05 うちの姉の暴走が留まるところを知らなかった……
ちょうどその日、ユディ姉さんは翌日に大きな締め切りを控えていたのだという。
連日に及ぶ執筆の疲労とプレッシャーから、姉さんは異常なテンションでデートに出陣した。いや断ればよかったのに。
姉さんのやつれぶりに戸惑ったものの、ルーカス卿はそつのないエスコートで姉さんを喫茶店へと招き入れた。
なお、その店は二階が個室のフロアになっていたのだという。
そうしていつも通りの、当たりさわりのない談笑が始まった、――はずだった。
姉さんは異変に気づいた。ルーカス卿が、深刻な面持ちで押し黙っているではないか。
「あのー、どうなさいまし……」
「申し訳ありません‼」
突如として、ルーカス卿はテーブルに両手をつき全力の謝罪を述べた。
カシャンと音を立てて、ティーセットが机ごと揺れる。
「ど、どうなさったと言うのです? どうか、お顔を上げてください」
「貴女に嘘を吐いていたことを、お許しください!」
「嘘?」
問い返した姉さんを、ルーカス卿は鬼気迫る表情で見つめた。そしてしばしの沈黙ののち、粛々と衝撃の告白を始めた。
「私は、貴女ならば愛せるのではと思ったのです。……シュミッツに面差しの似た貴女ならば。
私は、貴女の兄上シュミッツ・ローゼンフェルトのことが――」
しん、と応接室が静まり返った。
(あ、あーあー!)
言っちゃったよルーカス卿!
そうだったのかルーカス卿!
というか、大々的にぶっちゃけちゃったよ、ユディ姉さんが‼
「ね、姉さん……! 大丈夫なの? えっ大丈夫なのその話⁉」
「構いません。その話をするつもりで参上しました」
ルーカス卿がきっぱりと言葉を挟む。いやすごいガッツだな。うちの父さんもシュミッツ兄さんも今まさにポカーンだろうけれど、僕にはその顔を覗う勇気はない。
話は喫茶店に戻る。机の上で握りしめた拳を震わせ、ルーカス卿は懺悔を始めた。
「シュミッツから貴女との縁談を持ちかけられたとき、私は姑息にもこう考えました。『貴女と結婚すれば、私は彼の義弟となり、生涯途絶えることのない縁が結ばれる』、と」
「は、はあ」
「ですが、それはあまりに貴女に対して不誠実です。利益だけの政略結婚よりもなお悪い。ですから、不躾ながらお願い申し上げます。どうかこの縁談は、無かったことに――」
ルーカス卿の震える拳に、姉さんはそっと手を添えた。
「分かりましたわ。皆までおっしゃらずとも結構です」
「ユディエッタさん……」
姉さんは慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、静かに言った。
「結婚してください」
「――は?」
「結婚してくださ……」
「いえ聞いてましたか、私の話を」
「もちろんですとも!」
歌い出さんばかりに声を弾ませ、姉さんは早口にまくしたてた。
「ですから結婚してくださいな、うちの兄と‼」
「え⁉」
「ふわぁあん! 是非ともウチの兄と南の島の白い教会で式を挙げてくださいませ! そして幸せなご家庭を築いて一生お幸せにお過ごしくださいませ‼ ――式には呼んでくださいませねッ‼」
ルーカス卿はあっけに取られた。
彼はポカンとして姉さんを見つめ、しかし再び眉根を曇らせ、呻くように問いかける。
「……貴女は、私を軽蔑しないのですか? さぞやご不快に思われたことでしょう」
「えっ、なぜですか⁉」
「いや何故って、えっ?」
速攻で打ち返された質問に、むしろ彼のほうが首を傾げ、沈黙してしまった。
異星の人に見えたかのように、彼はあらためて姉さんを見つめた。
この目の前の令嬢は、完全に彼の理解の範疇を超えていた。しかし嘘をついている様子はみじんもない。
それどころか、なんと輝かしく熱い目をしているのだろうか。
彼女のまなざしには、誇り高き信念のようなものさえ宿っている。
「はああ、しんど……! 始まったわコレ……! 今期は本当に期待できる……しかも特等席で鑑賞できる私勝ち組すぎません……⁉ ちょっともう語彙が死滅なんですけど……最高かよルカ氏最高ですわよ‼
――ハッ、今ならもう一冊新刊が出せる‼」
しかしながら姉さんの暴走は収まらなかった。意味不明瞭な独り言をブツブツと述べたすえ、なんと勢いよく席を立と、明後日の方向へと駆け出した。
喫茶店の店内で、正気の沙汰ではなかった。
「あっ、危ない!」
そして繰り返すが、二人が談笑していたのは喫茶店の二階席だった。
姉さんはまんまと階段を踏み外し、階下に向かって頭から豪快なダイブをキメた。
「くっ!」
すかさずルーカス卿は姉さんの片足をつかんだ。しかし同時に、不安が脳裏をよぎった。――女性の脚をつかむなど失礼にも程があるのでは⁉ しかもスカートの中が見えてしまっ……!
彼は反射的に目を閉じた。そして姉さんの片足を握りしめたまま、ともに階段からゴロンゴロンと落ちていった。
「だ、誰か……助けてください……!」
その言葉を最後に、ルーカス卿もまた意識を失ったのだという。
◇
「……何してんの⁉」
僕は叫んだ。
「ていうか本当に階段から落ちたんじゃないか! 何なのホント、ねえ⁉」
「もう、だからそう言ったじゃない!」
姉さんはじつにな調子で言ってのけた。
「さいわいなことに、お店のお客さんの中にお医者様がいらしたの。それで大きな怪我は魔術で治していただいたのだけど、さすがに細かいところは遠慮したから、アザが残っちゃったというわけ。私の話は以上です」
「『以上です』じゃないよ……」
どっと力が抜けて、僕はソファに座り込んだ。
――もしかしてルーカス卿に暴力を振るわれたんじゃないかだとか、姉さんを助けなきゃだとか、真剣に心配した僕がバカだった。本当にバカだった。
「ちなみに私もアザだらけです」
あ、ルーカス卿も自己申告しなくて大丈夫です。
「……ゴホン」
振り返ると、父さんもまた疲労とも呆れともつかない渋い顔をしていた。
しかし父さんはまっすぐルーカス卿に歩み寄ると、スッと頭を下げた。
「うちの娘が、申し訳ありませんでした」
「と、とんでもないです! こちらこそ貴家の皆様には、会わせる顔もない程のところを――」
ルーカス卿が狼狽する。しかしユディ姉さんが気楽な調子で口を挟む。
「私は楽しかったですよ~、新刊も出せそうですし!」
「いやユディはもう黙っていてくれ」
そんな彼らを遠巻きに眺め、僕はため息をついた。
思わぬ方向に転がったものの、姉さんの縁談はこのまま霧散することだろう。
これで一件落着だろうか。なんとなく、何かを忘れているような気もするけれど……。
(あ、くさ)
ポシェットから異臭が漂ってくる。そうだった、サナギが入ったままなんだった。
あとで庭に返してこなくちゃ。そんなことを考えていると、ふいに叫び声が響いた。
「ルカ!」
そうだよ! 思いもよらぬ流れ弾を受けたシュミッツ兄さんが、一波乱残っているんだった!