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前空学園テニス部の栄光  作者: 鷲園 茶理子
4/5

ハード・サーフェス

 仕事して下さい。鷲園先生。

 子供が泣いているから夢だと気が付いた。

 現実ではあの子は一度も泣くことはなかったから。


「それで良いでしょう? 幸子」


 イヤだった。

 けどママにノーと云うためには俯いた顔を上げなくちゃいけないのに頭が重い。込み上げる吐き気が糸を引いて咽喉と腸を繋いでいる。

 そして、あいつの存在を耳許に感じた。


「俺、父親になる気とかないから」


 ……やっぱり夢だ。あいつは妊娠がわかってから一度も姿を表さず、電話すら寄越さなかった。私に話をしに来たのはあいつのママだけ。あいつのママは何度も“あの子は大事な時期だから”と繰り返した。

 なら、私のお腹の子は大事な時期じゃないのか? 遺伝上の父親に生まれる前から拒絶され、祖母がふたり揃って母親に“殺せ”と諭す。

 ――そして、母親に“殺された”


 赤ん坊の泣き声がする――ウソだ。泣き声なんてしない。

 産声すら上げられなかったあの子の。名前すらないあの子の。男の子か女の子かすら定まらなかったあの子の。

 天才と呼ばれていた。綺羅星のように輝き、そして綺羅星のように何人も居る天才の中、最強と呼ばれる天才のひとり。それが私で、アイツだった。

 なんでアイツを好きになったのか、私は覚えていないことにした。私は多くの天才がそうであるように母親に成り損ねた私、子供に成り損ねたあの子。あの子が今何を考えていかばかりを考える空虚。

 汗のように滲む涙がいかがわしいと思えるのは泣く資格を誰も持っていないから。産声の許されなかったあの子は私の罪で、あの子が居なくなった身体にはラケットの反動が大きすぎた。身体だけが軽すぎて心の重さが平等すぎる不公平。

 プレイヤーとしての私は終わり、ただの人としてスルスルと生きて活動だけして口角に付いた糸を引かれて笑うときがあった。誰かが云うように辛いこと全てに意味があるなら、私の笑顔はあの子の死を前提にした結果だと励まされる。クソ喰らえ。


 天才と呼ばれていた私は凡人に戻っても母になれるわけもなく、天才と呼ばれていた男は世界に羽ばたいていき父になった。私じゃない女と結婚し、あの子じゃない子供と家族になって、そして死んだ。あっさりと。


 交通事故だったらしい。あいつが死んだなら次は私かとも思ったけれど、誰も私を連れていってくれはしない。

 時間だけが過ぎていくことに耐えるしかないのは、呼ばれてもいないのに逝ってあの子が父親と遊んでいるのを邪魔できないから。私のことは呼んでくれない。

 ただ生きろ、と云われている気がした。生きるだけ。ただただ重ね続けて肺の油が切れるまで来るな、と云われていた。惰性なら特技を使いテニスの仕事で口にベタリと糊する。暇なら呵責の形で、忙しければ心が落ちてあの子を近くに感じられた。

 テニス部の顧問をしていて私は生徒に自分を重ねる程度に思考はしていた。生徒がバカな男に捕まったりアホな男を捕まえても経験だが、あの子のような子を増やしたくはなかった。

 危なっかしい子とはプライベートで逢うことが増え、あの子の代わりのような存在感に付随する安らぎと絶望はとても心地よかった。

 腕の日焼け跡を合わせるようにして私と腕を組んだ女子生徒とデートにと立ち寄ったのは、あるフルートの発表会、あの男の娘さんが幼い手に横笛を構えていた。

 なんのことはないコンサート、あの男の子供かと判ったのかと聞かれれば判ったから、としか云えない。が判ったのだからしょうがない。あの男に全く似ていない女の子がフルートを吹いていた。あの男の娘さんとは思えない優しく誰かを思っている暖かい音。素直に私の芯に滲みる。

 ……あの子が生きていればどんな風に育っただろうか? 幾度となく繰り返した断頭台のような鋭利な疑問は、今日だけは落ちる場所を変えた。スルリと私と悪夢を断ち切るように。


 ――あの()は、あの()の妹だ――


 あの子を殺して見限った私や祖父母じゃない、あの男の娘なら罪もない、たったひとりのあの子の家族が、今、私の前でフルートを吹いている現実。

 私は神や運命という言葉が嫌いだ。あの子が産まれることすら許さなかった概念であり私が私に用いる言い訳のひとつ。ならば、こうやってあの()の姿を見せてくれたのは何? あなたなの? あなたが私にあなたの妹ちゃんに会わせてくれたの?

 現実を生きろと背を押されたと思った。あの娘がいるなら、私の娘ではないけど、あなたの妹ちゃん……里穂ちゃんのために、私は何かできるの?

 一緒に来た生徒が心配する程度には、私は里穂ちゃんの演奏に熱中していた。虚構めいた二次元の世界から絵本のように飛び出してきた三次元の名前は樋山里穂。たったひとつの実体が私の連綿とした夢想を割いた。


 長く長い短く短い夢から覚めた。久方ぶりの現実感、強張った背筋を引き延ばして私自身が産声を上げた。


 驚きはなかった。里穂ちゃんが父親と同じ学校を選ぶという理性的な予想は霊的な確信であり、意外にも不思議といえば里穂ちゃんが楽しくテニスをしている風でないことくらいか。父親……里穂ちゃんのお母さんが再婚しているから、過去形にすべきね。

 父親だった男は女を捨てる男だったけどテニスだけは好きな男でそこだけが美点だったが、里穂ちゃんは才能こそ有るけれど、楽しんではいなかった。

 だが、待ちに待った里穂ちゃんに私はできることをしよう。三年しかない。短くはないが大人になるには短すぎる期間。

 この三年で競技者としては終わる子が大半で里穂ちゃんも例外ではない可能性が高い。ちゃんと強くして楽しいと思えるようにしたい……里穂ちゃんを待つ間に私も何かが変わっただろうか。その変化から目を反らすようにケーキ屋に立ち寄った。

 サックりとした抜ける香りを予感させる大きな抹茶シュークリームとカフェ・オ・レを買い、私の目は空いた椅子の隣に縫い付けられた。元気に少し跳ねたショートカットとは違ってアンニョイな表情、それでも愛らしい先客は紛れもなく里穂ちゃんその人。

 多分、里穂ちゃんは私や産まれることの無かった異母姉のことは知らないだろうし、私から伝えるつもりもない。私はテニスネットのように張った精神を緩め、里穂ちゃんに……樋山さんに声を掛けることに決めた。


「樋山さん、よね。偶然」

「あ、お母さん」


 死ぬかと思った。

 無造作な爆弾。ただの言い間違えと認識していても平静を保つために引いた緊張のコートネットが切れるかと思った。訂正と謝意を向ける里穂に、私は自分を押さえ付け、冷徹な女教師の仮面で云い放った。


「いいわよ。たまに有るから……里穂♪」


 テンションが自分で思うよりも上がっていたと、口にしてから気が付いた。



 それからは教師と生徒以外に、母親と娘に似た関係になった。元からそうだったのかもしれないけれど。

 すぐに里穂は私に母親を求めていると判り、私もそれに乗った。甘えさせているようで私が頼っているただの共依存。

 里穂が友達の家に泊まると嘘を吐き、一緒に眠るベッドの中は心身ともに充足した時間。

 ああ、この娘なら幸せにできる。幸せになれる。倒れるほどの錯を介して。私の(はら)に痛みを走らせる。あの子の姿を私は一瞬しか見ていない。母親たちに諭されて母親の肚からくり貫かれたあの子を感じる。絶望が潰した消化器が胃から食道に抜ける。わかっている。私を許せない私は私だけ。だから私のための私は要らない。私は私を持て余す。私は里穂だけのお母さんだから。


 女の子を泣かせるのは得意だけど私は泣いたことがない。昔の歌か。

 努力が実らずに泣く子も居る。全員が試合に出られるわけもない。それでも悔いだけは残らない鍛え方を伝えたい。里穂に会ってからそんな気持ちが強くなっていた。里穂越しに生徒たちに感情移入しているからだろうか。


「……本当に、歩美佳をシングルスで使うんですね」


 次大会のメンバー発表後、解散して私と二人きりになった里穂は、母と子のときとも教師と生徒でもない冷たい語調で云った。女と女の会話を求めているとすぐにわかった。

 私は今日もまたひとり、夢を見ようとしていた子を泣かせた。九割九分まで自認して以前から伝えていたことを私がレギュラー発表の場で深々と首肯したのだ。

 彼女は毎日限界まで自分を磨き、熱く汗を流し諦めなかった努力家……根性はある子。根性しかなかった子、鈴木葵。

 大会当日までもちろん可能性はゼロではないが、オーダー入れ替えは降ってきた隕石をラケットで打ち返す確率に似る。鈴木さんは練習の質も量も現実的に突き詰めようもなく他の部員たちを追い抜きレギュラーはありえない。

 私は結果に繋がらない努力が無駄と云うほどの幼くはないが、全ての努力が実ると思えるほど純真でもなかった。

 残酷なまでに勝つために産まれてきたような子は存在する。かつての私や里穂、そして飯田歩美佳のような。


「……私はチームの勝利のために布陣する、何度も云ったわよね?」


 私は“教師”としての私を選んでいた。択が他に有ったかは考えたくない。


「わかっています。僕も……勝つことが、先生のためで、部のためで……でも」

「わかっていないじゃない。樋山さん、あなたは自分が私に何を伝えたいのかをわかってない」

「そんなことはありません。僕は勝ちます。勝って……必ず勝って」


 怒りに似た何かが里穂の胸から喉を伝い言葉になっていた。


「……この大会が最後だから……僕と先生は……親子じゃなくなるから」


 里穂の言葉に芽生えた遠い既視感は里穂が消してくれていた私の痛みだった。ああ、そうだ。忘れていたと誤魔化していた。

 絶望が背骨を伝って靴に滴る。致死量に至る寸前、ドアが跳ね開けられた。


「部長。練習試合、して貰えませんか」


 飯田歩美佳が部室に現れてからは驚くほど記憶がない。

 久方ぶりに現れた痛みは尾を引き、ただただ私を教師としてしての正常動作を取らせ続けただけだった。飯田さんと里穂が試合をしたような気はするが、内容は全く覚えていない。

 気が付くと私は愛車の運転席に居た。そして助手席の里穂の言葉にショックを受けた。


「お母さん……もう少し、もう少しだけ。一日でも長く……お母さんの娘で居させてください」


 ……え?

 …………ん?

 ………………お?

 ……………………んんん?


「……私は、いつまでも里穂のお母さんで居られるなら嬉しいわよ?」

「それは僕が大会で勝てば、ということですかっ?」


 私の中にある混乱を、里穂の涙と鼻水を拭いて上げたい親心と写真を撮りたい親心が左右から揺すって増幅していた。


「……? 勝敗に私と里穂が母子であること、関係ないわよね?」


 私と里穂は鏡写しのように、親子のように、そっくりに首をかしげた。


 私のマンションのユニットバスの小さな浴槽から湯をこぼしながら謎と筋肉を解しあった。

 私のこと、里穂の父親のこと。

 里穂のこと。里穂の母親のこと。

 いつ私の中で切り替わったのか。話さないと決めていたことを隠す方が不自然で、裸で私たちは火照りながら語り合った。私たちはニセモノの親子らしく、ホンモノの親子らしく、初めて本音で話していた。逆上せた浮遊感が眼孔から抜けるように出た一筋の涙が気持ち良かった。

 私は里穂のお母さんのニセモノじゃない。里穂はあの子のニセモノじゃない。

 私と里穂の関係。親子でも恋人でも指導でもなく、私と里穂なのだ。当たり前のことが当たり前の場所から抜けていた。


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