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前空学園テニス部の栄光  作者: 鷲園 茶理子
2/5

フィフティーン・ラブ(前)

 僕はその日、人は嘘でもない嘘を無意識に語ることが判った。判りたくなんか無かったけど。

「頑張ったね里穂(りほ)! 一等賞! 今日はアジュールのパイ、買ってこうか!」

 僕、頑張ったしフルート好きだけどお母さんの方が好きだから、もうやめるね。金賞でも母さんは褒めてくれるだけだから。

 僕とお母さんは母娘(おやこ)だから。すごく似てるから。だから――もうフルートはやらないんだ。


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「絶対ナシ。マザコンはナシ。ですよね部長!」


 歩美佳の言葉に、僕は数十秒の時間旅行からアジュールのテラスに戻っていた。

 五月晴れ。僕たちの六人の制服が放課後のまだ暖かい日差しに照らされてモスグリーンの影を作る。

 (かえで)材の香るテラス。紅茶とカフェオレのどちらかの飲み放題が五十円で付けられる。

 ケーキをひとつは買わないと付けられないから、と選んだアジュールのアンコパイを僕は小さい頃から本当に気に入ってる。

 だけれども。サクサク層の下、クリームとアンコに接している一層だけはしっとりとしていて口の中、一噛みする間に一瞬だけ上顎に張り付くような感触がする。

 母さんと一緒に食べたいくつもの歯切れの良い笑顔の思い出の中、僕がフルートで金賞を取ってやめたあの日だけ、何層も重なった中のただの一層に過ぎないのに、口の中で妙に存在感を放っている。


「ごめん、なんだっけ? 歩美佳?」

「マトモに取り合わなくて良いですよ部長。 歩美佳に絡んでると疲れるだけですから」


 歩美佳が異議ありと口を開く。部活動を終えて疲れきった身体にはスイーツ、心にはコイバナが必要だと。

 しかし、それは葵の逆鱗だと学習しないのが歩美佳で。葵はチーズケーキをゴクリと飲みこんで入れ替わりの言葉を装填し、着火。


「私が疲れてんのはあんたが一年にウソ教えたからでしょうがああああ!」

「ウソじゃないよ! 間違えただけ!」

「どこの世界に一年テニスやっててスコアボードに四五点と書くバカが居るのよぉー!」

「だって、一回入ったら一五点、二回目が三〇点なら次は四五点でしょ?」


 なんでか得意げに親指で自分を差す歩美佳に、葵の説教が始まった。

 確かに誰しも一度は思うことだけど、ふつうは観戦したりプレイして初日に気が付くね。

 葵と歩美佳は性格もプレースタイルも本当に良いコンビで、二年ながらダブルスとして全国に通じると思う。

 今日も歩美佳が逃げるように椅子から浮き、お化粧直してくると得意のダッシュでトイレに向かい、葵が「あんたカンペキスッピンでしょうが!」と跳ねるように追っていく。

 テラスから店内に春風と一緒にふたりが消えていき、一緒に来た三年の椎菜しいなが紅茶とフォークを置いた。彼女はうちの部のダブルスのダブルスレギュラー当確で、副部長もしてくれてる。


「……部長。あれじゃ……葵ちゃんが可哀想。歩美佳ちゃんは気付いてないけど葵ちゃんは気付いてる。歩美佳ちゃんが……天才だってこと」


 今日のメンバーは歩美佳と葵を含み、レギュラー候補の六人で来ていた。

 皆が自然と空気を読んだような形だったが、その空気を自然と作ってくれたのが椎奈だった。


「葵ちゃんは歩美佳ちゃんとふたり(ダブルス)じゃないと難しいけど、歩美佳ちゃんはひとり(シングルス)で使いたいのでしょう? 幸子先生もあなたも」


 携帯を弄っていたり、三つ目のケーキに手を出しているふたりも視線はそのままに、意識は僕に注目している。


「……もう、云ったよ。幸子先生が」


 僕は残っていた紅茶を飲んだ。少し冷めていて、解け残ったグラニュー糖が嫌味だった。あのときの空気と同じように。


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「悪いけど、このまま捨て石になってくれる? 鈴木さん?」


 皆が帰ってから僕と幸子先生と一緒に葵は残ってくれていた。

 まだ着替えていない彼女のテニスウェアには、練習で掻いた熱い汗の中に涙のように粘ついた汗が混ざったのを僕は判らないわけにはいかなかった。

 幸子先生は校内の皆が美人だとよく云うし、こんなときにもキレイだと思う。けど、それだけに、残酷さが氷のように逆立って。


「どういう、意味ですか?」

「私は飯田さんをシングルスで使うべきと考えているけど、彼女はひとりではモチベーションを維持できない。けれど、彼女はあなたと一緒なら頑張れる」


 表情は変えず、葵はスカートの裾を握りつぶして耐えていた。

 葵は小さい頃からテニスをやっていたと聞いたし、“僕と違って”本当にテニスそのものが好きなんだと思う。

 部の誰にも負けないテニス好きで、他のコが投げ出したくなるような練習も黙々とこなしてきたのは知っているけれど、そこまでやっても彼女は“レギュラー候補のベンチ要員”に過ぎない。

 十の練習をして七か八の効果しかでない葵は、十の練習で二十や三十伸びる歩美佳に追いつかれ、そして追い抜かれるだろうけど、それを僕は口にできなかった。

 葵が必死に練習の汗で押し留めている涙を流せと云うことに他ならないから。


「部のためにあなたにしかできないことなの。あなたでは才能が足りないわ。部のために飯田さんのコーチを続けてくれないかしら」


 なぜ、幸子先生はそんな酷いことをその整った唇から云うのですか。あんなに暖かい言葉を僕に掛けてくれたあなたが、どうして葵に冷徹になれるのですか。

 葵にはただ才能が足りないというだけで。幸子先生、あなたにとって葵はそれだけで、かわいい生徒から捨て石に格下げられるのですか。

 ふたりに気付かれないように噛み締めた奥歯がジャリジャリした。解け残ったグラニュー糖みたいに。

 消え入りそうな声で判りましたと云うしかない葵を抱きしめたくて。けど才能のある僕にはそれも許されない。


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「本当に葵ちゃんに云ったの……!? 幸子先生……」

「うん、でも、優しい云い方だったよ。葵自身も練習に身が入らないようだったから、葵にもシングルスを取れるように頑張れって」


 椎奈たちに、僕は用意しておいたブラフスマイルと嘘を並べた。

 幸子先生に云われたわけではないが、幸子先生は僕がそのまま他の部員たちに伝えないということを知っていながら立ち会わせたはずだから。


「それなら、あたしから云えることはないわね。歩美佳ちゃんには変わらず接すれば良いのね?」


 椎奈は、多分、僕の嘘を気付いていても口にも表面にも出さない。謝ることもできないけど、私は追加でショートケーキを注文していた。

 ここのショートケーキは少し大きめで、皆で少しずつ食べるとちょうど良いんだ。

 初めて食べたときは、ワンホールは新しい家族とみんなで食べても多かった。

 翌朝、冷蔵庫から出して少しパサついたケーキを新しいきょうだいで分けたっけ。


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 フルート発表会の少し前。新しいマンションでケーキを囲んでいた。

 きょうだいが破った壁紙は僕とお母さんを迎えるときに張り替えたらしいけど、タンスに貼ったシール、ちょっとだけ欠けたマグカップに、僕たちが居ない間の思い出が見て取れた。

 でも、僕の方は古いお父さんの思い出はない。ずっとお母さんとふたり家族だったし、お母さんも結婚生活は久しぶりだったから。

 初めてのきょうだいは一気に三人。新しいお兄さんと双子の弟と妹。新しいお父さんは僕をすぐに娘として扱ってくれたし、お兄さんは本当の双子たちと同じように溺愛してくれた。うっとうしいくらいのお兄さんだったけど、今は僕も本当の兄さんだと思ってる。

 双子たちは、最初の間は兄さんを僕に取られるんじゃないかと嫌ってたけど、僕が兄さんの“特別”になりたがっていないことに気付いてからは仲良くしてくれた。

 僕が“特別”になりたいのはお母さんだけ。けどお母さんと僕は似てるから。本当の母娘だから。

 僕がきょうだいやお父さんを好きになったように、お母さんも兄さんや双子を好きになったのが、すごく嫌で僕はずっとやっていたフルートを頑張った。

 この前、テニスで銅賞を取ったときにすごく喜んでくれたから。お母さんも若い頃にやっていたらしくて好きなんだって云うからテニスは好きじゃなかったけど頑張れた。

 テニスで小学校の高学年の子に勝ったとき、すごく嬉しそうにしてくれたんだ。

 フルートは小学生の子だけじゃなく、中学生の子にも勝てるから。喜んでくれるよね。

 頑張って、応援席に新しいお父さんやきょうだいたちも来てくれた楽しい演奏会。

 絶対に勝つんだって。だから勝ったとき、すごく嬉しかったんだ。僕。


 「頑張ったね里穂! 一等賞! 今日はアジュールのパイ、買ってこうか!」


 ――それだけ?――

 褒めてくれたけど、お母さんは喜んでくれてなかった。

 テニスのとき、三番だったテニスのときは褒めながら喜んでくれたのに、フルートは一番でもただ褒めてくれただけ。

 僕、頑張ったしフルート好きだけどお母さんの方が好きだから、もうやめるね。金賞でも母さんは褒めてくれるだけだから。

 お母さんの娘だから。兄ちゃんや弟、妹よりも本当の娘だから。特別になるから。僕とお母さんは母娘(おやこ)だから。すごく似てるから。だから――もうフルートはやらないんだ。


 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

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 ショートケーキを待つ間に口に運んでいたアンコパイは、やっぱり口の中に張り付いた。

 ただテニスが好きで好きな葵より、私や歩美佳は確かに才能という要素を持っていて。幸子先生の云うように。

 幸子先生は、とても真剣に私たちに接してくれている。可愛いあなたたたちと呼び、指導して笑いかけてくれる。

 ただ勝って一番良い景色を私たちに見せるようにと、第一に目指すのは勝利だと断言もする。ただ、それを知りながら入部した葵は、悔やむこともしない。弱音も吐かない。吐かせてもらえない。

 トイレから歩美佳と一緒に戻ってきたその姿を、僕は目を反らすことはできなかった。


「はい! 歩美佳!」

「日光猿軍団直接指導によるー、葵さまのー、歩美佳ちゃん回しのお時間ですー。

 テニスはー、ゼロ点がラブでー、一点が十五フィフティーンで、二点が三〇 (サーティー)、三点が四〇 (サーティー) 、そこからは並んだらゲーム……」


 スパーンと葵の軽快なスマッシュが歩美佳の後頭部を捉えた。いつもながら良い音だった。


「叩かないでよ! バカになるでしょ!」

(ゲーム)じゃなくてデュースだって教えてわからないバカなんだから変わらないでしょ!」


 ふたりは本当に良いコンビ。漫才で頂点を目指すなら純粋に応援できるんだけどと、笑えば良いのか、悲しめば良いのか。ただただ今はふたりが微笑ましくて眩しくて、気の毒で。


「あー、バカになったー、葵のせいでバカになったー。バカになったから席間違えたー」


 歩美佳は葵の席に腰を降ろし、葵の食べかけていたチーズケーキにフォークを刺す。

 呆れたような溜息と一緒に、葵は歩美佳のブルーベリーパイを食べだした。ケーキを交換したかったらしい。

 僕もそうやって交換したかったな。あの日。幸子先生と初めてアジュールで会ったとき。



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 僕がまだ一年生の春先。入部届を出してから間もない頃。

 僕は母さんの誕生日のケーキを予約して、そのままひとりでアジュールの窓際四人掛け席で紅茶を飲んでいた。

 ウィンドウの外を通る幼いきょうだいを、お母さんやお父さんが優しく見守っているのを眺める僕は、どんな顔をしてたんだろう。

 誕生日にはプレゼントは何を贈ろうかな。

 夕食は私が作ると約束したし、お母さんの好きな揚げナスを添えたカルボナーラ。兄さんも帰ってくるから六人分を作るのは大変だけど、それは大丈夫。

 サラダは双子たちに任せたし、あとはプレゼント。やっぱり鉢植えかな。切り花はすぐ枯れるからお母さんは好きじゃないから。お母さんの好きな花、だったら――。


樋山ひやまさん、よね。偶然」

「あ、お母さん」


 無意識に意識を引っ張られて口を出た言葉。先生と云うつもりが、僕は彼女をお母さんと呼んでいた。

 小学生の頃は同じような間違いをする同級生を目にしたけど、僕は高校生になってから初めてした失敗。私は教師をお母さんと呼んでいた。

 テニス部顧問の幸子先生。髪を下して私服姿が無警戒な幸子先生は、ちょっと大袈裟に驚いたようだったけど、すぐに元の家庭的な香りが戻ってきた。


「すみません、ちょっと考えごとしてて」

「いいわよ。たまに有るから……里穂♪」


 部活動でのハキハキした笑顔とは異なった、ほがらかな、それこそ母性的な笑顔の幸子先生は僕の隣に座った。

 正面ではなく、息が触れ合う隣の席で幸子先生は僕を下の名前で呼んだ。まるで窓の外の母娘がそうしているように。


「話をしてもいい? 里穂とは話したかったことがあるの。ただテニスと関係ないから話し難くて」

「……なんですか?」


 僕の言い間違えが元とはいえ、出会ったばかりとしては馴れ馴れしい幸子先生に、僕はちょっとした苛立ちの他に、妙なむず痒さが有った。このむず痒さの名前は、高校生になったばかりの僕の語彙にはなかったんだ。


「里穂は小さい頃にフルートもやっていたのよね?」


 どくんと震えたことで、もっと前、幸子先生が座った頃から僕は自分の心と体が興奮していたことに気が付いた。


「……っ! よく、知ってますね」

「あのフルートの会、知り合いの子が出てたから観に行ってたの。里穂はその前にテニスで銅賞を取ってたでしょ? すごく印象的だった」

「……ああ、苗字が変わった頃ですね。確かにあまり居ませんからね。習い事にしてもテニスとフルートって」


 サクリ、と幸子先生が自分のトレーに乗ったブルーベリーパイを一切れ、僕に差し出した。

 抵抗なく、それでいて弾むような気持ちで、僕はそれを頬張った。あーん、って云って欲しかったな、なんて思っている自分に驚きながら。


「好きな演奏だったわ。聞いた瞬間、この子が優勝するなって。聞けて良かったわ」


 ――違う。ダメだ。これ以上聞いたらダメだ。僕、変になっちゃう、逃げなきゃ。

 なんで幸子先生が正面に居るんだよ。逃げられない。窓ガラスに鏡のように映った幸子先生、前の幸子先生。視線が僕を包んでいた。


「楽しかったわ。良い演奏を聞かせてくれてどうもありがとう。良ければ……また聞かせてくれないかしら? 里穂のフルート」


 本当のお母さんが喜んでくれなかったフルートを、このひとは喜んでくれる。

 お母さんが好きなテニスじゃなくて、僕が好きだったフルートを、フルートを吹く僕を、この女の人は、喜んでくれた。爪先の先から太ももを伝って耳の横をなぞる感触が僕をおかしくするんだ。


「――良いよ、お母さん」


 母と二回目を呼ばれた幸子先生は、ただ私のアンコパイにフォークを刺し、小さく一口食べた。

 

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 時間旅行が終わり、食べ終えた僕たちがレジを済ませた帰り道。

 僕は家に居るお母さんからのメールと、部室で別れたお母さんからのメールを確認した。


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