自己紹介
「全員、武器を捨てなさいっ!」
自分から出たとは思えない大声に自分で内心驚きながら、へレーナは震える脚で一歩ずつ一行の先頭に進み、死力を振り絞って声を出し続けた。
「これ以上、無用の戦闘を続けることは、このヘレーナ・ルアード・フェルマーの名において禁じます! 今すぐに武器を手放して、降伏しなさい!!」
想定外の命令に、騎士達が戸惑って行動を決めかねている。そんな騎士達の逡巡と、ブラットの戸惑いが冷めない内に、へレーナは声を絞り出していく。
「この砂漠で出会いました貴方に、無礼を承知で申し上げます……! 我々の道理の通らぬ武力行使を、この一団の長として心よりお詫びいたします
「これよりの加害は、私の命にかけてもう二度とさせません。私共が、行える限りの賠償も行います。何卒、その弓をお納めください……!」
本来戦闘を行う理由は無い。この過酷な環境の中で縦横に動き、冷静に弓矢を操るだけの余力を持つ人物。この砂漠の何処かに人が生きていける環境がある証人であり、へレーナ達の命を繋ぐ最後の希望であるのだから。
それなのに疲弊した騎士達の暴走によって、誰も得をしない戦闘が発生してしまった。
へレーナ達はこの砂漠で命を繋げる可能性の前にいる。だが殺し合いでその人物の怒りを買った。
(私達はこの人物に縋るより他に無い! 私は八つ裂きにされても構わない。それでも、アンナの命だけは……!)
子を思う献身の心だけを支えに、へレーナは希望を必死に手繰り寄せようとする。
「……わたしは、べつにあなたたちと、たたかわなくてもよかったです。でもあなたたちがおそってきたから、たたかいました」
「それは……!」
へレーナはなんとか弁明をしようとするが、ブラットは彼女の言葉を待たずに続けた。
「わたし、あなたたちを、もうすこしでみな殺しに、できます。あなたたちを殺してから、ものをうばえばいい」
「っ」
へレーナ達の非と不利な要因を簡潔にまとめられた。義理・合理の両方でブラットにへレーナに対して譲歩しなければならない理由は無い。
(でも、この人物は突然戦闘の手を止めた。何か、何か交渉の余地はある筈……!)
これで交渉が決裂すれば、へレーナ達は殺されるか、万一生き延びても結局砂漠の中で力尽きる。道理が通らなかろうが、恥を晒そうが、ブラットの慈悲に縋ることしか出来ない。
(私はこの一行でアンナの次に守られるべき存在。でも結局のところは足手纏い。なら私の命でご機嫌取りが出来るとしたら、取引の得失はこちらに傾く)
「もし、私の命で此度の無礼を不問としていただけるようでしたら、この身を如何様にもお使いください。労でも命でも、お望みの通りにいたします」
「お、お母様……!?」
「ヘレーナ様!」
へレーナの周囲では、愛する母・守るべき要人の命が博打の賭け代に乗せられて狼狽える。幸いなのか、周囲の人々が恐れる事態にはならなかった。
「……べつに、あなたを、いじめても、いみがないです」
「っ、し、失礼いたしましたっ」
(この人は、嗜虐心等で動くことは無い。つまり私達を嬲り物にして溜飲を下げるといった行動にはでないということ。なら交渉するにしても実利の面からしか望みはない)
ヘレーナは感情ではなく、実益・物理的な交渉に切り替えた。自分の貴族としての立場を利用することにした。
「わ、私達を殺さないで、そしてもし私達を貴方の拠点で保護いただけるのであれば、今所持している金品は全て貴方にお礼としてお支払いします」
「それから、私はこのデルラ砂漠を含むフェルマー領を統括するフェルマー伯爵家に連なる者です。お救いいただきましたら、フェルマーの家名に誓って、必ず御恩に報いることを……」
「……フェルマーのかた、ですか?」
「は、はい!」
ヘレーナの家名込みの本名は、騎士達を静止命令時にも述べられていた。まだ戦闘中だったこと、彼女の呼び掛けは『騎士達への静止命令』だったことから、彼の記憶には刻まれていなかった。
(フェルマー家を知っている! なら、褒賞で交渉が可能な筈!)
フェルマー家を離れて王都にいたヘレーナは、現状のフェルマー家を正確に知悉してはいない。だから厳密にはヘレーナの一存でフェルマー家の財による褒賞の提示は行えないのだが、そこは道理を曲げて交渉の場に乗せた。小規模の財を使う程度の権限はまだ残っていると、貴族社会の慣習や常識で予想した。
「わたしは、ホランドにいた、ふろうこじ、です。わたしに、フェルマーの人が、なにかをすることは、しんじられません」
(ホ、ホランド町の人間…‥!?)
フェルマー伯爵領の闇の一つの名前を持ち出され、ヘレーナは愕然とした。掴みかけた希望を根底から覆された。
【ホランド町】。フェルマー領が抱える拠点の一つ。別名【フェルマー領の塵捨て場】
町と付いてはいるが、その実態は貧困・犯罪・暴力の闇に覆われた暗黒街だ。
ブラットはその暗黒街の出身者を名乗り、ヘレーナは暗黒街を作り出した勢力の人間を名乗った。双方を隔てる溝は、ヘレーナの死力を奪い去る程に深く黒かった。
「……ぁ……です、が……」
へレーナには元から道理を押し通せるような我の強さも悪辣さも持ち合わせない。いくら『死の淵で呼び起こされた母の力』の後押しを受けても、この交渉を押し切る力はなかった。取引となるような〝何か〟を捻りだそうにも、彼女の口からは言葉にならない吐息しか出てこない。
(なにか……なにか言わなければ……あのホランドの人間に、フェルマーの私が? なにか、なにか……)
誰もが沈黙する中で、風以外の音が小さくへレーナの耳に届いた。僅かに緩められていた、矢の弦を引く手に再び力がこめられたのだ。中断していた外敵の処理を再開されることを予想してへレーナは身を縮こまらせた。
(ごめん、ごめんなさい、アンナ……!)
そんなへレーナの悲壮な覚悟とは裏腹に、矢は放たれなかった。騎士達を警戒したのではない。騎士達は一度戦闘を止められ、身体の限界が一気に戻り、立つことすら困難な者がほとんどだった。
(……攻撃が、こない?)
へレーナは僅かに顔を上げた。弓矢を構えながら攻撃をしないブラットを認識した。
ブラットは実利・憎悪にも拠らない、あるいは上回る理由で攻撃の手を止めているそのことにヘレーナは気がついた。
「……貴方は、何故、その弓矢を使わないのですか?」
「……」
ブラットの返答はなかった。ヘレーナはその沈黙を、交渉の途絶ではなく好機と判断して言葉を続ける。
「利害も感情も、貴方が私達を生かしておく理由はないと私なりに分析しております。それなのに貴方は攻撃の手を止めた。何か私達に、期待することがあるのですか?」
へレーナは交渉の席で相手が望む物を直裁に尋ねた。交渉の場で1番の禁則だ。相手に取引材料を比較する単位の決定権、交渉の主導権を丸投げするに等しい行為だからだ。
だがブラットに命を左右される弱者のヘレーナが、交渉の定石を守る余裕等無かったと開き直った。
「……ききたいことが、あります。わたしのしつもんにこたえてくれたら、あなたたちを、たすけても、いいです」
「私に答えられることでしたら、何なりと」
(どうすればいい。どう答えるのが正解?)
(質問自体に誠実に、相手の反感を買っても正直に答える? 相手の機嫌を損ねないことだけを最優先にする?)
ヘレーナは何が最適解なのか、必死に思考を巡らせる。この時点でヘレーナはブラットへの誠意ではなく、自分達の生存を第一に考えて質問に回答する気でいた。
「あなたはなぜ、その女の子を、まもったのですか?」
「え?」
そんなヘレーナの打算的な思考を吹き飛ばす質問だった。
「こどもは、ホランドではじゃま、です。だからホランドでこどもを殺すひとや、うるひとはいても、まもる人、いません」
「っ」
へレーナはホランドの闇への喫驚と、それを作り出した側に属する罪の意識で顔を強ばらせながら、ブラットの質問を聴き続ける。
「あなたたちも、さばくでまよって、しにかけています。そのこを、まもらなければならない、りゆうがありません。なぜあしでまといの子どもを、おとなのあなたが、そんなに、まもろうとするのですか?」
「だ、だま……」
「アンナ」
自分を公然と扱き下ろすブラットの言葉に力無く反駁しようとした娘を一声で黙らせたヘレーナは、ブラットの反応ではなく、自分の心から答えを出した。
「私は、この娘の母親です」
「――理由は、ただそれだけです」
「……ホランドのおやは、子どもをまもりません。あなたはおやなら、まもるりゆうは、ないはずです」
ホランドの子供は大きく分けて2種類いる。外の街で身を持ち崩した親に連れられる子供と、ホランドで生まれる望まれない子供だ。
前者の場合は、概ね1年程度は親が守る。外の街で愛情を持って育てていた子供だからこそ、ホランドにまで連れてくる。その場合、親子共々ホランドの闇に飲まれて死ぬか、親が負担を減らす為に捨てる・殺すかのどちらかだ。
校舎のホランドで生まれる子供は、概ね娼婦から生まれるか、道端で強姦の果てに生まれる。この場合、望まない子供を荷物としか思えない親達はさっさと捨てるか殺してしまう。
ただ、1分にも満たない事例だが、望まない子供を育てようとする大人達もいる。ホランドでは誰もが拠り所を欲している。『自分が守らねば死んでしまうか弱い命』に、自分の存在意義を見出す大人も皆無では無い。とはいえ、『親擬き』ではなく『まともな親』になれる者は、10年に1人いるかどうかだ。
塵捨て場でも『愛情』という花は咲く。寿命が短いだけだ。
ブラットは自身も含め『捨てられた子供』と『捨てる親』しか知らない。『親だから子を守る』というのは信じられなかったし、『死に淵でまで子供を守る親』の存在を知らなかった。
「貴方がこれまでどのような『親』を見てきたのか、ホランドにどのような『親』がいるのか、僅かですが想像することは出来ました。ですが私は、この娘に生きて、幸せになって欲しいと願っています。言葉に出来る理由は、これだけです」
ヘレーナは自分とブラットの常識の断絶を理解し、その溝を埋める言葉等は無いと直感した。だからこそ、ただ自分の胸の内を端的に述べるだけに止めた。
(この人からは、『うその匂い』がしない。さっきも命をかけて、子どもをまもった。なら、この人は、おばあちゃんとおなじ……?)
ホランドの『親擬き』が見せる、自分の自尊心・優越感の為の庇護ではない。『親擬き』は、命を奪うに足る矢に身を挺することは出来ない。
(はなして、みたい……)
「あなたたちを、ころすのを、やめてもいいです」
ブラットは実利・合理ではなく好奇心に従って弓矢を下げた。
「あ、ありがとうございます!」
ヘレーナは最初の危機を乗り越えた安堵で意識が一瞬遠くなった。とはいえ、このまま放置されては野垂れ死ぬだけだ。
(何とか、この後の支援も引き出さなければ……!)
へレーナが追加の要求をしようとした時、初めてブラット側から能動的な会話が開始された。
「わたしを、もうこうげきしないことと、みなさんのもちものを、くれるなら、わたしのすみかで、やすんでもいいです」
「本当ですか!」
望んでいた支援をブラットの方から提案されて、ヘレーナは更に前のめりになる。
ヘレーナ達に都合の良い申し出をしたのは、申し出た側にも都合があるからだ。
「すみかにあんないするまえに、みなさんの、ぶきをおって、つかえなくして、ください」
「なぁ……」
騎士の誰かが、ブラットの提示した条件に反発するように呻いた。騎士剣は騎士達にとって仕事道具である以上に、騎士という身分の証明・象徴だ。それを破壊しろという指示は簡単には受け入れられるものではなかった。
「わたしは、まけたふりをして、そのすきをついておそってくるひとを、ホランドで、いっぱいみました。だから、わたしをこうげきできないように、してください」
損益を度外視した決断の後だからこそ、引くべき一線を厳密に定め、騎士達の武力行使の可能性を1つでも多く潰していく。
「それがいやなら、ぶきをもっているひとは、ぜんいん、りょうてをけんでつらぬいて、つかえなくしてください」
「っ!」
より過激で悪意のある手段を提示され、騎士達から漂う空気に敵意が混じりかけている。剣呑な空気を肌で感じながら、ヘレーナは急いでブラットの提案を検討した。
(『謝礼として剣を渡すなら、完全な状態の方がいいのでは無いでしょうか』と言える雰囲気ではないわね。反発もわかるけど、ここは武器を使えなくする方で納得してもらうしかないわ)
へレーナの『納得してもらう』という願いには2つの意味がある。
自分の武器を破壊することになる『騎士達の了承』と、自傷行為ではなく物品の破壊で済ませるという『ブラット側の了承』だ。
「分りました。貴方に支援いただく対価と証明として、皆の剣をここで破壊します。野営用の予備の短剣も破壊いたしましょうか?」
「……たんけんのほうは、そのままでいいです。あと、こわしたけんも、もらうので、はこんでください」
へレーナはブラットの指示にはない行動を自分から提案した。指定されていない所持品の提出を自発的に申し出ることで、より積極的に従っているという印象を与える狙いもある。
こうして少しずつブラットとへレーナの交渉がまとまっていった。
最終的なブラットとへレーナの交渉は以下のようにまとまった。
・へレーナ一行をブラットの拠点に回復するまで、住居・水・食料の面で支援する
・上述の支援行動に対する対価として、へレーナ達の所持する金銭・物品のうち、ブラットが要求するものを全て譲渡する
・ブラットの拠点に案内する前に、降伏の証明としてこの場で剣を破壊する
・移動の際はへレーナ一行がブラットの先を歩き、ブラットは後方から進行方向を指示する
・ブラットの拠点において、へレーナ一行はブラットが許可した区域のみ行動——範囲外に出る必要がある場合は、ブラットの同伴時のみ許可——する
・これらの条件を違反した場合は、即座にブラットからの支援を打ち切り、殺傷行為も視野に入れた関係に戻る
これらの条件はあくまで緊急避難の意味合いが強く、へレーナ達の最終的な望みであるフェルマー領都への帰還に関する条件がない。へレーナはまだ詰めたい条件は多かったが、灼熱の砂漠の中で長時間の交渉を行う訳にもいかず、あくまで当座の支援ついてのみ条件を擦り合わせた。
「みなさんは、これをのんでください」
暫定の交渉を終えたブラットは自分が所持していた動物の胃袋を加工した一般的な水筒2つをへレーナに手渡した。
「いま、ある水は、これだけです」
「い、いえ、ありがとうございます」
ブラットがその体格に見合った軽量の装備の中に収めていた水筒2つ――本来は3つだったが、ヨーゼフの火球を凌ぐ際に失われた――には生き残った10人が1~2口程度飲めば無くなる程度の水しか無かった。
この少量の水はへレーナ達の現況には適量だった。脱水状態でしかも極端に疲弊している今のへレーナ達は、大量の水を一度に嚥下すると身体が受け付けなかったり、最悪気管支に入る等して窒息する恐れがあった。
「……みなさんのけんを、こわしてください。おわったら、あんないを、はじめます」
「……」
ブラットは水の回し飲みが終わったことを確認し、案内する為の最初の条件の履行を求めた。まだ動ける騎士7人が、消耗していることを考慮しても明らかに鈍い動きで騎士剣を引き抜く。
騎士剣は鋼の製錬によって出来る頑強な武器だ。だが刃物である以上刃の側面からの加重には脆い。
だが行為の容易さと、精神的抵抗の低さは比例しない。皆、騎士の誇り・象徴とも言える剣を破壊することに乗り気になれずにいた。自分達を殺し得る警戒人物を目の前に武力を低下させることも、騎士達の動きを鈍らせていた。
「は……っ」
とはいえ、この条件はブラットからの命の支援に対する最初の条件でもある。自制心を働かせた騎士達は、ブラットが警戒心を高めるより先に騎士剣の破壊を開始した。
(……よかった。私や彼女に何か言われてから破壊するようでは、不信感を増強してしまっていたわ。そこは弁えてくれたみたいね)
ブラットに気付かれないようにほっと息を吐くへレーナ。
尚、へレーナがブラットに対して心の中で『彼女』と付けた根拠は、体格・声だ。素顔すら外套の帽布で隠されている為、ブラットのことを『少女』と識別していた。
騎士達が、昏倒したヨーゼフの剣を破壊し、意識のない彼を背負う。へレーナ一行で動ける者は8人。ここから自力で移動できないへレーナ・アンシャナ・ヨーゼフを背負う人員が3人。ここまでは大きな負担ではあるがまだ問題ない。
「……へレーナ様。戦闘で死亡した騎士についてですが……」
「……」
問題なのはブラットが殺した10人の亡骸だ。へレーナとて騎士達の亡骸を捨て置きたいとは思わない。ただ残り動ける騎士達は5人しかいない。それも全員疲労困憊で、余計な重量を背負う余裕等ない。守られるべき要人のへレーナ・アンシャナ、隊長でまだ息があるヨーゼフを背負うのすら無理と妥協の選択だった。
「……遺品となる品を1人1つ回収してください。亡骸はここに捨て置きます」
「……っ、はっ」
へレーナの苦渋の決断に、部下の騎士もまた何かを飲み込むように沈黙してから一礼した。彼も亡骸を運ぶのが非現実的で、誰の亡骸を運ぶかという冷酷な選別に耐えきれるとも思ってはいなかった。それでも明確に言葉にされた衝撃があった。
「……っ」
指示を受けてへレーナに背を向けた騎士は視界の端にブラットの姿を捉えると、無意識のうちに歯ぎしりをしていた。仲間を殺した彼への憎悪は健在だった。主であるへレーナの交渉を無にする訳にはいかないので行動には移さなかったが、表情を取り繕うまではできなかった。
「……」
一方ブラットも離れていく騎士の憎悪に気付いていた。正確に言うならば、へレーナ以外の人間達から向けられる負の感情を感じとっていた。
とはいえ、交渉で停戦状態に移行し、騎士達から実際の行動に移されない以上、ブラットとしても騎士達を睨み返す以上のことはしない。
(騎士達の憎悪は分かりますが、こちらが先に戦端を開いた非がある以上、その憎悪は私達の中で鎮めなければならない。ヨーゼフが目を覚ましてくれれば、その辺りの感覚も分かっているのでしょうが、今は私がやるしかない……)
道義・損益の両面で、ブラットに怒りを叩き付けることは出来ない。だがへレーナも、荷物でしかない自分達親子を背負って移動してくれた騎士達に感謝していたし、その騎士達の無念や憎悪は自身でも実感として分かっていた。
「貴女の拠点についてですが、私達十一人を収容可能な広さがあるのでしょうか?」
自分達の中に燻る憎悪をこれ以上煽らない内に、へレーナはブラットとの会話を再開することにした。ブラットはその思惑には気付ず、純粋に質問に対して回答した。
「みなさんが、よこになってやすんでも、だいじょうぶなひろさ、です。二十分くらい、あるきます、けど……」
「ご迷惑をおかけしますが、案内をよろしくお願いいたします」
(二十分。長すぎるとは言えない距離だけど、今の私達には……)
拠点までの凡その距離を計算したへレーナは内心で歯噛みする。この砂漠で長距離を移動する人間等いないだろうという彼女の希望的観測は外れた。
「へレーナ様。そろそろ……」
「わかりました」
諸々の準備を終えた騎士達が、へレーナ・アンシャナ・ヨーゼフを背負う。身軽な騎士達は荷物等を担当した。
へレーナ達が移動出来るようになったことを確認したブラットは案内を開始した。
「わたしは、みなさんのうしろから、すすむばしょにむかって、やをうっていきます。やがつきたったところに、すすんでいって、ください」
へレーナ達の後方右寄りの場所に矢を放った。騎士達はブラット武器を構えたことに警戒を示したが、矢が自分達から大きく離れた場所に突き立ったのを確認すると息を吐いた。
ブラットは大声が得意ではなく、後ろからへレーナ一行を案内するという条件を満たす為に考えた先導方法だった。
この移動方法は、殺し合ったブラットに背を向けて歩かなければならない。一行に強い危機感を募らせるものだったが、それが今のへレーナ達の立場だ。
「ヨーゼフは、大丈夫ですか?」
死力を尽くして魔法を行使したヨーゼフは、まだ意識を取り戻してはいなかったが、何とか水を飲ませることには成功した。今は部下の騎士の1人が背負っている。
「隊長は朦朧としていますが、先程水は飲んでいただけました。何とか休める場所まで持てば……」
「無理をさせますが、ヨーゼフをお願いいします」
「はっ」
ヨーゼフと彼を背負う騎士、アンシャナと彼女を背負う騎士、へレーナと彼女を背負う騎士の順に縦に並び、その前・左右を五人の騎士が囲い、最後尾をブラットが歩く陣形になった。
「辛いのは重々承知しておりますが、なんとか彼女の拠点まで進んでください!」
「「「はっ」」」
騎士達の疲れ切っていても力の込められた返答が返ってくる。具体的な休息地を示され、一時的に気力を吹き返していた。
(とはいえ、この気力はおそらく最後までは続かない。空元気が終わって足取りが重くなる。そうなってしまう前に、拠点を遠目で見れるくらいまで近づければいいのだけれど……)
「……? どうかしましたか? へレーナさん」
へレーナは素人ながら、騎士達の体力・距離感について正確に先を予想していた。
騎士達が気炎を上げる中、へレーナの冷静とも沈痛とも取れる表情に気付いたブラットは、態々騎士に背負われた彼女の正面に移動して様子を窺う。
「いえ、なんでもありませんよ。あな……」
「?」
軽くかぶりを振ると、不安を払拭させる為にブラットへ話題を振ろうとして、へレーナは最初に把握しておくべきことを確かめていないことに気が付いた。
「申し訳ございません。貴女に最初に聞いておくべきことを聞いておりませんでした」
「きいておくべきこと……? なんのことでしょう、か?」
仕切り直しか、照れ隠しか、小さく咳払いしながらへレーナはブラットの帽巾の奥から除く目を見据えて問いかけた。
「私はまだ貴女のお名前を伺っておりません。どのようにお呼びしてよいか、ご教授いただけますと幸いです」
「……ああ、まだ、いっていません、でした……」
ブラットは、へレーナの名前を名乗られているのに自分はまだ自己紹介をしていなかったことを指摘され、やや気まずそうにたじろだ。顔を隠していた帽巾を取り、素顔を見せながらへレーナからの誰何に応じた。
「ブラットと、もうします。デルラさばくにすむ、ヒルフのまごの、ブラットです。よろしくおねがいいたします」