「孤島」
私が14歳のころ、母親はよそよそしくなった。
母親は、私と目が合うと口端をゆがめて面倒くさそうな顔をするようになった。
それはしばらく続いた。
私は、小さい頃はよく見ていたはずの母親の穏やかな表情を思い出せなくなっていった。
母親の露骨なその様子に私は不安と苛立ちと強い悲しみを感じていた。
自分が何かしてしまったのだろうか、と思い当たる節を探すことに健気に明け暮れた。
「その態度は、なんなのでしょう」
ある夜、娘はついに母親を問いただした。
たとえ不安定な悲しみで胸がいっぱいでも、思春期の娘はモラルを保っていた。
「寝なさい、何時だと思っているの」
母親はそっけなく言った。
娘は引き下がらなかった。
「弟も私も、母さんのその態度のおかげで不安で夜も眠れません」
母親は、娘の隣で泣きそうな顔をしている幼い弟にちらりと目をやった。
娘は少し期待したが、彼女のそれは「面倒くさい」という表情に過ぎなかった。
「ちゃんと説明してください」
娘は見たことがあった。
父親と母親と、見知らぬ人が3人で話し合っている場を、見たことがあった。
薄暗い小部屋で、質素な白い電灯がひとたびも笑わない大人たちをぼんやり照らしていて、娘は悲しくもその状況をきちんと理解していた。
「はあ……」
母親はやれやれといったふうに溜息をついた。
「だって、説明が大変でしょう……」
つくづく自分勝手な奴だ、と罵りたくなるのを娘はこらえた。
「別れるわよ」
「どちらと?」
母親は哀れみを含んだ冷たい目で娘を見た。
彼女のそれはもはや母親の目ではなかった。
「パパと」
「………」
もしかして、と娘が刹那に抱いた期待は見事に打ち砕かれた。
娘は目の前の利己的な女を殴りたかった。
目を見開いて「それが何か?もう決めたことですから」という顔をしている母親の顔を、娘は直視することができなかった。
娘は、自分たちよりも己の幸せを当然のように優先したその女を拳で殴るか否かを考えた。
選択権のない苦悩を押しつけられた怒りと、愛する母を失う悲しみの両方が混ざって娘の脳髄に赤黒く浸透した。
実の母親が自分たちを愛さない選択をしたと悟ることは、まるで体が裏返るような苦しみだった。
「私たちを捨てるのか!最低な母親だ!クソ女!」
娘は自分よりも背の高い母親の肩をつかんで怒鳴った。
その母親は幼子であり、娘は彼女よりもずっと大人であることを、娘も知らなかった。
娘は泣いた。
「しかし、お前は幸せになる権利がある。なぜなら、お前は人間だから!」
「………」
激昂する娘とは対照的に、母親は何も言わなかった。
上出来の倫理観を示した我が子に対し、ごめんなさいも、ありがとうも、何も言わなかった。
「まあ、遺産は残るわよ」
「はあ?」
やっと聞こえた母親の言葉は、娘にとって最も必要のない言葉であった。
「それは全く問題ではない。問題は、私たちが一番大事なものを失くしたことだ」
残念なことに、子どもが真実をきっぱりと述べることは、傍若無人な振る舞いをする大人の前において特に意味を成さなかった。
「あなたたちの住む家は残すし、もちろんお金も」
娘は吐き気をもよおした。
母親の話は、これから父親が死ぬ前提に立っていた。
「パパは死ぬってこと?」
「まあ……そうでしょうね」
つまり、母親との離婚を苦にして父親は自殺を選ぶだろうということだ。
娘はあぜんとして女を見た。
女は無表情だった。
女は相変わらず何かがぽっかり欠けたように目を見開いて、「面倒くせえな」とでも言いたげだった。
その夜をもって、女がこれから何も苦に思わず生きていくことも、娘とその幼い弟がこれからおおいに苦しんで生きていくことも、真実として決定された。
娘は弟の手を引いて布団の敷いてある寝室に戻った。
娘は、そう遠くない未来にこの4枚の布団が2枚になる現実を悟った。
ゴミのように棄てられたという記憶は、娘に一生ついてまわるだろう。
人間の幸せを永続的にむしばむその感覚を、無造作に他者へ植えつける罪の重さを知らないかの女は、愚かで幸せだった。
この世界では傷つけた方が幸せを勝ちとり、傷つけられた方が不幸を背負う。
不幸をかばう数々の美しい教訓は、愚か者の前には存在しない。
霧のかかる海原にぽつりと浮かぶ小さな島で、姉弟は自分の身を自分で守らなければいけないだろう。
愛する両親にきちんと送り出してもらえなかった彼らは、生きるために自身を殺すか、生き続ける自身のために死ぬかの二択を常に選択し続けることになる。
「ねえ、一緒になれたらどこへ行く?」
「君ならどこへでも連れて行ってあげるよ」
「嬉しいわ、愛してる」
「僕もだよ」
「待ち遠しいわね」
「そうだね。でも、息子さんたちは、大丈夫なのかい?」
「大丈夫よ。あの子たちには悪いことしちゃったけど、お互いのためを想ったら仕方のないことだったわ」
「そうか、そうか」
孤島には今日も雪が降る。
しんと冷えた土を踏みしめ、娘はなにも無い空と海の間にじっと目をこらしていた。
(おしまい)