現風景2
「まったく、目覚ましたんなら連絡ぐらいしてよね!」
アヤネは、ぷりぷりと怒りながら俺の部屋の片付けをしていた。
日曜だというのにスーツ姿で、これからクライアントと打ち合わせだという。
「まだ具合悪いんだ」
「……本当? 無理しないでね」
黒目がちな目にまっすぐと覗き込まれ……俺は、目をそらす。やめろよ、勘違いするじゃないか。
「ごはん、買っておいて冷蔵庫にあるから。
おばさんにちゃんと電話するんだよ」
「へいへい、ありがとね」
「んじゃ、帰るときにまた寄るから」
「いってらっしゃい」
がちゃり、とアヤネは外から鍵を閉める。
アヤネはもちろん俺の彼女――などではない。幼稚園から中学校までともに過ごした幼馴染で、就職して東京に出てきてから、再会した。当時から見目良く、正確も活発だった彼女はモテていたが……有名私立に進学して、今は某広告代理店で働いているという。地方大学を卒業し、平凡なサラリーマンをしている俺みたいなやつとは、釣り合いが取れない。
ただこうして面倒を見てくれることに関しては、非常に感謝している。
……俺の母親と、アヤネは直接電話をするぐらい仲がいい。
枕元の時計を見ると、まだ午前十時。
俺は目をつむり、もう一眠りすることにした。
○
ほうじ茶のにおいで、俺は目を覚ます。
アヤネがキッチンで何か料理をしてる姿が見えた。
「あ、起きた? おかゆあるけど」
「食べる」
「うん。ちょっとまってね」
アヤネは小さい土鍋をもって、ベッドわきに運んでくれる。
「……ふーふーしてあげようか?」
「いらねえよ、恥ずかしい」
「猫舌のくせに」
俺はアヤネからスプーンを奪うと、自分で冷ましてそれを口にする。
「どう、体調は。
一週間入院したって聞いたけど」
「……らしいな。あんまり覚えてないんだ」
「ちゃんと検査した? 頭に異常が出てるかも」
「医者がいうには、問題ないってよ。
多少記憶の混濁が見られますって」
「本当? うなされてるみたいだったけど」
「……気のせいだ」
「メアとかなんとかって……寝言言ってたけど」
がちゃ。
「悪い。スプーン落としちまった」
「あらあら。まだ力が入らないのかしら。
待っててね、今違うの持ってくるから」
台所に消えていく背中。
俺はその背中に向けて。
独り言のように。
「なあ。俺……違う世界に行ってたんだ。
その世界じゃ魔法を使えたり、モンスターと戦ったり。
俺はすごい魔法使いで、悪党を倒したりしていた」
その声が、届かないようにと。
あるいは届いてほしいと。
どっちつかずの願いを、抱きながら。
「そこで、俺は大事なものを手に入れたんだ」
それは、きっとかけがえがなくて。
「そして、喪ってしまった」
……今じゃ手に入れた思い出さえ、きらめいている。
「やり残したことがあるんだ。
けど、もう二度と戻れない。
ただ、俺はそれが切なくて、苦しくて……」
「イヅル、できたよ」
いつのまにか、アヤネは新しいスプーンをもって、俺の前に立っていた。
何も言わず、俺にスプーンと、ティッシュを差し出してくれる。
俺はティッシュで目元をぬぐい……鼻をかんで。
「ありがとう」
と、短く感謝を伝える。
「頭がおかしいと思うだろ? 俺もそう思う。
疲労とストレスで追い詰められて、異常な幻覚を見たんだって」
「ねえ、イヅル。休んでもいいのよ。誰もあなたを責めない。
……ううん、それどころか、みんながあなたの味方よ」
「それでもいい。むしろ、それならよかった……」
そうであれば。
狂人が一人生まれただけの話。
誰も悲しまない。
泣かない。涙を流す感情さえ、とうに枯れ果てて。
誰も傷つかず。
死なず。
……故に、存在しない。
そういう結論が、出るだけだから。
でも、そうじゃない。
そうならない。
俺は。
俺はどうしてこんなに苦しい?
「教えてくれ。俺はどうしたらいい?
どうしたら、」
この思いから解放されることができるのだろう。
あぁ、メアリィ。
お前に会いたいよ。
やっぱり。
一言でもいいから、伝えたかったんだ。
○
その日の晩、俺らは長谷川に呼び出され、いっしょに晩飯を食べることになった。
「おっす。……なんだ、アヤネも来たのか」
「ずいぶんね。二人だけだと、ろくにご飯も食べないでしょうから」
「はは、そりゃご明察」
長谷川とアヤネは知り合いである。俺を交えた3人で出かけるのも、今日が初めてではない。
促されるままに、長谷川がすすめる居酒屋に、歩をすすめる。
「アヤネ、結婚おめでとう」
とうとうに切り出したのは、長谷川だった。
「……どういうこと?」
意味が分かってないのは、俺だけのようだった。
「そうか、日出は寝てた時だもんな。
アヤネが会社の同期と、この度結婚することになったんだって」
アヤネが伏し目がちに、こちらをのぞきみる。
「そうなんだ、おめでとう」
「べつに隠してるつもりじゃなかったんだけど。
イヅルの体調もあるし、ね」
「気にすることなんてないぜ。
あいては? どんな人?」
「高校までサッカー部で、大学でアメフトを始めたの。
生粋のスポーツマンで、週末はアウトドアによく出かけるわ」
「ふうん。それじゃ俺と正反対だ」
俺は自嘲して、笑ってみせる。
「……かもね」
「ま、かたいことはいいっこなしだ!
今日は日出は快復祝い。それからアヤネの婚約祝い。
それらを踏まえた飲み会だ。
楽しくやろうぜ」
そして俺らは、日が変わるまで他愛のない会話を続けたのだった。
○
珍しくべろんべろんに寄った長谷川に肩を貸して。
俺らは電車のホームに向かっていた。
途中、寄るところがあると言ったアヤネを、二人で見送る。
「悪いな……」
長谷川は、俺の背中でため息をついた。
「いいよ。いつも世話になってるし」
「……アヤネは、ぜったいお前に気があると思ってたんだけどな」
「どうした、急に」
とうとつな発言に、俺は足元がよろつくのを感じた。
「だってさ、じゃなきゃ付き合ってもない男の家に、面倒みたりしないだろ?
それに、さっきの婚約だって、あまり嬉しそうじゃなかったし」
「……うちの親と仲がいいからさ。
考えすぎだよ。それにしても、よく見てるな」
「……なあ、笑わないでくれるか」
「今日、十分すぎるぐらい笑ったからな。
なんだい」
「俺も、アヤネのことが好きだったんだ。
……きっかけは……。
いや、どうでもいい。
お前に言っても。
……仕方のないことなんだ。
忘れてくれ」
長谷川は、俺の背中から下りて、自力で立ち上がる。
「すまん。口が滑った。
また明日、会社で会おう」
そしてタクシーに乗り込む後ろ姿を。
俺はぼんやりと見送っていた。




