私の先生
私は、勉強しながらCDを聞くのがお気に入りだった。
私の両親はピアノが大好きで、母は音大を出て今はピアノの教師をしているくらいである。父も大学生までピアノを習っていたから、素人にしては弾ける方だし、いろんな曲を知っている。
だから、我が家にはクラシックの、特にピアノのCDが大量にある。並んでいるCDをランダムに取り出して、まだ聞いていないCDを聞きながら勉強するのが、私は大好きだった。今度はどんな曲に出会えるのだろう。そうワクワクしながらCDを手に取っていた。
大学生になってもその習慣は続いた。大学生になって一人暮らしを始めるにあたり、母は「あんたの好きそうな曲が入ってる」と十五枚ほどCDを貸してくれた。
ある日そのうちのとある一枚のCDを聞いて、私は衝撃を受けた。
絶対にこのCDを聞くのは初めてだ。見たことのないカバー、知らない曲名。だけど、
私はこの曲を知っている。
ずっとずっと前から、この曲を知っている…!?
CDは外国人のピアニストが弾いており、曲名も外国語で書かれていた。英語ですらなくて、発音すらよくわからなかった。
十曲入っているうちの五曲目。これがどうしても気になる。私はこの曲を絶対に知っているのに、曲名を知らない。何を表現した曲かもわからない。どうしても知りたい。
その曲はとても静かだった。静かで、穏やかで、でもなんというか、静かながらに情熱があって…とてもきれいだった。
その曲を聴き終えたとき、なぜか私の目から涙がこぼれた。
こんなに美しい曲があったとは。こんなにも心動かされる音楽が存在するとは。
そしてこの、あまりにも懐かしいような切ないような感情は、なんだろう。
私は高校生までピアノを習っていて、大学ではピアノのサークルに入っている。だから自分で言うのもなんだが、それなりにピアノは弾ける。
あまりにも惹かれてしまったその曲を知りたくて、私は楽器店に行った。小さな楽器店だったので楽譜があるかわからないが、この強を知る手掛かりにはなるだろう。そう思った。
ところが、店員はCDを見せても曲名がわからなかった。
「この曲の楽譜ですか…少々お待ちくださいね…」
おそらくイタリア語で書かれたタイトルの曲が楽譜として売られているかどうかなんてすぐわかるはずはなかった。かといって自分で探したら日が暮れるだろう。
結局相当待たされた。申し訳ないから楽譜は諦めよう、と思ったとき、
「あ、これじゃないですかね…?」
店員さんは、同じく外国語しか書いてない楽譜を持ってきた。
タイトルが同じ曲が、ちゃんと楽譜として入っていた。
「ありがとうございます!どうしてもこの楽譜が欲しくて…」
日曜日に楽譜を買い、明日の夕方のピアノの予約のときに弾こうと決めた。
これであの曲を自分で弾けるかもしれない!
鞄に例の楽譜を入れて授業に向かい、大学の先生方には申し訳ないが、正直授業は全く頭に入らなかった。
取りつかれたように、その曲に魅せられていた。
やっと授業が終わり、サークルで予約していた音楽室のピアノの前に向かい、その曲を開いた。
楽譜をざっと眺めたところ、おそらく同じ曲だった。あのきれいな曲を、この手で弾けるんだ。
ところが。
「え…難しすぎでしょ…」
左手が難しすぎて、四小節すら正しく弾けない。
絶望した。こんな経験はなかった。
そっか、高校までは先生が、これは弾けないからやめなさいとか、あの曲ならあなたに似合うわ、とかアドバイスをいただいていたから全く弾けない経験が少なかったのだ。
あまりに魅力的なその曲を弾けないのが、どこまでも悲しかった。
もちろんこの曲は一日で弾ける曲ではない。私は一つの曲に数か月はかける。だけど、一時間頑張って四小節も進まないなんて経験はさすがになかったのだ。
毎日私はそのCDを聞き続けた。そのたびに、なぜか温かい気持ちと切ない気持ちが入り混じった。そしてなぜか、窓から見える青空のような光景だけが目に浮かぶのだ。
大学のテストが終わり、夏休みに大学生になって初めて帰省した。
まだ私はその曲の魅力に飽きてはいなかった。
でも呆れたことに、そのCDをCDプレーヤーに入れたまま帰ってきてしまった。
「ねえお父さん」
珍しく私は自分から父に声をかけた。
「題名が知りたい曲があるんだけど」
「なんだい?」
「ピアノの部屋に来て」
CDを持ってないのにどうやって曲名を聞くのかというと、
私は弾けないことに絶望したあの日からあの楽譜を開いてはいなかったが、あの曲をCDっで何度も何度も聞いたから旋律を覚えていた。
旋律だけ右手で奏でることは、私にもできた。
旋律自体はそんなに複雑なものではなかったから、CDで聞いた通りを弾いた。
「…きいたことあるかもしれないけど右手で旋律だけ弾かれてもねえ」
そう言ってすぐに飽きて父はリビングに戻ってしまった。
父は母より、知識という意味ではピアノについて詳しい。父の方がより多くの曲を知っている。だからこそ、先に父に訊いた。母に聞いてもわからないだろうと思っていた。
私にとってこの曲との出会いはあまりに衝撃的だったのだ。なんというか、私は何度もCDを聞いているうちに、
「私はこの曲に出会うために生まれてきたんだ」
と感じていた。
理由はわからないけど、強くそう思っていた。
だからこそこの曲について知りたかった。
するとなぜか母はピアノの部屋に入ってきた。
「あんたその曲何で知ってるの?」
「これで何の曲かわかったの!?」
意外だった。そして、謎が解け始める。母は口を開いた。
「それね、あんたが一歳になる前、あんたが寝てる間だけ私が弾いてたのよ」
一歳になる前。それはいわゆる記憶があるはずのないときだった。それなのに、この曲は私の中に確かにあった。
「詩的で宗教的な調べ、っていう曲集の中の、孤独の中の神の祝福っていうの」
やはり知らない題名だった。でも、なつかしさの理由が分かった気がした。私にとってこの曲は、母の曲だった。記憶の奥底に眠っていたけれど、確かに私の中に根付いていた、安心の曲だった。
「懐かしいわ。あれ以来一度も弾いてない」
「もう一度弾ける?」
「難しいのよ。それに派手でもないしね。練習するのに時間がかかる割に、地味な曲、で終わっちゃうのよ」
母はピアノの教師であり、舞台で弾くならある程度派手だったり有名だったりする曲を選ぶ。この曲は生徒さんには確かにそれほど受けないかもしれない。ならせめて、と思った。
「ねえ、あの曲弾いてたピアニストさんってまだ生きてる?」
あのピアニストの演奏が素晴らしいからこそ余計に、私はこの曲に惹かれたのだと思った。しかしまたしても期待外れの答えが返ってきた。
「クラウディオ・アラウというピアニストが確か弾いてる、貸したCDは。アラウは1991年に亡くなっているわ」
なんと、私が生まれる前じゃないか…。
「アラウの演奏は素敵よ。私はアラウが好きね。あの曲はフランツ・リストの曲。リストの曲はアラウの演奏で聞くのが私のお気に入りよ」
せめて生演奏でそれを聞きたいと思ったのに、母の演奏もそのピアニストの演奏も聞けないというのはあまりにも残念で、落ち込んでしまった。
CDはもちろん下宿においてある。何度でも聞ける。それでも、もう二度と生演奏で聞けないというのは、CDがなくなってしまったかのようにその時は悲しかった。
私は中学生のとき、ピアノをやめようかどうしようか本気で悩んだ。
中学生の頃、ピアノのコンクールに出たけれど、奨励賞までしかもらえなかった。つまり、音大に行くのはあまりにも困難だと思われた。
「あなたは物覚えがいいし、理解が早い。でも表現力が弱いわね。あなたの頭の良さならほかにできることがいくらでもあるわ」
ピアノの先生にそうはっきり言われ、つまり音楽を生業にはできないと言われたのだと悟った。
一応中学受験をしたから、私は小学生のときピアノの練習をさぼりがちだった。もっと小学生の時に練習しておけばせめて技術はもっとあっただろうに。でも表現力がないと言われて、コンクールでも二次予選落ちで、ピアノの先生になるのはやめるしかない、と思った。
正直、悔しかったのだ。中学生になって、自分でこの曲を弾きたいと言えるようになって、実際に弾かせてもらえることもあって、演奏することの楽しさをやっと知ったのだ。
ピアノを続けていたら未練が残る。あの曲は弾けない、あの人の演奏には叶わない。そんなことばかり思ってきっと、もっと弾けたらよかったのにと思い続ける。だったらすっぱりやめてしまおうと思った。
しかし、母は反対した。
「ずっと続けてきた習い事を今やめるなんて」
母も私が音大に行くのは無理だとはっきり言った。しかし、
「何か一つは、ずっと続けられるものを持っているべきだわ」
そう言ってきかなかった。
中学三年生の夏、ピアノの発表会、最後にするかどうするか迷った発表会があった。出演したときに弾いたのは、ベートーヴェンのソナタ月光の第三楽章。
私は短調の曲は滅多に弾かないが、勢いがあり、愛する人に捧げたというその曲には魅力を感じた。技術を高めるのにもいいでしょうと、ピアノの先生も弾かせてくれた。
いつもは緊張で、今どこを弾いているんだろうと演奏中に思うこともあるくらいだったのに、そのときは冷静で、ここはこんなイメージ、と思い浮かべながら弾くことができた。
演奏し終わって、私は知らないおばさんに声をかけられた。
「あの…あなたベートーヴェンを弾かれた方?」
「はい、そうですが」
「とってもよかったわ、月光。私ね、ベートーヴェンが大好きなの。あなたの演奏は力強くて情熱があって、素敵だった。涙が出たわ。それでどうしてもお礼を言いたくてね。いい演奏をありがとう」
「いえ…とんでもないです。ありがとうございます」
最後の発表会だからいい演奏をしようと、張り切って練習した甲斐があったのだ。でもむしろ、その言葉を聞いて、趣味でもいいからピアノを続けようと思った。ピアノを教えたり、ましてピアニストになって多くの人に演奏を届けたりすることはできなくても、誰かひとりの心に響く演奏ができたらいいじゃないか。職業に音楽を選ぶことはできなくても、誰かが共感してくれたり勘当してくれたりすることがありうるなら、ピアノを続けよう。そう思った。
大学生活はいろんなことがあり、終わりを迎えた。
卒業式が終わって私は実家に帰った。
すると、母が私をピアノの部屋に呼んだ。
「え?私最近そんなに練習してる曲なんてないよ?」
母はピアノの教師だけあって、私の演奏に口だすことはしょっちゅうだった。だからプチレッスンでもし始めるのかと思ったら、違った。
「あんたへのプレゼントがあるの」
ピアノの部屋に?
すると母は、ピアノを弾こうとするじゃないか。
私の前で、演奏?
こんなこと、今まであった?
…静かな左手の旋律が始まった。
あの曲だった。
詩的で宗教的な調べ第三番、孤独の中の神の祝福第三楽章。
何度もCDで聞いた演奏の生演奏だった。
母からの初めての生演奏のプレゼント。
それはどうしようもなく美しく、静かな情熱があって、愛を感じた。
いつかどうしても生で聞きたかった曲。そしてできることなら、母の演奏でもう一度でいいから聞きたかった曲。
泣くことすらできないほどに、衝撃だった。母のピアノの演奏は確かに好きだった。でもこんなにも美しい演奏が今まであっただろうか。
私は母の演奏を聞いたことがもちろんある。母も舞台で弾くことがある。
しかし母は緊張しやすく、人前での演奏ではミスが目立った。
母の表現力には私は正直舌を巻いていた。上品に大人っぽい演奏をすると自慢の母だった。でも、いつも、ちょっとしたところで間違えたり、人前では暗譜で弾けなかったりと、苦労していた。
しかし今日の演奏は暗譜だった。完璧だった。
そして、
わかるはずがないのに、今日のこの演奏は、二十二年前、私が一歳になる前の演奏と同じだと思った。
私は母の演奏を聴き、安心していて、この曲を弾いているときは泣くことなどなかったのだ。まだよく見えないその目で見ていたのは、ベビーベッドから見えるアパートの窓とその外の青空。
私にとってそのとき母は全てだった。安心だった。安全だった。守ってくれた。育んでくれた。いつもそばにいてくれた。
そうだ、やっぱり私はこの曲に出会うために生まれてきた。
この曲に出会うためにピアノを習ってきた。
私が音楽の道で生きてはいけないとわかったとき、母にひどいことを言ってしまった記憶がある。
「ピアノなんて、何の生産性もないじゃない。音楽なんてなくたって人は生きていける。それに生涯捧げる必要なんて私はないわ」
それは音楽を生業にできない悔しさの裏返しだった。
でも違った。音楽がこんなにも思い出をきれいに残してくれるものだなんて。こんなにも感情を表現できる手段だったなんて。こんなにも人を感動させられるなんて。音楽がなかったら私はこれまでどれほどつまらない日々を送っていたか…。今日という日がどれほど素晴らしいかは、音楽がなかったらわからなかった。
「…この曲はあんたのために練習した。実は、もう一度弾けるようになるまで一年以上練習したわ」
そうだろうな、と思うくらい非の打ちどころのない演奏だった。あのピアニストに劣らないと私は思った。
「あんたがこの曲を気に入ってくれて、嬉しかった」
母はそう言った。
「この曲は私のお気に入りでね。そのうえ穏やかで静かだから、あんたを寝かしつけてから練習するにはもってこいだった。まさか覚えてるなんて思わなかったわ」
「お母さん、私、この曲がすごく懐かしかった。絶対にこの曲を知っていると思った。題名はわからなかったけれど。でもね、この曲に出会うために私は生まれたって、そう思ったんだ…」
最後の方のセリフに自分で恥ずかしくなった。でも。
「私は、あんたと出会うために、あんたを産んで幸せになるために生まれたのだと思う。この曲は子守歌にもなったのね。22年間、手間のかかる子だったけれど、私はあんたを産んで正解だった。ここまでよく育ってくれた。卒業、おめでとう」
こんなにうれしいプレゼントは、初めてだった。
母は、私に何かを教えてくれることは少なかった。勉強も、「パパに訊きなさい」って言われたし、ピアノも遠くまで習いに行っていたからそんなには母には習っていないし。
でも、私の中にはずっと安心があった。この世の中は安全だと思って過ごしてきた。それは、母が私を常に守ってくれたから。母がいればいつまでも安心なんだって、思えたから。
その母も、私が大学を卒業する年になって、人生の折り返し地点に近いところに立っている。
そうか、この母もいつかはいなくなってしまう。安心は、いつか消えてしまう。
そう思ったら突然、涙がこぼれた。
「なんで泣くのよ」
答えられなかった。でも、私は母にいつまでもそばにいてほしい。どこにも行かないでほしい。何も教えてくれなくてもいい。ただ安心を与えてくれればいい。
母は優しかった。料理はおいしかった。病気になれば看病してくれた。
でもそれは永遠には続かないのだと思ったら悲しくて仕方なかった。
だけど。
「ピアノってね、CDとかレコードとかに残せば半永久的にこの世に残るけど、基本的に音楽って、すべての演奏が違っていて、それは同じ人であってもうまく弾けるときとそうでないときがあるし、その時の気分で曲の雰囲気も変わるし、まして弾く人が違えば大違い。あんたに私が残せるもので、この世から消えないいつまでも残るものはないのよ」
なんだか私の心は読まれているのだろうかと思うような、でもおっしゃる通りのことを言われた。
でも思った。
「だからこそ、切なくて、きれいで、心にはいつまでも残るんだね」
「そう思ってくれたのなら嬉しいわ」
母は微笑んだ。
「お母さん、今まで育ててくれてありがとう」
ふふ、と母は笑った。
「あんたに私がちゃんと教えてあげられるものって、そんなに多くなかったかもしれない。でもね、ピアノが、音楽がどんなに面白いか、少しでも教えてあげられたらいいなとは思ってた。あんたの心が少しでも豊かになればと思った。趣味としてピアノを続けて、得たものだってあったでしょう?習わせて、間違いじゃなかったでしょう?」
私もにっこりして、答えた。
「お母さんは、ピアノの技術とかを直接教えてくれたわけじゃなかったけど、私にとっては先生だったんだね」
そういえば、と私は思った。
「この曲のタイトルってどんなイメージなのかな?」
「ラマルティーヌっていう詩人の詩を曲にしたらしいんだけどね…詳しくは私も知らないの。でも、キリスト教関連の曲ね。私が思うに、ここで言う孤独って、友達がいないとか、誰かを失ったとかではない。一人の人間が神と向き合ったときに神様から与えられた祝福を表現している…うーんうまく言えないな」
母の説明は要領を得なかった。でもなんとなく雰囲気はわかるような気がした。
私はこの曲を聴いていた赤ちゃんのとき、この世の中がどんなものか全くわからなくて、そもそも自分という概念すらないから、自分自身と向き合っていた。誰かに興味を持つ前に、自分という存在を知るにあたり、ある意味で孤独だった。でもそれは母の愛に守られていた。
私は就職のために、また別の場所で一人暮らしを始めることになった。CDプレーヤーも、中古のピアノも持っていった(ピアノはなんと、父からの卒業祝いだった)。
でも、私はあの曲のCDはもう聞かなかった。母の演奏を心にずっとしまっておきたかった。CDの演奏でまた記憶を塗り替えてしまいたくなかった。
あの美しい演奏はCDの素晴らしい演奏に負けるものではなかった。むしろ、私にとっては母のあの時の演奏が一番素敵で、一番の思い出だから。
もちろん、一度聞いた演奏をCDのように頭の中で完璧に再生することなどできない。でも、音楽には、演奏する人の思いがこもる。クラウディオ・アラウの演奏はとっても素晴らしいし非の打ちどころがなかったが、それが意味するものと、母が演奏するものとはやはり別物だった。
母の演奏は、私に対する愛情と、音楽を愛して心が豊かに育ってくれますようにという祈りがこもっていた。
しかし、曲についてはもっともっといろんなことを知りたかった。後日、今更だよなと思いながらラマルティーヌの詩を調べた。そうしたらこんな文章が出てきた。
人生は短いけれど、満ち足りていて、生きていくには十分だ。
これはきっと、22歳の私が本当の意味を理解するには早いだろう。
でも、もう少し歩んだ先に、そう心から思える日が来るなら、私にとってあの曲はもっともっと素敵なものになるのだろう。
神が、母が与えてくれたかけがえのないプレゼント。私の大先生からのプレゼント。