その8
ジャズの曲は終わりが読めない。
時間の経過が掴めないまま、アイヴィーはビールを2回お代わりした。自分が何をしに来たのか、いまいち分からなくなりかけている。
白髪の店員が新しい缶をアイヴィーのテーブルに運んできた。他に店員はいないみたいだ。
アイヴィーは、立ち去ろうとする店員を呼び止めた。目深にかぶっていたニット帽を、上に引き上げながら。
「あの…。」
物腰の柔らかい店員は微笑みながらアイヴィーの方を振り返り、それから一瞬、驚いたような顔をした。
「…なにか?」
「あの、こちらのママ…さん、今夜は、歌いますか?」
店員は、アイヴィーの顔をまじまじと見ていた。有名人を見るような野次馬的な視線ではなく、本当に驚いている顔。
アイヴィーも、彼と視線をしっかりと合わせた。
彼がビックリしている理由。
たぶん、分かる。
それは、アイヴィーの疑問にも答えを与えてくれる表情。
「はい、出ますよ。歌いますよ。」
そう言って、店員はニッコリと笑った。
「そうですか。えっと、何時からですか?」
メガネで赤いワイシャツの痩せたドラマーが、切れのいいロールをビシッと決めて曲を終わらせた。
「今から、始まるんですよ。」
アイヴィーにそう告げた店員の横を、一人の女性が優雅な足取りでステージの方へ向かって行った。
堂々とした後ろ姿。
シックなワンピースの青いドレスを着て、髪の毛はアップしている。年の頃は50代といったところか。
ステージに上がり、ゆっくりとこちらを振り返った。
端正な顔立ちに刻まれたシワは、かえって知的な美しさを際立たせている。ハート型の顔に、やや切れ長の目。鼻が小さめで、口は割りあいに大きい。化粧は控えめだが巧み。
アイヴィーは自分がビールのグラスを握りしめていたことに気づいた。その女性…この店のママから、目が離せなくなっていた。
いきなりマトモに顔を合わせなくて良かった。
心の準備なんか、まるでできてなかった。
アイヴィーの席はフロアの一番後ろ。これくらいの距離が、平穏を保っていられるギリギリだ。
彼女はフロアに向かって深々と頭を下げた。
暖かい拍手が降り注ぐ。
「みなさま。このような年の瀬に、『幌馬車』にお集まりいただき、本当にありがとうございます。」
マイクを通したその響きに、アイヴィーは思わず喘ぐような声を漏らした。隣の客がまたこちらを振り向いたので、慌ててビールを口にしてごまかす。
グラスを置いた手は震えていた。
「今宵はT大学ジャズ研究会の名カルテット“ヴェルヴェッティーン・ドリーム”の皆さんの演奏でお楽しみ頂いております。“ヴェルヴェッティーン・ドリーム”の皆さん、いつもありがとうございます。」
ママはそう言って、学生たちのために拍手を促した。
「お耳汚しではございますが、ここからは私の歌にお付き合いいただきたいと思います。皆さま、もう『幌馬車』のママの歌は聴き飽きた!とお思いではございましょうが。」
少しの笑いと、その言葉をかき消すような万雷の拍手。
アイヴィーにも分かった。みんな、彼女の歌を聴きに来ているのだ。この時間を楽しみにしていたのだ。
ママはギターを手に、ステージ中央に置かれたスツールに腰かけた。
アイヴィーは固唾を飲んで見守っている。
“ギターなんか、弾けるんだ”
リラックスした空気の中、彼女の周りだけが緊迫感に満ちている。
「まずは…“イパネマの娘”から参りましょうか。娘と申しましても、私が歌えばさしずめ“イパネマの婆”ではございますが。」
そう言って彼女はまた笑いを誘った。アイヴィーの近くにいた男性が立ち上がって何かを叫んだ。周囲の音に邪魔されて内容は聞き取れなかったが、ママはニッコリと会釈を返した。
上品なピアノの調べに続いて、軽く刻むようなドラムの音。
ウッドベースが心地よく響く。柔らかいギターの調べに誘われて、ささやくようにママは歌い始めた。
その歌を耳にした瞬間、アイヴィーは立ち上がってトイレに駆け込んだ。




