戦争なら天国ですればいいさ!
死神とは嵐を引き連れてやってくる物だと思っていた。
だが、私が体験した死はそよ風のように穏やかな物であった。病気でもなく、事故でもなく、加齢による老衰で穏やかにこの世を去ることができたのは僥倖であったとしか言いようがない。
これは普段の行いが良かったからだろうか? もしかしたら毎年初詣に出向いては神様に頭を下げていたのが効果的だったかもしれない。それとも先祖代々の墓へと小まめに参って掃除をしたのが利いた可能性もある。日々真面目に働いたのをお天道様が見ていたのかもしれない。
きっと、私はこれから天国に行くのだろう。
正直で真面目なことだけが取り柄で生きて来たのだ。死後は天国で安らかに暮らせるに違いない。
「ごめん、ごめん。待った?」
自分の死体をぼーっと眺めていると、軽薄な声が耳朶を打った。最初は現世の人間に向けた物だと思ったが、声のする方に視線をやれば、そこには宙に浮く赤ん坊の姿があった。
白い翼も光のわっかもなかったが、彼が天使なのだろうと言うことは直感的に理解が出来た。ついでに言えば、疑いの余地なく男の子だった。
「これから君を地獄に案内するけど、やり残した事はある?」
赤ん坊の口調はあまりにも馴々しく、そして仕事に対する熱意を感じさせないものだった。最近の若者は……と老人らしく言いたい所だが、彼が見た目通りの年齢だとは思えないので止めておいた。
いや。それ以上に聞き捨てならない言葉があった。
人生も最終盤に差し掛かると、肉体の方は殆ど役に立たなくなって来る。視界は全てがぼやけ、鼻も舌も利かず物の味もわからない。体中の感覚が朧で立っていることも難しく、全てが自分とは無関係のように音が遠い。
きっと聞き間違えたのだ。私は不安に高鳴る心臓に負けないように声を張った。
「地獄? えっと、何かの勘違いでは?」
「いいや。君は生前の行いから地獄に行くのさ。間違いない」
「私が地獄? 何故ですか!?」
「何故って? ルールだから」
「そんな! 慈悲はないのですか!」
まるで役所仕事のような返事に、私は絶望の言葉が飛び出してしまう。
天使様に不敬だろうか?
いや、結局は地獄に落とされるのだ。今更、何を怖れることがあるだろうか?
そもそも、もう既に死んだ身だ。これ以上に酷い事なんてそうそうないだろう。
そう決心すると、私は天使様に跪いて懇願を口にする。
「私は生前、神に誓って何一つ悪いことをしていません。どうか天国に連れていってくれませんでしょうか?」
「良いよ」
決心と反比例するように、天使様の返事は軽かった。
「本当ですか?」
「そう言うケナシアタマデカサルモドキは天国に連れて行く決まりなんだよね」
「ありがとうございます」
どうやら、天使様にとって私達人間は猿の紛い物であるらしい。
衝撃的な事実は脇に置き、私は天国に行くことを喜び、天使様と偉大なる主に感謝を捧げる。
天使様に連れられて辿り着いた天国で私が真っ先に感じたのは、堪え切れない程の吐き気だった。濃い血の匂いは鼻や喉にまで絡みつくようで、どれだけ胃酸を吐いても晴れることはない。
獣の様に四つ足姿で胃の中身を吐き終えた後、私は自分が這いつくばっているのが地面ではなく様々な生物の死体の山だと気が付いた。そのおぞましさに跳ね起き、尻餅をつく。じとりと腐った肉の汁がズボンを濡らした。
「ひい! ここは!?」
「ここは“バアルの館”だよ」
天使様が応える。
しかし、館だと? この死体の山が? 右を見ても、左を見てもあらゆる生物の死体の山が積み重なっているじゃあないか。死体はどれも損傷が激しく、まともに原型を留めている物は殆どない。そして、その死肉を喰らうおびただしい数の虫の群れ達によって、それ等はまるで心臓のように脈動していた。
「ば、『バアル』とはなんですか!」
おぞましい死の国の姿から目を逸らそうと、私は天使様だけを真っ直ぐに見つめる。
天使様は可愛らしく笑って応えた。
「天国の古い住人の一人だよ」
「何故です? どうして天国にこんなおぞましい館を築く者がいるのですか! 神は何をやっているのですか!?」
「バアルは、我らが主のお気に入りの一人だからね。彼は沢山殺すし、沢山産み出す」
意味がわからない。
どうして、天国にそんな怪物が必要とされるのだ。
何故、神はバアルを寵愛するのだ。
「どうして? 何故? 決まっているだろ? 此処が天国だからだよ」
天使様はおかしそうに笑った。
私の心を冒すように笑った。
私はその笑顔が恐ろしくなって、天使様に背を向けて逃げ出した。
半狂乱に叫び、自らの正気を確かめるように、ひたすらに走り続けた。
気が付けば、私は先程とは違う場所に立っていた。周囲には冷たい金属が無数に転がっていて、足元の小さなナイフから遠くに並ぶ戦艦まで全てが武器や兵器であることに気が付くまで長い時間は必要なかった。
何故、天国に武器や兵器があるのだろうか?
楽園に争いがどうして必要なのだろうか?
嗚呼。全てが恐ろしい。
何故、私はこんな場所に来てしまったのだろう?
もしかして、あの天使様は偽物で、悪魔の誘惑に乗ってしまったのだろうか?
慈悲深い神よ、どうか私を救い給え。
「お、いたいた。どうしたの急に? バアルの館は気に入らなかったのかな? 此処はキュクロプスの鍛造所だけど、こっちが君の趣味かい?」
跪いて祈りを捧げる私の下に、天使様がやって来た。後光が射す御姿は神々しく美しいが、それ故に恐ろしい。人間でないのであれば、それは脅威に他ならないのだから。
無邪気に笑う天使様に私は頭を垂れて縋るかのように手を伸ばして祈る。
「何故、こうも天国は恐ろしいのですか? これが人の罪なのですか!?」
「ん? 何を言ってるんだい。天国はこんなにも素晴らしいじゃあないか」
天使様は言った。
「君は短い人生で何を見て感じて生きて来たんだい? 」
私は何も答えない。
「君は数えきれない数のイキモノを殺して生きて来た。そうだろう? 生きる為には他者から殺すしかない。生きる為には他者から奪うしかない。生きる為には他者を騙すしかない。生きる為には他者を踏み躙るしかない。生きると言うことは競争で、闘争で、どうしようもなく暴力的だ。我等が主はそう言うのが大好きであられる」
天使様が続ける。
私は震える。
「故に、我等の主は世界をそう創造された」
天使様が続ける。
私は祈るのを止め、両手で耳を塞ぐが声は止まらない。頭の中で天使様の声が響く。
「此処は、そんな地球で頑張った連中の為に用意されたボーナスステージだよ。此処では誰も死なない。殺されても、蹂躙されても、全てを奪われても、その内に復活できる。永遠に生き続ける事が出来る楽園だよ!」
嗚呼! 嗚呼!
嘘だ!
そんな場所が天国であって良いわけがない!
「それに比べて、地獄は退屈だよ? 君みたいに愛と平和を歌う神への叛逆者で一杯だ。争いのない平和の世界のなんと退屈なことか。奴等は永劫の時間をただ消費する為だけに生きている。自分自身を主人にすることがなく、ただただ苦痛を逃れることだけを望む廃人達で溢れている。本当にあそこは地獄だよ」
天使様が溜息を吐き、再び笑った。
「でも、君は見込みがあるよ。死後になって、ようやく“欲”を持てた。それこそが幸福に必要なんだ。その気持ちを忘れなければ、天国でずっとやっていける」