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使い魔一年生  作者: 多文 亀之助
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第九話

「ふぅ。疲れたぁ」

 階下の、かつては客間で、今は鳳家末娘の自室になっている部屋に戻ってきた美雪は、後ろ手に引き戸を閉めた途端に、本来の姿である白猫に戻って座布団の上で丸くなる。

 もちろん美雪もディアと同じく昼間に化けるのは大変な負担になる。しかし、彼女は長明の前では辛い素振りは一切見せずに、極端な男嫌いである事もひた隠し、必死の思いで我慢していたのだった。これで獲物は間違いなく美雪を人間だと思う筈、と猫はしたり顔でほくそ笑む。

 ここまで辛い思いをしてまで長明と接したのには理由がある。もうすでに長明を人質に取るという目的はほぼ達成されていたが、さらに勝利を確実な物とするために、敵のマスターから生気と魔力を奪って自身を強化すると共に相手を弱体化させるという一石二鳥の計画を立てていた。

 使い魔の主人から魔力を吸い取るには性交が一番効果が高く、次いで口移し、それらが無理なら最悪肌の接触だけでも一定の効果はある。しかし、それらは長明が美雪に心を許しているのが絶対条件であった。

 白猫は獲物との初対面を思い出す。あの、一片の疑念も無いのん気な阿呆面。後は軽く色目を使えば接吻くらいは容易だろうと考えていた。最後の防壁である結界服についても既に手は打ってある。

 旧客間の窓は全て厚手のカーテンが掛かっており、畳の敷かれた和室は全体的に薄暗い。そんな中で、猫の瞳だけは妖しい光を発していた。

「さて、後は晶子が上手くやるのを待つだけか」

 そう得意気に独り言ちると、美雪は目を瞑って聴覚に意識を集中する。都合の良い事に晶子の部屋は丁度真上にあり、彼女にとって音を拾うのは至極容易な事だった。

 唯一の脅威であるディアも、今は検索範囲の外も外、明後日の方角に突き進んでおり、ここまで来ればもう勝利は疑いようも無かった。


 ◇ ◇ ◇


 長明と晶子は、二人でお菓子をつまみながら会話や映画を楽しみ、モニターにエンディングテロップが流れる頃には室内に差込む光が赤く色付き始めていた。楽しんだ、といっても、半分囚われたようなこの状況下で長明が心安らかになれる訳も無く、それはいたって表面的な物でしかなかった。そんな事情を知ってか知らずか、隣で映画を見ていた晶子は少年の肩にそっと寄り掛かって細腕を絡ませる。少女の、直ぐ近くにある長明の横顔を見る目は潤み、頬はほんのりと桜色に染まっていた。それは、恋する乙女の表情そものもだった。

「長明君、面白かった?」

「う、うん。面白かったよ」

「良かった……」

 長明の少し気のない返事にも晶子は満足し切った様子で微笑むと、小さな頭を少年の肩に乗せる。タクシーに押し込まれた時と違い、やんわりと包み込むような力で左手を抱く腕は華奢で弱々しく、長明の保護欲をこれでもかとくすぐっていた。そして、腕に密着した少女の身体はどこまでも温かくて柔らかい。

 少女は、恋愛映画のヒロインに自分を重ねて、夢見心地で長明の肩に頬を預けていた。その火照った熱が彼氏にも伝わり、黒髪から漂うシャンプーの香りと相まって、少年を何ともやるせない気分にさせてしまう。

 正直、長明にとっても心地良いひと時ではあったが、頼みのディアが来ない以上、早くこの家を出たいとも考えていた。夜は魔物の時間。そうなってはより危険が増してしまう。

「じゃあ、もう遅いし、僕はこの辺で」

「ま、待って!」

 立ち上がろうとして腰を浮かせた長明に、晶子は腕にすがるように全体重を掛けて引き戻す。

「あ、あの」

 何をするんだ、と続けようとした長明は直前で言いよどむ。彼にすがり付く少女は目に涙を溜めて今にも泣き出しそうだったからだ。

 彼女の整った容貌には、不安と焦燥がありありと浮かび、潤んだ瞳は甘えるように長明を見上げていた。

「お願いだから待って、長明君」

「いや、でも、どうして」

 本来なら当然の質問。しかし、長明には目的が分かっていた。恋愛経験が皆無といえる彼にも一目瞭然な程に、今の晶子は彼氏との肉体関係を熱望していた。

「今日は、今日はね。えっと、あの、長明君に私の全てを捧げるつもりで部屋に呼んだの」

 晶子は顔を真っ赤にして言い放つと、長明の二の腕に自らの胸を押し付ける。それは娼婦のような誘惑ではなく、貴方に、恋人に、何をされても大丈夫という覚悟を示す為の行為だった。ここまでされては長明も無下には断れない。

「で、でも……」

 自分にはもったいない程の美少女に迫られ、ふんわり柔らかい胸を押し付けられ、少年はかつてない強烈な体験に頭の中が真っ白になってしまう。これこそ正に、美雪が晶子を餌に選んだ理由だった。もし晶子がとんでもないブ○だったら、長明は彼女を強引に引き剥がしてでも逃げていたに違いない。

 もちろん少年だって今すぐ逃げ出したい程に不安で仕方なかった、が、どうしても泣きすがる彼女を振りほどく事が出来なかった。

 夕日の差し込む静まりかえった室内で無言のまま見詰め合う二人。両者の間に流れる空気も息が詰まる程に重苦しくなっていった。

 晶子は意を決して口をわなわなと震わせながら動けずにいる少年からそっと離れてその場で立ち上がる。そして、にっこりと泣き笑いの表情になって服のボタンに手を掛けた。

「長明君。私に、何をしても良いんだよ」

 少女は決意の眼差しでそう告げると、ブラウスのボタンを上から順に外してゆく。そして、全てのボタンを外し終えると、一つ息を吸って肩から脱ぎ始めた。

 するするという衣擦れの音と共に、まるで華が開いたかのように生白い肩が露出し、次いで薄桃色のブラに包まれた形の良いバスト、贅肉の少ない腹部が露出していった。仕上げに脱いだブラウスをスカートから引き離し、そのまま床に落とす。脱ぎ捨てられたブラウスは脚を囲む形でふさりと落下した。

「私は本気だよ、長明君。……見て」

 最早完全に腰を抜かして呆然としている長明の前で、晶子は羞恥に震える手をスカートのファスナーに伸ばす。合わさった金具の開く音、そして長明が生唾を飲み込む音が室内に響き、支えを失ったベージュのスカートがストンと足元に落ちた。

 遂に、遂に周囲の目を引く程の美少女の、くびれた腰と、大事な部分を覆う薄布が露わになり、完全に下着姿となった晶子は不安と羞恥の入り混じった視線を想い人に向けていた。その白く、美しい肢体が夕日に照らされて少年の視界一杯に浮き上る。彼は、少女の純粋な美しさに神々しささえ感じていた。

「長明君。私、どう、かな?」

「え、あ、えと」

 少女は身体を隠そうともせずに上気した表情で恋人に告げる。その気迫と覚悟に、長明は陸に上がった魚のように口をパクパクさせて声を漏らす事しか出来なかった。

「こんな姿を見せるのは、男子では長明君が始めてなんだよ」

 晶子は顔面蒼白の少年に向けて、足元に出来た衣服の輪を脱するように一歩前に進むと、静かに腰を下ろして膝立ちの姿勢になる。次いで、手を伸ばして長明の肩を掴むと、押し倒す方向に力を込めた。

 彼女の美貌、そして胸の谷間が急接近し、荒く熱のこもった息遣いが直接肌に掛かる。さらに、興奮した少女の発する甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐり、少年は頭の芯が麻痺するような感覚に囚われていた。

 このままでは、まずい。少年は本能的に危機感を覚えて、両手を強く握り緩み切った脳味噌に喝を入れる。この窮地から逃れる最も簡単で確実な方法は、彼女を強引に突き飛ばす事なのだが、必死にすがる女性に対して手荒な真似がどうしても出来ずにいた。とにかく今は、何としてもこの流れに逆らう事が肝要に思えた。

「あっ」

 押し倒そうとする晶子に対して長明が身体を強張らせて抵抗した為に、彼女はバランスを崩して少年の胸に倒れ込んでしまう。しかし、それすらも予定通りであったかのように、間髪を容れずにに右腕を彼氏の背中に回すと、下腹部に柔らかなバストを押し付けつつ左手をそっと股間の付け根に添える。そこはもう、男性の生理現象が暴発寸前であった。

「長明君。私の身体でこうなってくれたんだ。嬉しい」

「ひゃうっ」

 優しく股間を撫でさする見目麗しい少女の痴態に、長明はまたもや忘我の彼方寸前まで追い込まれてしまう。今やすっかり進退窮まった彼は、目を固く閉じて、必死に自らを鼓舞する。そんな時にふと目蓋の裏に浮かんだのは、出会ってからずっと苦楽を共にしてきた愛猫の姿だった。

「し、晶子さんっ」

 長明は渾身の力で晶子を抱き返した。

「長明君……」

 晶子も、ついに長明もその気になったか、と喜色を浮かべ身を委ねる。しかし。

「晶子さん。その、今日はお母さんや妹さんも居るし、えと、気持ちは嬉しいけど、こういうのは、家族が誰も居ない所でするべきだと思うんだ」

「長明君。でも、私」

「だからさ、他の家族が出かける日にまた呼んでよ。その時には二人でゆっくりと、ね?」

 納得いかない風で何かと言い淀む彼女に長明はさらに畳み掛ける。正直、この千載一遇の機会に後ろ髪を引かれてはいたが、彼にとっては、今この時こそが生死を分ける正念場だと感じていた。

「うん。長明君がそういうなら……」

 言い分の正当性もあって、結局彼女の方が折れて涙目でうなずく。これが最後の機会ではないのだから、きっと次があるのだから、少女は自分にそう言い聞かせて落ち着きを取り戻していった。

「じゃあ、最後にお茶でも一緒に飲みましょう。それ位なら良いでしょ?」

「うん。お茶一杯位なら付き合うよ」

 長明は、譲歩した相手への気遣いから、危険を意識しつつも、その程度の時間なら、という油断もあって素直に応じた。

「良かった。それじゃあ下で淹れてくるから、ちょっと待っててね」

「うん」

 恋人との次なる逢瀬が確定し、晶子は床に脱ぎ捨てた衣類を拾ってそそくさと身に付けると、踊るようなステップで部屋を後にする。取り残された長明は、未だ姿の見えないディアの安否に思いを馳せながら思い溜め息を吐いていた。


「長明君、お待たせ」

 長明が思っていたよりも早く、右手にお盆を乗せた少女が戻ってきた。盆の上には急須と二つの湯呑みが乗っていて、湯呑みからは白い湯気が立ち昇っていた。

 ドアを閉めてから晶子は盆を両手に持ち直してお茶を溢さないように慎重に歩く。そんな彼女を眺めている少年に、ふと疑念が沸き起こる。先程までこの部屋で進行していた桃色の事態。その目的は結界の張られた長明の着衣を脱がせる事にあったのではないか。そう考えると見事に辻褄が合ってしまう。

「あ、あっ」

「ん?」

 何者かの思惑についての思考は、突如として発生した食器同士のぶつかる音で遮られた。まさか、そんなまさか、と今にも転びそうな少女を見て長明は慌ててしまう。彼が敵の思惑に気付くのが少々遅かった。

 晶子が足をもつれさせて見事に転ぶのと同時に、熱い液体の入った磁器が長明に向けて殺到する。座布団の上でくつろいでいた少年がこれを即座に回避するのは不可能であり、結果、ジーンズと白いセーターに熱い緑茶が降り掛かった。

「ぅおあっちゃいぁっ!」

「あっ。な、長明君、ごめんなさい。えと、えと、今直ぐ拭くもの持って来るね」

 映画のカンフーマスターもかくやという凄まじい絶叫を発してのたうつ長明に、晶子は顔面蒼白で平謝りするや脱兎の如く部屋を飛び出す。残された長明の方も、急いでセーターを脱いでそれを丸めてジーンズに当てお茶の吸い出しを試みる。

 そうこうしている内に、手にタオルを持った晶子が緑茶の香りが充満している室内に駆け戻り、長明の傍らに膝を突いて茶で濡れた部位を丁寧に拭う。それでも、付いた染みは消えなかった。

「長明君、大丈夫? 火傷とかしてない?」

「あ、うん。多分大丈夫」

 今にも泣き出しそうな晶子に向けて、長明は努めて穏やかに答える。そして、気にしてない、という意思を伝える為の笑顔。少女はこの気遣いに、申し訳ないと思う反面、身体が震える程の喜びを感じていた。やはり、自分の目に狂いは無く、彼は恋人を大切に扱う温厚な紳士なのだ、と。

「本当に、本当にごめんね」

「そんなに謝る事ないよ。この位、何ともないから」

 和やかな雰囲気で互いを見合う両者。しかし、急に何かを思い出したかのように晶子の目線が長明の身体に向いた。

「あ、でも、服……」

「え? あ」

 言われて長明も下を覗き込む。セーターの下に着込んでいた白いシャツも青いジーンズも、隠せない程大きな染みが付いていた。鳳家に着く前に羽織っていた青いジャンパーで上は隠せるが、ズボンの方はどうにもならない。

「さすがにこの格好じゃ、家に帰れないよね」

「うん」

「えーっと。長明君は体格がお父さんに近いから、お父さんの服を着て帰ると良いよ」

「え、でも、悪いよ」

 晶子の厚意に少年は難色を示す。これは遠慮からではなく、服を脱ぐ訳にはいかない事情があるためだ。

「お茶を溢した私が悪いんだから、長明君が気にする事無いよ。シャワーだったら今直ぐに浴びれるから、汚れを落とすついでに着替えちゃえば良いんじゃないかな」

「……でも、えーと、その」

 晶子の言う通り、確かにこのままの格好では帰れない。さてどうしたものかと少年は懸命に考える。

「うん。分かったよ。言う通り、このままじゃ帰れないもんね」

 結局、自分で何とかするしかないと意を決して晶子の提案を受け入れる。決して自信がある訳ではなかったが、苦渋の決断であった。

「ふぅ、良かった。それじゃあお風呂場に案内するね」

「うん」

 ずっと不安そうに視線を下げていた少女がほっと安堵した表情でドアに駆け寄る。そんな彼女に少年はもっと大きくて深刻な不安を胸に抱きつつ後に続いた。


 二人が階段を下りると、晩御飯の準備を終えた志乃と鉢合わせになる。彼女は長明の格好を見て、顎が外れんばかりに驚いていた。

「な、長明君。どど、どうしたのその格好」

「あの、さっき持っていったお茶を長明君に掛けちゃって……」

 言われて口を開きかけた長明よりも先に晶子が答える。この素早さは、嫌な事を後回しにしない性格の賜物だった。

「まぁ大変。長明君、火傷とかしてない? あ、そうだわ。きゅきゅ、救急車を呼ばないと。えっと、番号は確か、117番だったわよね?」

「僕は大丈夫ですよ。火傷とかは多分していないと思います」

 事情を知ってから物の見事に周章狼狽する志乃に、今度は長明が説明を付け加えた。

「あ、そうなの? 本当に?」

「はい」

 心配そうに尋ねる志乃に、長明は微笑み混じりに答える。もちろん熱湯が掛かったのだから軽度の火傷は負っているが、少年には正直に答えて事を大事にする気は毛頭なかった。

「お母さん、丁度良かった。お父さんの服、長明君に貸しても良いかな? こんな格好じゃ帰れないだろうし」

「えぇ、それならもちろん大丈夫よ。じゃあ私が直ぐに用意するから、少し待っててね」

「あ、お母さん。私も手伝う」

「あら、そう。じゃあ、一緒にやりましょうか」

「うん。あ、でも、長明君にお風呂場の場所を教えないと」

「じゃあ晶子は案内が終わってから来なさい。私は先に準備を始めてるから」

「分かったわ。では、長明君。行きましょうか」

 そう言って先導する晶子に、そろりと志乃が近寄って肘で軽く小突いてからひそひそ話を始める。

「ちょっと晶子。長明君って凄く良い人じゃない」

「うん。彼ってとっても優しいんだ。それに、身体も結構筋肉質なんだよ」

「ま! 奥手だとばかり思ってたのに、やるじゃない晶子」

「え、えへへ……」

 志乃は最後に後ろの長明に笑い掛けると娘から離れる。残された晶子は赤面してうつむき、会話の内容が聞こえていなかった長明は訳が分からずに首を捻っていた。


「さ、ここがお風呂場です」

「うん。ありがとう晶子さん」

 鳳家の風呂場に続く脱衣場に通された長明は、早速物陰に猫が潜んでいないか神経質そうに見回す。しかし、用心の甲斐も無く、清掃の行き届いた広い室内には猫どころか鼠一匹居なかった。

「ここにある物は何でも使って良いから」

「あ、うん。ありがとう」

「脱いだ服は後で洗うからそこのカゴに入れておいて。それじゃあ、着替え、直ぐに用意するね」

 今やすっかり女房気分になった晶子が浮かれた声でそう告げると、相手が返事をする間もなくいそいそと脱衣場を後にする。残された長明は、ドアに耳を当ててじっと外の様子をうかがう。聞こえてくるのは晶子の足音だけで、それも次第に遠ざかってゆく。

 風呂場は位置的に一番奥にあり、長明には来るまでに通り過ぎた部屋が何に使われているのかは分からない。彼はそういう場所に敵が潜んでいる可能性も考慮していた。しかし、いくら待ってもしんと静まり返った廊下から物音が漏れ聞こえてくる事は無かった。

 少年は杞憂だった事に気付き、ドアから離れて着衣に手を掛ける。お茶の掛かった位置は実に絶妙で、服だけでなく下着にも濃緑色の染みが付いていた。長明は不安を抱きつつ脱いだ服をカゴに放り込む。術の掛かった服を脱ぐ事は、全く無防備になるのと同義であった。

 脱衣所で全裸になった長明は、脱いだ服から銀食器を取り出して浴室に向かう。曇りガラスの引き戸を開けた先には、五十鈴家のそれよりもずっと広い浴室が広がっていた。二人同時に入ってもまだ余裕のありそうな湯船に二対のシャワー。夫婦で入る分には丁度良いが、一人で使うには広すぎると少年は感じていた。

 鳳家では風呂を沸かすのは夕食後と決まっている為、浴槽に湯は張られていなかった。その空虚な入れ物の横で、長明は熱で赤くなった部位にシャワーで水を当てる。今日は色々あって少なからず汗をかいてはいたが、今はのんきに身体を洗う気にはどうしてもなれずにいた。

 日光を入れる為の小窓には鍵が掛かっており、入り口のガラス戸は相手の影が見える上に、開ける時にガラガラと大きな音が鳴る。この浴室に気付かれる事無く侵入するのは困難だと考えられた。ここまで考えて、ふと、さすがに疑心暗鬼が過ぎるのではと自嘲してしまう。猫は基本的に水を嫌うのだから、来たらシャワーをぶっ掛けてやればいいと気軽に考え直す事にした。

 長明が黙々と患部に冷水を掛けていると、ドアの開く音がして、曇りガラスの向こうに人影が現れる。途端に、少年の身体に緊張が走った。

「あの、長明君。着替え、ここに置いておくね」

 ガラス越しに届いたのは聞き慣れた少女の声だった。

「うん、分かったよ。ありがとう晶子さん」

「あ、あの、長明君……」

「ん?」

 晶子は何かを言いかけて口ごもってしまう。聞き返す声にも反応は無い。少年は少し怪訝そうにガラス戸を注視する。声は無くとも、曇りガラスに映る女性の影からは、緊張した息遣いと逡巡がありありと感じ取れていた。

 もしかして、浴室に入る気なのでは? そう感じた長明が、咄嗟に銀食器を風呂桶の中に隠す。しかし、気配がするだけで、一向に戸の開く様子は無かった。

「……あ、やっぱり何でもない。ごめんね長明君。じゃあ、私もう行くね」

「う、うん」

 再度ドアの閉まる音がして、脱衣場に人の気配が無くなる。ガラス戸を見遣っていた少年は、安堵と幾ばくかの心残りを抱きつつ水浴びを再開した。


 長明が浴室から出ると、脱衣場に据え置かれた洗濯機が作動音と共に振動していた。案の定、自分の衣類が入っていたカゴは見事に空になっている。晶子が気を利かせたのかもしれないが、別の理由によるものかもしれない。

 仕方なく用意された服に着替えてドアを開けた所、入り口の脇でずっと待っていた少女が控えめな笑顔で迎える。

「お父さんの服。やっぱり丁度良いサイズよね」

「うん。これなら問題無く家に帰れそうだよ」

 晶子は無遠慮に上へ下へと視線を動かすと、納得したように深くうなずく。このように気安い態度も、彼に対して完全に心をゆるしている証左であった。対外用の清楚な彼女も良いが、親しい者に見せる和やかな彼女も悪くない、少年は心底そう感じていた。それだけに、晶子の純粋な想いを疑わなければならない事態に、何ともやるせない気分が込み上げてくる。

 長明の着ている服は、チェック柄のシャツに灰色の布ズボンという無難なチョイスが成されていた。服装が地味な分、年に似ずなんとも落ち着いた雰囲気を醸し出している。これは、晶子ではなく志乃のセンスが色濃く出た結果であった。

「長明君。あのね。お母さんが、夕食も一緒に食べていかないか、って」

「え? 夕食……」

 時刻はすでに夕飯時。晶子の誘いは当然の事と言えた。当初は夕飯前に帰るつもりだった長明も、真正面から誘われて大いに悩む。そして、出した結論は。

「うん、分かったよ。じゃあ、晩御飯ご馳走になります」

「本当に? 良かったぁ。実はもう用意してあるんだ」

 もう日が完全に落ちている危険な状況で、本当なら相手にどう思われようとも、美人母子の誘いを断固拒否して全力で逃げ去るべき所なのだが、不思議と、ここで待っていればディアがきっと助けに来てくれる、そんな強い予感があって彼は魔窟に留まる決意をしたのだった。


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