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その5

アイヴィーは、まるで10歳は年をとったような気分で、駅に向かうタクシーに乗り込んでいた。

眠りたい。

何も考えず、自分の部屋の、自分のベッドで。

できることなら、新しい住まいのマンションじゃなく、高円寺のあのアパートがいい。シンと暮らしていた安アパート。

頭の中をさまざまな情報と感情が音を立てて交錯し、渦巻いている。その途方もなさの前に、父親との対面に感じていたはずのプレッシャーは、跡形もなく吹き飛んでしまった。

島田のお婆ちゃんの家に向かい、インターホンを押してからハッと気づいて、アイヴィーは足早にその場を離れた。

地元では、この赤い髪は好奇と嫌悪の対象でしかないだろう。その髪の主が「お隣の佑ちゃん」であったのなら、その矛先は父親に向けられる。

たとえ、テレビで自分の姿が流されていたとしても、この街で余計な波風を立てる必要はない。

ならば行先はひとつ。アイヴィーは実家に向かい、素早く鍵を開けて、身を隠すように中に入った。ためらう暇もなかった。

数年ぶりの父親との対面も、アイヴィーが気を揉んでいたあれこれとは違っていた。

二人は長い間、黙ってキッチンに座っていた。

生粋の地元人である父は、感情を表に出す人ではない。

そして良き父親だ。

もし自分の子供が急に家出した時…まともな親であるなら誰しもが抱くであろう感情を、父はずっと持ち続けていた。

つまり、ひたすら心配していた。

その娘が、どんな姿であれ五体満足で、無事に帰宅したのだ。

怒る理由など、あるはずがない。

心からの安堵感を言葉で表現するのは難しい。

だから、父は黙っていた。

アイヴィーは、父に対して何を言おうとも、自分の気持ちを完全に伝えるすべはないと感じていた。

「ごめんなさい」と言うべきだとは思う。

だけど、あの時の自分の行動には、謝罪すべきこと以上の意味が含まれていた。いま、詫びてしまったら。自分の行動は「単なる悪いこと」で終わってしまう気がする。

それに、父も謝罪の言葉は望んでいないような気がした。

かと言って、その場に相応しいどんな言葉も思いつかない。どんな言葉でも、口にした途端に陳腐な響きを帯びそうで。

だから、アイヴィーも黙っていた。

家の中は、アイヴィーが出て行った時と何も変わらない。

アイヴィーは黙ったまま台所に立って、二人分のお茶を淹れた。

母がいなくなってから、お茶を淹れるのはアイヴィーの役目だった。父親はよく言っていた。“佑の淹れるお茶が、一番おいしい”と。

それが寂しさを隠すためのお世辞であっても、その当時のアイヴィーにとっては嬉しい言葉だった。

湯呑みを父の前に置き、アイヴィーはまた父と向かい合って腰かけた。

他には何もいらない。

それで十分だった。

やがて二人は、ぽつりぽつりと近況などを交わし合った。

予想はしていたが、心苦しいことも聞いた。

愛は…大学生になった妹は、何の相談もないまま家を出て行った姉を未だに許していない。

アイヴィーから電話をもらってすぐ、父は外出中の愛に連絡を入れたが、返事は「私は帰らないから」だった。

無理もない。

何から何まで違う姉妹だ。

理解してもらえるとは思っていなかった。

“ああ お前が オイラに思ってることは 何となく分かるさ そう だけど 今はどうしようもないんだ そんな時だってあるさ”

それでも父は教えてくれた。

愛は時々、アイヴィーが出した曲のシングルを、ヘッドホンをしてコッソリと聴いていると。

愛の部屋には、アイヴィーが雑誌に載った記事が切り抜いてしまってあると。

誰かと仲違いするというのは、切れることではなく、お互いの道が離れただけ。歩いていれば、いつかまた交わることもある。アイヴィーが高円寺で学んだこと。

それが、姉妹なら尚更だ。

いつか、妹とも分かり合える日が来るだろうから。

言葉少なに半日を過ごし、アイヴィーは数年ぶりに家出娘ではなくなった。

やっぱり、この街は好きじゃない。

この家に帰ってくることも少ないだろうけど。

それでも、これからは自分のルーツに胸を張って、東京でがんばることができる。

過去を否定することは、自らを否定すること。

アイヴィーはやっと、一周回って元の位置に戻ってきた。


そして。

もう一つのルーツ。大切なルーツの話。

聞くなら今しかないと思うから。

アイヴィーは思い切って、父に切り出した。

島田のお婆ちゃんが話してくれた話。

今までは、聞くことすらできなかった話。

知るのが恐かった話。

父は、隠すことなく教えてくれた。

まるで、この日を待っていたかのように。


駅のお土産売り場で、地酒の四合瓶を買った。時間があったら、お正月に松下のおばちゃんの家に持って行こう。アイヴィーにとっての家庭とは、今や高円寺の松下家のことだ。

いつか、この山形の実家にもそんな想いを抱くことができるんだろうか。

できたらいいな。できたらいいな。

新幹線のかすかな振動を子守唄に、アイヴィーは東京まで眠り続けていた。


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