反射する赤信号
横断歩道の縞が目に映り、脳内がショートを起こす。頭の中では二つの物事が行き交い、黒と白の判断を交互に提示する。
赤信号に気にもとめず先を行く彼は、振り返る。私の様子をうかがっている。構わず行ってほしいが、脳が炎症しているため上手く声を出せない。
そんな時、思い浮かぶのは過去の自分だった。
私は赤信号を渡れない子どもだった。先生に赤信号を渡る時は手を上げて周囲を見渡してから渡るように言われた、その時から手を上げて横断歩道を渡る子どもになった。モラルが私の中で消えるなんて許せなかったから横断歩道の白だけ正確に踏みつけて歩んだ。
それだけではない。ほんの些細なことであっても気になる子どもだった。小学校の頃、文化祭のテーマ決めで前に出て黒板に文字を書くことがあった。文の始めが左下がりになるのが気に食わなかった。だから頭文字を何度も黒板消しで消して直した。あんまり上手くいかず何度も直しているうちに、ガキ大将だった子がイラつきだし、そんなに何度も直すな怒られたこともあった。
それでも、そんな性格を気にすることはなかった。
中学に上がり、掃除が交代制になった時も教室に残る埃が気になったので、箒で隅から隅まで掃いて埃がなくなるまで放課後は居残った。プリントを集める際も、全てのプリントの角が合わないとそわそわしたので、合うまでまとめ直した。
そんな細かさは、ところで他の人には向かなかった。
黒板の文字は右下がりでも左下がりでも、他の人が書いたものだと興味をなくした。プリントがクラス全員分完全に集めきれなくてもそのまま提出をした。私にとって他人は他人で区切りを付けていたのだろう。
それは付き合う人も同じで、どちらかと言えばきっちりとした人よりも鈍くさい人を隣に置いている方が安心した。
私の真面目さを評価する男の子に告白されたこともあった。眼鏡をかけた委員長タイプの子で、その前の年に同じクラスで学級委員をしていた子だった。彼は私のことを真剣に好いていたし、大切にしてくれそうな人だった。でもそんな真面目な雰囲気に圧倒されて、何かがかけ違っているようにも感じて、結局ふってしまった。
その男の子は私が横断歩道を渡れずとも、一緒に渡らない選択をしてしまう子だったのかもしれない。私のことを第一に考えてくれるけれども、それではいけないのだ。
結局、高校生になった時に私は時々寝坊し、一限目に後ろの扉を引き、遅刻しましたぁ、とのんきに言ってくる男の子に惚れて、告白してしまった。遅刻した時に見せる寝癖を愛おしく思った。彼は私の告白を受け、少し考えた後「駅で白い杖をついている人に声をかけて、場所を案内していたのを見ていたよ」と言って、「あの時から君のことが好きだった」と逆に告白してくれた。
雪が桜吹雪に見えるほどに嬉しかった。
いつも他の人には興味をなくしていた私なのに彼に対しては、そうではなかった。彼を見てある程度は見逃していたが、躓き転びそうな時、忘れ物をした時、手を差しのべなければ心が落ち着かなかった。
きっと人助けの時、私と他人との区切りがなくなるのだろう。
傘を忘れたクラスメイトには必ず私の傘をかして彼の傘に入らせてもらったし、駅のホームで苦しそうにしている人を見かけると必ず声をかけた。
「やっぱりそういう時は、他人に細かさを押しつけないんだね」
彼が物珍しそうに私を見ていたのを思い出す。
「人に何かを求めるなんてナンセンスだから、困窮している人に細かさを要求するなんてしない。むしろ、私が助けなくちゃいけないわけであって、そこに私の価値観を押し付けるわけにはいかないよ」
私の細かさと、彼のずぼらさは相反していたけれど、いつだって人助けするときは一致していた気がする。私が駆け寄ると、彼は隣で一緒に困っている人を助けた。おかげでいつもよりも簡単に助けることができた。
しかし人を助けた後で渡る横断歩道では私は赤で止まり、彼は周囲をうかがって渡るか渡らないか判断して、車が来ないようならば渡るようにしていた。私はそんな彼の背を見て背筋を正し、信号が青になった後、手を小さく上げて渡るようにしていた。
そうして順調に付き合いだしたある日、彼は私の律義さに嫌悪感を示しだした。黒板を消していた時、端は綺麗だからふくな、と注意しだした。しかし、私は止まらなかった。掃除なんてサボって早く帰ろうと言われても、私は教室の窓の外が闇に染まるまでやり続けた。彼には強要はしない。でも誰に言われるともなしにそれを続ける姿に彼は「怖い」と告げた。
それから彼との会話が減った。朝に挨拶すら交わさなくなった。
これではいけない。
初めて気づいた。でも、止められなかった。秒単位で集合場所に行くことも、伝言を一言一句違わない内容を誰かに告げることも、私には当然でしなければ心に穴が空くほどに虚無感を覚えるものだから、続けるしかなかった。
そんな中私は彼に呼び出された。それは授業と授業のほんの数分間。
「今日で最後にしよう」
それを聞いた途端、暗澹たる霧が周囲に立ち込めた。彼の姿も、生徒の足音も遠のく。小さな石ころを転がされ、どんどん削れていき、すり減った結果が彼の言葉だ。薄々別れようとしていることも気づいていた。でも、私には彼しかいないとも想っていた。
原因が私のこの悪癖なら、彼のために治す覚悟だってあったはずなのに、その日の彼との下校も同じ時間に同じ場所で秒単位で待ち合わせた。スカートも学校が指定する膝上にして、耳に穴をあけてピアスをしたりもしていない、模範的な私の姿に彼はため息をついた。
彼との最後の帰り道は地獄だった。会話が弾まず、冬の凍てつく風が髪を撫でていく。スカートを靡かせる。天から白粒が降ってくる。いつも通り鞄の中にあった折り畳み傘を取り出すのだけれど、彼はその姿さえ疎ましく見てくる。そして白い息を私に向けて吹きかけた。
「その傘、俺は入らない」
「でも、雪が……」
「このぐらいで傘はささないだろ」
白粒がブレザーにひっつく。その一つ一つは埃のようで、今すぐ払いたくなった。払ったところで、彼は嫌な目で見てくるだろうし、仕方なく私だけ傘を差し、彼は埃をかぶる。
きまずくも一緒に歩く。
そこで横断歩道の赤信号に差し掛かった。きらきらと赤信号の光が私の目に映る。赤は私の体を動かなくさせて、白線の内側に立たせる。これが青に変われば私は再び小さく手を上げて渡るのだろう。
白い霧を吐いて、白い靄の中にどうにか癖を隠したかった。どうにか彼に分かってほしかった。でもどうしようもない。
もう既に私達は終わっているのだろう。
「ねぇ、」
彼に私から別れをきり出そうとした、その時、猛スピードで右から車が走ってきた。タイヤがきゅるきゅると滑っている。運転手は精いっぱいに、反対方向へハンドルをきっている。スケートリンクではないのにもかかわらず、車は滑り続けた。優雅に曲線美を描き、道路にブレーキ痕を刻み付ける。目の前で赤信号が火花を散らした。
歩道に車が乗り上げている。運転手は気を失い、白いもやに包まれている。車体から煙が上がっている。
私の鼓動は早鐘をうち、血流が全身にとめどなく駆け巡る。そこにいる人を見逃せない。手を伸ばして助けなければいけない。
駅のホームでふらつく白い杖の人に声をかけて、肩を持ってください、と言ったように気軽に運転手に安否を呼びかけ、救急車を呼ぶ、それだけのはずだった。それなのに体が横断歩道の白に反射している赤を見つめ続けて動けない。もうとっくに隣の彼は車が他にも来ないことを確認して渡っているのに、私にはできない。
雪は降り続けて、横断歩道の白を広げる。赤信号の精悍なたたずまいが見える。まだ赤信号は続いている。
行ける。
行けない。
渡る。
渡れない。
背筋の悪寒と対峙する。その間にも彼は先を行く。私に冷たい目つきを残し、そして行ってしまう。彼の後ろ姿に恋焦がれてしまう。
横断歩道は雪で埋もれていく。どこを踏んでも白で、黒で沈んでしまうことはない。そこに赤い輝きは落とされる。青信号の音は聞こえない。ごくりと唾を呑む。頭の中は熱せられて、もう何を考えているのか分からない。その意気で真っ白になった横断歩道を踏み抜く。
渡れた。
速足で横断歩道を踏み進める。手に持っていた傘は宙に放り出す。うっとうしいスカートの丈もたくし上げて、駆け出し、彼に追いつく。白で埋め尽くされた自動車に駆け寄り、私達は声をかけた。
「大丈夫ですか」
お互いの声が震えていた。寒さと不安で指先が赤に染まっていた。その指先に彼の手が絡まった。少しだけ震えがおさまった気がした。