その7
古ぼけたビルのエントランスが、何となく高円寺ギヤを思い出させる。これまた年代物のエレベーターに乗り、4階へ上がると目の前が店の入り口。
ありふれた雑居ビルには似つかわしくない大きな防音ドア。横には木切れに印象的な字体で彫られた「幌馬車」という看板が掛けられている。
金属レバーに手をかけてから、アイヴィーはつかの間ためらった。
“本当に、ここにいるのかな”
父親から聞いた話。
最後に連絡を取ったのは、もうずいぶん前だって言ってた。時間が経てば環境も変わる。アイヴィーだって、この一年で天と地ほどの変化を経験した。
オーナーが代わっているかもしれない。
もう、ここでは歌っていないのかもしれない。
それでもお店は、父が言っていた通り、ここにあった。
彼はこうも言っていた。
“金曜日は大抵、ステージに立っているはず”と。
何となく思うんだ。
このお店がまだあるなら、そこから逃げ出すようなマネはしないだろうって。
たとえこんな年の瀬でも、板の上に上がっているだろうって。
アタシが知ってる、あの人なら。
だけど、まだアイヴィーは立ち尽くしている。
“アタシなんか、来ちゃって良かったのかな”
歓迎されるなんて思ってない。
向こうにも今の生活があって、そこには“誰か”がいるのかもしれない。父親みたいな“誰か”だったり、アタシみたいな“誰か”だったり。
そこをぶち壊そうなんて気はさらさらない。
でも。
じゃあ、どういうつもりなのかというと…。
「分からないよね。自分でも。」
アイヴィーは一人つぶやいた。
とにかく。
ここまで来て、帰るわけにはいかない。
帰ったら、もう二度と出直せない気がする。
逃げたら、きっと一生、後悔するだろうから。
「…しっかりしろ、アタシ。」
アイヴィーは深呼吸をして、重いドアを開けた。
ドアを開けた瞬間に、中の空気がぶつかってくるような感覚は、どこのライヴハウスでも同じ。
音の衝撃は小さいけど、その感覚にアイヴィーは何となくホッとする。
「いらっしゃいませ。」
品の好さそうな、白髪の男性店員が迎えてくれた。
心地良いリズムが身体を駆け巡る。今夜もライヴが行われているみたいだ。
扉の向こうは小さなワンフロアのホールになっていて、奥まったところに小さなステージ。フロアにはいくつものイスとテーブルが置かれ、こんな年末にも関わらず、それなりの数の客でにぎわっている。
フロアにイスとテーブルがあるなんて、自分たちの界隈では打ち上げの時以外にはあり得ない。それが妙に新鮮で、面白く感じる。
「ミュージック・チャージが2000円です。」
アイヴィーは財布を取り出した。店員はチケットの代わりに、一枚刷りのメニューを渡してきた。
ステージでは、ラフな格好の4人組が軽快なジャズを演奏中。ピアノ、ベース、トランペット、ドラム。こういうの、カルテット…っていうのかな?
「飲み物はどうしますか?」
「えーと…ビールで。」
「缶になっちゃいますけど。」
「あ、はい。大丈夫です。」
奥にある小さな厨房から、バドワイザーと細身のグラスが差し出された。バドワイザーってのも、なんだか新鮮。不思議な心地良さを感じる。
ビールとグラスを手に持ったまま、アイヴィーはフロアを見渡し、かろうじて空いていた後方の一人席に座った。缶の中身をグラスに注いでいると、木のボウルに入ったナッツがテーブルに置かれた。
聴き慣れた強めのビートではなく、まるで唇の上を跳ねていくようなハイハットの音。スラップしないウッドベース。ピアノと管楽器が織りなすメロディー。
ジャズなんて、正直言って何も知らないけど。
なかなか、いいかも。
満員の店内は冬装備ではやや暑く感じるけど、それでもニット帽を脱ぐのには抵抗がある。隣にいる客が、さっきからこっちをチラチラと見ているのは分かっている。
コートだけは脱ぐことにした。パッチでカスタムした黒いパーカーは、パンクといえばパンクだけど、まあ革ジャンを着てるよりは目立たないだろう。
指でコツコツとテーブルにリズムを刻みながら、アイヴィーは名前も知らないグループの演奏を楽しんでいた。
完全に楽しめてはいない自分の気持ちに気づきながら。






