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使い魔一年生  作者: 多文 亀之助
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第八話

 そして、一週間後、約束の当日、長明は前回晶子を駅まで迎えに行った時と同じ服装で家を出る。格好に関しては、気合が入りすぎて空回りしている晶子と違い、彼は自分の身なりに頓着しない性分だった。そして、手には唯一の持ち物である黒猫の潜んだ白いプラスチック製のペットケースが握られていた。

「さ、行こうか」

「はい」

 本日は快晴。出す声は緊張のために少し固くなっているが、前途には雲一つない晴天のように不安は無い。そんな船出であった。

 一人と一匹が電車に乗り込んだ後、しばらくして長明がペットケースに向けて声を掛ける。休日で乗客が少ないとはいえ、恐らく電車に乗るのは生まれて初めてであろう愛猫の様子が気になっていたのだ。

「ディア、大丈夫?」

「うぅ、はい。揺れが激しいですが、何とか行けそうです」

「うん。電車を降りるまでの辛抱だから、頑張って」

「はい……」

 幸いな事に目的の駅まではたったの二駅しかなく、両者は駅に着いた途端に電車から飛び出すと、一目散に駅舎を出て身近な木陰に隠れる。そうしてやっと、黒猫を狭いケースから解放する事が出来た。

「ディア、もう大丈夫?」

「はい。大分楽になりました。ありがとうございます」

「うん。じゃあ、これから晶子さんとの待ち合わせ場所に向かうから、目立たないように付いてきてね」

「了解です、マスター」

 主従はうなずき合うと、まずは長明から木陰の外に出てケースを駅入り口の貸しロッカーに入れる。その様子を眺めていた猫は、次いで、少し距離を置きつつ後に続いた。

 晶子が待ち合わせ場所に指定したのは、駅の近くにある公園の噴水前であった。普段から付近の住民に憩いの場として活用されているその公園は、高級住宅街だけあって広大かつ全体的に小奇麗で、公園中央に構える噴水の周りにあるベンチには、カップルやら家族連れやらが思い思いに腰を休めていた。その集団から少し離れた位置に、切れ長の瞳が特徴的なすらりと背の高い美少女が立っていて、少し辟易とした顔付きで噴き出す水を眺めていた。

 見付けたのは長明の方が先で、彼は見覚えある少女に小走りで駆け寄る。晶子の服装は、見兼ねた母親による熱血指導の甲斐もあって、飾り気の無い白のブラウスにベージュのカーディガン、そして上着と色の合ったスカートに皮のロングブーツといった、一見地味だが落ち着きのある物で、今回は大人びた外見と服のイメージが見事に合致している。その周囲から浮いた美貌が、本人の意に反して恋人以外の男を引き寄せてしまい、そのせいでうんざりとした顔をしていたのだった。だが、想い人の声に気付いた途端、かつての表情は吹き飛び、代わって、輝くような笑顔が満面に浮かんだ。

「し、晶子さん、お待たせ。あの、もしかして、待った?」

「え? あ、いいえ、全然。私も今来た所です」

 晶子は笑って答える。これは、もちろん嘘であった。約束の十分前に現れた長明に対して、彼女は一時間も前に到着していた。長明も彼女の様子から真実を読み取っていたが、敢えて何も言わずに行動を促す。

「じ、じゃあ、行こうか」

「はい」

 長明の提案に、頬を桜色に染め、はにかんだような笑顔で頷く少女。その純真無垢な仕草に、思わず少年の心臓が高鳴ってしまう。周囲から見ても明らかに不釣合いな彼氏彼女。ここでまた、これ程の美少女が何故自分なんかを、との疑念が沸き起こるが、直ぐに頭の隅に追いやった。

 二人並んで入り口まで整然と続いているポプラ並木を抜けると、一階部分が飲食店になっている雑居ビル群が姿を現し、そこを過ぎれば直ぐに住宅街が見えてくる。長明の住んでいる街とは違い、ベッドタウンとして完成している街並みは整然としていて、空き地や竹林などの不純物は存在しなかった。もし自分がここに住んでいたら、ディアと出会う事は無かったんだろうな、ふと、そんな考えが少年の頭をよぎり、愛猫の様子が気になって後ろを振り向く。すると、五メートル程後方で電柱の陰に隠れて頭だけ出している黒猫と目が合った。彼はその変わりない様子に安堵の溜め息を漏らして前に向き直る。

「長明君、どうしたの?」

「あ、いや、別に」

 あからさまに後ろを気にしていた恋人に、晶子がさも不思議そうに声を掛ける。聞かれて長明は、咄嗟に笑って誤魔化すと引き続いて当たり障りの無い会話を続けた。

 そんな折、どこからともなく小気味良いリズムの音楽と歌声が流れ出した。それは、長明が携帯電話の着信音に指定している物であり、当然ながら、それは彼が熱烈に応援しているアイドルグループの最新曲であった。少年は即座にズボンのポケットから携帯を取り出すも、直ぐにそれが音の発信源ではない事に気付く。音を発していたのは、晶子の持っている携帯だった。これは、もちろん長明がファンだと知ってから彼女が入れた物であり、何の迷いも無く即刻着信音に設定していた。

「長明君、ちょっとごめんね」

「あ、うん。気にしないで」

「……あ、もしもし、お母さん。……うん、うん……分かった。それじゃあ」

 話終わって携帯をしまうと、晶子はやれやれといった表情を長明に向ける。

「長明君、お待たせ」

「あの、今の電話、お母さんから?」

「うん。寄り道せずに早く帰りなさいって。本当、お母さんったら心配性なんだから」

「あ、そうなんだ」

 少年は晶子の顔を見て納得したように頷く。もしかしたら彼女の母親も智江と同じで、何かと子供に厳しい人なのかもしれないと考えていた。

 それから二人はさらに進み、住宅街を抜けて大きな国道にまで差し掛った。周囲にはガソリンスタンドや駐車場の付いた飲食店などが軒を連ね、道路を渡った奥には工場が立ち並んでいる。

(あれ?)

 さすがに少年は不審に感じて、隣の少女に目を向ける。彼女の実家がある筈の住宅街は国道を境に途切れており、直行するのであればこんな所まで来る必要は全く無かった。

 そして、彼氏から不審の眼差しで見られている晶子の方はというと、視線を気にする素振りも見せずに辺りを見回していた。

「あの……」

「あ、いたいた」

 少女は国道の端で停まっている黒塗りの個人タクシーを見付けると、喜び勇んで長明の腕を引く。あまりに突然の事で反応出来ずにいる少年を、華奢な筈の少女がそのか細い腕から信じられないような剛力を出してぐぐいと引っ張っていた。

 手遅れながら、事ここに至って、彼はようやく自分の身に迫る危機を察知した。公園を出てから、いや、母から電話を受けた直後から、晶子の行動はあからさまにおかしく、しかも、この怪力である。今、少年の頭の中では警鐘がけたたましく鳴り響いていた。

「さ、長明君。これに乗って」

「え、でも」

「いいからいいから。運転手さんはお母さんの知り合いだから、料金とかは気にする必要無いよ」

 そういって晶子は連れを車内に押し込むと続いて自らも乗り込んでドアを閉める。このタクシーは、ディアが主人を尾行してくると読んだ美雪が事前に用意した物だった。晶子に対する細かな指示もすでに電話で行っている。

 二人が乗車するや、タクシーは間髪を容れずに発進する。道路は、休日の朝という事もあって比較的空いていた。

(あ、ディア……)

 危機の最中、ふと、後ろから見守っているはずの相棒が気になり、少年は押し込まれた体勢から半身をひねって後ろに顔を向ける。そこには、ガラス越しに、必死の形相で全力疾走する愛猫の姿があった。ディアは、顔面蒼白な主の顔を見て瞬時に全てを理解する。敬愛する主人が毒婦に騙されて危機に瀕していると判じた瞬間、全身の血液が沸騰して総毛立つ程の怒りを覚えていた。その激情を脚に込めて猛烈に車を追跡する、が、しかし、いくら四本の足が千切れる程に追い掛けても、車のスピードに敵う訳もなく、無情にも黒猫の姿はみるみる小さくなっていった。

「く、車、止めて下さい。ば、僕の猫が……」

 長明は運転手の方に振り向いて必死に懇願する。しかし、当の運転所は彼の言葉が全く耳に入っていないかのように無反応だった。この時、少年は確信した、このドライバーも今の晶子と同じだと。そして、思い出す、最初の敵に襲われた時の智江も全く同じ様子だった事を。もうすでに、この醜悪な絵図を描いた黒幕の正体は明確であった。

「え? 何を言っているの長明君。猫なんて居ないよ」

 少年の狼狽し切った声は運転手には聞こえていなくても、隣の晶子にはしっかりと聞こえていたようで、彼女はさも不思議そうに小さくなってゆく猫を眺めながらそう告げた。可愛く首をかしげる少女の無垢で邪心の全く感じられない表情に、長明は却って恐怖心を抱いてしまう。正に、この場で正常なのは彼だけだった。

 瞬く間にすっかり追い詰められてしまった少年は、強引にドアを開けて外に飛び出そうとも考えたが、高速で走る車から降りても怪我をするだけで、その後動けなくなった所を二人に捕縛されるのが関の山だった。しかも晶子が左腕をしっかりと抱えており、自由な身動きさえ取れない。本来の彼だったら、こんな状況でなければ、腕に絡み付く少女の柔らかな感触を楽しんでいる所なのだが、今はとてもそんな気分にはなれなかった。

 そんな八方塞がりの状況の中、ようやく転機が訪れる。差し掛かった信号が赤に変わったのだ。運転手に課せられた使命は、信号無視をしてでも獲物を一刻も早く連れて来い、というものであったが、前方の車は既に止まっていて交差している青信号の道路にも車がある為、仕方なく停止する。

 タクシーの後部座席にて、早く来てくれと念じながら後ろを見ていた少年の目に、遂に待望の姿が現れる。それはまだ小さな点にしかみえない物だったが、確実に、かつ急速に大きくなっていった。

 そして、黒い弾丸と化した猫がトランクに飛び乗り、勢いのままに後部ガラスに背中ごと激突する。と、同時に鈍い衝突音が車内に響き、少年は愛猫が大きな怪我をしていないか不安で居たたまれなくなってしまった。そんな主人の心配をよそに、黒猫はふらつく身体を気合で引きずって、必死そうにガラスに爪を立てる。

「ふんにゃぁぁぁぁ~~」

 主従を隔てているのはガラス板一枚。だが、そのたった一枚のガラスが強靭に猫の行く手を阻んでいた。

「ディア! 魔力の手でガラスを壊すんだ」

「ふにっ?」

 今一番有効な手段にいつまでも気付く様子の無い黒猫に対して、長明は愛猫に届けとばかりに大声を張り上げる。直ぐにディアも主の考えを理解したものの、あからさまに困惑した表情で魔法の発動を戸惑ってしまう。今、魔法でガラスを破れば、鋭利なガラス片が主に殺到してしまう、それはディアにとって何よりも避けたい事態だった。

「僕は大丈夫だから、早くっ!」

 猫の懸念を察した長明が再度叫ぶと、決意の眼差しで頷く。しかし、結局、このほんの数秒の躊躇が命取りとなり、車は信号が青になる直前に急発進して対向車線に飛び出すや前方車両をごぼう抜きにしてしまった。その際、当然手掛かりのないトランクの上に居た黒猫は振るい落とされ、着地も上手く出来ずにアスファルト上に転がり落ちてしまう。その拍子に怪我をしたのか、周囲には小さな血痕も見受けられた。

「ディアっ!」

「ディア? 後ろには何も無いけど……」

 少年は思わず愛猫の名を呼ぶ。そんな彼氏の様子を、隣の晶子は心底不思議そうに眺めていた。彼女の目には、今まで切迫していた黒い猫が全く映っておらず、遠ざかる姿にも注意が向く事は無かった。

 タクシーは晶子と来た方向からは真逆の方向に進んでゆく。つまり、今までは目的地と逆方向に案内されていたのだ。これは、今に至る事柄全てが、最初から計画されていたという事実を少年に突き付けていた。

 少年は猫が完全に見えなくなった後も、目を離す事が出来ずに悲痛な顔で後方を見続ける。自分が甘かった。もっと、常に敵が策動している事を警戒すべきだった。そんな後悔ばかりが後から後から際限無く湧き上がって来る。

 第一、特に男性的な魅力を持たない自分がこれほど極上の美少女に好意を向けられる事自体が不条理であり、少年も最初は違和感を覚えていたが、直ぐに都合の良い事態を受け入れるようになっていた。女性経験の無い人間が舞い上がってしまうのは仕方のない事とはいえ、最初の疑念をあっさり捨てて何ら用心しなかった事に深い悔悟の念を覚えると共に邪魔者扱いした忠実な使い魔に対して申し訳ない気持ちになってしまう。そんな想いが胸中に渦巻いている少年は今、まだ見ぬ敵の操り人形である美しい彼女に抱き締められながら、静かに絶望の淵へと沈んでいた。

 車は順調に進んでいる。相変わらず運転手は無言。当然脱力し切った長明も無言。そんな中、晶子だけが心底嬉しそうに隣の彼氏に少女の色々を語り続けていた。


 タクシーは信号無視を織り交ぜつつ、時間にして十分程で目的地に到着した。

「さ、着いたわよ長明君」

「う、うん」

 彼女にそう告げられ、引きずられるように車外に出た後も、もしかしたらと思い周囲を見回す。しかし、少年の期待も虚しく、愛猫の姿は影も形も無かった。

 使命を終えて走り去るタクシーの排気を浴びながら二人が向かう先には、隣接する家並みよりも一回り大きな豪邸が居を構えていた。家屋だけでなく、四周を囲む石塀や門の造りも見るからに堅牢で格式の高さを明示している。

 この、高級感漂う立派な家が、恐ろしい魔物が潜む伏魔殿なのは確実であり、守護者を失った長明は身体の奥から来る震えを抑えきれずにいた。そんな彼氏の状況にも少女は一切気を払う事無く、抱き付いた左腕を玄関口まで引きずってゆく。

「お母さん、ただいま」

「あー、はいはい」

 長明を抱いたまま器用に片手だけでドアの鍵を開けた晶子が、玄関口から廊下の奥に声を掛ける。すると、何とものんびりとした女性の声が返ってきた。

 奥からひょっこりと顔を出したのは、娘に負けず劣らずの美貌を持った母の志乃であった。親子でも、切れ長の瞳が特徴的でどこか怜悧な印象のある娘とは違い、少し垂れ気味の目に温かな眼差しをたたえた彼女からは相手を包み込むような母性が滲み出ていた。

 その温厚そうな美人が、興味深げに目を輝かせて娘の連れてきた彼氏を観察している。その、とても十六歳の娘が居るとは思えないような若々しさと草色のセーターを押し上げる豊満な胸、水色のスカートから伸びる肉付きの良い素足、そしてほんわかとした雰囲気と見事に同居している甘くて柔らかい熟れた果実のような色気、それら、当の本人がほとんど自覚していない女性的魅力にすっかり当てられてしまい、初心な少年は危機を忘れて思わず赤面して視線を逸らしていた。

「晶子、この人が?」

「うん。今、お付き合いしている、五十鈴長明君です」

「あ、どうも、五十鈴です……」

 晶子に紹介され、いかにも挙動不審な様子で会釈をする長明。そんな彼の様子を眺めている志乃の方も、彼に負けない位に挙動不審だった。

「えーと、あの、私、どうしましょう。ねぇ晶子、私どうしたら良いと思う?」

「お母さんったら、もぅ……」

 正にしどろもどろといった風で娘に縋るような眼差しを向ける母親に対して、当の娘は少し呆れながらも口を開く。志乃は晶子から事前に彼氏を連れて来る旨を聞いてはいたが、いざ実際に対面してみると、愛娘の想い人とどう接して良いのか分からずに困惑してしまう。既婚の母親でありながら、箱入り娘だった志乃は異性というものに全く慣れていなかった。

 出会ってからこっち、敵の支配下にあるはずの母子の会話は自然体で見ていて心温まる物であった。果たして、鳳家の家族が普段と大差ないように見えるのは何かの策謀か、少年は少し分からなくなってきた。もしかしたら、彼女は方向音痴の上に元から怪力で、あのタクシー運転手は極端に無口なだけだったのかもしれない。そんな希望的観測が胸に広がってゆくのを止められなかった。

「えーっと。とりあえず、お母さんはお菓子とジュースを用意してくれるかな」

「お菓子? お飲み物? え、えぇ、分かったわ晶子」

 娘に指示に母親ははっとなって、どこかぎこちない笑みを残して奥の台所に戻ってゆく。その、揺れる尻肉に目を奪われていた長明は、晶子に左腕を抱かれる事で現実に引き戻された。

「さ、長明君、私の部屋に行きましょうか」

「あ、うん」

 彼女の誘いに長明は唯々諾々と従う。もしかしたら、この先に此度の元凶である魔物が潜んでいるかもしれない。そう思うと、少年はどうしても恐怖で身体が強張ってしまう、のだが、まだ、最後の命綱が残っていた。彼は結界の染みたこの服さえ着ていれば大丈夫、絶対に大丈夫と自分に言い聞かせながら慎重に階段を上っていった。


 ◇ ◇ ◇


 うら若きカップルが階段を上っている頃、遠く離れた国道沿いで一匹の黒猫が頭を垂れてひょこひょことぼとぼと歩いていた。

「マスター。マスター……」

 時折うわ言のようにつぶやく言葉に力は無い。

 歩き方がぎこちないのは、右前足に負傷がある為であり、肉球の形をした血の足跡が猫の後方に続いている。それでも、黒猫が歩みを止める様子は一切無かった。

「マスター、必ず、必ずお救い致します……」

 漏れた決意の言葉にも生気は感じられず、深い悲壮感が漂っていた。

 凝固した血で赤黒く染まった足をかばうように歩く姿は、当ても無く彷徨っているようであり、遮二無二になって標的を目指しているようでもあった。


 ◇ ◇ ◇


 長明が晶子に連れられて入った部屋は、過度な装飾もなく小奇麗に整頓されており、長明の部屋よりも幾分か広い室内には、見るからに質の良い木製の寝具や机、本棚等が絶妙な配置で並んでいた。そして、白い壁紙の上には、真新しい『のどごし生娘』のポスターが燦然と存在感を誇示している。

「さ、長明君、どうぞ」

 部屋の主に招き入れられ、長明は同年代の少女の自室に生まれて初めて足を踏み入れる。室内に入った途端、控えめな芳香剤の香りと染み付いた美少女の香りが鼻腔をくすぐるが、少年にはどうしても浮ついた気分にはなれなかった。この男子にとって絶好の状況を素直に喜べない事が、少年には只々悲しかった。

 少年は物珍しそうに辺りを眺めながら、ズボンのポケットに手を入れて中にしまってある銀食器を確認する。もし、敵が目の前に現れたら、先手必勝の信念で襲い掛かる腹積もりであった。しかし、心の奥底では、全てが勘違いであってほしいと切に願ってもいる。もしも今現在が敵の術中だとすると、かなり狡猾で用意周到なのは明らかであり、素直に姿を現すのは勝ちを確信した後だろうと思われた。

 長明あ直ぐにでも逃げ出したい欲求を我慢して、努めて冷静に状況分析を試みる。これが敵の策略だとして、こんな搦め手を使ってまで自分を誘い出した目的は何か。それは、弱い主人の方を人質に取って上位であるディアの抵抗を封じる事であろうと直ぐに考え至った。そうであるならば、少なくとも問答無用で殺すような真似はしないだろう。それに、猫が犬のように匂いを追う事が出来るかは分からないが、もしかしたらディアが助けに来てくれるかもしれない。そうなれば形勢は完全に逆転して、晶子を敵の魔術から救い出す事も叶う。そういう思惑もあって、少年はもうしばらくここで様子を見る決心をした。

 とりあえず、手先かもしれない晶子から不審に思わないように慎重に警戒しつつ、彼女と普通に会話する為の材料を探す。幸い、それは目立つ所に存在した。

「あ、あのポスター」

「はい」

 長明の指摘に、晶子は恥ずかしそうに微笑んでゆっくりと頷く。白い壁には、長明が愛して止まないアイドルのポスターが貼り付けられていた。率直に、今はそんな些事にかまっている精神的余裕は無かったが、少年は怪しまれずに時間稼ぎをする為にも共通の話題を足掛かりにして何とか会話を広げようと思案する。またしても幸いにして、このアイドルに関する話題には事欠かなかった。

「このポスター、先月出たばかりのやつだよね」

「はい。この前長明君と『のど生』について語り合ってから、つい私も欲しくなっちゃって……」

「そうだったんだ。それにしても、ジョッキ片手にこの笑顔、本当に良いよね。何だかさ、最近『のど生』らしさが戻ってきた気がするんだ」

「そう。そうなんです。私も、昔に、のどごしナンバーワン! って叫んでいた頃と同じ笑顔だったから、思わず買っちゃいました」

 砂浜をバックに白いビキニ姿で笑うアイドルのポスターを眺めながら、表面上はのどかに会話を進める二人。しかし、心底楽しそうな晶子とは裏腹に、長明の方はいつ来るかもしれない恐怖と人知れず戦っていた。

――コンコンッ――

 のどごし生娘談義も一段落して、さて次の話題はと少年が思案を巡らせていると、誰かが階段を上る音が近付いてきて、次いでドアをノックする乾いた音が室内に響いた。

「晶子、お菓子持って来たわよ」

「はぁい」

 戸の奥から少し緊張気味な母の声が届き、晶子がそれに応じる。娘がいそいそとドアを開けると、そこには両手に菓子と飲み物が乗ったお盆を持って、ぎこちない笑みを浮かべている志乃の姿があった。

「はい、これ。お代りが欲しかったらいつでも言ってね」

「うん。ありがとう、お母さん」

 そう晶子はお礼をいって盆を受け取る。そして荷物を渡した志乃はひょっこりと部屋を覗き込んで。

「あ、あの、五十鈴君だったかしら。どうかゆっくりしていってね」

「もぅ。お母さんったら、余計な事言わないの」

「はいはい、ごめんなさい。では邪魔者は帰りますね」

「まったくもぅ」

 娘と話している内にすっかり緊張が解けてしまった志乃は母の役割を終えた充実感から、娘の恋路を温かく見守るような笑顔で戸を閉める。一方、残された娘の方は、火の出るような赤面でうつむいていた。

「色々とごめんね長明君。じゃあ、お菓子も来た事だし、座りましょうか」

 晶子は苦笑いを浮かべて部屋中央にある四角いテーブルに盆を乗せると、側に用意してある座布団を勧める。無意識にくつろぐ事を避けていた長明の方も、入り口前でいつまでも立ち話をする訳にもいかないと改め、窓も戸も死角にならない位置に腰を降ろした。

 その直後、部屋の外、丁度階段の方から、何やら話し声のうなものが少年の耳に届く。長明が聞き耳を立てると、どちらも女性の声で、一方は今別れたばかりの志乃、もう一方は若くはつらつとした少女の声だった。

「あら美雪。どうしたの?」

「今、お姉ちゃんの彼氏来てるんでしょ?」

「えぇ、そうだけど、まさか会うつもりじゃないでしょうね」

「えーと、少し見るだけだから」

「美雪ったらしょうがないわね。くれぐれも、お姉ちゃんの邪魔しちゃ駄目よ」

「うん。分かってる」

 その返事を最後に階段を上る音が強くなっていき、軽い足音が部屋の前まで来るとピタリと止まる。次いで、戸を叩く音が室内に響いた。

――コンコンッ――

「お姉ちゃん、入って良い?」

「なっ、美雪。何しに来たの。今は……」

 ドア一枚挟んだ奥から届く快活そうな少女の声に、晶子は慌てたような声色で応える。長明は漏れ聞こえていた会話から、この子は多分晶子の妹なのだろうと判断していた。

「えーっと、ちょっとお姉ちゃんの彼氏を見に。じゃあ、開けるね」

「ちょっ、ちょっと待」

 晶子が止める間も無く戸は開かれ、出来た隙間からショートヘアの可愛い少女が室内を覗き込んだ。そして少女は、直ぐに好奇心のこもった眼差しを長明に向けると、輝くような満面の笑顔を浮かべる。

 美雪と呼ばれた少女は、長身の晶子とは違い小柄で華奢なのだが、笑顔の似合う快活そうな顔付きと白い半袖シャツと青い短パンに身を包んだ細身の肢体は、いかにも躍動しそうな健康美に溢れていた。

「あ、長明君。この子は妹の美雪です」

「あ、そうなんだ。初めまして美雪ちゃん。えと、僕は晶子さんの友達の五十鈴長明っていいます。よろしくね」

「えへへ。こしらこそよろしくです、長明さん」

 長明はこの元気な少女が晶子の妹だという事に疑問を抱かなかった。それは、使い魔が昼間から堂々と人に化ける筈も無いと考えていたからだった。

「長明さん、何だか良い人そうだね。安心、安心。じゃあ、またね、未来のおにいちゃん」

「ち、ちょっと美雪。あなた何言って」

 妹に対して晶子が突発的に文句を言い終わる前に、来た時と同様、美雪は突風のように退室してしまった。すっかり取り残された格好の二人は、長明は苦笑いを浮かべ、晶子はまたもや赤面して何やら口篭もっていた。


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