フィフティーン・ラブ(後)
鷲園茶理子先生が久しぶりに原稿を下さいました。
小さい頃、友達からお父さんの話を聞く度に思った。
“ああ、この娘のお母さんは僕のお母さんじゃないから、お父さんが必要なんだ”
僕のお母さんは一番のお母さん。だからお父さんなんて要らない。
僕とお母さんのふたり家族が良い。そう思ってた。
……でも、お母さんは違っていた。
僕とふたり家族じゃ嫌だから再婚した。そういうことじゃないってわかってる。
お父さんも新しいきょうだいも良い子だけど、“そういうこと”じゃない。
僕にとって、ずっと一番はお母さんなのに。
お母さんにとって僕は、いくつか有る一番の内のひとつになった。
そういうこと、なんだ。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
「うん、これが一番カワイイ」
「……“お母さん”、適当に云ってるでしょ?」
学校の外でお母さん――幸子先生に会うことは珍しくなくなり、家に泊まらせてもらうこともある。けれど初めに出会ったときより何倍も胸が躍る。昨日より今日の方が幸子先生のことを好きでいる。
僕は、自分が幸子先生に“お母さん”を求めていることに気が付いたときは驚いたけど、その自分を受け入れられたことにはもっとびっくりした。
わかってるんだ。お母さんが……本当のお母さんが再婚して僕ひとりの物じゃなくなったって。
そもそも誰もが誰かの物なんかじゃなくて、最初からお母さんはお母さんで、僕の物なんかじゃなかった……でも、僕はお母さんだけの物にして、欲しかった。
「理穂、お腹減らない?」
「僕、帰ってお母さんの作ったご飯が良いな」
お母さんのお味噌汁が好き。お母さんのお味噌汁とは違って、お母さんの味噌汁は鰹節で御出汁を取っていて、ふわりと包んでくれるような気がする。
初めにお泊りをした翌朝に作ってもらってから、お母さんのお味噌汁が一番好き。
「お母さんはあそこのシュークリーム食べてみたいの。炭みたいに黒くて美味しいんだって」
「いや、炭みたいならダメでしょ」
「だからひとりで食べて不味かったら大変じゃない? 里穂と私で半分こすれば大丈夫でしょ?」
僕を道連れにしないでよ、そう返そうとしたとき、その声は掛かった。
「あれ? 小林先生? そっちはテニス部の、どうしたんですか? 買い出しか何か?」
ふたりで歩いていると声を掛けられることがある。大概が学校の人。僕が顔だけ覚えているような人が先生と僕の名前を呼んでくる。
こうやって話しかけてくる人は下世話で邪魔、迷惑だと思うけど、こんなときに幸子先生が決まって返してくれる言葉があるから、ちょっと、ほんのちょっとだけ、楽しみでもある。
「いえいえ。今日は樋山さんとデートなんです」
冗談のように、そう云って学校で見せる笑顔で云ってくれる。
そこから笑えない冗談を続ける人も居る。早く居なくなって欲しいとも思うけど、幸子先生から別の言葉を引き出してくれるなら大目に見ても良い、そう思いながら僕は笑う。
お母さんは、僕だけのお母さんだから。
ただ、僕もお母さんも、ちょっとだけ有名人らしくて。
うちの学校は全国でも有数のテニス部でファンという人から声を掛けられることが多い。
こういうとき、僕は特にテニスを億劫に思うときがあるんだ。
お母さん以外の人にテニスを見せたいわけでも褒めて欲しいわけでもない。
僕は、お母さんだけの僕だから。
このとき、僕は最初、その人を最初、そういう人のひとりだと思った。
服装こそ普通のAラインのワンピースだけど、どこからともなくする、テニスの匂いが染みついている人だったから。
でも違った。メイクが強くて見違えたけど、その人を僕の前の前の部長の藤木さん。笑顔の似合う人だったけど、マスカラも似合っている。
反射的に下げた頭を上げたとき、僕は人が違ったかと思った。
「……今度は、その子なんですか?」
“今度は”
切り捨てるような言葉は視線と対になっていた。憐れむように切り捨てて、羨むように切り捨てる。
部活のときの幸子先生と、デートをしているときの幸子母さんが、どこか違う人だと感じていた。感じようとしていた。
部活中の勝利のために残酷になれるあなたと、今の底も天井もない優しさのあなた。それが同じだったと気付かせる
歩美佳のモチベーションを維持するために葵を宛がったあなたらしいというべきか。あなたは僕にあなた自身を宛がっていたんだと、わかっていたことをわかってしまった。
何か先輩がその容姿相応に綺麗な言葉を向ければ、幸子先生も、とても、綺麗すぎる言葉を返す。
他人行儀とはこのこと。赤の他人様に向ける言葉。親しみの伴わない正しすぎる日本語は、二年前まで教え子だった先輩に使って欲しい言葉ではない。
「……それじゃあ……さようなら」
「ええ、さようなら。藤木さん」
ネットに当たったボールが跳ねたようだった。垂直に上がったボールは、ストローク続きで広く構えていた僕にも藤木さんにも拾えず、どちら側に落ちるかは分からない。
今回は藤木さん側に落ちてくれた。だから大丈夫。今は僕の得点。幸子先生は、僕の物で居てくれる。
三年生で最後の夏。卒業したら、幸子先生は僕のお母さんじゃ、なくなる。
そしたら、幸子先生は、また、別の誰かのものになるんだろうな。テニス部のモチベーションを維持するために。
……そしたら、今度は誰がお母さんのものになって、お母さんは誰のものになるんだろう?
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
「部長。練習試合、して貰えませんか」
次大会のレギュラー発表後、全員居なくなったあと、歩美佳が部室に戻ってきた。
多分、葵に会ってきたんだろう。歩美佳は頭の方は悪いけどバカじゃない。優しいけど甘くはない。
歩美佳は、誰かに似ているとずっと思っていた。
元気で才能が有る、けど、それを支える動機だけがない。テニスが好きという情熱しか持っていないけど情熱だけは持っている葵とは正反対。
そして、お母さんに褒めてもらうためだけにテニスをしていた僕とそっくりな。
「僕も試合したいけど、遅練は違反だよ?」
そこですかさず、自分が来るまで送っていくと云ってくれた幸子先生の意図はわかった。
今の部長の僕と、僕の次に部長になるであろう歩美佳を天秤に掛けるんだろう。
「審判は私がするわね。練習試合だからワンセットマッチね」
幸子先生が歩美佳を家に呼ぶかもしれないと思うと、身体の中で熱い物がうずいた。
これの名前は私の語彙にもあるけれど、なんでも良い。幸子先生の前で歩美佳に負けるわけにはいかない今、嫉妬だろうと愛だろうと、僕の力になるものならなんでも使う。
熱した空気は空へ空へと昇るように、熱くなった血が私の身体を浮かせている。
その熱はガットからボールへ伝わり、軽くなったボールはライン際へと吸い寄せられ、的確にオンザラインの得点に――。
「っだああああああああああっっ!」
歩美佳は、逆サイドに向かっていたはずだった。
フェイントに対応できていなかった歩美佳はラケットを低く差し出し、ただフレームに当てただけ。ボールはそのままネット際へと落ちた。
ポイントは僕。幸子先生の宣告は当然のことだったけど、でも、その視線は歩美佳に注がれていた。
僕のフェイント付きの渾身のスマッシュを。
男子テニス部や、他校の強豪校からも点を取り続けていた得意なパターンだったのに、テニス歴一年の歩美佳が、追いついてしまった。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
「ありがとうございました! 明日もお願いします!」
練習試合はスコアだけは僕の圧勝で、約束通りふたりで幸子先生に車で送ってもらった。
歩美佳はスッキリとした表情をしていたが、どこか泣きそうだったのが印象的だった。
多分、葵と何か有ったのだろうとは思うけど、それ以上に歩美佳という後輩のことではなく、歩美佳というライバルのことを考えてしまっていた。
「――お疲れ様。里穂」
歩美佳を家に下ろしてからは静かになった車内には冷房とエンジンの音が響くだけ。歩美佳の前で有るという条件を失い、僕は顔を上げられなくなっていた。
卒業するまでは幸子先生の特別で居られると、甘えていた。嫌だ。
ずっと先生の物ではいられないとしても、もしかしたら大会中にでも歩美佳は僕を追い抜くかもしれない。そうなれば大会中にでもお母さんは歩美佳のものになってしまうかもしれない。
嫌だ。お母さんは僕の物でなくなるのは仕方ないけど、僕はお母さんの物にしていて。要らなくならないで。
ダメだ。ダメだ。こんなこと云ったらダメだ。バカな子だって思われる。捨てられる。
けど、我慢できない。もう涙が止まらない。
「……? どうしたの? 里穂? 泣いてるの?」
云ったらダメだ。絶対にダメだ。だけど、もうダメだ。
「お母さん……もう少し、もう少しだけ。一日でも長く……お母さんの娘で居させてください」
涙で、お母さんの顔が見れなかった。
あと二回くらいで終わるそうです。