その3
ようやく、視界に実家の瓦屋根が見えてきた。
「佑ちゃんかね。」
アイヴィーの横から、唐突に人の声。
声をかけられるまで、そこに人がいたことすら気づかなかった。
アイヴィーは慌てて、声の方を振り向く。
しんしんと降り続く雪に埋もれそうな小さい身体。
曲がった腰。白い髪。全身は古ぼけたフード付きのレインコートですっぽりと覆われ、しわしわの顔は表情までは読み取れない。
「…島田のお婆ちゃん。」
島田のお婆ちゃんは、アイヴィーの実家のご近所さん。
面倒見が良くて、アイヴィーが子供の頃は何かにつけ、優しくしてくれた。
でもアイヴィーが高校に進学する頃から急激に痴呆が進んで、会話もあやふやになり、過去と現在の区別がつかないようになってしまった。
確か、白内障が進んで、あまり目も見えていないはず。
「佑ちゃんかね。」
島田のお婆ちゃんはもう一度、同じ言葉を繰り返した。
雪のせいで視界が悪く、辺りの景色がどんどん変化している。辺りは真っ白、これこそホワイトアウト。高円寺の住民だったら、ここが住宅街の細道だとはとても思えないだろう。
「お婆ちゃん。」
アイヴィーはそう言って、そっとお婆ちゃんの肩に手をかけた。こんな寒いのに、一体どこへ行こうというのか?
徘徊のクセがあると聞いてはいないけど。
放っておくわけにはいかないよね。
「お婆ちゃん、おうちに帰ろう。凍えちゃうよ。」
こんなに視界が悪いのに、どうして島田のお婆ちゃんには、そこにいるのが佑ちゃん…アイヴィーだと分かったんだろう?
そんな疑問を頭から振り払う。今はそれどころじゃない。
「おじさん、おばさんは家にいるの?こんな雪の日に、外に出てきちゃ、ダメだよ。」
島田のお婆ちゃんは、ぼそぼそと何かをつぶやいていた。小さな小さな声で、それを聞きとるためにアイヴィーは身をかがめなければならなかった。
近づけた耳。
島田のお婆ちゃん特有の、くすんだような懐かしい匂い。
「佑ちゃん。アンタは小さい頃、いつも“お母さん、お母さん”言ってな。泣いて泣いて、そりゃ仕方なかった。」
不意を突かれて、老婆の言葉はアイヴィーの心にまともに突き刺さった。
アイヴィーの、母親。
物心がつくかつかないか。そんな年端もいかない子供をおいて、消えてしまった母親。
その理由を、アイヴィーは未だ知らない。
父に聞いたこともない。聞けばお父さんが悲しむだけ、苦しむだけと思っていた。
母親に対する感情も、何とも言えない。
怒りがないわけじゃない。
哀しみがないわけじゃない。
寂しさも、悔しさも、切なさも。
そして、何よりも。
幼子の頃のかすかな記憶に包まれた、ぬくもり…喜びだけは、鮮明に覚えている。
その記憶が小さい頃はとても辛くて、よく一人で泣いていた。
妹の愛がうらやましい。何も覚えていないと言うから。
覚えていないものは、惜しむこともないと。
愛は、いつもそんな感じだ。現実的で、要領が良くて、優等生。姉よりも、ずっと出来がいい。
アイヴィーは違った。
今でも、たまに母の夢を見る。疲れている時。風邪を引いて熱を出した時。油断してる時。
そばにいて、一緒に唄を歌う夢。
その歌声が耳元で大きくなり、そこでアイヴィーはいつも目覚める。目の端に涙を浮かべながら。
シンが一緒にいる時は、彼に甘えたくて、でも理由が言えなくて。一人で布団の中、ギュッと身をこわばらせたりした。
「佑ちゃん。アンタ、“お母さんどこ行った、お母さんどこ行った”って。お婆ちゃん、“お菓子買ってやる”と言ったけど、アンタ、泣いて、ずっと立ってた。」
東京からお嫁に来た島田のお婆ちゃんは、言葉に山形訛りがほとんどない。ささやくような声は、それでも今やアイヴィーには一語一句、しっかりと聞こえてくる。
この大嫌いな雪のように。
「お婆ちゃん。風邪、引いちゃうよ。おうちに帰ろう。」
アイヴィーは優しく島田のお婆ちゃんを促し、家の方に身体を向けさせた。幸い、お婆ちゃんは大人しく歩き始めてくれた。ゆっくり、ゆっくりと。
「佑ちゃん、学校の帰りかい。」
「お婆ちゃん。アタシ、もう学校には行ってないんだよ。大人になったからね。」
「アンタは昔から、大人みたいに聞き分けが良くて、素直で、そりゃいい子だった。」
島田のお婆ちゃんは、過去と現在を行ったり来たりしている。
いずれにしても、彼女にとってアイヴィーは「お隣の佑ちゃん」でしかない。
こっちに帰ってきてから、ずっと好奇の目にさらされ続けてきたアイヴィー。家を出る前と何も変わりなく接してくれるのは、この痴呆が進んだお婆ちゃんだけ。
とんだ田舎街のエレジー。
「こんないい子をおいて、それでも出て行かにゃならん。親の気持ちは、どんなに辛いもんか。」
「お婆ちゃん。もういいんだよ、その話は。アタシは何も気にしてないから。」
この狂ったループを終わらせたくて、アイヴィーは心にもないことを言った。しかし、記憶に迷い込んでしまった年寄りの言葉は止まらない。
「もともと無理があったんだ。子供二人までこさえて、それでも出て行かにゃならん。どんなにか不憫なことか、親も子も。」
「お婆ちゃん。」
「アタシも東京から出てきたから、あの人の気持ちはよく分かる。ここは何もない、雪しかない。あるのは雪と、古い“しきたり”だけ。そりゃあ、無理があったのさ。」
「お婆ちゃん。」
“やっぱり、来るんじゃなかった”
アイヴィーは心から思う。
お婆ちゃんに悪気がないのは、十分に理解している。
けど、ここには思い出が多すぎるから。
“忘れちゃいけないことは すぐに忘れるのに 忘れてしまいたいことは いつもいつまでも忘れられねえ”
早く帰ろう。東京へ。
もう、他にアタシの居場所はないもん。
高円寺を離れて、底なし沼みたいな業界でもがいてるけど。
思い出迷子よりは、ずっとマシだ。
「お婆ちゃん、早くおうちへ入ろうよ。」
そう言って、アイヴィーは半ば止まった島田のお婆ちゃんの足を前に進めさせようとする。
「本当に不憫だ。」
もう、やめて。
島田のお婆ちゃんを現実に戻そうと、アイヴィー口をが開くより早く、お婆ちゃんは言葉を続けた。
「あの人には、歌しかなかったんだから。」