第七話
晶子の心に恋の炎が点ってから、彼女は書籍やネットで恋愛関係のHou‐toを読み漁り、恥を忍んで友人達にも相談して、諸々によって二日が経過した後。
長明が普段通りの足取りで校門前に到着すると、珍しく小さな人だかりが出来ていた。彼は何だろうと思い、急ぎ足気味に近付いてゆく。するとそこには、高嶺の花として有名な女学園の制服を着た少女三名が並んで立っており、そわそわとした仕草で誰かの到着を待っている様子だった。
その内の一人、眼鏡をかけた地味そうな少女と校門前に到着した長明との目が合った途端、眼鏡女の方がはっとして肘で隣の少女を小突いた。間を置かず、友人に突かれた少女も少年を見付け、真っ赤に頬を染めて真剣そのものといった眼差しを向ける。三人の真ん中で一人の男子学生を見詰める少女は、他の二人よりも背が高く、細身で、艶のある真っ直ぐな長髪を風になびかせていた。その様は、少年が思わず見惚れる程に清楚で可憐であった。
まさかこんな美少女が自分に用があるとは思っていなかった長明は、友人二人を引き連れて一直線に駆け寄ってくる女学生を呆然と眺める事しか出来なかった。
「あ、あのっ! 突然でごめんなさい。これ、私のメアドです。もし、その、もし良かったら後で連絡下さいっ!」
状況が理解出来ずに立ち尽くす少年の鼻先で、うら若き乙女が緊迫した面持ちで、荒い息と共に乾坤一擲の言葉を吐き出す。そして、胸ポケットに用意してあった紙切れを前方に突き出した。
「あ、うん。分かった、よ」
美少女の気迫に押される形で長明は震える手で四つ折りに畳まれた白い紙を受け取る。直後、少女は心底安堵したような顔で溜め息を漏らしていた。
「そ、それではこれで。連絡、待ってますから」
最後にそう言葉を搾り出して、少女は踵を返すと、友人達と小走りになって離れてゆく。並んで女子校に向かう彼女達一行からは、勇者の健闘を称える黄色い声が響いていた。
その後ろ姿を見送りっていた少年が、はっとなって周囲を見回す。もう、すでに、彼は完全に注目の的となっていた。好奇、戸惑い、そして嫉妬、それら諸々のこもった視線が渦となって少年を取り囲んでいた。
もうこの場に居ない少女に代わって今度は長明が羞恥に耐える番で、彼は俯きながら周囲の目から逃れるように校門を後にするのだった。
「お、来やがったなヒーロー」
長明がやっとの思いで教室に入ると、にやけ面の級友が声を掛けてきた。隣の席に座る彼の友人Aは、信じられないといった顔付きのクラスメイト達と異なり、明らかに事態を楽しんでいる様子だった。
この学校では、席替えの際に交渉による席の交換が認められており、このように友人同士で隣り合う事が可能となっていた。
「校門にいた娘、すっげー可愛いかったよな。しかも、かの有名な名門女子校の生徒ときたもんだ。おい長明、一体どこで知り合ったんだよ」
「え? いや、僕も記憶に無くて、ちょっと戸惑っていたりしてるんだけど……」
クラス中から集まる視線に居たたまれない気分になりつつも自席についた少年に、早速友人Aの質問が飛んで来る。その問答に周囲の生徒達も固唾を呑んで聞き耳を立てていた。
「あの子ってさ、一年生の中では一番可愛いって噂だよ。本当に、どんな魔法を使ったんだか」
今度は後ろの席からも声が掛かる。長明が声に応じて振り向いた先には、自称事情通で、彼のゲーム仲間でもある友人Bが居て、好奇心からたまらずに会話に参加してきたのだった。
「あぁ、そうなんだ。確かに凄く可愛いけど、全然会った記憶が無いんだよね」
「何だよ、随分つれないな。俺はてっきり、お前が不良に絡まれているあの美少女を救ったに違いないと思ってたのに」
「そんな、ゲームじゃないんだから。実際にそんな都合の良い事件なんて起きないよ」
「助けたんじゃないとすれば、お前、他にあんなお嬢様に好かれる理由なんて無いだろ」
「一目惚れ、とかじゃないの? 出会い系イベントが無かったとすれば、もうそれしか考えられないよ。うん」
「うーむ、一目惚れ、ねぇ。にわかには信じられんが、まぁ、そうなのかなぁ」
そう言って隣の友人Aが不思議そうに唸る。全く失礼な物言いではあるが、不思議という点では長明の方も同じ気持ちだった。
「よし! 話は分かった。で、長明大先生! もし、彼女と上手くいったら、その、何だ、彼女の友達とかを紹介してくれよな。な?」
「あ、僕も、僕も」
会話を仕掛けた彼の真の目的は、正にこれであった。遂に明かされた予想通りの真実に、長明は辟易したような苦笑いを浮かべる。
「えー、でも」
「ここまで来たら、目指せよ、勇者王」
「うーん……」
この男子の園では、彼女持ちを勇者、そして彼女の友人を仲間に紹介する猛者を勇者王と呼んで崇め奉っていた。熱意と欲望に溢れる友人達にそう頼まれても、いまいち自信を持てない長明は生返事を返す事しか出来なかった。
本日の授業も終了し、長明は友人達の歓声と好奇の視線に見送られて教室を飛び出す。そして、まるで盗人のように周囲を見回してからトイレの個室に身を隠すと、そそくさとメモ紙に書かれたアドレスにメールを送った。
件の女学園とは下校時間が一致している為、返事は即座に返ってきた。メールの着信を知らせる画面表示を見て長明はごくりと生唾を飲み込むと携帯のメールを開く。モニターに映る文字には、相手の感謝が痛いほどに込められていた。
最初は挨拶と自己紹介から始まり、早速長明は次の返信メールに、晶子が自分に興味を持った理由への問いを打ち込む。これは彼が最も気にしていた疑問であり、真っ先に聞かねばならないと思っていた事だった。
彼女の返答はたったの一文『一目惚れです』であった。
理由としては至極真っ当、であっても、少年の心から違和感が消える事は無かった。しかし、男としては嬉しくない筈も無く、長明も美少女との遣り取りに本腰を入れ始める。
そして、何度かの遣り取りの末に両者の出した結論は、一度直接会って話をしよう、という物であった。かの女子校が不純異性交遊を厳しく禁じている事は有名な話であり、他校生である彼の耳にもその情報は入っていた。で、あれば、会うならば私服に着替えた後に、学校から離れた場所で、という風に気を回す。しかし彼女は。
晶子が出した返答は、今から長明の家に直接お邪魔したい、という旨の要求だった。これには長明も驚いて、家に来るのは良いけど、それは明後日の休日に、といった内容の返事に加え、明後日に駅前で落ち合いましょう、と追記も送る。相手も自らの性急さに気付いて、謝罪と共に了承した。
画面のメールに目を通し終えて、少年は再び疑念に囚われる。いくらなんでも無用心だ、と。まだ長明がどんな人物か知らないのに、メールアドレスを教え、あまつさえ一人で部屋に来るというのだ。もし、長明が、羊の皮を被った狼、のような人物だったなら、自分がどうなるか知れた物ではないと考えないのだろうか。少年は、彼女のあまりにも乏しい警戒心に違和感を深めるも、恐らくは異性と付き合った経験が希少な故であろうと自分に都合良く結論付けていた。
メールで二人が約束を交わした当日、待ち合わせ場所の駅前広場にて、青い薄手のジャンパーにジーンズ姿の長明が、そわそわした面持ちで神経質そうに何度も時計を確認していた。彼は約束の三十分も前に到着し、もうかれこれ十分もの間こうして不審な挙動を繰り返していた。
少年にとって一分が十分にも感じられるような苦行の末、約束の十五分前になって、ようやく待望の人物が姿を現す。その待ち人は立ち尽くす長明を認めると、可憐にはにかんで小走りに彼の方へと近付いていった。
駅舎を出た少女は、襟周りにフリルのあしらわれた薄桃色のワンピースを着て、上には白のカーディガンを羽織っており、下は素足に白のパンプスという出で立ちだった。それらは、いかにも若年の少女が好みそうなデザインでまとめられており、持ち主の隠された少女趣味を体現するものであった。少女の格好を見て長明は、確かに可愛いけれど、背が高くて大人びた顔付きの彼女にこの服装はあまり似合っていないと感じていた。
晶子は長明に向かって一直線に駆けていき、正面で足を止めて少し息を整えてから改めて口を開く。
「あの、お待たせしました」
「あ、いや、僕も、今来たばかりだから、その、全然、待ってないよ」
広場中央にある前衛的なオブジェの元で初々しく互いに赤面し合う両名。空は雲一つ無い秋晴れで、穏やかな日差しがまるで二人を祝福しているかのように降り注いでいた。
「その、こんにちは、五十鈴君」
「う、うん。こんにちは、鳳さん」
もうすでにメールで名乗り合っている少年少女は、確認の意味も込めて軽い挨拶と共に名を呼び合う。さすがに二人ともまだ知り合ったばかりであり、交わす言葉も口調もまだまだぎこちない。
とりあえずの挨拶が終わると、どちらも異性との交際経験が皆無に等しい上に、未だ趣味に関する情報も共有していないという事情から、相手と何を話せば良いか分からずに押し黙ってしまう。これではいかんと先に口を開いたのは少女の方だった。
「あの、ここで話すのも何ですし、どこか落ち着ける場所に行きませんか?」
彼女の言葉を受けて、少年はゆっくりと周囲を見回す。駅前広場とはいえ休日は人通りがまばらで、目立つオブジェの前で立ち話をしているのは二人だけだった。これでは、付近に顔見知りが居れば直ぐに見付かってしまう。そう思った長明は即座に同意した。別に自分は困らなくても、晶子の方は都合が悪いと分かっていたからだ。
「うん、そうした方が良さそうだね。でも、うーん……」
当初は、直接会って相手の真意を確かめてから、可能であれば要求通り自宅に案内する、という計画だったものの、彼女の意思を問う前に移動する事になってしまい、腹案を用意していなかった少年は大いに迷った。それは、駅前の店に行っても発見される危険はさほど変わらず、ひとたび駅前を外れるとコンビニ以外に商業施設が存在しない為であった。だからといって、知り合ったばかりの少女をいきなり家に誘うのにも抵抗があって、長明は行動を決め兼ねてあれやこれやよ迷ってしまう。
「私は、静かで、人目の無い所ならどこでも……」
眉根を寄せて唸っている長明に、晶子は助け舟を出すつもりで提案する。しかし、素直な言葉とは裏腹に、切れ長の瞳はある期待で輝いていた。少年にはその目が、私を家に連れて行け、と語っているようにしか見えなかった。
「あ、うん。それじゃあ、いきなりだけど、僕の家に行く?」
「はい。五十鈴君が良いのなら、是非」
そう言って晶子は心の中でガッツポーズを取る。ただ、喜色に満ちた表情や仕草から、長明にも心情は十分に伝わっていた。そして、彼女が良いのなら、と少年も決意を固める。
「分かったよ。じゃあ、行こうか」
「はい」
長明は抜けない緊張を引きずりながらも何とか歩を進め、晶子は若干左後ろに並んで先導に従う。
道中、一目惚れに至った経緯がずっと気になっていた長明は、隣の少女に思い切って尋ねてみる。不可思議な事に晶子は即答をせずに、記憶の糸を手繰るような表情をした後、通学途中に見掛けたから、と自信無さ気につぶやいた。それを聞いた彼は、なぜ今になって? という疑問を咄嗟に飲み込む。晶子が高等部に進学して学園に通学するようになってからもう半年が経過しており、長明に覚えは無くとも彼女とは今までに何度もすれ違っている筈だった。
ただ、この時は単に、少女の恋心は複雑怪奇、としか少年は考えていなかった。それからは話題を変えて、軽くお互いの経歴や家族について語り合いながら、二人並んで五十鈴家へと向かうのであった。
「ただいまー」
長明が固い声を搾り出しつつ玄関に入ると、事前に友人が来ると伝えられていた智江がお茶の間から顔を出す。
「あ、おかえりなさい、長明…………はぅあっ!?」
智江は息子の傍らで控えめに立っている可憐な少女を見て、あまりのショックに思わず絶句してしまう。長明から友人を連れて来るとは言われていたが、まさかこんな美少女だとは思っていなかったのだ。これは、長年息子と暮らしていた彼女にとって驚天動地の出来事であった。
「なな、長明。こちらは?」
「お母さん。そんなにジロジロ見たら失礼だよ」
息子に苦言を呈され、母親は我に返る。対して少女は、智江の無遠慮な視線に、羞恥のあまり頬を染めて無言でうつむいていた。
「あ、ごめんなさい。私ったら、つい……」
「あ、いえ、私は別に気にしてませんから」
「えーと、こちらは、その、友達の鳳晶子さん」
「初めまして、五十鈴君のお母さん」
そう言って晶子は智江に向けて礼儀正しくお辞儀をする。その所作だけを取っても、彼女が上品で躾が行き届いている人物という事が十分に伺えた。
「まぁ、随分と行儀の良い。鳳さん、これからも長明と仲良くして下さいね」
「もぅ。お母さん止めてよ」
母の物言いに、長明は恥ずかしそうに口を尖らせる。智江も、元教師という経験上、こういう言い方は嫌がられると知りつつも、友人として、否、恋人として申し分のない清楚な女性に、親心から言わずにはいられなかったのだ。
「あ、僕の部屋は二階だから。じゃあ、行こうか」
「はい。おじゃまします」
長明は靴を脱いで二階に上がる前に、ふと居間を覗く。そこには、ソファーの上で尻尾を剣のように振りながら時代劇に釘付けになっている黒猫の姿があった。
「後でお菓子とジュースを持って行くわね」
「あ、うん」
どこかそわそわして落ち着きが無い母親に一つ頷くと、少年は美少女を連れて二階へと上っていった。
二階に上がった長明は、緊張の面持ちで自室の戸を開けると、後ろの晶子に向き直る。その表情はカチンコチンに緊張していた。
「こ、ここが、僕の部屋です」
そして、上ずった声でそう告げてから部屋に入った。
「おじゃまします……」
長明の後に続いて、晶子も彼の牙城へと歩を進める。彼女は、別に忍び込む訳でも無いのにそろりとした足取りで中に入り、廊下を一瞥してからドアをゆっくりと閉めた。
室内は、少年が今日の早朝からこれ以上ない程に丁寧かつ執拗に清掃をした為、輝かんばかりに綺麗であった。生まれて初めて父親以外の男性の部屋に入った少女は、もの珍しそうに辺りを見回して熱のこもった溜め息を漏らす。彼女が長明に恋心を抱いた時からずっと夢見てきた願いが、一つ叶った瞬間だった。
「あ、遠慮せずに、好きな所に座って」
長明は部屋の奥まで来ると、強張った身体でクルリと回れ右をして座を勧める。彼の性分なのだろう、用意周到な事に床には座布団と脚畳み式の丸テーブルが置かれ、机の椅子も引かれていた。
「はい。えぇと、では……」
言われて彼女は少し迷ってしまう。普通に考えれば用意された座布団に座る所なのだが、晶子は長明の気遣いに感謝しつつも、彼の言う、好きな所に、という言葉に甘える事にした。
少女は羞恥で目を伏せ、上目遣いに相手の様子を伺いながらベッドの上に腰を降ろした。そして、彼がこの不躾で大胆な行為に不快を示さなかった事に心底安堵する。対する長明は美少女が自分の寝具に座ったのを認めると、内心ドギマギしながらも勤めて平静を装い机の椅子に腰掛けて彼女と向かい合った。
どうして晶子はわざわざベッドを選んだのかというと、長明が愛用している布団に触れて、染み付いた愛しい人の匂いに直に接したかったからだった。次に彼女は、柔らかな寝具に深く腰を沈めて、人心地ついたように大きく息を吸う。布団のシーツは新たに取り替えられていたが、かすかに舞っている長明の体臭が鼻孔をくすぐり、少女はうっとりと顔をほころばせていた。
長明の方は長明の方で、彼女から漏れる石鹸に似た甘い香りや、スカートから伸びる生白い脚に、どうしようもなく顔を赤熱させていた。
「で、さ、あの……」
たとえ同年代の女子と一体何を話せば良いのか分からなくとも、一生に一度の大チャンスを前に黙っている訳にはいかない、と、長明が意を決して口を開いた所で、母親の呼ぶ声が耳に届いた。
「長明、お菓子持ってきたわよ。開けて頂戴」
「あ、うん。今開けるよ」
母に呼ばれた少年が慌てた様子でドアに駆け寄ってノブを捻る。開いた扉の先に佇んでいる智江は、クッキーの詰まったボールと氷入りグラス二つにコーラのペットボトルが乗ったお盆を両手に持って、にこやかにベッドに座る少女に向けて軽く会釈してから前に立つ息子にお盆を渡した。
「お代りが欲しかったらいつでも言いなさいね。あ、それと、鳳さん。遠慮なんかせずに、どうかゆっくりしていって下さいね」
「あ、はい。ありがとうございます」
「もぅ。お母さんったら、変な事言わないでよ」
「では、ごゆっくり」
息子の文句も全く意に介さず、智江はにこやかな表情を崩す事無くドアを閉めた。取り残された格好の長明は、気を取り直して丸テーブルにお盆を乗せ、ボトルのコーラをグラスに注ぐ。晶子も直ぐに気を回して座布団に移動すると、少年の給仕が終わるのを静かに待った。
「さ、どうぞ」
「は、はい」
二つのグラスにジュースを注ぎ終えた長明が、晶子の対面に腰を降ろして未だぎこちない笑顔で卓上の物を勧める。直ぐに晶子も緊張を解す為にコーラを一口だけ飲んで喉を潤すと正面を見据えた。四日前からずっと恋焦がれてきた男性の顔が間近にある、そう思うだけで、少女の胸からは熱い感慨が込み上げてくるのであった。
「ああ、あのっ! 五十鈴君。わ、私……」
言いかけて、少女はうつむいて口をつぐむ。長明には彼女が何を言わんとしているのか大体分かってはいても、黙って見守る事しか出来なかった。
「私……五十鈴君の事が、好きです……」
最後は消え入りそうな声ながらも、遂に恋する少女は自らの想いを言い切った。そして、どうだ、と言わんばかりに顔を上げて想い人に向き直る。晶子の真摯な眼差しを受けて長明は生唾を飲み込む。次は、少年が応える番だった。
「えぇと、その、僕も、凄く嬉しいです。鳳さん可愛いし……」
場の緊張感に押されて、恥ずかしげに頬を掻きながら長明も本音を吐露する。まだ知り合ったばかりで晶子の人柄も分からず、彼女のように深い恋愛感情は抱いていないものの、外見は自分には不相応な位に美しく、言動にも気品があり、率直に、そんな人物から好意を寄せられる事は少年にとって望外の喜びであった。
「ほ、本当ですか? う、うれしい」
長明の少し曖昧な答えに、少女は感無量といった様子で瞳を潤ませ、泣き笑いのような表情になる。そして。
「で、ではですね、五十鈴君が良かったらなんですけど、えーっと、これからは下の名前で呼び合いませんか?」
「え? うん。僕は別に良いよ」
極度の緊張から脱しつつある晶子は勢いに無理矢理乗って少女漫画から得た知識を元に提案をする。これは、遠回しに恋人同士になったという事を示す行為で、それを知らない長明はあっさりと受け入れた。今までの流れは、正に劇中通りであり、もうすでに少女の中では完璧に恋人関係が成立していた。ここまで来れば、後は一気にレディースコミックの領域まで………少女の夢は際限無く広がってゆく。
「ふぅ、良かった。これからもよろしくね長明君」
「あぅ、こ、こちらこそ、よろしく、晶子さん」
お互いに名前を呼び合った所で、晶子は何か話題の足掛かりなるものは無いかと室内を見回す。そして、壁に貼られたアイドルのポスターに目を止めた。晶子にはこの日焼けして色落ちのした写真に見覚えがあった。
「あの、あれって『のどごし生娘』のポスターですか?」
「あ、うん。そうだよ」
少女の指摘に、長明はしまったという表情で素直に認める。朝の清掃時には、特に片付ける必要を感じていなかった。しかし、真正面から愛の告白をされた今では、何故か浮気をしているような気分に苛まれてしまう。
「私も、初等部の時に大好きでした。色々と、歌やダンスを真似したりして」
「そ、そうなんだ。実は僕も中学二年の時からずっとファンなんだ」
話題に上った、のどごし生娘、というアイドルユニットは息が長く、晶子はデビュー当初だった初等部三年の時分に、長明は絶頂期の頃からずっと応援していた。
ようやく見つけた共通の話題。晶子は嬉しくなって、アイドルにまつわる数々の思い出を語り始める。例えば、ダンスの真似をしていて棚の花瓶を割ってしまい、母に泣かれて慌てて謝ったというような苦い記憶であっても、彼女は構わずに笑い話として語っていた。
長明の方にも色々と話題はあるものの、グッズ欲しさに書店員から向けられる白い目に耐え抜いて低年齢向けの少女漫画を買った事だけは、羞恥のあまりに言えなかった。
両者の間にあった固い空気が徐々に晴れていき、随分と打ち解けてきたのを晶子は実感していた。これで、まずは一段階、想い人との仲がステップアップしたと自覚して、ほっと気を抜くと共に、更なる進展へと期待が膨らんでゆく。ここまではまだほんの序の口、目指す高みは遥か先であった。
そんな折、少年はふと晶子の異変に気が付く。自分のベッドに腰掛けている美少女が頬を朱色に染めて、内股をもぞもぞと擦り合わせているのである。この様子を目の当たりにして、彼は自分の不手際を悟った。たしか、彼女にトイレの場所を教えていなかったと。
実際には、この身じろぎは尿意ではなく性的な欲情が原因であり、長明は全くの見当違いをしていた。彼はてっきり、奥ゆかしい少女が羞恥から生理現象を言い出せずに我慢していると思い込んでいたのだった。そして、実情を知る由もない少年のはじき出した答えは。
「あの……僕、ちょっとトイレに行ってくるね。あ、それと、トイレは階段を降りて直ぐ左のドアだから……」
「あ、はい。行ってらっしゃい」
そう言って微笑む晶子の前を横切って長明は部屋を出た。その完璧な気遣いっぷりに少年は心底満足気になって階段を降りてゆく。自分がある意味汚れ役を引き受けて、ついでという形で自然に彼女の窮状を救う。これこそ、繊細な乙女心を傷付けずに目的を果たす唯一の道だと自負していた。
――ガチャ――
階段を上がる人の気配が無かったにも関わらず、不意に部屋のドアが開いてゆく。少々手持ち無沙汰で彼氏の帰りを待っていた晶子は、即座に喜色を浮かべて戸の方へと目を遣った。
果たして、視線の先に居たのは、彼女の待ち人ではなく、一匹の黒猫であった。その猫は熱い剣戟を心行くまで堪能した直後であり、興奮で鼻息が荒い。
待つ者と入る者、必然的に両者の目が合った。
「まぁ……長明さんの飼っている猫かしら」
状況が呑み込めずに固まっている黒猫。よって、先に反応したのは晶子の方であった。猫は毛並みが良く、しかも首輪をしていた為、飼い猫だという事は容易に見て取れた。
愛する人の飼い猫に向けて慈しむ視線を送っている晶子に対し、ようやく事態を飲み込めたディアはショックのあまり眩暈をおこしてふらついていた。
今、ディアに向かって優しく微笑でいる、年若くて、しかも、見目麗しい女性が、主の部屋で、主の愛用している寝具に腰を埋めて、欲情した雌の匂いを発しているのである。長明はその事に全く気付いていなかったが、鼻の利く猫にとっては息が詰まる程に濃厚な淫臭であった。
「……うぅ、うにゃゃゃぁぁぁ~~~ん」
その意味する所に気付いた時、黒猫は泣きながら部屋を飛び出していた。
長明が用を足してトイレ出たのは、黒猫が大粒の涙と共にリビングのソファーにダイブした直後であった。
「……ただいま」
「あ、おかえりなさい」
愛猫の嗚咽をつゆも知らない長明が部屋に戻ると、今度こそ待ってましたとばかりに喜色満面の晶子が迎える。一方、期待半分緊張半分といった心持ちだった少年は、自分がアイドルオタクである事を知っても揺るがない好意にほっと胸を撫で下ろしていた。
「そういえばさっき、黒猫が部屋に入って来たんですよ。すごく可愛い猫だったけど、直ぐに部屋を出て行っちゃいました」
「あぁ。最近、餓死しそうだった猫を拾ってきたんだ。今は大分肉が付いたけど、拾った時は凄く痩せ細ってたんだよ」
「そうだったんですか。やっぱり、長明君って優しいんですね……」
それからは、漫画を読んだり、作者について語ったり、ゲームをしたりと、二人の気の向くままに過ごしてゆく。例え何をしていようとも、晶子にとっては、長明と一緒に居るというだけで幸福な時間であった。
日差しが赤くなるまでの時間も、少女にとってはあっという間の事であり、迫っている門限を思うとつい歯噛みをしてしまう。親に無理を言って塾を休んだ手前、門限を守るという母との約束だけは守らねばならなかった。それでも、今日の成果は十分に満足のいく物だと自分に言い聞かせて、気分的に重くなっていた腰をようやく持ち上げる。
「あの、私、もうそろそろ帰らなきゃ」
そう告げて渋々帰り支度を始めた少女の胸中には、いつかは一晩中、という大野望がメラメラと燃え盛っていた。
「え、あ、うん。もう暗くなってきたもんね。じゃあ、玄関まで送るよ」
こうして、長明にとっても至福だった時間が終わりを告げた。
長明は今日出来たばかりの恋人を玄関で見送った後、自室の戻ってしみじみと余韻に浸っていた。だらしなく目尻を下げて美少女の事を思い出す思春期の少年。そんな彼に下の方から少女の声が掛かる。彼が声のあった方に向くと、いつの間にか黒猫が足元で神妙そうに座っていた。
「マスター。あの女は何者ですか?」
「えーっと、彼女は、その……」
愛猫の疑問に、少年は照れたように言葉をはぐらかす。そのあからさまな主の反応を見て、ディアはさらにふつふつと苛立ちを募らせていた。
「どうして、彼女……晶子さんの事が気になるの?」
「それは、えーっと、あのですね。と、とにかく気になるのです」
今度はディアの方がしどろもどろになる。ここまで来ればもう猫が嫉妬している事に気付いても良さそうな物だが、朴念仁な所もある長明はそれに気付かない。
「うーんと、彼女は、その、友達だよ」
照れ隠しにそう言って頭をかく長明だったが、ふにゃけた恵比須顔は隠しようもなかった。そんな主人の様子を見て、妬心に狂った黒猫はガムシャラに爪とぎシートを引っ掻くのであった。
そんな折、机に置かれた携帯から着信を告げる音な鳴り響く。長明が飛び付くように確認すると、やはり送り手は晶子だった。
「あ、もしもし……うん、えっと僕も凄く楽しかったよ。……うん……うん……」
電話の目的は、早くも次の約束についてであり、長明は相変わらずの性急さに呆れつつも、下心丸出しのにやけ面で応じていた。
そして、わずか三分程度の協議の結果、一週間後に次は長明の方が晶子の家に遊びに行く事で同意を得て、そっと通話終了ボタンを押す。彼が余韻に浸る間も無く、直後に。
「も、もしかしてまたあの女からですか?」
「あ、うん。そうだよ」
「で、奴めは何と」
「今度は家に来ないかってさ」
答えて長明は嬉しそうにはにかむ。この時はまだ彼女の背後で蠢いている存在を知らない。対して、ディアの反応は彼の想像を遥かに超える物であった。
「私も行きます。連れて行って下さい」
「え、一緒に? それはちょっと……」
これは嫉妬心に突き動かされるままに出した希望だったが、ディアには不思議な運のような物があり、無理矢理な決断が結果的に身を救う事が何度かあった。そうでなければ、あの地獄を生き抜く事は出来なかっただろう。しかし、言われた飼い主の方はあまりに無茶な要求にすっかり困り顔で天井を見上げていた。
「うーん。一応、猫を連れて行って良いか聞いてみるよ」
「是非に」
少年は愛猫の願いを頭ごなしに拒否するのも不憫と考え、一応、先方に確認を取ってみる事にした。これで駄目ならディアも諦めるだろう、という計算もあっての判断だった。
晶子とは違い、まだ電話で直接会話する事に若干の抵抗がある長明はメールにてお伺いを立てると、若干の後に返ってきた答えは確固たる拒絶であった。どういう理由かは明示されていなかったが、鳳家にはっきりとNGを出されたからには従う以外に道は無い。
「晶子さん、絶対に駄目だってさ。家族にアレルギー持ちでも居るのかも。ま、彼女がそう言ってるんだから仕方ないよね」
長明はワガママな相棒を諭すように結果を告げる。だが、鳳家への同行を無下に断られてもディアは簡単に引き下がらなかった。
「いえ、あーっと、その、そうだ。マスターが一人で出歩くのは危険です。私がボディガード致します」
「え、でも、それって服に結界が張ってあるから大丈夫じゃないの」
「あぅ……それは……」
主人にあっさり返されて黒猫がぐぅと言葉に詰まる。彼女は今、服にも結界を張れると自信満々に告げた過去の自分を熱心に呪っていた。それでも尚、理性ではなく使い魔としての本能に突き動かされるように足掻き続ける。
「で、では、家の前、家の前までで良いですから、一緒に連れて行って下さい。私はマスターを家の外から見守ります」
「うーん。家の中には絶対に入らない?」
「はい。マスターに呼ばれない限り中に入りません」
そう断言して真摯な眼差しを向けるディアに対し、長明は、うん、と一つうなずいて愛猫の頭を撫でながら提案を是認する。有り体に言えば単に根負けしただけなのだが、主を想う黒猫の粘り勝ちに負けた方の少年もえも言われぬ心地良さを感じていた。
「うん。分かったよ。じゃあ、来週の日曜日、一緒に行こう」
「はい。ありがとうございます、マスター」
「じゃあ、一週間あるし、その間にペットキャリーケースとか買っとかなきゃね」
曲折の末に話もまとまり、長明は感激の表情で身を委ねているディアを可愛がりながら今後の予定をあれこれと思案していた。この時点ではまだ呑気なもので、行く手に立ち込める暗雲には主従共に気付いていなかった。