第六話
五十鈴家の最寄り駅に隣接している真新しい高層マンション。その、父の晴好が見ればよだれを垂らして羨ましがるであろう四十階建てビルの最上階に、小さな人影があった。正確には四十階に位置するベランダ部分にて、一人の少女が静かに眼下を眺めている。ベランダ、といっても全面ガラス張りの造りになっており、緑生い茂る鉢植え群と相まって小さな温室と化していた。それだけを見ても、この部屋が相当に高級な住まいだという事が伺える。
その少女は、外見的には十歳前後の幼い容姿をしており、よく動く大きな吊り目と黒いショートヘアが活発な印象を与えていた。服装は、全裸の上に装飾の無い白いワンピースを羽織っただけ、という非常にシンプルかつ無防備な出で立ちであり、まるで一人暮らしをしているかのように他人に見られる事を全く意識していない様子だった。
彼女の立っている最上階の部屋は、ある資産家夫婦が所有しているものだ。夫婦共に仕事が忙しく、未だ子供には恵まれて居ない筈なのだが、如何な理由かこの少女は我が物顔でフロア内を自由に闊歩している。
白衣の少女が、今日はもう動きが無いと判断して踵を返した所で、脳内に直接語り掛ける魔力の声を受け取る。それは、かつてディアを窮地に追いやったペナルティ告知の際、一度だけ聞いた声であった。細身の少女は即座に今度は何の用だと身構える。
『調子はどうですか?』
「あ、えーっと、夜観、だっけ。私に何か用?」
少女は素直に応じるも、警戒している上に元々監視者に対して良い印象を抱いていないせいもあって、つい棘のある声色になってしまう。対して大烏の方は、全く気にする素振りを見せずに話を続ける。
『そう警戒しないで下さい。今回は貴方にとって良い話を持って来ました』
「良い話?」
『そうです。きっと役に立つ情報ですよ』
「ふーん……」
何故自分だけに協力を? 何か裏はないのか? 少女はそんな疑念を胸に、ガラス越しに夜空を見上げる。そして、辿り着いた結論は、高い魔力を得てしまった、主持ち、を何とか他の使い魔に始末させたいと考えて、夜観は自分を利用しようと画策している、という物であった。で、あるならば、少なくとも自分にとっては有益で不利益にはならないだろうと結論を出した。
「何だか胡散臭いな」
一応は信じられる、と結論を出していながらも、少女はいかにも訝しげな態度で夜観の反応を待つ。この曲者ぶりこそ、彼女が今まで生き延びてきた最大の理由であった。
『決して貴方を騙すつもりはありません。もし、それでも信用出来ないというのであれば、この話は別の者に……』
「待って。やっぱり聞く事にする。それと、私の名前は、あなた、なんかじゃなくて、美雪だから。今の母親役が勝手に付けた名前だけど、とても気に入ってるの。だから今度からはそう呼んで」
『分かりました美雪さん。では情報を提供しましょう』
「ま、主催者側がそれだけ自信満々なら、さぞ良い情報なんでしょうね」
美雪は軽く応じながらリビングに入って、牛革の張られた高級ソファーに寝転がると、テーブル上に置いてある大好物の魚肉ソーセージに手を伸ばす。彼女が飼い猫としてではなく娘として家庭に入り込んでいるのは、一重に与えられる食事の差が原因としてあった。
『今から知らせるのは、現在第四位の使い魔候補が居る場所についてです』
夜観がそう言った直後、美雪の頭に上空から直接見たような地形のイメージが浮かぶ。その中心には野鼠を狩る茶虎模様の猫が映っていた。それだけではなく、視界の端には見覚えのあるコンクリート製の施設があり、壁の一部が大きく崩れているのも記憶のままだった。猫少女の推測通り、ここはかつて儀式が行われていた建築物であり、元は材木倉庫だった物を魔術師が錬金術を駆使して強固な施設に作り変えていた。倉庫は放棄されて久しく、ここに続く唯一の林道は雑草に埋もれ、加えて周囲には偽装の魔法が掛けられている為、人に気付かれる事も無い。
「何? これ」
『ですから、第四位の居場所です。近くにあるのは美雪さん達が元気に殺し合っていた施設ですよ。まさか逃げ出した施設の近くに居続けるなんて他の使い魔は思わないでしょうから、あの茶色い猫も案外賢いのかも知れません』
あからさまに同族を見下す大烏の態度に美雪は多少の不快感を覚えるも、そんな感情はおくびにも出さずに会話を続ける。
「確かに見た覚えはあるけど。場所も分かるし……んーまてよ、あれが四位なら、じゃあ、私の今は三位なの?」
『……まぁ、残っている候補も少ないですし、教えても問題無いでしょう。その通りです。今の美雪さんは第三位。例の主持ちは第二位。そして今も生き残っている使い魔は全部で四匹です』
「なるほど、ね」
自身の記憶と照合し、この情報については嘘じゃないと見抜いて、魚肉ソーセージに鋭利な爪を立てて包装を剥がす。そして、、したり顔で棒をぱくりと咥えて勢い良く噛み千切った。
彼女はディアの現在位置が分かるようになってから、一目散に標的を狙う他の使い魔とは違い、弱い獲物に群がる方を奇襲で狩る戦略を採っていた。その目的に沿って付近で一番高い建物に潜り込み、広く良好な視界を確保したのだった。
丁度昨日の夜、二位の灰色猫が倒される前に、美雪は格下の二匹を立て続けに襲って急速に力を付けており、夜観もこの合理的な戦い振りには素直に感心していて、こいつならばと密かに期待を寄せていた。
結局、主持ちと死んだ三匹以外に使い魔の姿は見当たらず、彼女も力を得る為に倒すべき敵は残りが少ないのだろうと感じていた。実際にこの予想は正鵠を射ていたのだが、直ぐに別の疑問が頭に浮かぶ。
「あっ、と、それじゃあ何で一位の奴を使わないのさ。まさか私を一位の餌に……」
ふと第一位の存在を思い出して疑念を深める美雪。だが、それも夜観にとっては想定内の反応であり、もちろん答えも用意してあった。
『その心配なら無用です。今、第一位の猫は闘いに全く興味が無い様子でして、主持ちの情報にも反応しませんでした。正直、あれでは使い物になりません』
「そうなんだ……」
猫少女も第一位が最大の好機に一切姿を見せていない事から、今は積極的に他の使い魔を探していないのではと疑念を抱いていた。そして大烏の言葉は、この推測を裏付ける結果となった。第一位が探索魔法を使ったのは知る限りでは一度だけ。当時はまだ壁に穴が空いておらず施設内に閉じ込められていて、魔法を受けた時、彼女はあまりにも強大な魔力と冷酷な気配に、背筋の凍るような恐怖を感じて移動する事も出来ずに震えていた。運良く誰かが壁を破壊したのはその直後で、大きく開いた脱出口に遮二無二になって飛び込んだのだった。
何故第一位が外で探索魔法を使わないのか理由を知る由もなく、他の使い魔も第一位に居場所を知られるのを恐れて探索魔法を使えず、結果として一位以下は全員隠れながら手探りで獲物を探す事になってしまった。もしも一位にほんの少しでも熱意があれば、こんな事態は起こらない筈である。
諸々の不明分を考慮しても夜観の証言は実に辻褄が合っており、そのせいで美雪は隠されている事実に気付けずにいた。
『第四位の使い魔候補もさほど強くはありませんが、少しは魔力の足しになるでしょう。後はお好きに料理して下さい』
「そいつを食べても二位にはなれないんだよね? 全く、そこまでするなら、直接手伝ってくれてもいいのに」
『それは出来ません。美雪さんにも分かっている筈です』
「もぅ、冗談に決まっているでしょ。そんな事をすれば折角の儀式が台無しだもんね」
言う通り、使い魔を完成させるには、使い魔同士で殺し合わなければならなかった。
『私の使命は導師様の魔術を成就させる事。その為にこうして情報を提供しているのです』
「分かってるわよ、そんなの。ま、私だけ有利な情報を貰えるんだから感謝しなきゃね」
『美雪さんとは利害が一致しています。これからも随時情報は送りますので、頑張って下さい』
「りょーかい」
美雪の不真面目な返答を最後に魔法による通信は途絶えた。
「んーっと。まずはお荷物の主人について調べてみるか」
そう楽しげにつぶやいてソーセージを頬張る。経験から普通の人間は魔法に対して全くの無力だと知っている美雪は、ディアの主である長明が最大の弱点だと踏んでいた。
少女があれこれと思案している所で、リビングのドアが開き、水色のスーツに身を包んだ女性が少し疲れの残る顔に笑顔を浮かべて入ってきた。その右手には有名な洋菓子店の箱がぶら下がっている。
「あ、おかえりなさいママ」
帰宅した本来の家人に、ソファーを飛び降りてはち切れんばかりの笑みで駆け寄る美雪。ママと呼ばれた女性は、この笑顔を見ただけで一日の疲れが癒される気がした。
「ただいま美雪。お土産にケーキを買って来たから、夕食後に食べましょうね」
「うんっ。あ、それと……」
「え?」
突然、明るい笑顔を見せていた少女の瞳が、赤く、妖しい光を放つ。それを見ていたスーツ姿の女性からは次第に表情が抜けていった。
「これから私は何日も居なくなる事があるけど、大丈夫だから心配して騒いだりしないでね」
「えぇ。美雪なら心配要らないわね。分かったわ」
女性は茫洋とした顔で頷く。美雪が人間の姿でいるもう一つの理由がこれだった。相手が心を許していれば、術の掛かりは一層強固な物となる。
自分に唯々諾々と従う人妻を前に、美雪は人間なんてちょろいもんだと鼻を鳴らす。たとえ使い魔の契約主には同じ術が通用しなくとも、ならば周囲の人間を利用するまでと少女は意にも介さない。そして、哀れな少年をこれからどう料理してやろうかとほくそ笑むのだった。
◇ ◇ ◇
美雪は予定通りに茶虎猫を倒して力を増してから、高層ビルの最上階にて長明の行動を観察し続ける。ディアと同様、日の光がある内は長時間変身を維持できない為、今は白い毛に包まれた本来の姿に戻って視界の広いガラス張りのベランダから標的を目線で追っていた。白猫にとって残念な事に、彼の通う高校は男子校であり、同級生の女子を使うという当初のプランは早くも頓挫していた。標的を男子の友人に変える事も可能ではあるが、男性からの視線が心底苦手な美雪は何か別の手段は無いかと目を皿にして探す。
ブレザーを羽織った長明が、敵に監視されている事も知らずにのんびりとした足取りで高校に向かっている。途中、何度も白いセーラー服を着た女学生達とすれ違っていた。猫は少年が校門をくぐると、今度は女子学生の方に興味を移して観察を続ける。彼女達が通っているのは名門として名高い女学園で、寮付きの初等部と中等部を持つ規模の大きな学校だった。丁度、最寄り駅との中間地点に工業高校が存在していて、彼女達の望むと望まぬとに係わらず、通学途中にむさ苦しい男子校生の顔を見るのは茶飯事であった。結果として、餓狼の如き一部の男子学生が女学生に気安く声を掛け、その悉くが無視をされるというのも学期初めの風物詩であり、逆に彼女達が男子を誘うような事態は絶無といえた。
私立の名門女子高に通う少女達は、彼らにとっては手の届かない高嶺の花だった。そんな、上品かつ華やかに談笑しながら学び舎へと向かう女学生を見遣りつつ、猫は探した、獲物が簡単に食い付きそうな、スタイルが良くて美しい顔を持つ餌を。
しかし、気付いた時にはもう既に多くの生徒が校内に入っていたので、美雪が気に入るような美少女は見付からなかった。今直ぐに、猫の姿で校内に入り込んで探す事も考えたが、別に急ぐ必要もなく、無闇に外出して居所不明の一位と鉢合わせては元も子もないと考えて大人しく下校時間を待つ事にした。
心地良い陽光の下で居眠りと食事を楽しみつつ待つ事数時間、下校時間を告げる鐘の音がビルまで響き、女学生が白い波のように荘厳な造りの校門へと押し寄せてゆく。彼女達の着る白を基調とした制服は清潔感に溢れており、生徒の上品さと相まって、清楚な魅力を遺憾無く表出させていた。その中で容姿が平均以上の少女は何名か散見されるも、白猫がこれぞと思う大和撫子は中々見付からない。
クラブ活動の事も考えると長期戦になる、美雪がそう覚悟した直後だった。平均値を遥かに通り越した上玉が友人二人に挟まれて駅へと向かうのを目撃して、即刻こいつに決めたとほくそ笑む。その女学生はよく手入れされた長い黒髪を風に揺らし、肌は白く上背があって顔立ちも整っており、切れ長の目は知性と気位の高さを物語っていた。この女子学生に狙いを定めた猫は飛び上がるように身を翻して玄関に向かう。そして、見えない手でドアを開け、見えない手でエレベータを操作して一階へ。
猫はマンションを出ると直ぐ前にある駅前広場のベンチ下に身を潜める。美雪の住む高層マンションは駅に隣接しており、わざわざ向かわなくとも入り口付近で待っていれば獲物の方から近付いてくる筈だった。彼女の予想は正しく、時間にして十五分程で白い集団が見え始めた。列の中でもひときわ目立つ美少女が姿を見せる頃には日の光が赤みがかっていて、白猫はこれなら魔力消費も少なくて済むと急いで物陰に入り人の姿に変じる。電車に乗るであろう相手を追うには、猫の姿では不都合だったからだ。
当然、現段階では標的が電車でどこまで行くのか分からない為、衣服を作る要領で硬貨を作り終点までの切符を購入すると、改札を通った女学生の後を追う。時刻は猫少女の恐れていた帰宅ラッシュの前。しかし、予想に反してフレックスやら営業帰りやらで背広姿の男性も多く、その視線が苦手な美雪にとって駅構内は地獄にも等しい状況であった。少女は駅のホームで周囲からの刺さるような視線に耐えながら、自分は白いワンピースにミュールという質素で飾り気が無い服装なのに何故目立ってしまうのか、と考え込んでしまう。そのシンプルな出で立ちが、却って素の魅力と色香を引き出している事に彼女は気付いていなかった。
狭い電車内はさらに酷い状況で、そんな中、追跡者にとって唯一幸運だったのは、女学生がたったの二駅目で電車を降りた事だった。もし終点まで付き合わされたら……等と戦々恐々としていた美雪は喜び勇んで電車を飛び降りる。
友人二人と別れて女学生が降りたのは、美雪の住む町とは違い宅地造成の完了した住宅街だった。彼女は道草を食う事もなく、駅からは徒歩で一路家へと向かう。その夕日に彩られた帰宅路を美雪も女学生の影を追うようにして歩を進めていた。もう夜は近い。そうなれば、後は使い魔の独壇場であった。
一軒家の並ぶ閑静な高級住宅街の一角、鮮やかな青い屋根の家屋へと白制服の少女が慣れた手付きでドアの鍵を開けて入ってゆく。彼女を追跡していた美雪も、入り口前で立ち止まると目的地の様子を伺う。家の造りは周囲の家々と同じ外観をした標準的な物で、築四年という事もあって屋根や壁の色褪せも少ない。塀の端に掛けられた表札には「鳳」と書かれていた。猫少女は標的の自宅が使用人を何人も抱えている豪邸ではない事に安堵して溜め息を漏らす。術を掛ける相手は少なければ少ないほど良かった。そして、塀の陰に隠れて白猫に戻ると、日が完全に沈むまで庭先で魔力の回復を待つのだった。
「お母さん、ただいま」
女学生は玄関先で合鍵を手さげ鞄に仕舞いながら家の奥に声を掛け、黒い革靴を脱いで靴の先を外に揃える。その行儀の良い行い一つから見ても、親の躾が行き届いているのが伺えた。
「あ、おかえりなさい晶子今日は早いのね」
晶子の声に応じて、母の志乃は少し間延びした声で一人娘の名を呼ぶ。居間のソファーにて白いセーターにベージュのスカートという出で立ちで暢気にお茶をすすっている母親は、娘に似て美人ではあったが、性格は娘に似ずにおっとりとしていて、表情や仕草にもそれは表れていた。彼女は高校卒業後、直ぐに見合い結婚をして出産した為に、高校一年の娘が居るにも係わらず未だ女性的魅力に溢れており、温厚な性格もあって側に居るだけで安心出来るような、そんな包容力をも持ち合わせていた。
志乃は良家の出で、礼儀作法には一家言を持っていたものの、性格上娘の粗相を叱る事が出来ず、挙げ句には泣きそうな顔で諭すので、娘の方が母に気を遣って何も言わずに自らの行いを正していた。
「もう、お母さんったら。朝出る時に言ったでしょ、今日は塾がお休みだって」
「え? あー、そういえば、家を出る時にそんな事言っていたわね」
母のマイペースっぷりに晶子は少し呆れ顔で見遣る。志乃の方は娘の視線などどこ吹く風で、にこやかな表情で悪びれる様子も無い。丁度、リビングの液晶テレビには時代劇の再放送が映っていて、場にそぐわない剣戟の音が室内に響いていた。
「あら、もうこんな時間。もうそろそろお夕飯作らなきゃ」
娘との会話が契機となって、志乃はテレビを消すと腰を上げて台所へと向かう。鳳家でも夕食の時間はほぼ固定されていた。
「お母さん。今日のメニューは?」
「今日のお夕飯は、肉じゃがですよ」
「あ、久々だね」
「えぇ。出来上がったら呼びますからね」
「はい、お母さん」
晶子は居間の入り口から爽やかに言い残して玄関正面の階段を上った。
彼女が二階奥にある自室に戻ると、普段着に着替えるべく制服を脱ぎ始める。この部屋は七畳半程度の広さがあり、フローリングの床には赤い絨毯、壁には桃色の壁紙と、室内は暖色でまとめられていた。ベッドと学習机は木製のありふれた物で、同じく木製の本棚には参考書と漫画の単行本が並んでいる。
晶子が通う女学園の指定制服は、白を基調として襟や袖、スカートの裾部分、そして白いハイソックスにも青いラインが二本引かれていた。襟元に巻いたスカーフもスカイブルーを意識した青で統一されていて、全体的に清涼感のあるデザインに仕上がっている。
セーラー服を脱ぎ終えると、スレンダーな下着姿で壁掛けのハンガーにセーラー服を吊るし、下は灰色の布ズボン、上は白地に天下無双とプリントされたTシャツといった飾り気のない部屋着を身に纏う。
着替え終えて人心地つくと、学習机の本棚から問題集を引き出して机の上に広げる。そこまで準備してから、一服用の飲み物を求めて階下へと降りていった。
晶子が階段を下りている途中に、突然居間にある呼び鈴の受け機から電子音が鳴り響く。
「あー、はいはーい」
「あ、お母さん。私が出る」
音に気付いて反応した母を、晶子が階段から声で制して居間へと向かう。受け機はリビングの入り口脇にあり、内部の液晶画面で来客の顔を確認出来る機能も付いていた。
居間に到着した少女は画面を覗き込んで首をかしげる。そこには、黒いセーラー服を着た見知らぬ幼い少女が映っていた。
どう見ても十歳前後にしか見えないその少女は、晶子が通っている学園の制服を着ていた。同学園の制服、といっても少女が着ているのは初等部の物で、デザインは同一でも色使いには違いが有り、高等部は白地に青ライン、初等部は黒地に赤ラインといった風に、学部毎に色分けが成されていた。
「あの、どちら様ですか?」
「えーと、あの……」
画面越しに名を聞かれて、制服少女がさも言い辛そうに目を伏せる。学園の初等部に知り合いが居る筈も無く、晶子には少女の用件に心当たりが全く無かった。
「鳳先輩に、ちょっと相談したい事があって。あの、ここでは何ですし、中に入れて貰っても良いですか?」
「え? あ、えぇ、それなら別に。じゃあ、今開けるね」
唐突に、少女が申し訳なさそうに相談を依頼してきて、数々の細かい疑問が頭に浮かぶも、こんな幼い少女が悪巧みなんかしないだろう、という思い込みから無警戒に玄関のドアを開ける。分からない事は後で聞けば良い、晶子はそう軽く考えていた。
そして、何も知らない人間の少女は、とんでもない化け物を家に引き入れてしまう。普通ならこんな子供を過度に警戒する方が不自然であり、晶子には相手の正体を知る術は無いのだから、これは当然の流れといえた。
「さ、どうぞ」
「ありがとう、お姉ちゃん」
「うん」
「あの、お邪魔します」
黒制服の少女は戸を潜って玄関に入ると、無造作に革靴を脱ぎ捨てて家に上がる。その不躾な様子を見て晶子は少し苛立ちを覚えるも、他人の子供に注意する事は出来ずに、無言で客人の靴を揃えていた。
「で、お名前は?」
「あれ? 妹の名前を忘れたの? 私の名前は美雪。もう忘れないでよね、お姉ちゃん」
「は?」
謎の少女はクルリと振り向き、靴を綺麗に並べている晶子をさも不思議そうに眺めながらとんでもない自己紹介を始めた。その、直ぐに分かるような大嘘を何の臆面もなく言い放つ少女に驚いて、靴に視線を向けていた晶子は傍らに立つ人物へと向き直る。対して、彼女の前に佇む少女は、見下したような目付きで薄笑いを浮かべていた。
次の瞬間、幼い少女の瞳が赤い輝きを放ち始める。そして、不思議な光を驚きと共に凝視していた晶子の顔から次第に表情が抜けていき、最後には口を半開きにして、呆けたような顔付きで美雪と名乗る少女に目を向けていた。
「えーと、もうそろそろ思い出したかな? お姉ちゃん」
「あぅ、あ、お……」
暫くして、晶子の口が閉じ、表情も真顔に戻ってゆく。その様子を見て、制服少女は魔法の成就を確信してほくそ笑んだ。
「……え? あぁ、美雪。お帰りなさい」
「うん。ただいま、お姉ちゃん」
こうして、鳳家の一人娘は魔術の影響下に入った。
「どうしたの晶子。お客様?」
台所で二人の話し声を聞いていた母親は、コンロの火を止めて玄関へと移動してきた。それを、赤目の猫少女が待ち受ける。
「あ、お母ちゃん。私は娘の美雪だよ。だから何の問題も無いよ」
「ちょっと、あなた何を言って…………あぁ、うっ」
「お母ちゃん。美雪の事を忘れちゃ嫌だよ」
「あら? あなた、美雪?」
「うん。そうだよ」
娘に続いて母親も難無く術に掛かってしまい、即座に美雪を愛娘だと思い込む。化け猫の魔力に只の人間である二人が抵抗する事は不可能だった。
「あ、そういえば私達って何人家族だっけ?」
「何言ってるの美雪。家族は三人……あら? あぁ、四人に決まっているでしょう」
「四人、ね。分かったよお母ちゃん。ありがとう」
「もぅ、いきなり何を言い出すのかと思ったら。全く、変な子ね」
「えへへ」
美雪は悪戯っぽく明るい笑みを浮かべて周囲を見回す。その視線が、廊下を挟んで居間の反対側にある客間に注がれた。
「あ、ここが私の部屋だよ。もちろん二人とも知ってるよね」
美雪は客間の引き戸を指差して、自信に満ちた声色で断言した。それを聞いた晶子は真顔のままで小首をかしげる。
「あれ? そこは客間……」
「んもぅ! 可愛い妹がお姉ちゃんに嘘を言う訳無いでしょ。ここが私の部屋・な・の」
またも断言して、猫少女の赤い瞳が輝きを増してゆく。その光は、美雪を愛すべき妹だと信じている晶子に難無く入り込んで、彼女の根底にある認識を捻じ曲げていった。
「うん。美雪が私に嘘を言う訳無いものね」
「そうだよ。で、お母ちゃん。客間ってどこにあるの?」
「え? 客間なんてこの家にあったかしら。えーと……」
「私は無いと思うよ」
「あ、そうだったわね。私ったらどうして忘れていたのかしら」
志乃は心底不思議そうに人差し指を頬に当てて考え込む。そして直ぐにどうでも良い事だと結論付けて愛する家族に向き直った。美雪は鳳家に入り込むや、魔の力でいとも容易く確かな身分と活動拠点を手に入れてしまった。
「じゃあ私は部屋で休んでいるから、晩飯が出来たら呼んでね」
「分かったわ美雪。もう少しで出来上がるから、その時に呼ぶわね」
「うん」
美雪な元気な返事を合図に、美雪は元客間の引き戸に手を掛け、志乃はおっとりした足取りで台所へ向かい、台所の冷蔵庫に用のある晶子は母の後に続いた。
晶子は帰宅した父と母とで夕食を済ませた後、勉強前の気休めに本棚から少女漫画を取り出して項を開く。中等部の初め頃、友人達と共に少女漫画からよりジャンルが多彩で年齢層の広い漫画へと興味を移していったのだが、今でもたまに読み返しては主人公に思いを重ねていた。
それは、初等部入学から続いている長年の女子校生活によって、異性との交際経験が皆無だった事も少なからず影響していた。
今、彼女が読んでいる漫画は、ある少女が気弱で優しいだけが取り得の少年と恋仲になる、という起伏の乏しいストーリーなのだが、主人公の心理描写が繊細で、晶子はそこが随分と気に入っていた。
「お姉ちゃん、それ、面白い?]
「えっ?」
甘酸っぱい恋の味を夢想していた晶子の背中に、突然若々しい少女の声が掛かる。晶子がはっとして振り返った先には、満面の笑顔をたたえた美雪の姿があった。
「み、美雪。他人の部屋に入るなら、ちゃんとノックしないと駄目でしょう」
自分の気付かない内に背後まで来ていた少女に、晶子は少し不気味な物を感じていたが、直ぐに読書に夢中になっていた所為と結論付けて、姉として妹の無作法を注意する。
「えへへ。お姉ちゃん、ごめんなさい」
「びっくりしたじゃない。全くもう」
無邪気に笑って誤魔化す妹に対して、姉は少し頬を膨らませてから、やれやれといった風で微笑む。美雪はそんな晶子にさらに近付いて机の上で開いている本を覗き込んだ。
「あ、ちょっと美雪」
「へぇー。お姉ちゃん、こんなのが好きなんだ」
開かれた漫画のページには、見開き全体にクライマックスのキスシーンが描かれていた。それを妹に見られて、晶子は羞恥のあまり慌てて本を閉じる。
「こ、これは、その、ね」
「大丈夫、気にしてないから。それにしても、お姉ちゃんって男の人に興味あるんだ。じゃあさ、私がお姉ちゃんにぴったりの相手を教えてあげるよ」
「え? それってどういう……」
美雪の発したあまりにも突飛な物言いに、晶子は即座に真意を問い質そうとした。しかし、急に相手の目が赤く光り出し、それを目の当たりにした彼女は抗えない力によって言葉を失ってしまう。
両目に赤光を受けて固まっている獲物を、猫少女が満足気に見詰める。そして、おもむろに右手から青紫色の煙を出した。煙は直ぐに凝縮していって、一枚のシートを形作る。その表面には、制服を着た長明の姿が写真のように鮮明に写っていた。
「さ、これを見て、お姉ちゃん」
「……うん」
美雪は茫洋とした表情で座っている姉の鼻先に長明の肖像を突き付け、注視するよう指示を出す。魔の力に心が囚われている晶子は、緩慢に頷くと、妹に言われた通りにシートを凝視する。
「この男は五十鈴長明。とっても素敵。この漫画の男なんかよりもずっと、ずっと。だから、お姉ちゃんはこの人が大好き。顔も、声も、匂いだって、この世で一番好きなの。どう? 分かった?」
「あぁ……素敵……」
猫少女に魅惑の囁きを吹き込まれ、晶子はうっとりと心酔したような笑顔で、今や最愛の男性と化した人物の顔を見遣る。
「善哉、善哉。じゃあ直ぐにでも告白しなきゃ。彼はお姉ちゃんの通っている学校の近くにある工業高校の生徒だから、とっても簡単だよね」
「あ、でも、恥ずかしい……」
「あっそ。じゃあ、勇気が出てからで良いと思うよ。もったいないなぁ、彼と一緒に居るだけで、とっても幸せな気分になれるのに。私は早い方が良いと思うけどなぁ」
「あ、やっぱり私、告白、したい」
「そうだよね。告白したくなるよね、普通。で、最終目標は彼をこの部屋に誘って、逞しい、かもしれない裸に抱き付く事。まぁ、とりあえず初めは恋仲にならなきゃね」
「うん……」
「詳しい手順は、逐次ちゃんと教えてあげるから。私の指示通りに行動していれば、まず間違いは無いからね」
最後に晶子は無言でゆっくりと頷き、美雪はこれで種まきは終了と姉の傍らから離れて一つ大きく息を吐く。後は、種が芽吹くのを待つだけだった。
「あ、それと、その写真は一晩だけお姉ちゃんに貸してあげるから、好きに使ってね」
そう悪戯っぽく言い残して、小悪魔は颯爽と部屋を出るのだった。