ブラフ・スマイル
空が遠い。
青くて遠くて、笑顔のように澄み切ったあなたが遠い。
仰向けに倒れた俺は、疲れの中で柄にもなく、詞的にそんなことを想っていた。
俺は、またも師匠にボコボコにされた。
殴られているわけでもないので不適切かもしれないが、擦り傷やらでまあまあボロボロ。今日も師匠のスマッシュに対抗できずコートに沈んだ。
「……師匠、歩美佳さん……の秘密情報って、なんすか?」
「僕、キミが僕から二回ポイント取れたら、って云ったよね」
「結果よりも頑張った成果を褒めて伸ばす的なヤツで、教えて下さると思っている弟子になんとかひとつ」
「え、嫌だけど」
師匠……樋山里穂さんは、ふざけもせずにサラッと何気ない笑顔で切り返してくれた。
俺の父ちゃんと母ちゃんの二学年上には見えないほど若々しい師匠は、歩美佳さんや母さんとは一年しか一緒じゃなかったと云うが、俺からすれば一年も歩美佳さんと一緒にプレイできていたことがうらやましい。
飯田歩美佳さんと初めて出会ったのが何時だったか、もう覚えていない。
俺がまだ幼くテニスのルールもよくわかってない頃、歩美佳さんが我が家、鈴木宅を訪ねて来た。
幼い俺は、両親の友人であるフミカさんがテレビでよく映る飯田歩美佳さんと同一人物であるのを理解するのが遅れた。
俺の生まれるずっと前、母が高校生の頃、一年生の頃にダブルスを組んでいた仲で、今も親友であると自慢げに父が話してくれた。
父は、母や歩美佳さんと同級生で、その頃は男子テニス部として頑張っていたというが、二年生の頃に足首を痛めて辞めたらしい。
父は本当にテニスが好きで、未だにテレビや新聞を漁り、試合観戦にも連れて行ってくれる。それに比べて母も同調して楽しんでいるようだったが、どこか食い違いのようなものを覚えた。父も気付いていないような、本当に些末な違和感。
その正体を歩美佳さんが、全英オープン後に帰国して家を尋ねて来てくれたとき、やっとわかった。
再会した母さんは笑っていた。歩美佳さんも笑っていた。けど、それは試合中の苦しいときでも笑うもの、ブラフスマイルだった。
父さんは気付いていないような、見事なブラフスマイル。けれど、母さんも歩美佳さんも、お互いに本当の笑顔ではないと理解し合っていた。会えたのが嬉しくないわけじゃなくとも、嬉しいだけでもないようだった。
俺がその正体を調べる方法も知らない中、歩美佳さんが俺を見下ろし、そしてしゃがんで澄み切った声を掛けてくれた。
「確か、ええっと、シドくん、だよね」
「はじめまして……あの。テレビ、えっと……観てます」
「ありがと! もっと小さい頃に逢ったきりだけど、やっぱりカワイイね。お父さんとお母さんの良いとこ取り」
「おばさんも、すごく、えっと、カッコいいです! いっつも、えっと」
慌てた俺の額に、歩美佳さんの人差し指が振れた。力強いショットを繰り出す腕とは思えないほど、その指は細く、しなやかだった。
心が、歩美佳さんの放つボレーのようにゆるやかに、それでいて明確に跳ねたのを感じた。
「おばさんじゃなくて歩美佳さん。シドくん、カッコいいのに、それじゃモテないよ?」
恋に落ちるという言葉の意味をこのとき理解した。
この人を本当に笑わせてあげたい。そして、一回だけでも、母さんの本当の笑顔で向き合って貰いたいと思った。
俺――鈴木紫努の、一生が始まった。
飯田歩美佳さんは、国内・世代を問わず、最高のアスリートのひとりだった。
賞やタイトル、記録は積み上がり連なり、俺の同級生には男女問わず、フミカが何人も居る。そんな誇りだった。
高校一年生の大会から頭角を現し――母さんの話では高校デビューだったらしいが、スポンサーの関係であまり報じられないらしい――、
一年生のときは準優勝、二年生・三年生のときは圧倒的な強さで個人・団体を連覇。
すぐに国内で戦うライバルを失った歩美佳さんは、海外のライバルたちを圧倒していった。
もちろん敗れることはあったが、その次には劇的に対処して見せた。更に強く、更に速く、更に美しく。敗北すらも彼女を飾り立てるような感動を与えながらも華々しく勝ち続けていったのだ。
俺がいくらテニスの腕を磨いても、歩美佳さんみたいな凄い人が小僧に惹かれてくれるのは甘い考えだとは分かっている。
だが、俺には他の択が見えなかった。見えないものを探して足踏みするのは性に合わない。探すとしても走り続けながらだ。
何かのテレビで、クジャクはメスにモテたいために虹のような羽を振るのだと聞いた。
クジャクは、なぜ羽ばたかせれば女にモテるのか理解しているのだろうか。そういう生き物だから、以上の答えを持っているのだろうか。
年相応では追いつけないし、歩美佳さんが強い男が好きかは分からない。聞きたいが訊けるわけもない。女々しい男だと思われたくない。かといって母さんや師匠に訊いてもらうなんてのは、やはり雄々しい男のすることじゃない。歩美佳さんの隣に居る男のすることじゃない。
俺は、父さんと母さんの子で俺だから、歩美佳さんの隣に行くんだ。
両親がテニスに理解があり、経済的に援助もしてくれて、そのコネクションで幼少期から鍛えられた。
その環境も才覚の一部であるならば、俺は天才と呼んでいい結果も出していた。
テニスが向いていないわけじゃない、遅れているわけではない。才能もあったと思う。 父さんが喜んでくれたのは嬉しかった。母さんも喜んでくれてはいたが、やや色が違った。
――歩美佳さんにと重ねられるべくもない、凡庸な天才であった俺に安心したのか? 母さんを置いてはいけないから。
中学生の頃には、高校生とも互角以上に渡り合えるようになっていたが、俺は焦っていた。
母さんが持っていたビデオを見る限り、母さんの話を信じる限り……歩美佳さんがたった一年で身に着けた技術を俺は中学卒業までに身に着けることはできなかった。
母さんも父さんも歩美佳さんも出た前空学園に入学してからも成長を実感するが、ひとつの成長の度に足りない物をふたつかみっつ、見つけてしまう。充分ではない過程でも俺は結果を得なければならない。
俺が俺で居るために、俺が歩美佳さんの隣に居る男であるために。
母さんの旧友で、前空学園で部長もやっていた樋山里穂さん……師匠と試合をして貰うことが休日の過ごし方になっていた。
師匠もプロテニスプレヤーにという声も有ったらしいが、なんでか音大を受験して、今はフルート奏者としてオーケストラ劇団員をする傍ら、アルバイトでテニスの指導もしている。
理由を聞いたとき、懐かしそうに師匠は首から下げたペンダントを握りながら――多分、無意識だと思うが――教えてくれた。
「ちょっとね、僕もお母さんの真似がしてみたくなってさ」
「? 師匠のお母さん、専業主婦って云ってませんでした?」
「ん。専業主婦のお母さんと……私にテニスもフルートも好きで良いって教えてくれたお母さんが居るの」
伝説扱いされている指導員・千葉幸子さんのことだと気が付いたのは、テレビや学園の特集で見聞きすることになったのは、後々になってのことだった。
俺が入学する少し前に乳癌だか膵臓癌だか、噂を熱心には聞いていなかったが、若い内に亡くなったそうだ。
気安く興味本位で質問して良いことでもないというくらいは俺にでも分かる。
師匠が時折――アンコパイを奢ってくれるときなんかに――覗いているペンダントの中身がそうなんだろうな、という程度の推測以上はしない……というより、
「僕みたいなおばちゃんに追いつけないなら、勝てないよ!」
「遅い! 弱い! センスがない! はい! あと一回では無理だろうけど、もう一回!」
「頑張ってる、ナイスガッツ! でもまだ足りなーい♪」
ペンダントの中身は意味深で興味深かったが、それに注力できるほど師匠の指導は甘くなかった。
血反吐くらいで済むならそれで良いのだが、俺の身体は気付いていた。過労から困憊した身体で血を吐いたらエネルギーが足りなくなる。
受け付けない胃にスポーツドリンクを注ぎ込み、脳という臓器に“お前は限界ギリギリを越えてもでも戦える”ということを教え込む。
磨いて伸ばす。俺は自分の限界を感じるが、それが誤想だということも脳と心に叩き込む。歩美佳さんに自分が届くと信じろ。信じろ……信じさせろ。
俺は天才だ。歩美佳さんの隣に行ける素質のある男で、相応しい男に成るんだ。
前空学園男子テニス部は、女子に比べると実績を残せていない。
樋山良樹……師匠のお父さんが居たときが黄金期とされているらしいが、そのときも優勝はできなかった。
そう、高校一年生の俺が颯爽と一回戦からの快進撃を見せてやるのだと鍛えに鍛え、その場に臨んだ。
大会当日、やっぱり俺は凡庸な天才とは凡才だったのだろうと思い知らされた。
闘志を酷使して上級生ばかりでトーナメントの糸を登りつめた頃、俺は乾いていた。
勝つんだという決意が俺のスマッシュを重くしていたが、その重さがまた神経を削っているのが分かった。
最終セットまでもつれこんだ。いや、俺は辛うじてここまで延命していた。
見通しはしていたし、すべきことは全てやってきた、そのつもりだったが対戦相手もまた全てをやっていた。俺と同じく。お礼状の積み重ねを。
相手のリサーチもしていた。強豪校の副部長で三年生の後藤。
俺よりも小さな体格。両親がテニス経験者というわけでもない。バネ・反射・パワー、どの面で見てもフィジカルで俺を上回るわけではないだろう。
だが、後藤は強いのだ。
リスクを恐れながらも果敢なサービス、挑戦的ながらも臆病なリターン、鋭利で鈍いそれを打ち苦しみながらも笑う強さ。
最後の夏、俺みたいな一年坊と決勝と当たりながらも、その一年坊に全力を出し、出せている自身を楽しみながら気を吐く後藤の眼鏡を汗が滴った。
俺の汗も気炎になる。熱が痛みになって、また熱になる永久機関。
背筋がハリガネのように固いが、それを気合で押し曲げ、ラリーを返す。疲労から力が入り、力が抜けたところから疲労になる。
苦しいのに笑っている自分が居る。対戦相手も、真の意味でのブラフスマイルかもしれない。早く終わらせたい一生続けたいゲーム。
ラリーが続いた先に現れた殴り合い、相手の優位を辛うじて返し、俺はこのセットで初めて自分のアドバンテージを取った。
――そして、ゲームの終わりは後藤の振り抜いたリターンだった。
試合開始直後の俺ならば絶対に届かない位置、だが今の俺ならば届く、届け! 届くはずだ!
大きく捻ったとき、膝から下の疲れが無くなった。地面を踏みつける感触すらなく軽やかに……転倒していた。
背中に鈍い刺激が俺自身の限界を明示する。
時間が止まった。止まったように感じたが、実際は止まってくれるわけもなかった。
転倒した俺は、コマ送りのボールを見送った。転んでいなくとも取れるかどうか怪しいところ……ラインすれすれに……ボールは俺の目の前で、ラインを超えた。
「……え?」
沸く観客、審判の宣告、それらの意味を俺は暫く理解できなかった。
ただ、ネット越しに手を伸ばしてきた後藤の掌が俺にゲームのルールを享受させた。
「オンザラインのつもりだったんだがな。おめでとう。千葉くん。君の勝ちだ」
滲む世界の中、背中の痛みを堪えて立ち上がった俺は後藤の……後藤先輩の手を取り、頭を下げていた。
泣くほど痛いわけじゃない、偶然の勝利に込み上げてくるものの正体も分からないまま、俺は泣いていた。ただ辛うじて、後藤先輩にありがとうとだけ伝え……その段になり、俺は客席に視線を向けた。
両親も師匠も、歩美佳さんも、俺の二十年に満たない自我も全て、試合の中で俺から消えていた。
俺は俺のゲームをして、熱中して夢中になって吼えてから戻って来たそれらを顧みたとき――観客席の最前線で、母さんと歩美佳さんが抱き合っていた。
それは、ブラフスマイルではなく、本物の笑顔だと、熱くなった頭でも辛うじて分かった。
その日から、母さんと歩美佳さんが本当の笑顔で笑いあえる日は少しずつ増えていった気がする。
不思議とスッキリしていたが、それでもやっぱり、俺は歩美佳さんが好きだから、戦いは続く。小僧が歩美佳さんを嫁に貰う日まで、戦いは続くのだ。
このお話は最初、第一話の『サービス・キープ』だけの予定でした。
その前から幸子先生と里穂ちゃんのキャラクターだけは存在していたのですが、初登場の企画で文字数で投票点数が変動するルールがあり、
84gさんと決めた『その文字数の方が勝てる、出すからには勝つ!』という作戦でした。
当初は、里穂ちゃんと幸子先生が部室でとても仲の良い様子で、それを目撃した歩美佳ちゃんと葵ちゃんがドギマギする、というシーンが有りました。
そこから四人を中心にしつつ、他のテニス部員の子たちや里穂ちゃんの義理のきょうだいの子たちも色々と設定が有ったんですが、出し切れませんでした。
歩美佳ちゃんとも葵ちゃんとも関係ありませんし、仕方ありません。
里穂ちゃんの義理のきょうだいの子たちは、84gさんと話し合って作った全然別のシナリオの方のキャラクターですね。
84gさんにお任せしたので、いつかお目見えできるかもしれません。
次回作も84gさんのアカウントから作品をお出しすると思いますので、そのときもよろしくお願いいたします。
【鷲園茶理子】2018/2/27
……いや、これ、引っかかる人、居ないよね? 大丈夫だよね?
雰囲気付けだからね? 引っかからないでね?
【84g】2018/2/27