使う」

インラジュールはそう言うと、インジュの羽根を1枚引き抜くと、やっと解放した。解放されたインジュは距離を取りつつ、インラジュールを振り返った。

「え?ええ?インジュさん、風の王ですよねぇ?どうして、えっと、ヘビクイワシ?」

インラジュールのいた場所には、見慣れない鶴のように首と足の長い白いワシが、チョコンと立っていた。

ヘビクイワシのことを知らなければ、この鳥をワシだとは思わないだろう。とても華奢なその姿は、優美なインラジュールに似合って見えた。

『おまえの羽根を使って、一時的に守護精霊に身をやつした。わたしのことはジュールとでも呼べ!紛らわしいからな。インファ、飛ぶぞ!』

「はい!インジュ、父さんに説明お願いします!」

慌ただしく、2羽の鳥は飛び立っていった。取り残されたインジュは、唖然としていたが、あ、リティルに報告しないとと、何とか立ち直ったのだった。


「はあ?インラジュールがおまえの守護精霊になって、インファと一緒に飛んでった?」

とインジュから報告を受けたリティルが、理解に困るその少し前、件の智の精霊・リャリスは、風の王妃・シェラと共に、花園を訪れていた。

 黒髪の可憐な美姫は、とても気が進まない様子で、隣にいるリャリスをその紅茶色の瞳で見ていた。シェラの背には、モルフォ蝶の羽根が生えていて、彼女の美しさを際立たせていた。

「リャリス、何度も言うけれど、嫌な思いしかしないと思うわ」

花園は、大地の王の治める、大地の領域にある聖域だ。花の精霊達の住まう閉ざされた場所だった。花の姫であるシェラは、彼女達の主人だが、精霊の統治はグロウタースの民が行っている統治とは異なっていて、命令したり、言うことをきかせたりということはしない。その力が正しく運営されているかだけが重要なのだ。

「ええ、心得ていましてよ?お母様、付き合っていただいて、ありがとうございますわ」

妖艶な容姿に似合わず、健全な微笑みをその黒い瞳に浮かべたリャリスは、シュルリとヘアリーバイパーの下半身をくねらせた。彼女の下半身は蛇で、腕は4本ある。切れ長の妖艶な顔立ちで、真っ直ぐな黒髪の美女。シェラとは正反対の怪しい美貌の持ち主だ。

「それはいいのだけれど、サクラに会いたいとはどうして?」

「確かめたいことがあるのですわ。それを確かめたらお母様、もう一カ所、付き合ってくださいまし」

「いいけれど……行く前に、リティルに報告するわ」

「はい、お母様」

素直に頷くリャリスに、シェラは不安を募らせていた。彼女は桜の精霊・サクラに会いたい理由を言わないのだ。

サクラは……シェラはあまり会いたい相手ではなかった。

 真っ直ぐ前を向くリャリスとは対照的に、シェラは気が重かった。

花園は、この世のすべての花が咲き乱れる場所だと言われているだけに、色が洪水のように溢れていた。

その華やかさとは裏腹に、ヒソヒソと耳障りな囁きが聞こえてきた。

シェラは耳を塞ぎたくなったが、リャリスは凜としている。囁きのすべてが、リャリスの容姿を蔑むモノだ。聞こえているだろうリャリスが平然としているのだ。シェラが俯くことはできない。

前を向いたシェラの目に、1本の桜の木が映った。その根元に座る、淑やかそうな女性の姿も。緑色の髪に桜の花が咲いた彼女が、桜の精霊・サクラだった。

「シェラ様?あなたは……リャリス様」

「あら、私有名ですのね」

フフンッと挑戦的に桜を見下ろしたリャリスに、サクラは恐縮したように視線をそらした。

「すみません……」

「よくってよ。私の力は、世界を左右してしまいますの。あなた達が恐れるほどなら、十分牽制になりますわね!」

リャリスは声を張り上げると、妖艶に挑戦的に微笑みながら辺りを見回した。遠巻きにしていた気配が、サッと散っていくのをシェラは感じた。

少しは静かになりましたわね。リャリスはフフンッと呟いた。

「サクラ、あなたに確かめたいことがあって来たのですわ」

「はい、何でしょう?」

サクラは所在なさげにリャリスを見上げた。

「今、噂になっている影のこと、知っていますわね?」

「え?はい……」

「その影は、あなたの前に現れますか?他に影と出会った花はいますか?」

「はい。影はわたしの前に現れます。他には――」

サクラは、数人の花の精霊の名前を挙げた。その中に、リャリスの知る花の名があった。

「……キンモクセイの前にも、現れますのね。何か言われまして?」

困惑気味に、それでも桜は口を開いた。

「忘れられる――」

「痛みを知れ。おまえの存在は苦痛だ」

サクラは瞳を見開いた。サクラの瞳の中で、サクラの言葉を続けたリャリスが妖艶に微笑んでいた。

「やはり、そうですのね。わかりましたわ。ありがとうございますわ」

リャリスは頷くと「ごきげんよう」と言って、サクラの前を去ろうとした。

「待ってください!リャリス様!リャリス様は、その言葉の意味がわかるのですか?わたしは、最近咲いた花です。忘れられる痛みとは、散る以前のわたしが忘れてはいけない誰かを得ていたということですか?」

サクラの必死な声に、リャリスはフウとため息を付いて振り返った。

「散ってしまう以前の記憶は、あなたにとって、前世に等しい記憶ですわ。今のあなたに、必要ではなくってよ?」

「しかし……」

食い下がるようなサクラの様子に、リャリスは冷ややかに言葉を投げ掛けた。

「サクラ、あなた、シェラ様の前で言えますの?風の王・リティルと恋仲になり、風の王妃・シェラに知られたあなたは、王妃に潔白を証明するためにリティル様に散らされたと。リティル様に愛されているのはわたし。リティル様はわたしのモノだと、声高に宣言できますの?」

それが、少し前からイシュラースに流れている噂だ。噂の出所はここ、花園だ。また、こんな噂を。とは思うが、イシュラース1仲睦まじい夫婦と認識されている風の王夫妻の真実に、泥を塗ったことは確かだ。

「いいえ!いいえ……けれども……」

「根も葉もない噂ですわ。散ることは死と同じですのよ。あなたは今を、生きればよろしくってよ」

サクラの前を去ろうとしたリャリスは、ギクリとした。サクラの座る木の後ろに、影が現れたのだ。息を飲んだリャリスに気がついて、サクラが後ろを振り返った。そして、小さく悲鳴を上げると、慌ててリャリスのほうへ逃げてきた。

「リャリス!」

少し離れて見守っていたシェラが、リャリスとサクラを庇うように立ち、白い光の弓を構えた。

――なぜ、お母様がいるときに、この影が?いつも、誰もいない時を見計らったかのように出てきますのに

リャリスはここでは遭遇しないと油断していた。故の動揺だった。

「わたしの娘に付きまとうあなたは誰!」

「――お母様、無駄ですわ。あの方、何もお答えになりませんのよ」

可憐な容姿に見合わず、勇ましく庇い立つ母の後ろ姿に、リャリスは冷静さを取り戻していた。

「リャリス、あなた、この影に遭遇していたのね?なぜ、言わなかったの?」

シェラは、影を見据えたまま、背後のリャリスを叱責した。リティルもインファも皆、あの影に悩まされているのはインジュだけだと思っている。それに、インジュが言われている言葉と違う。

「お聞きになったら、わかりますわ」

影は、音もなくシェラの前に進み出た。

「忘れられる痛みを、知れ。おまえの存在は、苦痛だ。捨てた記憶を、思い出せ」

フッと影はかき消えた。シェラの心臓は高鳴っていた。それは、未知の敵を前に緊張した為なのだろうか。それとも……

――今の言葉は何?あの言葉は、わたしに向けられていたの?

「私、誰を忘れましたの?」

リャリスのつぶやきに、シェラは我に返った。

「リャリス……」

「私、知らなければなりませんわ」

恐れない瞳だった。だが、記憶を消す前のリャリスは、その心に負けたのだ。シェラは止めようとした。

「リャリス!でも……」

でも。その先が言えない。言えば、インジュが距離を保ち、守っているモノを壊してしまう。だが、もどかしい。もどかしくてたまらない。間違いに気がついたインジュなら、あの時を、やり直せると思えるだけに、見守るしかない今にヤキモキする。

せめぎ合った心が、シェラに言葉を途切れさせた。

「お母様は、誰を忘れてしまったのか、おわかりになりますのね?」

リャリスは智の精霊だ。知ることを決めた彼女は、皆の些細な言動を見逃さない。リャリスの確信した瞳に、シェラは言葉を飲み込んだ。

「!」

「シェラ様、リャリス様、なくした記憶を知る方法があるのですか?」

ああ、ここではマズイ会話でしたわね!リャリスは話の腰を折ってきたサクラに、苛立ってしまった。

「ですから!あなたには関係ないことですわ!あなた、私たちがリティル様と何もなかったと言ったとしても、信じることはないでしょう?あんな根も葉もない噂を信じられても、微妙ですけれど。行きましょう。お母様!」

「え、ええ」

ここで押し問答して、記憶の精霊・レジナリネイのことを、ウッカリサクラにバラしてしまうわけにはいかなかった。

 リティルとサクラは本当に何もない。散りゆくサクラは、話したこともないリティルに想いを告げただけだ。リティルは、オレの心はあげられないけどとキッパリ断りながら、サクラの気持ちを受け取った。たったそれだけだ。散りゆく花にかけたリティルの優しい情けを、花たちはリティルを貶める道具に使ったのだ。

リティルは放っておけと、普段悪意ある噂を潰して回っている、風の城の執事、旋律の精霊・ラスに言った。リティルに仕えるラスは、当然反論したが「人の噂も七十五日だ」と非道い噂を甘んじて受けた。

リティルが何も言わないことで、花たちを勢いづけてしまった。「付き合わせて、ごめんな」と哀しそうに笑うリティルの様子に、噂をもみ消して!とシェラは言えなかった。

どうしてリティルが、花の姫を手に入れながら、浮気した王という汚名を着たままなのか、シェラにはわからない。シェラの記憶にも、穴がある。すべてを忘れさせられ、記憶の精霊の固有魔法とリティルのおかげで思い出せたが、失ってしまったものもあるのだろうか。

「シェラ様」

足早に花園を出ようとしたシェラとリャリスの前に、オレンジ色のこぼれるような花を、髪に咲かせた花の精霊が進み出た。

「キンモクセイ……」

「シェラ様、記憶を知る方法があるのですか?」

「知ってどうするの?」

「シェラ様!なぜわたし達は、散らなければならないのですか?誰かを愛した記憶を、失わなければならないのですか!」

これは何?シェラは、遠巻きにこちらを見つめる無数の視線を感じていた。

花は散るモノ。それが理。散った先に実を結ぶ為、産む力を守るため、花は散り、そして同じ花として再び咲く。

神樹の花は散らない花。それは、神樹という大樹が、花を咲かさない木だからだ。

では、花の姫とは何なのか。それは、神樹の枝葉で燃える、神樹に吸い上げられた命の源の力だ。花の姫は、命を司る者なのだ。

散り、実を結ぶ花とは違っていた。

 知ってどうするの?シェラは、純粋な瞳をしているキンモクセイの瞳を、冷めた心で見返していた。

力の精霊・ノインに恋をして、その妻である風の王の守護女神・フロインに嫉妬して彼女の心臓を止め、ノインの手で断罪されたことを、思い出したいの?ノインの、フロイン一筋だという言葉を受け取らずに、彼の最愛を手にかけた醜悪を、本当に知りたいの?

――教えてあげようかしら?いかにあなたが、醜いかを

そんなキンモクセイのことも、リティルは気にして、行かなくてもいいのに様子を見に行った。そして、そんなリティルの姿にサクラは恋をした。怒らないリティルに、花たちは甘えすぎている。

 なぜ、守られて当然と思うの?我が眷属ながら、花たちの厚顔無恥には呆れる。

これまで、傷つきながら世界を守る風の王に、花の姫は恋をして、献身を捧げようとしてきた。花の姫の最大の力は、無限の癒やし。戦い続ける風の王を守ることができる力だ。

だのに、風の王はそれを拒む。「オレでは、君を幸せにできない」そう言って。

わたしは、幸運だったとシェラは思っている。今、風の王・リティルの妃として、彼を一番近くで守れるのだから。歴代の花の姫が得られなかった寵愛を、一身に受けて咲くことができるのだから。

 リティルはこれまで、数々の困難に直面してきた。それを、一家と共に乗り越えてきた。

だが、皆既日食は今までの事案とは違っていた。今までは、一家の誰かがリティルと共にいられた。だが、風の王だけが挑めるその儀式に、一家の誰も手を出せなかったのだ。

その頃花は、春の芽吹きが遅れているのは風の王のせいだと、自分達の力のなさを棚にあげて喚いていた。それを聞いて、リティルは「花が元気でよかったぜ」とまったく気にせずに笑っていた。

リティルはこんな花を守るために、死の蓋が開く皆既日食の際、死を導く力である王の風を使って結界を敷いた。死と反属性の産む力を持つ花を守ることは、オレの身を守ることにも繋がると、そう言って。

自分も血と霊力を賭けて戦わなければならないというのに。それでも花は、死の蓋をなかなか閉じられなかったリティルを罵った。だのに、リティルは何事もなくてよかったなと、そう言って笑っていた。1週間も調子が戻らずに、ノインがずっと監視しているような事態になっていたのに。

 影の事を知って、リティルはまた、花園を気にかけていた。今まで、放っておいたのは、シェラが難色を示し、ノインがそれに賛同していたからだ。サクラとの噂がなければ、リティルは自らここへ、足を運んだことだろう。

リャリスが花園に行きたいと言い出し、リティルは内心喜んだだろう。透けて見えていた。

本当に、お人好しなのだから……。そんなリティルが心配で、愛しくて、シェラは怒ることができなくて困っていた。

 花園に来たくなかったのはシェラだ。

最愛のあの人を、あの人の優しさも献身も何一つ受け取らずに、リティルを罵るその声を聞きたくなかった。怒りが、湧いてしまう。醜い鬼女に、この心が成り果てる。

リティルを苦しめるすべての命を平らげてしまいたい。

おまえ達を枯らすことなど、わたしには簡単だ。無礼で浅ましいおまえ達の存在を、許しておきたくない!

シェラの心で、感じたことのない暗い笑みを浮かべる自分と対面した。彼女がシェラに向かって、呟いた――

『おや、想定していた事態にはなっていないようだが、険悪だな!』

どこか楽しげな、からかうような声が降ってきた。リャリスがその声に耳を疑うように一瞬逡巡し、バッと顔を上げた。

「そうですね。母さん、リャリス、大丈夫ですか?」

風を起こしながら舞い降りてきたのは、インファだった。そして、見慣れない一羽の鳥も。

息子の姿を見たシェラは、心に生まれたモノが霧散するのを感じた。

わたしは今、何を思ったの?シェラは、無表情のまま動揺していた。

「オレに散らされたくなければ、退きなさい!事実をねじ曲げ、風の王を貶めたあなた達を散らすことに、この雷帝、一切の躊躇いはありませんよ!」

インファの剣幕に、キンモクセイを始め、花たちは怯えて逃げていった。

『風の王を貶めた?なんだ、花はまだそんなことをやっているのか?花が風にちょっかいをかけられないように、呪ってやったのに、懲りない女どもめ』

足のスラリと長い、鶴のような鳥は、細く優美な姿に不釣り合いなかぎ爪で、地面を引っ掻いた。

「ここを気にかける、父さんの神経を疑いますよ。帰りますよ?母さん、ゲートをお願いします」

忌々しげに花園を一瞥し、インファはシェラに声をかけた。しかし、シェラは答えなかった。

「母さん?」

「ええ」

わたしも醜い花だわ……。シェラは泣きたいのを堪えながら、ゲートを開いた。


 えっと、これはどうしたんだ?

突如、家具の置かれていない広間にゲートが開き、インファ達がどこからか戻ってきた。

インファ達がどこへ行ったのか、インジュはどうしても口を割らなかったのだ。

鬼籍の書庫から飛び出して行ったという、インファとインラジュール――ジュールの姿を認めて、リティルはホッとして、迎えてやろうとソファーを飛び越えたのだ。

そんなリティルは、戻ってきたシェラに抱きつかれた。シェラはあまり、皆の前でこういうことをしない。シェラは、花に慕われている。シェラの手前、花たちも声を潜めると思ったが、甘かったか?とリティルは思った。

「シェラ?どうしたんだよ?」

それにしても、何事だ?とリティルは思いながら、声を殺して泣いているシェラの背中に腕を回すと、その頭を撫でた。抱きつかれるだけならまだしも、シェラが泣く?そんなことは、応接間では滅多にないことだった。

「リティル……もう花には関わらないで!」

「へ?関わってねーだろ?なんだよ、花に何か言われたのかよ?って、言われねーわけねーよな?オレ、浮気な最低王だしな」

「やめて!そんな事実などないわ!」

リティルより10センチ背の高いシェラに、首に回した腕に力を込められ、リティルは首が絞まった。

「わ、わかった。く、首絞まってるからな?シェラ、ごめんって」

『わたしは何を見せられているのか?』

「通常運転なので、気にしないでください。しかし、母さんの様子がおかしいですね。オレ達の前で泣くことは、滅多にありませんよ。それに、心配はしていても母さんは縋らせるほうで、父さんに縋ることはオレの知る限りではありません」

羨ましい!と床に爪を立てるジュールに、インファは苦笑した。しかし、すぐにその切れ長の瞳を鋭くした。

「リティル、影がわたしの前に現れたわ」

「!何か言われたか?」

シェラはやっと顔を上げた。気丈は光は戻ってきているが、目元は赤くなっていた。

「忘れられる痛みを、知れ。おまえの存在は、苦痛だ。捨てた記憶を、思い出せ。ですって」

答えたのはシェラではなかった。視線を投げると、ジッとこちらを見つめているリャリスと目が合った。

「確信が持てましたの。ご報告いたしますわ、お父様」

黙っていてごめんなさいと、リャリスは頭を下げた。その様子を、ソファーで見ていたインジュは、胸騒ぎを感じていた。

 インジュは、皆がソファーに戻ってくるのを見て、思わず席を立っていた。それを見ていた、金色の長い前髪で左目を隠した物静かな青年が「手伝ってくれ」とインジュを呼んだ。

執事、旋律の精霊・ラスだ。容姿は平凡だが、風の城の中核を担う、風四天王に名を連ねるハヤブサの翼を持つ実力者だ。殺さずの戒めを持つ四天王、補佐官・インジュの相棒も務めている。

「インジュ、もう我慢できない。サクラとリティルの噂、もみ消す」

紅茶を淹れながら、ラスは静かに怒っていた。

「ええ?でも、勝手に……」

弱腰なインジュに、ラスは鋭い瞳を向けた。

「シェラがあんなに傷ついてるんだ。見過ごせない」

ラスの怒りはもっともだ。インジュも心穏やかではない。リティルとシェラは、見ているこっちが幸せを感じるほど、切なくなるほど、お互いを大事にしている。それは、皆知っているはずなのに、ラスが火消ししないことで、徐々に王妃の手前愛人を手打ちにした最低王と認識する者が出始めていた。

シェラが訴えたように、ラスも花園には関わってほしくない。彼女達の態度は、礼節を欠きすぎていると思うからだ。

 ラスに、お茶を配ってくれと言われ、インジュは相棒を止めることはできずに従った。ラスはというと、音もなく部屋を出て行った。噂をもみ消す。ラスの手にかかればイチコロだ。いったいどうやっているのか、軍師を務める副官、インファも苦笑とともに謎ですねと言う。

インジュがソファーに近づくと、リャリスが一通りの報告を行っているところだった。

「――私の見解ですけれど、何らかの原因で記憶を失った者と、記憶を失った者と関係していた者の前に、あの影は現れるようですわ。お母様も記憶を失われていたのですのね?」

シェラは、問うリャリスから目をそらさずに頷いた。

「ええ。記憶を消されたことがあるわ。けれども、あの影に遭遇したのはあれが初めてよ?」

「おそらくですけれど、1人の時、もしくは、同じ境遇の者だけという条件があるのですわ。あの場にいたのは、私とサクラ、それにお母様でしたもの。私は、いつも1人の時に遭遇していましたわ。そして、インジュ、あなたも同じではなくって?」

インジュは危うくティーカップを落とすところだった。

「えっ!あ、はい……」

「うーん……ってことは、オレも1人になると影に遭遇できるってわけか?よし!試しに行ってくるぜ!」

元気に立ち上がったリティルを、横から大きな手が押さえこんだ。

「おまえは妙なことに巻き込まれる。軽率な行動は取るな」

静かに怒るノインに「そろそろ反撃してーんだよ!」とリティルはノインの手から逃れようと藻掻いていた。

「あ、ボクとなら遭遇できますよぉ?行ってみます?」

思い付いたことを言ってしまった。その途端、インジュはノインに容赦なく睨まれていた。

「インジュ」

あ、これ、冗談通じないヤツですね!とインジュは、消え入りそうな声で引き下がった。

「……ボクが人身御供でいいです……」

「睨むなよ!ノイン。そっか、オレ、いつも誰か彼かと一緒にいたんだな。ああ、殆ど兄貴だな」

やっとノインの手から逃れたリティルは、インジュを庇いつつ、楽しそうに笑った。

「悪くないだろう?」

リティルの言葉に乗って、ノインは涼しげに微笑んだ。

「ハハハ。ああ、最高だぜ?ハハハハ」

『わたしは何を見せられているのか?こんな体でなければ、わたしも頭くらい撫でてやるものを!』

わたしも混ぜろ!とジュールが乱入してきた。こいつノリいいなと、リティルはヘビクイワシの翼に包まれてやった。その耳元に「元気そうでなによりだ」とジュールは囁いた。

「ハハハ、もう会えねーはずだったんだ。いいじゃねーか。で?そんな恰好になってまで、どうしてきたんだよ?」

ノインはジュールに追い出される形で、席を譲っていた。ジュールは立っているリティルの隣に長い足を投げ出して座ると、リティルを見上げた。

『インティーガは危険だ。おまえの息子、1人で花園に行かせるわけにはいかなかった。取り越し苦労だったがな!』

「インファのこと、心配してくれたのかよ?ありがとな!なあジュール、この影危険なのかよ?」

『影自体が、危険なのではない。おそらく影の役割は、導くことだ』

ジュールは器用に、翼を腕を組むように体の前で交差させた。

「何にですの?」

ジュールはリャリスの顔をジッと見つめた。

『おまえはどこへ行こうとしていた?』

「レジーナの所ですわ」

「ダ、ダメです!」

思わず叫んでしまったインジュに、リャリスがゆっくりと視線を合わせた。

「やっぱりですわ。私、インジュを忘れたのですわね?」

リャリスはインジュの前に現れる影と、自分の前に現れる影。同一ではないようだと察したときから、慎重に分析していた。

インジュは普段とても勇敢だが、とても臆病だ。出会った時から距離を取る彼は、この容姿が怖いのだとリャリスは思っていたが、影が現れるようになって、それは違うのではないかと思い始めた。

リャリスがインジュを以前から知っていて、何かがあり、彼のことだけを忘れてしまい、そのせいでインジュが遠慮していると考えれば、頑なに一線を敷いてこちらが近づいても退いてしまう彼の行動にも説明がつくのでは?そう考えた。

それを証明するには、記憶の精霊を尋ねるのが手っ取り早かった。だが、それをリティルに言っても許可されないような気がしていた。ならば、リティルが気にかけているが手が出せないでいる花園に、記憶を失ったことが明らかなサクラを尋ねる。ついでに、花園の様子もわかるし、リティルは許可するだろうと思ったのだ。

そのせいで、母に、シェラに辛い思いをさせてしまったことだけが、悔やまれた。

「え?あ、あの……」

そんなに動揺しては、誤魔化せないですよ?とインファは、覚悟を決めたようなリャリスに追い詰められるインジュを、彼女の隣から頭越しに見ていた。

「インジュ、私、あなたのこと、好きですわ」

「――え?」

嘘だ……だってリャリスは。インジュは無意識に暖炉のそばの肘掛け椅子を見ていた。その席を定位置にしている精霊は、イシュラースの三賢者の頂点に君臨している、時の魔道書・ゾナだ。

リャリスはインジュを忘れて、風の城に帰ってきてから、この応接間に繋がっている自室にゾナを引っ張り込んで何かしていた。

インジュを忘れる前は、応接間にいるインジュの隣に健全な距離感でいた。それが、応接間に殆どいなくなり、ゾナといる時間が、一家の他の誰かといるよりも圧倒的に多くなっていた。

智の精霊であるリャリスが、賢者・ゾナに惹かれるのは当然だし、ただ実父と同じ愛称だというだけのボクとでは不自然だと、インジュは思っていた。これが、本来の姿なのだと思っていた。

「……お返事は、わかっていますわ。皆さんの前で申し訳ありませんでしたわ。私が忘れたのは、そういうことですのね。あら、存外乙女ですわね、私」

再現しただけ?だったら、今はボクのこと好きじゃない?インジュは混乱していた。

あの日、リャリスが風の城にやっと帰ってきたあの時「はじめまして」と言ったリャリスを見て、インジュはすぐに記憶の精霊・レジナリネイのもとへ飛んだ。

好きだと示してくれたリャリスに、心がなかったわけではない。だが、インジュは、受けとることができなかった。インジュは不能で、風の王・リティルの盾だ。一家の婚姻を結んでいる精霊達のように、大事にできる自信がなかった。怖じ気づいてしまったのだ。別れのある未来に臆してしまったのだ。

あの時リャリスは、記憶の精霊・レジナリネイのもとを訪れていた。心底ホッとした。智の精霊である彼女なら、恋愛感情をなくす術を知っている。その方法を用いていなくて、よかったと思った。

――ボクを忘れただけですんで、よかった……

それと同時に、哀しかった。記憶を消さなければならないほど、ボクのことが、好きだったんだと気がつかなかった自分に。

「インジュ」

リティルの名を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、ボンヤリしていたインジュの耳には入らなかった。

 これ、ヤバくないか?リティルは固まってしまったインジュの様子に、不安になった。インジュがレジーナ――レジナリネイのところへ飛んだ時、リティルは後を追いかけた。そして、顛末を聞いていた。

――死に別れるより、忘れられる方が、辛いなんて……思わなかったです……

そう言って泣いたインジュの心に、リャリスはいた。

同じ城に住み、毎日顔を合わせていては、想いが色褪せることは難しいだろう。

インジュは、想いを秘めたまま、ここにいる。

今、リャリスの論理的な物言いで、インジュは再び煙に巻かれただろう。

リャリスも臆したのだ。もう一度、振られることに。

「リティル!影が!わたしの前にも現れたわ!」

 バンッと城の奥へ通じる扉が開いて、どこかはしゃいだ声が応接間に飛び込んできた。

波打つキラキラ輝く金色の長い髪に、野の花を飾った、グラマラスな女神。ラナンキュラスの花冠を頂いた、可憐で神々しい女神が、インジュと同じ金色のオウギワシの翼で飛んできた。

「フロイン?へ?おまえの前にも――ああ、そうだよな、おまえも条件当てはまるよな?」

「ええ、そうなの!触ってみたけれど、本当に影のようなのね」

リティルの背後に舞い降りた女神は、少し興奮気味に報告してきた。

風の王の守護女神・フロイン。

力の精霊・ノインの妻だ。ノインが風の騎士だった時から彼の妻だが、力の精霊に転成したとき、ノインが記憶を失い一時はその婚姻が途切れてしまった。だが、想いはノインの中に残っていて、かなり強引にフロインは口説き落とされたのだった。ノインには、騎士時代の記憶は今もないが、2人は変わらず幸せそうにしている。

「触れた?フロイン、あれに触ったのか?」

そりゃ、心配するよな?4人がけのソファーの端に追いやられたノインが立ち上がり、リティルの背後にいるフロインに咎めた。そんな夫の態度にもケロリと、リティルの女騎士は答えた。

「ええ。攻撃してみたけれど、すり抜けてしまったから、どういうモノなのかと思って。あら、ノイン、心配しているの?心配いらないわ?わたしは、リティルが生きていれば不死身なのだから」

「はは、フロイン、そうなったらおまえも痛てーだろ?ノインもオレも気が気じゃねーよ。ん?待てよ……ってことは、ノイン、おまえの前にもその影出るんじゃねーのかよ?」

「うん?そうか、オレも条件に当てはまるのか」

「そんなにおまえと一緒にいたか?」と問うノインに「ああ、ベッタリだったぜ!」とリティルは笑った。そこへすかさず「わたしも一緒にいたわ?」とシェラが参戦してきた。

実際には、そこまでベッタリではない。狩りの仕事は最低2人1組だ。そして、王であるリティルは17人いる一家の全員と、ほぼ毎日関わる。たまたま、1人にならなかっただけだ。今まで遭遇しなかった者達も、同じような理由だろう。皆既日食後、世界は比較的平和だ。そのことも、一役買っていた。

「あらノイン、忘れた者同士協力しませんこと?あの影、捕らえるのですわ」

リャリスは、そっと手を差し出した。その手の平に小さな小瓶が、幻のように姿を現した。

「この瓶、何でも吸い込んでしまいますのよ?あの影、捕まえられますわ。お恥ずかしい話、1人では自信がなくて、できませんでしたの。けれども、ノインがいてくだされば、何とかなりそうですわ」

どこまでも前向きなリャリスに、リティルは苦笑した。

「はは、リャリス、父さんの心臓に悪いからな、隠し事はなしだぜ?それが約束できるなら、やってみてくれよ。ノイン、頼まれてくれねーか?」

「了解した。リャリス、行こう」

ノインに促されリャリスは、いつも遭遇するのは――と言いながら、2人して応接間を出て行ったのだった。

リャリスは、物言いたげに見つめるインジュの視線から逃げるように、1度も彼の事を見なかった。


 リティルはフッと小さく息を吐くと、シェラに手を掴まれ、慰められているようなインジュに視線を合わせた。フロインの乱入で、微妙な空気が吹き飛ばされたのは幸いだった。

「言えばよかったんじゃねーのかよ?」

リティルの言葉に、インジュは顔を上げた。その顔は、意気消沈していた。

「なんて言うんです?ボクが、リティルより大事な人が作れないのは、ずっと変わりません。それにボクは……」

「リャリスにも、蛇のイチジク以上に大事なモノはないと思うがね。オレは傍観者なのでね、あまり出しゃばるのはと思ったが、リャリスが君を想っているのは、明らかだよ」

その声は。インジュは、暖炉のそばの肘掛け椅子に視線を投げた。そこにはいつの間にか、お伽噺に出てくる魔女のようなつば広の帽子をかぶった、知的な男性が座っていた。広すぎる応接間だ。声を張り上げなくても風が言葉を運んでくれる。

「ゾナ……ボクは、霊力の交換ができません。それって、無意味って言いません?」

「君は、オレが恋敵だと思っているようだが、そもそもオレには恋愛感情というものがないが、それについてはどう思うのかね?」

ゾナが立ち上がった。そして彼は、移動した時間をゼロにする瞬間移動で、インジュの傍らに立っていた。

知的なコバルトブルーの瞳に見つめられ、彼と口論などしても説き伏せられるしかないインジュは、口を閉ざして俯いた。

もっと何か言ってほしかったが、言葉を返すとき論理で固めてしまうのは、オレの悪い癖だねと、ゾナは寂しげに小さくため息を付いた。

 これ以上インジュに心を閉ざされても面白くはない。ゾナは、ソファーに足を投げ出して座っている奇妙な鳥に視線を合わせた。鳥は器用に翼でグラスを持ってストローで紅茶を飲んでいた。鳥のジュールに配慮して、彼だけアイスティーだった。

「インラジュール、いや、ジュール、花たちに風の精霊が近づけば散る呪いをかけたのは、君だと聞いたことがあるが、真実かね?」

『ああ、確かにわたしだ。シェラ姫に解かれてしまったがな。いや、責めているのではない。君の想いはわからないでもないからな』

「その理由が、4代目の風の王の崩御に関係してるということだが、それについてはどうかね?」

『貴殿は本当に博識だな。わたしが説明するまでもないのでは?』

「……花の姫と、何かあったのだね?」

『フフフフフ。ゾナ!貴殿、恋愛感情を理解しているのではないか?』

ジュールは笑い声で明言を避けた。どうやら、4代目も花の姫と関係があり、そこに花園が関わっているようだなと、そこまではリティルもわかった。だが、4代目が色恋が原因で崩御していることを知っているリティルは、それ以上暴く気にはなれなかった。ジュールも語るつもりはないらしい。

「研究はしたよ。不可解な点が多いがね」

「そんなもの研究してたのかよ?おまえ暇だな。もっとこっち手伝えよ!」

「君が何度も暴走するからではないか!君が激怒するとき、いつもシェラ姫が関わっているよ。そしてシェラ姫は、金輪際花園には近づかない方がいいと、オレは思うがね」

ゾナに睨まれてリティルは、思わず息を飲んでいた。ゾナは遙か昔、リティルが風の王となる前、リティルの教育係として造り出された魔導書だ。今は、時の精霊の証を継ぎ、時の魔道書として、リティルのそばにいてくれる。彼に未熟な時期散々世話になったリティルは、ゾナの睨みには弱いのだった。

「花園……本当に花の精霊と風の精霊は、相性が最悪ですね。オレには、インティーガが花の精霊に復讐しようとしているように見えますよ。彼女達はおそらく、彼の時代でも悪意ある噂をしていたはずですから」

しかし、風の王が?という思いは拭い去れない。恨み辛みと風の王……とても結びつかないのだ。

初代風の王ルディルは、自分を幽閉した初代太陽王を討ったが、彼にはケジメという感情以外になかったような気がする。少なくとも、恨みや怒りで討ってはいない。

インファも尊敬しているリティルの父である、14代目風の王・インも、穏やかで、数多の戦いを経験している血塗れの王だが、自身は恨み辛みの感情とは無縁に見えた。

『フフフフ。まあ、そうだな。1つ、昔話をしてやろう。わたしは、数々の女性と浮名を流したが、本当に愛していたのは、花の姫・シレラ、ただ1人だった』

「あなたも、花の姫を……」

シェラは悲恋でしかなかった歴代の姫達を思っていた。両思いなのに手を繋げずに、風の王の最後の時、せめて共に!と散っていった前任の姫達。彼女達が今のシェラを見てなんと思うのか。シェラは、恐ろしかった。

『ああ、例に漏れずな。だからということもないが、君がリティルと共にあること、わたしは感謝すらしている。風の王の妃でいることは辛いことも多いだろう。これからも、リティルをよろしく頼む』

フッと、ジュールは鳥の顔でもわかるくらい愛しそうに笑った。人間から転成して花の姫となったシェラは、歴代花の姫とは髪の色や瞳の色が異なっている。そのはずだが、シェラを見つめるジュールの瞳は、彼の愛した花の姫を見ているようだった。彼が人の姿をしていたら、心を動かされてしまったかもしれない。シェラはそんな想いに囚われて、ああ、彼も風の王なのだなと思った。

わたしの、わたし達の愛する風の王……今度こそ守るわ。だから、風の王に愛されることを許してと、シェラは祈った。

『花たちは、わたしの時代も今もさして変わらない。ただ、あの醜さがわたし達には必要だった。わたしは、風の王。いつ、この翼をもがれて地に落ちるかしれない。最後に見る顔が、あの人の嘆きの涙になることが、わたしには耐え難かった。フフフフ、わたしも存外乙女だな』

当時を思い出し、ジュールは幻の声を聞いた。

――インジュ、私は、何番目でもかまいません。あなたの愛の欠片でも、私に、くださいませんか?

決死の告白だっただろう。君の胸の前で組まれた手は、震えていたな。

なぜ君はわたしに告白を?花たちの噂は、嫌と言うほど耳に入っていただろうに。

『あるとき、彼女はわたしに、何番目でもかまわないと言った。そう言われた時、わたしはというと、5又だったな!』

それは噂ではなく、事実だ!とインジュはなぜか胸を張った。

「なんの研究をしていたのかね?」

呆れたゾナの言葉に、リティルは吹き出していた。そんなリティルの様子に、衝撃を受けていたインファは辛うじて立ち直った。

『風の王は、どれだけ交わろうと子を残せない精霊だ。わたしは、生命を作り出せないかと、女性達に子を産んでくれないかと持ちかけていたのだ』

「え?でも、人間相手でもダメなんです?ジュールさん、いっぱい子供いたじゃないですかぁ?」

混血精霊ばっかり!と、インジュは声を上げた。

確かに、インラジュールの子供達は、精霊を両親に持つ純血二世は1人もいず、グロウタースの民との間に産まれた、混血精霊ばかりだった。そのすべての子供達が、インラジュール崩御の際、運命を共にした。

『研究の賜物だ!と言いたいところだが、至宝・蛇のイチジクに触れて得た知識だ。その方法、リャリスが知っているぞ。それを応用すれば、百発百中のおまえの固有魔法、無効化できる』

「……必要ないですよぉ。ボク、不能ですし……」

何をしても、物理的に反応しないと、インジュは俯いた。

『その不能直してやろうか?鬼籍の書庫へ来い!抱かれてやるぞ?』

「おまえ、その冗談やめろよ!みんな結構純粋なんだよ!」

「ボク男ですけど!?」とインジュが叫ぶ前に、リティルが叫んでいた。

しかし、ジュールの反応は、リティルの予想に反していた。

『冗談?わたしは大真面目だぞ?原初の風になぜ、万物の芽吹きという固有魔法があると思っている?死に1番近い風の王を、根本から守るためだ。風の王が、なぜ世界に殺戮を押しつけられたのかわかるか?世界は、受精させる力の結晶である原初の風に目を付けたのだ。原初の風の生まれを知れば、リティル、おまえも自ずと理解するだろう』

なるほど、彼の性を超越した物言いは、父さんの命を案じてのことでしたか。と、インファは理解した。彼の異名は、賢魔王。皆既日食の事案で関わって、多くの危うさを見てしまったようだなと、憂いてくれるインラジュールにインファは感謝した。

「だとしてもな!」とジュールに食ってかかるリティルを遮り、インファは話題を変えることにした。インファも同じだ。もう、死んでいるのだからどってことないぞ?と言い切ってしまう彼に、そんなことはさせられない。ジュールのことだ。必要だと割り切ってしまえば、インジュが拒んでも強行するだろう。潔く、聡明で愛に溢れていた風の王故、自身の屈辱に耐えてしまうだろう。

「産まれ?至宝を作った者が、いるんですか?」

『至宝は魔導具だ。知識ある者が作り出した道具なのだ。花の精霊の無知には反吐が出る。おまえ達の姫が、どれだけ身を削っているのか、それすら知らないのだからな!』

インラジュールは、産む力に傾倒していた。原初の風の持つ万物の芽吹きという固有魔法は、インジュと交わった者は必ず孕むという魔法だったはずだ。それを蘇らせたい?彼の目は、何を見ているのだろうか。

「ジュール、少し落ち着きたまえ。君の無念は何かね?ただ、子がほしかっただけとは思えないのだがね」

『はあ……わたしはそこまで崇高ではないぞ。花の姫と風の王が、番の精霊であることはわかっていた。この想いが、目覚める以前から決まっていた、操作されたものであることもな。だが、わたしにも抗う術はなかったのだ。シレラとの子がほしかった……』

――何番目でも?フフフフ、花の姫、わたしは君の霊力を貪り、その最高の産む力を使って、これからも数々の女性を孕ませるが、その手助けをしようというのか?やめておけ。君とわたしとでは、違いすぎる

わたしの答えに、君は泣いていたな。これで、守れたと思ったのだが、番というこの呪い、解けるものではなかったな。わたしの死が、君を枯らしてしまうとは……道連れにならないよう、遠ざけたというのに。君のいる神樹の森に帰ってくることが、わたしの安らぎだった。

君の死を、蛇のイチジクの中から見ていた。ドゥガリーヤに返る君の魂を、見送るしかなかった。最後に呼んだ名が、わたしの名ではなかったなら、蛇のイチジクに君を捕らえることができたかもしれない。

君を傷つけて振ったあの日以来、君がわたしの前に現れることはなかったというのに、なぜ君は、わたしを想い続けることができたのか。番という呪いによるものだとしか、思えなかった。死してもなお、こんなわたしに囚われ続けるのは、不憫でならなかった。会いたかった……そう思うことすら、できないくらい、君が大切だった。

『解けない呪いなら、彼女を手に入れても、よかったのかもしれないな……。だが、不毛の芽吹きを使い、子を産みだすことだけは阻止しなければならなかったのだ』

「なぜですか?オレはその固有魔法で生み出されましたが、不幸ではありませんよ?」

不毛の芽吹きは、自然には子を成せない風の王と子供を作ることのできる、花の姫の固有魔法だ。インファと、妹のインリーは、そうやってシェラの腹で作られた精霊だった。

『それは、おまえの母君が聡明だったからだ。そうでなければ、こんな無謀で特攻隊のような父だ。おまえ、とっくに死んでいるぞ?』

「いいえ。わたしの功績ではないわ。わたしも浅はかで卑しい花よ」

そこであなたは否定しますか?インファは、花園でよほど凹まされたのだなと、ずっとその慈愛で一家を守り続けているのに?と俯くシェラを伺った。

「やめましょう、母さん。あなたの功績でいいんですよ。父さんの無謀には、オレも手を焼いていますから」

「ホントのことだからな、反論できねーよ。けど、おまえが求めてたのは、原初の風だったのかよ?これがあれば、たぶん、子供作れるよな?」

リティルの手の平に、風があつまり、涙型をしたキラキラ輝く宝石が現れた。この宝石は、初代風の王から譲り受けた。その初代は、いろいろあって、今は太陽王だ。

『初代が持っていたとは、さすがのわたしにもわからなかったな。リティル、それを作ったのは花の姫と風の王だ』

ジュールはそっと翼をかぶせて、原初の風をしまわせた。

「ん?ってことは、初代花の姫のレシェラと初代風の王のルディルか?でも、あいつら、知らないっぽかったぜ?」

ずぼらなルディルと調子のいいレシェラ。あいつら太陽がお似合いだぜと、リティルはそれでも頼りになる2人を思った。

『いや、レシェラとルディルが目覚める以前の、意識のない風と花だ。わたし達と花の姫は、そんな太古から繋がっている夫婦だ。原初の風とは、風と花の産んだ、子供なのだ』

「へえ?なるほどな。始めに大樹あり。大樹から溢れた花は魂となり、グロウタースに命を溢れさせた。最初の命をグロウタースに産み出したのが、原初の風なんだな?」

『そうだ。風が世界を無条件で慈しめるのは、この世界に溢れる命が我が子だからだ。フフフ、風の王も勝手だな。我が子だというのなら、花の姫にとっても同じだというのに、1人戦いに明け暮れ、そして15代目まで命を散らしてしまった。おまえは死ぬなよ?リティル』

ジュールが翼を伸ばし、リティルの頬に触れた。そんなジュールに、リティルは明るく勝ち気な笑みを返した。

「ああ、オレ、死なねーからな!……なあ、リャリスの事なんだけどな」

『リャリスが誰の子か、か?リャリスは、わたしとシレラの子だ』

「けれども、あなたと花の姫は……」

シェラが皆まで言わずに俯いた。

『彼女を振った後、ナーガニアが、持っていろと彼女の髪の毛をくれた。リャリスは、その髪とわたしの霊力とを使って作った、シレラの生き写しだ。ナーガニアがなぜ、そんなことをしてくれたのかわからない。わたしは、彼女達からすれば衝撃的な言葉で、彼女を振った。なのにな……』

「ずいぶん妖艶な花の姫だったんですね?」

『フフフフフ。そんなわけがないだろう?インファ』

「失礼しました。ナーガニアは風の王の味方ですからね。あなたが、花の姫を振らなければならない理由を、承知していたんでしょうね。どんな言葉で振ったのか、聞きませんが」

『それはわたしも言いたくはない。今となっては遅いが、彼女を、シレラを愛していた。なぜ泣く?手に入ったかもしれない者を、拒み手放したのはわたしだ。君が、心を痛める必要はない。シェラ』

「皆そうだった……風の王はずっと、命を守ってくれているわ。なのに……なぜ?なぜ花は、あなた達を?」

ジュールは翼を体の前で公差して、長い首を横に振ったが、答えた。

『手に入らないからかもな。風の王で、花の姫を娶った者は2人だけだ。15人の王がいて、たった2人だ。我々は番だぞ?抗えない運命に、我々は逆らう。花にしてみれば、腹立たしくはないか?こんなに想っているのに、なぜ落ちてはくれないのか?と』

「インティーガを、止めてやらねーとな」

『ああ。愛するなら腹を決めろ!決められなかった己の不甲斐なさを棚に上げ、誰かを恨むなど笑止千万。知恵は貸してやる。リティル、引導を渡してやれ』

「任せろよ!って、おまえ、まだ居座る気かよ?」

『一時的のつもりだったが、まだいけそうだ。原初の風の精霊、やはり強力だな。いいタイミングだ。首尾はどうだ?リャリス』

 リティルよりも早く、扉が開くことを察してジュールは、城の奥へ続く扉に視線を向けた。

「上々でしてよ?ジュール父様。しかし、これは魔法のようなものですわね」

妖艶に微笑みを浮かべるリャリスと、どこか疲れた顔をしたノインが戻ってきた。

『魔法ならばわたしとゾナの領分だな』

任せろというジュールの視線を受けて、リティルは苦笑した。

「わかったよ、おまえに任せるぜ。ゾナ、サポートよろしくな!」

静かに頷くゾナの隣で、リャリスが不満げに声を上げた。

「あら、私は外されてしまいますの?」

『おまえは、レジナリネイのところへ行ってこい』

「行っちゃダメですってば!わかりましたよ!言えばいいんですよねぇ?」

「聞きたくありませんわ!」

「ええ?それないですよねぇ?レジーナの所には行けて、ボクの言葉は聞けないんです?」

「と、とにかく!聞きたくありませんわよ!」

シュルリと逃げたリャリスの腕を、インジュは咄嗟に掴んでいた。

「ちょっと!待ってくださいよ、リャリス!」

「触らないでくださいまし!」

顔を見ないリャリスに強い口調で言われ、インジュはパッと手を放していた。

「あ、すみません」

『そこで退くか?仕方のない奴め。リャリス、共に来い。これの分析、付き合わせてやる』

すんなり手を放してしまったインジュを見て、ジュールはハアと大きなため息を付いた。そして、フワリと翼を広げると、リャリスとインジュの間に舞い降りた。

「あ、結局連れてっちゃうんですからぁ!ジュールさん!」

『じっくり言葉を練ろ。急くと、取り違えられるぞ?』

ナンパ王・ジュールの言葉に、インジュはグッと押し黙った。リャリスが記憶を消してしまったのは、インジュの言葉を取り違えたからだったのだ。

リャリスはあからさまにホッとして、産みの親とゾナを連れて、応接間から繋がる、アトリエと呼ばれている自分の部屋へ入って行ってしまったのだった。


 歴代風の王を知る者が、イシュラースには1人だけいた。

それは、風の王に世界を渡らせる役目を負っていた、神樹の精霊・ナーガニアだ。

彼女は、花の姫達の母親でもあった。

『ナーガニア、これはいくらなんでも、マズいんじゃないの?』

しいんと静まり返った森の聳える、いったい、何人がかりなら取り囲めるかわからないほどの大樹の根元に、黒い猫が前足を立てて座り込んでいた。

半端に毛の長い黒猫は、2股に分かれた尾をゆっくりと振っていた。

『私は、娘達も風の王達も可愛いのです』

大樹から女性の声がした。

『でもさあ、この影、リティル達が調べてるよ?知ってるでしょ?このまま放っておくと、リティル、被害に遭うと思うよ?』

『それは……婿殿が不憫ですが……』

『いいの?それをするってことは、やっぱりリティルが被害に遭うってことだと思うけど?』

『ルキ……それでも私は、我慢ならないのです。風の王が何をしました?この世界を守り、慈しむ彼等を、なぜ貶めるのですか!』

『まあ、酷いよね?リティルが浮気して、浮気がバレて愛人を手打ちにするとか、信じる方も信じる方だけどさ。真相知ってる?』

『いいえ。しかし、婿殿が娘を裏切るはずがありません。そのサクラとやらが、婿殿にちょっかいをかけたに決まっています』

『リティル、もの凄く優しいから、無碍にできなかったんだね。ねえ、何人いるのさ?』

『明かすと思いますか?』

『アハハハハ。ボクがリティルに教えちゃうって?まあそうだね。危なくなったら教えちゃうね!ナーガニア、情念って怖いんじゃないの?制御不能に陥ったら、絶対止めに来るリティルが死んじゃうかもよ?』

『……もう、手遅れです。あの娘の、シェレラの嘆きは本当に深くて』

『その娘だけ?』

『シェラのように、積極的な娘はそうはいません。ええい、私も絆されていますね。8人の娘が関わっています』

『8人?結構多いね!これ、本気で来られたら、リティル負けちゃうんじゃない?ああ、そう言えば、面白い話聞いたよ?5代目風の王って人が、リティルの所にいるみたいだよ』

『!インジュが?』

『インジュ?煌帝?』

『賢魔王・インラジュールです。あの人は、また、どんな裏技を使ったというのですか?しかし、インジュが力添えしてくれているのならば、あるいは……。ルキ、1つ頼まれてくれませんか?』

『いいよー』

『影を説得してください』

『影?あれ、聞く耳ある?』

『あなたならば、本物が見抜けるはずでは?』

『アハハハハ!しょうがないなぁ。影の人、説得すればいいんだね?任せてよ』

黒猫は、夜のような穴を空間に開くと、どこかへ帰っていった。

誰もいなくなった大樹の根元に、大樹から抜け出るように中年の女性が姿を現した。鹿の角を生やした、気難しげな女性だ。

「リティルは敵ではありませんよ?あのとき、私が間に合っていれば、こんなことには……」

悔やむように瞳を伏せた神樹の精霊・ナーガニアは、大樹の枝葉が、天蓋のように広がる空を見上げた。

――死は、死はどこにある!行かなければ!行かなければ、彼女が……!

風の城でナーガニアが見たのは、力の精霊・有限の星の大剣に貫かれる、13代目風の王・インティーガの姿だった。

彼は、乱心してはいなかった。一時閉じこもってしまった彼が乱心したと、噂を流したのは、彼女らだ。それを、有限の星は鵜呑みにしてしまった。それと時を同じくして、インティーガは、シェレラの暴挙に気がつき、止めようとしただけだ。

想いが食い違ってしまった。死は、風の王が触れてはいけない力。それを求めたと勘違いした有限の星は、必死に縋ってきた、傷を負ったインティーガの姿に魔物を見てしまったのだ。

――さぞかし、無念だったことでしょう……

すべてを知っていたナーガニアは、止めようとしたが、一足遅かった。インティーガは斬られ、乱心した王に情けをかけたはずの有限の星は、斬らなくてもいい者を斬ってしまったのだ。

そしてナーガニアもまた、共謀することになる。娘達、そして、有限の星と共に。

先に舞台を降りねばならなくなった有限の星に会うことができたなら、彼は娘達の想いの成就を願うのだろうか。

「リティル……私はシェレラを止めたくないのです。私は間違っているのでしょうか?リティル……インジュ……間違いだとあなた方がいうのならば、争う以外にありません。彼女らを野放しにすることは、もはや私にはできない」

ナーガニアの中には迷いがあった。

ルキには、止めてくれと言ったが、娘達の想いを思うと、裏切ることはできなかった。

花園が騒ぎ出した。シェレラの復讐は、次の段階に移る。

ああ、けれども、娘達に復讐させたくて、匿ってきたわけではなかったのに……。

――インジュ?インジュ!ああ、どうして……?死するそのときならば、あなたの本心が聞けると思ったのに!あなたは、どこにもいない……!

インラジュールを愛した花の姫・シレラを、この枝葉に匿ったのが始まりだった。それから8人の花の姫の魂が、ドゥガリーヤに返ってはいない。風の王不在の隙間。その魂の混乱するその隙に、ナーガニアは嘆く娘達を神樹の枝葉に匿った。いつか哀しみが癒えたら、その時の風の王に送ってもらおうと思っていた。

 だが、インティーガを愛した花の姫・シェレラを匿ったとき、それは叶わなくなった。

有限の星に斬られたインティーガの魂は、バラバラになってしまったのだ。無理もない。真相を知った有限の星もまた、贖罪に囚われるしかなかった。最後まで、味方でいたかっただろうが、それは叶わなかった。

そしてシェラ。あの娘も、嘆きと怒りを抱えている。リティルの為に、その力を使うだろう。

娘達も風の王も、ただ、愛しただけだ。深く深く。

皆既日食と死の安眠が重なる奇跡など、起こらないと思っていた。しかしそれは起こった。

――アハハハハハハハ!復讐の時だ!思い出せ!なぜ、殺されなければならないのかを!

それを受け取る心があるのなら、とっくに悔い改めていますよ。インファの冷めた声が聞こえた気がしたが、ナーガニアはそれを、涙を流して狂ったように笑うシェレラに言えなかった。

娘達も風の王も、ただ、愛しただけだ。深く深く――……


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