その10
立て続けに2曲を歌い終え、すっかり満足した聴衆の拍手に囲まれて、ママはニッコリと笑った。
「ありがとうございます、皆さま。」
清々しい顔。歌い切った顔。
その充実感は、アイヴィーもよく知っている。
“ああ、アタシも早くライヴ、やりたいな”
スタジオワークも悪くない。よくミキサーの前で煮詰まってるけど、曲が完成した時の解放感も嫌いじゃない。
でも、アイヴィーにとって必要なのは、やっぱりライヴの空気なんだ。改めて気づかされる。
デビュー・ライヴまであと2週間。
“そこまで待てるかな”
まあ、それはいま考えても仕方ないこと。
差し当たっては、今夜。
“このライヴが終わったら、アタシは一体どうするつもりなんだろう?”
「それではここで…せっかくの年末でございます。わざわざお集まりいただいた皆様のために、今夜は少しお遊びをしてみたいと思います。」
そう言うと、ママはゆっくりとフロアに降りてきた。
「今夜はひとつ、どなたか、私とデュエットなどいかがでございましょうか?」
拍手とともに、軽いどよめきが起きる。
ママの歌声を前にして、素人の声など念仏みたいなもの。よっぽど喉に自信がある者でなければ、恥をかくのは確実。
「そうは申しましても、皆さま、恥ずかしがられておりますので。ここは私が、指名させていただきたいと思います。」
みな笑顔ながらも、指名を恐れて顔を合わせようとしない。
「皆さま、急に静かになってしまいましたね。」
そう言ってママはまた笑いを誘う。
何を思って、こんな余興を始めたのだろう。
「そこの…若い方。」
ママはそう言って、フロアの奥の方へ手を差し伸べた。
アイヴィーはぼんやりと様子を見ていた。
ママの手を見て、右を向き、左を向き、そしてもう一度前を向く。
ようやく、その手が自分に向けられていることに気がついた。
「あ…アタシ?」
ママはアイヴィーの目の前に立ち、優しく笑顔を向けた。
「こちらのうら若き女性に、盛大な拍手をお願いします。」
余興の相手を免れた安堵と、面白い遊びが楽しめそうだという期待に満ちた、ひときわ大きな拍手。
隣の男が、連れの女性に何やら耳打ちしている。この人以外に、まだアイヴィーが誰なのかを理解している人はいないみたいだけど。
「さっ、ステージへどうぞ。」
そう言って、ママは優しくアイヴィーの腕に触れ、気がつくとアイヴィーは自然に立ち上がっていた。その行動に、我ながらビックリする。
組まれた腕が、ひたすら心地よい。
ママはごく自然な動きでアイヴィーの頭に手をやり、ニット帽を脱がせた。アイヴィーの赤い髪に周りが軽くどよめく。あちこちでひそひそという話し声。
しかし、ママとアイヴィーが連れ立ってステージに上がり、共に正面を向くと、ひそひそ声は明らかなざわめきに変わった。誰もが、二人の顔を見比べている。
今や聴衆は、それがどんな意味を持つのか知った。
ステージに上がった若い女性が、最近テレビに出始めた歌手である、ということだけでなく。
顔だけじゃない。物腰、しぐさ、そして醸し出す空気。
誰が見ても、それは一目瞭然だった。
「ねえ、ちょっと待って。」
白髪の店員がマイクスタンドをもう一本用意する中、アイヴィーはママにささやいた。まるで夢から覚めたみたいに。
「アタシ、ジャズなんか何にも知らないんです。歌える曲なんか、ないと思う。」
ステージに上がるつもりなんか、全くなかった。
ママに笑顔を向けられ、手を差し伸べられ、共に腕を組んだ。そのぬくもりが、アイヴィーの身体を勝手に突き動かしただけ。魔法にかかったみたいに。
現実問題として、できることと、できないことがある。
知らないものは知らないし、歌えないものは歌えない。
助けを求めるように、アイヴィーはママに目で訴えた。
でも彼女は、ただ優しい顔をしてこちらを見ている。
“いったい、どういうつもりなの?”
突然店にやって来た、若手の新人歌手。
いや、それ以前に…。
“誰だか分かっているんでしょ、アタシのこと?”
これだけの聴衆がひと目で理解した。
当の本人が、分からないはずがない。
それでも彼女は、優しさ以外に一切の感情を見せず、取り乱す素振りも見せない。
どんな思いで受け止めているんだろう。
どうするつもりなんだろう。
マイクのセットが終わり、ピアノが軽い響きを立てた。
その音が合図だったかのように、ママは言葉を発する。アイヴィーに、そしてフロアに向かって。
「では…何を歌いましょうか?」
固唾を飲んで見守る聴衆。
これから何が起こるのか、誰にも予想もつかない。
「そうですねえ…ではクリスマスも過ぎてしまいましたが、季節柄ということで。」
そう言って、彼女はアイヴィーにニッコリと笑いかけた。
「“聖者の行進”と参りましょうか。」
ひときわ大きな拍手が降り注ぎ、指笛も鳴った。みんな、納得の選曲みたいだけど。
アイヴィーだけが、その意味を必死で考えている。
聖者の行進。
聖者の行進って、なんだっけ。
聖者の行進。聖者…。
突然、アイヴィーはその曲が何だか、分かった。
知らないどころじゃない。
よく知ってる曲だってことも。




