九十話 今川義元の場合
「この体は脆すぎる」
そう言ったのは確かにオドレイであった。
正確にはオドレイの声であるが、姿はなく、ただ深淵の闇に声が流れただけである。
「身体の強さは幼体でありながら既に前世をも凌ぐ強さを見せているが、心の方は比較にならない程に弱くなっている」
声は嘆いているようであった。
「今の私ではヴィヴィアーヌを殺す事ができない。いや、したくないのだ」
声はさらに悲壮感を含んでいた。
≪どういう事だ? 実の妹を殺すとか言い出してるぞ≫
「直にわかる」
マウテリッツが疑問を言う。いや正確には口に出そうとしたが、この空間ではオドレイの心以外に発言ができない状態であった。
「前世の私なら、いや我ならば例え兄だろうと弟だろうと、殺める事ができた。友と言える存在ですら見殺しにできた」
なのに。と続ける。
「この現世では、それができない。どうしても殺めずに丸く収めようとする私がいるのだ。そして何より、それで良いと感じている私が確実に存在しているのだ。これは異常な事だ」
≪いや、そんな。前世が異常すぎるだけだろ……一般的に実兄弟殺めるのが平気な奴がいるんだよ……俺が言えた事じゃねぇけどよ≫
自覚症状のあるマウテリッツはそう突っ込まざるを得なかった。
一般的に実兄弟殺めるのが平気な奴はいない。
それこそがこのエルディバ……否、<竜なき世界>での常識であった。
「それが常識ではなかったのだ。前世、もとい我が生きていた世というのは」
そうオドレイの心が言うと、風景が変わる。
どこかの宮殿らしき光景が広がる。だがその宮殿は木製で平屋らしく二階もない様子であった。屋敷と言って方が正しいといえる。
そんな宮殿の中庭に、先ほどの中性的な童がいた。何やら屋敷の縁側にいる母親と思われる女性から何かを伝えられている。
――貴方は寺様に入り、修行を行い、名僧となりて人々を救うのです。
「めいそう になれば、皆を すくえるのですか」
母親と子がそのような会話をしている。
――ええ、名僧にならば、戦や飢えに怯えた民達の心を説法で癒し、救う事など造作もないでしょう。
「めいそう になれば、いくさや うえを無くすことはできますか」
母親は微笑みながら言うが、すぐさま子に問われ、言葉を詰まらせる。
――それは。
「いくさや うえを無くす事ができなければ、せっぽうで民をすくった所でどうにもなりませぬ。
われはもっともっと多くの民をすくいたいのです」
子はそのように物怖じせずに、まっすぐと母親を見ながら言った。
――貴方は、欲があり過ぎるようです。人の身には過ぎたる欲は身を滅ぼします。貴方には是非が難とも寺様へ行き、その欲を無くさねばなりません。それが貴方の為なのですよ。
母親はその様に切り返すと、そそくさと奥へと引き下がっていった。
中庭には童が一人、残された。
※ ※
「あれが前世の私にして、我である」
オドレイの声がそう説明をする。
「前世では夏でも肌寒い日が続いて飢饉続きでの……。足利という幕府、もとい王国、否、帝国の元、地方には守護という王が治めていたのだが、飢饉に加え王国の内紛も合わさり、永く内乱が絶えない乱れた国になっておったのだ」
そう言って光景が変わる。
長い雨により川が氾濫し、町や村を流す光景や、盗賊が村や蔵を焼く光景など、乱れている光景を見せる。
「そんな戦乱絶えない世界の片田舎を治める守護の家に生まれたのが我こと私。我は生来欲深でな。多くを救いたいと願うタチでな。本来であればこのままそんな欲を抑え込んで僧侶となり、説法を繰り返して生きる事になる筈だったが……」
「ならなかったのか?」
マウテリッツはそう尋ねた。
「うむ。僧侶としての修行の師匠、九英承菊という師匠……いや太原雪斎と言った方がいいか? ともかくそういう先生が来てから、我は守護としての道を歩むことが決定づけられた」
「セッさんですね。わかります」
クラリエルがそうにこやかに言う。
「せ、セッさん……」
「セッサイさんは言いにくいので、セッさんと呼ばせてもらってるんです」
マウテリッツの戸惑いを他所にクラリエルは説明を行う。
「く、クラリエル、そう呼ぶのは辞めろと言ったはずだが……」
はあとため息をつくのが聞こえる。
「うん、まぁとにかく、この雪斎もといセッさんという者はな。幼い我に会うなり「僧など糞くらえだ」とか言い放つ破天荒な僧侶でな。僧侶の修行と並行して、守護に必要な知識や技術教養を教えて貰ったのだが、どうもこのセッさん。前世の乱世が余程気にくわない様子でな。どうも我、乱世を壊す為の道具にさせられたような気がしないでもない……否、確実にされたと思う……まぁこちらも道具にしてやったのだが」
「いきなりなんて事言いだすんですかオドレイ様」
オドレイのその声に思わずクラリエルが突っ込む。
「あの、ちょっといいですか」
オデッタがそう手を挙げて発言する。
「なんだ」
「あの。そもそもイマガワ家とかアシカガ家というのが分からないのですが」
その言葉に、声は押し黙る。
そして長い沈黙が続く。
「わかんない?」
オドレイの素っ頓狂な声が三人に尋ねる。
「まぁ……話からすると異世界の貴族の名前っぽいってのは分かるんだがな……」
マウテリッツは渋い顔をして言う。
「正直、お二人には中々厳しいかと」
クラリエルはいきなり本題は無理があったのでは。と苦言する。
「ちょっと異世界の話ですので……」
オデッタはそう気まずそうに言う。
「うむ……まぁ異世界の話だからの……うむ……」
そう、何かを決めたオドレイの声。
「そもそも、今川家というものは、足利といういわゆる王家の、分家の分家であってな」
オドレイの声がそう説明を行う。その光景はいわゆる講習会のようであった。マウテリッツは「いや、説明するのかよ」と小さく突っ込む。
「あ、聞いた事あります」
クラリエルが跳ねながら手を挙げる。
「オドレイ様の転生前のヨシモト様が生きていた頃よりも約300年前に、キラ・クニウジなる者がアシカガ帝国家よりミカワ国のイマガワなる土地を任された事から興る名家であると聞いております」
「そのミカワ国というのは、エルディバと同じ意味を持つ国でよろしいでしょうか?」
クラリエルの解説にオデッタはそう尋ねる。
エルディバ皇国内でいう国とは、つまり県という意味である。
「はい、その認識でよろしいかと」
「その前に根本的な疑問なんだが、その……キラだのイマガワだのアシカガだのってのは苗字というか家名って事でいいのか?」
クラリエルの回答に、マウテリッツは新たな問いをかける。
「はい、かの世界では苗字が先にきて名前が後に来るようです」
「変わった名前形式だな」
「オドレイ様からすればこちら側の世界が変わっているように思うようです」
「そりゃ……まぁ。そうだろうな」
変わってるのは果たして此方こちらか彼方あちらか。と言った処である。
「アシカガ王家の分家であるキラ家の人間であるキラ・クニウジが、イマガワなる領地を貰い、イマガワ・クニウジとなるのですね」
「うむ、そういう事である」
「それで、守護というのは?」
「国を護る役職……まぁ王のようなものである。なんだかんだあって今川家は三河から駿河へ移り、まぁ色々あって駿河の守護となるのだが……」
こほんと、息を整える。
「足利幕府もとい足利帝国がの、後継者争いで大乱を起こしてた。折しもの飢饉や災害続きで帝国の首都は荒れ果てて、地方への支援も滞り、地方の守護や家臣達は各自に領地を守らねばならなくなった」
かくして戦乱の時代と相成ったのであると、説明をする。
「その戦乱の中、『民を助けたい』と願うオドレイ様の転生前の人物、イマガワ・ヨシモト様が誕生された。と」
「うむ」
オデッタがそう聞くとオドレイの声がそう答える。
「確かにそのような戦乱で王として生きれば、兄弟殺しも当然となりますね。
でも、それはもう前世の話でございましょう?
今この世界は平和です。もう兄弟姉妹で争う事なんてないんです。
ねえ、オドレイ様。もう帰りましょう。貴方が前世の自分と違う心を持つからと言って気を病む事なんてないのですよ?
皆が心配していますよ。帰りましょうよ」
そう言って間髪入れずにオデッタが説得を行う。
「ナイスだオデッタ」とマウテリッツは内心関心する。
「……前世の自分と違う心を持つからと言って気を病む事なんてない……か」
そう呟くと、オドレイが姿を現す。
「オドレイッッ!!」 「「オドレイ様っ!!」」
三人は思い思いにその姿を見て安堵する。
「確かにその通りなのかもしれんのじゃ。確かに我は前世は今川義元じゃった。じゃが」
オドレイは泣きそうな顔をしている。
「今の私はオドレイであったな……」
「じゃあ……!」
「うむ……帰るのじゃ。現世にの」
オドレイの言葉に、皆喜びを露わにする。
だが
「させないよ」
それを拒もうとする存在が立ちはだかる……!!
つづく。
いよいよ大詰めです。
戦国時代の説明ですが、概念すら知らない人間への説明なので、これで勘弁してほしいです…