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62話 望ましくない影響を食い止めるために


 「……ところで……オドレイ様に見せたいものがあるのです」


 おっと。また思案中に呼び戻された。


 「見せたいもの? なんじゃそれは」


 ろくでもない物なら叩き切る次第である。と一瞬思ったがまさかそうはいくまいと考え直す。



 「それは……こちらの本でございます」


 そう言って渡されたのは一冊のノートであった。


 紙の束の右側に丸い穴をあけてヒモで通して本のようにしている簡易的なノートであった。


 そのノートの表面には『共同体についてと望ましくない影響を食い止めるために』と書かれていた。


 「ふむ」


 そう言って読み始める。

 丁度いい感じにベッドの横に椅子が幾つかあるから皆座ってる。

 ビビアーヌが「わたくしにも見せて」と覗いてくるが気にしない。


 読み初めてすぐにヨハンの顔をちらりと見る。そしてまた読み進める。


 ページを幾らか捲り、またヨハンの顔を見る。


 「これは本当にお主が書いたものなのじゃ?」


 相変わらず変な語尾だと思うが、自然と出てしまうから仕方ない。


 「ええ、以前より思っていた事を文章にまとめました。このような状態でなければ書けぬものでして……」

 ヨハンは痩せた顔にシワを寄せて語る。


 そこから、延々とヨハンが語るが、それを聞き流して私はノートを読みふける。


 そして半分以上を読んだ後に私は怒りにも似た思いを胸に、立ち上がった。



 「何故、このような才能があるのに、今まで黙っておったのじゃ…!!」


 

 ヨハンの書いた『共同体についてと望ましくない影響を食い止めるために』というノートは、統治ないし経済に関する思想について書かれているものであった。


 いわく、共同体なる組織には2種類の階級があり、農民・職人・商人の生産階級と官僚・軍人・聖職者・知識人・医師・理髪師・浴場主の非生産階級から成り立っており、非生産階級は公共の者であり、共同体からなんらかの報酬をもらわなければならず、必然的に非生産階級は生産階級の人口と比例して少なくてはいけないとされている。

 また、全階級を結び付けているのは消費であり、消費こそが共同体であると自覚させる唯一の紐帯であるとされている。


 特にこのノートで印象的なのは、「これらの生産階級と非生産階級によって形成される共同体の名を、私は『国家』と呼称する」という文章であった。


 『国家こっか

 今まで『くに』という単語は馴染みがあるが、国家なる単語は深く考えた事はなかった。

 否、深く考えた事がないのは農民・職人・商人・官僚・軍人・聖職者・知識人・医師の区分の方でもある。

 さらに言えば理髪師・浴場主もである。そういえば何かを産むという職業ではないよね。これら。



 このような視点を持てる学ある人間が、まさかこんなに近くにいるとは思ってもみなかった。


 不覚ですらあった。まさかヨハンにこのような洞察があろうとは。我が目を以てしても見抜けなかった。



 「んんっ。おうっふっふっふ……」


 等と思案していたら、ヨハンはいつものように笑ってみせた。


 「オドレイ様のその顔が見たくて書いた物でございますれば。いやはや、このヨハン・ベットリヒ。そのように言われるのであれば明利に尽きますぞ」


 そう言ってひとしきりおっふっふっふと笑ってから真面目な顔に戻る。


 「やはり、私の目に狂いはありませんでしたな」


 「どういうことじゃ」


 「オドレイ様。貴方は一介の奥方に収まる程度の人間ではありませんぞ。貴方は聡明な方です。貴方様ならばマウテリッツ伯とともに、この国を、この古き慣習に凝り固まったエルディバを、より良き物に。望ましくない影響を、食い止める事ができるのかも知れませぬ」


 ヨハンはそう澄み切った瞳で私に語った。


 その瞳は、かつての師を彷彿とさせるものがあった。



 「買い被るな。ヨハン。私は一介の側室の子じゃぞ」


 少しの間をおいて、私はそう絞るように言う。


 その少しの間において、私は、かつて前世せんごくのよで夢見た『理想の国』の再現が、現世このよにおいてできるのではないか。と想っていた。


 忘れていた。否、忘れるように努めていた。あの国造りの夢である。


  

 もしかしたら、マウテリッツ殿となら、もしかしたら。とも想っていた時期もある。

 もしかしたら、マウテリッツ殿と、その他学者たちの知識を借りれば、前世で夢見た理想の国を遥かに上回る国ができるかも知れない。

 そう思っていた時期が、確かにあった。というか今もちょっとだけ残ってた。


 「そうですかな。オドレイ様。そうは言っても心はそうではないと言っておりますぞ」


 ヨハンはそういつものように言ってみせる。


 「わかるか。ヨハン」

 「そりゃわかりますぞ」

 

 そして私とヨハンは笑い合う。


 

 それは夏の、ちょっとした一幕の事であった。





 「え、これをヨハン殿が本当に書いた物なんですか?」

 「驚き……」


 「ええい、ビビアーヌにクラリエルっ。人が真面目な話をしておる時に話を戻すでないっ」

 「んんっっっ。相変わらずでありますなぁ。このヨハン。最期に良い物を見せていただきましたぞぉ」


 


 その後、ヨハンは夏の終わりには亡くなったと聞いたが、全然死んだ気にならなかった。

 それはある種の救いであると思った。


 つづく。

ヨハン、死亡確認です。人はいずれ死んでしまうから仕方のない事です。


ヨハンさんのモデルはヨハン・ベッヒャーなる実在したドイツの医師、化学者、錬金術師、官房学者です。

作中の主張も彼のWikipediaの記述の引用です。


次回は一週間後を予定しています。

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