その1
「すいません、そこで停めて下さい。」
アイヴィーは、運転手に向かってそう言った。
曇り空。実家までには少し距離がある、静かな国道の路肩。周りにはやっぱり雪しかない。
このまま、実家の前にタクシーを横づけする勇気はなかった。
昨夜降った雪が凍りはじめていて、足元はかなり滑る。
足元に意識を集中させながら、少しずつ気持ちの整理をつけよう。
いったいどれだけ歩けば落ち着くのかは、まったく見当もつかないけれど。
旅館からのチェックアウトの内線で、目を覚ましたのは10時近かった。ギリギリだ。
「延滞料金を払ってもいいから、したくをさせてくれ」と頼むと、フロント係は親切にも無料で待ってくれた。
まだいくらも寝ていない。このままもう一度ベッドに倒れ込んで、帰りの新幹線まで寝ていられたら。
そんな思いを振り払って、アイヴィーはシャワーを浴びた。まだ帰省の目的は、すべて済んだわけじゃない。
決着をつけないといけないことが、もう一つ。
ごく簡単に化粧を済ませ、チェックアウトとともに再び荷物を預かってもらう。
フロントの青年は「また山形にお越しの際はぜひ、当館をご利用ください」などとにこやかに接しつつ、最後まで“サインが欲しい”と言い出せずにいるようだった。
アイヴィーはその全てを、控えめな笑顔で受け流した。
昨日に続き、隣のカフェに入ってコーヒーを注文。まだ朝食をとる気にはならない。
何度もスマホを手にとっては置く、という仕草を繰り返した。
電話しなきゃならないのは分かっている。
昨夜、というか今朝、その決意を新たにしたはずだけど…寝たことで妙に冷静になった自分の中で、まだ臆病風が吹いているみたい。
不意にスマホが鳴って、アイヴィーは思わずビクッと身を震わせた。慌てて周りを見渡すが、自分以外には誰もいない。変なとこ、見られないで良かった。
LINEだ。絵里子からのメッセージ。
“楽しかったね!”という短い言葉と可愛いスタンプ。今ではその簡潔な文章にすら、昨日の昼とは全く違う気持ちを感じ取れる。
またLINEが届いた。昨夜、絵里子の家で撮った動画。
バカ騒ぎしてる4人。
あんなに楽しかったのは、この4人では初めて。
あんなに楽しかったのは、メジャーに来てからは初めて。
結局、絵里子も優夏も沙耶も「サインが欲しい」とは二度と口にしなかった。
そこにいたのは有名人のアイヴィーでもなく、高校の同級生の佑でもなく、ただ、かけがえのない仲間。
アイヴィーはフッと笑った。
大きく深呼吸をすると、思い出す必要もない電話番号を押す。
呼び出し音が鳴るまでの時間は果てしない。
少しすすっただけのコーヒーが、胃からせり上がってくる気がした。
スマホの向こうから。
久しぶりの、聞き慣れた声。
「…」
一瞬、このまま通話を切ってしまおうかと思う。
「…」
アイヴィーは自分が無言になってしまっていることに気づいた。テレビに出た時だって、こんなにドキドキしなかったのに。
「…お父さん?」
やっとの思いで振り絞った声は震え、かすれている。
今度は電話の向こうが沈黙する番。
ヒリヒリする時間が、一拍。二拍。
「…」
「うん、アタシ。」
「…」
「いま、駅前。大石田の。」
「…」
「そう。昨日から。」
言葉は最低限しか出ない。
何かを語り出したら、自分が壊れてしまいそう。
「…」
「うん、元気だよ。」
「…」
「うん、食べてる。今日は、まだだけど。」
「…」
「うん、ありがと。」
「…」
「うん、ちゃんと寝てるよ…。」
目の前がかすんでくる。
もう、やめて。
こんなカフェで、ひとり泣きそう。
話を自分のペースに戻さないと。
「今から、行ってもいい?」
「…」
「じゃあ、1時間かそこらで行く。愛は?」
「…」
「そう…。ま、仕方ないね、急だったし。」
「…」
「いい、自分で行くから。」
「…」
「大丈夫だってば。一人の方がいいから。」
「…」
「うん…。」
沈黙は緊張感を強める。
かと言って、気の利いた言葉なんか出てこないし。
「じゃ、後でね。」
「…」
「うん、分かった。」
素っ気ない態度になってしまった。悪いことをしたかな。
通話終了を押したアイヴィーは大きくため息をついて、それから開き直ったように、コーヒーのお代わりと食事を注文した。




