オアシスへの来客
(これは、大丈夫なのか?)
ブラットの言葉に対して楽観的になれない人間もいた。ヘレーナを背負う女性騎士・エリーだ。彼女はヘレーナを背負って進んでいる立ち位置上、二人の会話を全て聞いていた。
(ここにいるのは全員、王都や領都のような都会での生活を主としていた者達だぞ。こんな砂漠で生きる子供とは距離感も生活環境も認識が離れ過ぎている。『後少し』が我々にとっての長距離だったりしたら、衰弱しているアンシャナ様が保たん)
エリーの懸念は半分が正しく半分は杞憂だ。
ヘレーナ達の存在を感知したブラットがその足で彼らを偵察に来た。そこまで長距離ではない。
生活環境のずれは正しい懸念だ。騎士達は野営の一環で多少劣悪な食事・就寝等に耐性はある。だが貴族階級のヘレーナ・アンシャナ親子に耐性はない。精々日を跨ぐ移動時にその騎士達が用意した野営施設を使うことがあるくらいだ。特に幼く、衰弱しているアンシャナを休ませる環境に不安を覚えた。
(少なくともこのブラットという子供が生活できるだけの環境ではあろうが、貧民街等は雨風に野晒しで生きる者もいるという。日差しに砂に風に……身を守れる家屋でもなければ……)
避難先の環境を懸念していたエリーもやがて先のヘレーナのように重苦しい沈黙顔になっていく。エリーと接触していないブラットは、その厳しい顔つきに気づかなかった。
「あ、そ、そのすなやまの、みぎがわのほうを、あるいてください」
「わかりました……」
砂漠は平坦な地が多いが、強風等で砂が偏って丘や窪地のようになっている地形も少なくない。乗り越えるのは非効率な為、一行が進行する道筋は微妙な湾曲を繰り返していた。
「その、すなのやまを、こえれば、すみか、みえます。がんばってください」
「!」
あくまで会話相手のヘレーナに対しての言葉だったが、目視できる希望を提示されたことで、一行の目に光が宿った。
そして遂に砂の丘が一行の視界から外れた時、ブラットの言う『住処』が目に飛び込んできた。
「あ、あれは……!?」
先頭を歩いていた騎士が乾涸びかけていた喉から大声をあげた。
騎士達はブラットの『住処』に対して、そこまで希望を抱いていなかった。精々『希望も無く砂漠を歩くより良い』程度の期待だった。砂漠で彷徨う中で強過ぎる日照が生み出した水――『砂漠の逃げ水』と呼ばれる、熱によって景色が歪んで見える現象――に踊らされた経験が、悲観的な未来を想像させた。
「あ、ああ……!」
「木だ、緑だ!」
「あ、あそこなら助かる。助かるぞ!」
ヘレーナも事前に『砂漠化に追われて廃棄された、砂漠の中の廃墟同然の村』程度にしか期待していなかったブラットの住処。
その正体は、広大な不毛の砂漠に忽然と現れたオアシスだった。
「逸るな! 足を取られて無駄な体力を使う。今まで通り一歩ずつ歩け!」
今にも走り出しそうな騎士達を抑えながら、その実エリー自身が走り出しそうな歓喜を必死に抑え込んでいた。
(せめてアンシャナ様とヘレーナ様を日照から守る障害物があって欲しい程度の期待だったが、あそこなら想定よりいい環境で休養できる!)
エリーも今だけは同僚を殺されてその亡骸を放置するしか無かった憎悪も忘れて歓喜していた。
この時点で、ヘレーナ一行のブラットへの好感度・警戒心は大分好転していた。逸る心を抑えながら少しずつオアシスに近づいていく。目を逸らせば消えてしまいそうな程の小さかった緑の輪郭が徐々に大きくなっていく。それに伴って一行の心に歓喜の感情が積もって行く。
「はぁっ、はぁっ、ああ、つ、着いた! 着いたぞ!」
先頭を歩いていた騎士がオアシスの領域に入り、両手で木に縋りつきながら地面に膝を付いた。
続く騎士達も倒れ込むようにオアシスの領域に雪崩れ込んでいく。
「ああ、す、涼しい……!」
「やっと、終わったぞ! 終わった!」
「おい、お二人を早く!」
最後にヘレーナ・アンシャナ親子、二人を背負う騎士達、ヨーゼフがオアシスの領域に入っていった。
「着き、ました!!」
「お二人共、もう大丈夫です!」
ヘレーナ・アンシャナを背負う二人は、倒れ込んでいる他の騎士達よりもまだ辛い。だが、日照を凌げるだけでも体の負担が大分違った。
(良かった! まだ余談を許さないが、これなら帰れるかもしれない!)
一行は過酷な状況から脱し、皆浮き足立っていた。
「……あ、た、助かった、の……?」
衰弱したアンシャナも、周囲の騎士達の歓声と、オアシスに入り下がった体感気温で、状況の好転を認識していた。
その場の殆どが浮かれていて、周りを見る余裕を失っていた。
「皆、鎮まりなさい!!」
ヘレーナだけが今の危うさに気がついていた。
騎士達の注目がヘレーナに集まる。そこには安堵・歓喜・希望のない、寧ろ危機に直面した険しさが濃く浮かび上がっていた。
そうしてヘレーナに視線が集まった。そして騎士の視界に、ヘレーナの奥で弓矢を構えるブラットの姿が映った。
「お、お二人を守れ!」
予想外の敵意に、エリーは要人2人を守らんと動く。いや、正確には動こうとした。しかし騎士達助かったと緊張の糸が切れていた。這うようにヘレーナ達に近づくことしか出来なかった。
「エリー、私を下ろしてっ」
「ヘ、ヘレーナ様!?」
「早く!」
ヘレーナは半ば自分からエリーの背を降りる。今にも倒れそうな有様だったが、自分の足で立ちブラットに向き合った。支えようとするエリーの手を振り払い、背負われる中で僅かに回復出来た体力を絞り出す。
「ブラット君、貴方の拠点での無礼をお詫びいたします。今後はこのような無遠慮な振る舞いはいたしません。どうか弓を下ろしていただけないでしょうか?」
ヘレーナは旅着の裾を軽く持ち上げ、右足を左足よりも半歩分下げながら頭を下げた。
(き、貴族の女性が自分より目上の者に対して行う最上位敬礼……!)
エリーはヘレーナのその姿を唖然として見上げる。
服の裾を持ち上げ片足を僅かに下げる動作は、そのまま相手の目に跪く前準備を示す。実際に跪くと衣服を汚しかねず無礼へと繋がる為、ここでは頭を下げるだけで終わる。
この動作は
『自分は相対する相手に対して跪く用意がある』
ことを意味を成し、相手に対する最上位の敬意、或いは屈服を表す。
尚、男性貴族の最上位敬礼は片膝立ちで胸と腹に手を置く動作になる。武働きも仕事の一つである男性の衣服は、華やかさを重視する女性よりは多少汚れて問題無いという認識がある。その為、男性用儀礼服の上半身の色彩は、着用者の着こなしや流行等で変化する一方、下半身は黒・紺等の暗色が多い。胸と腹に置かれる両手は、武器を持つ両手を相手の目に見える場所に晒すことで、相対する人物に対して敵意が無いことを証明する意味がある。
「ヘ、ヘレーナさま……! それは……!」
「何を言いたいのかはわかります。ですが彼女は今この場でこの礼をしなければならない方です」
丁寧だが断固とした言葉でエリーを退けたヘレーナは、最優先で礼を示さなければならない相手への会話に残る精神力を全て注力した。
「貴方の家族もいるこの拠点で、何の配慮も無く騒ぎ立て、貴方から禁則等を把握する努力を怠りました。一行を代表してお詫び申し上げます」
ブウットに貴族の礼儀作法の知識等無い。だがヘレーナの所作に滲む気品と、自分に向けられるられる気迫から、その動作の奥の敬意と謝意を感じ取り、矢を下ろした。
(ほんきで、あやまっているにおい……)
「……さきに、してほしくないこと、おしえなくて、もうしわけ、ありません。でも、ここは、わたしのかぞくも、すんでいます。みんなを、おびえさせること、やめてくだ、さい」
本来、ここまで暴力的制止は必要ない。ただブラットにとって『大人の大声』は、内容の好悪以前で基本的に良い思い出がない。『力んだ大人は子供に暴力を振るう』というホランド街特有の固定観念が弓を構えさせた。
また決めたのがブラット自身とはいえ、本来なら放置か始末する筈だった武装集団を住処に招くという安全保障上重大な失点が、ヘレーナ達の処遇を更に引き下げていた。
「承知いたしました。無礼を重ねてお願い申し上げますが、我々がこの拠点に滞在するにあたって、禁則となる行為についてご教授いただけないでしょうか」
「……はい」
そういってブラットはヘレーナ達に向けていた矢を、オアシスの奥に向かって放った。矢を放つ瞬間、騎士達の空気が張り詰めたが、ヘレーナ一行から大きく外れた軌跡の矢に僅かに安堵する空気が流れる。
そのままブラットは計六本の矢をオアシスの地に突き刺した。
「ヘレーナさんたちは、あのやよりさきには、いかないでください。それから、わたしは、みんなに、みなさんが、ここにしばらくいることを、つたえてくるので、みなさんはここに、いてください」
矢によって示された区画は、ヘレーナ達が更に奥に移動して全員同時に寝転がっても充分に余裕のある広さだった。少なくとも空の日照、砂漠からの強風と砂礫を凌いで休息することは可能だった。
「……わかりました。我々はここで待機しております。ですが、滞在する礼儀としてこの拠点の代表者の方にお礼と謝罪に伺いたいのですが、それは叶わないでしょうか?」
「……」
これまでは辿々しくはあっても質問にすぐ返答してきたブラットの口が完全に止まった。
(……いきなり踏み込み過ぎかしら。でも彼女の独断で案内された拠点である以上、代表者の許可は必須)
(最悪、彼女との取引を棄却されて追い出されるかもしれない。これ以上無礼を重ねるわけには行かない)
ヘレーナはブラットの後ろにいる保護者・支配者の存在を警戒していた。
彼女達はこの2日で砂漠の過酷さを死ぬほど味わってきた。ブラットの口から『おばあちゃん』なる人物との死別こそ聞いてはいるが、それ以上の情報は無い。ブラットを庇護する大人が何人かいて拠点を管理し、偵察役として砂漠の斥候を命じられたと彼女は推測していた。
「ここ、おとなの、ひと、いません」
「えっ?」
だからこの返答は予想外だった。