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その9

落ち着かなきゃ。

トイレのドアに背中をもたれ、アイヴィーは目を閉じて気持ちが落ち着くのを待った。

目の端から涙をぬぐう。

壁にさえぎられて、いま歌声は響く程度にしか聴こえてこない。

この声。

この歌声。

覚えている。

その声の持ち主に、知らない唄はなかった。

アイヴィーが歌唱教室から帰ってきて、習ったばかりの歌を聴かせると、この声の持ち主はその歌を全て知っていて、いつも一緒に反復練習をしてくれた。

時には幼いアイヴィーの高いキーに合わせ、低いキーでハーモニーを調和して歌い、アイヴィーはその響きが大好きだった。

いつも一緒に歌ってた。

彼女も自分も、歌うのが大好きだった。

あの時から歌うのが大好きになった。

今も、その時の気持ちで歌ってるんだ。

全て思い出した。


気持ちが静まるのと同時に、悔しさもこみ上げてくる。

「逃げちゃいけなかったのにな。」

まだ、あの曲は続いている。

最後まで、全てを聴くのが、今夜ここに来た自分の使命。

今この現実に背を向けるのは、過去と未来に背を向けることになるから。

あの声を受け止めるかのように下腹にグッと力を入れ、アイヴィーは再びフロアに出た。

トイレのドアを開けると、またしても圧倒的な歌声に押されかけたが、今度は何とか持ちこたえる。

席に戻ると、新しいビールの缶が置かれていた。触るとキンキンに冷えていて、その感触が心地よく、妙にホッとする。

お代わり、頼んでないけど。

あの店員の気遣いかな?

辺りを見渡したが、彼の姿は見えなかった。

アイヴィーは缶から直にビールを飲み、改めてステージに目を向けた。

落ち着いて聴くと、何となく知っている曲。

これ…何語なんだろう。

英語じゃないな、フランス語みたいな、スペイン語みたいな?アイヴィーにはよく分からない。

ただ、ささやくように甘く優しく歌い上げるメロディーは、今度は子守唄のような安心感を感じる。

周りの客も同じ。フロア全体が、ママの優しさに包まれている。

曲はゆっくりとフェイドアウトし、一瞬の静寂の後、拍手の雨が降り注いだ。

アイヴィーは、ただ黙って座っている。

拍手どころの話じゃない。

「ありがとうございます。」

そう言って、ママはギターを置いて立ち上がった。

「次の曲は…では、にぎやかに参りましょうか。フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン。」

軽快なピアノが指先で踊る。

一転して、ママはダイナミックなボイスをフロアいっぱいに響かせた。

観客は身体を揺らし、思い思いに楽しんでいる。

アイヴィーはまた驚く。さっきの歌とは、まるで別人のよう。

いや、振り幅が大きくても、その中心は揺るがない。

それって、まるで…。

「ちっくしょー…。」

気づくと、アイヴィーは心にもない悪態をついていた。

レコーディングに没頭して数ヶ月。

“いろんなアレンジにチャレンジしても、アイヴィーはアイヴィーだね”

“どんな楽曲でも、揺るがない自分を持ってるよね”

一緒に仕事をしているスタジオ・ミュージシャンたちから口々にそう言われ、ちょっと自信を持ったところだった。

それは、ルーツってことだったの?

アイヴィーの思いをよそに、巧みなMCを挟みながらママは歌い続けた。

ナイト・アンド・デイ。

オーバー・ザ・レインボウ。

ミスティー。

A列車で行こう。

サマータイム。

ほとんどジャズを知らないアイヴィーだけど、どの曲も「聴けば知ってる」スタンダード・ナンバー。

悲しさや嬉しさ。

喜びや憎しみ。

愛や嫉妬。

歌詞が分からなくても、さまざまな感情が伝わってくる。これはどんな曲なのか、聴いただけですぐに感じられる。

ハッキリ言って、この人はこんな場末のバーでおさまるような実力の持ち主じゃない。

でも、アイヴィーはこうも思う。

ローカルのキングやクイーン。

全国のあちこちのシーンで、そんな存在は山のようにいて、それでも彼らがローカル以上の存在になるには実力だけじゃない、運やタイミングが必要だってこと。

自分は運が良かった。

そして、そのせいで苦しんでもいる。

超満員でも数十人の観客を相手に、彼女は生き生きと歌い続けた。

アイヴィーにはそれが何とも羨ましく、また悔しく、そして誇らしかった。

さっきのビールは、とっくになくなっていた。


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