第五話
「ディア、湯加減はどうかな?」
「はい。べりぐーです、マスター。ふにょぉぉぉ~。生き返りますにぁ~」
帰宅を果たした主従一行は、冷えた身体を温めるべく湯船に浸かっていた。長明は風呂に、ディアは湯を張った黄色い風呂桶に身体を沈めて、心地良さそうに溜まった疲れを癒してゆく。
長明は痣の浮いた両腕を伸ばして伸びをしながら、疲労の原因に思いを馳せる。愛猫との契約、使い魔同士の戦い、そして突然の襲撃。結局勝てたから良いものの、恐ろしい化け物との対峙は、心身共に重い負担を強いていた。最後まで死の危険に抗う事が出来たのは、ディアの頑張りと、残り全ては単に運が良かったおかげ、少年はそう感じていた。これからも魔物との戦いが続くと思うと、つい憂鬱な気分になってしまう。もし、ディアと出会わなければ、こんな面倒に巻き込まれる事は無かった。それでも、長明はディアと出会えて本当に良かったと心の底から思っていた。
「さて、ディア。そろそろ身体を洗おうか」
「はい。よろしくお願いします」
応じて、少し名残惜しそうに風呂桶から出てきた黒猫に、同じく湯船から上がった少年が手の平にたっぷりと猫用シャンプーを盛って、黒毛を撫でるように優しく塗り込めてゆく。薬剤が胴全体に行き渡ってから、いよいよ指でマッサージしながら泡を立てていった。
「ふにっ、そこ、良いですっ、にゃふんっ、な、何という、巧みな指使い。ほふゅ、さすがは、マスターです。あふんっ! こ、このままでは、私は、わたしはわゎんっ」
「…………」
白い泡を全身にまとい、弛緩し切った表情で官能的な喘ぎを漏らす黒猫。その艶っぽい佇まいに、初心な少年は気恥ずかしさのあまり無言になってしまう。姿は猫でも、声はうら若き少女の物で、色気のある口調で喋られると、それだけで胸にじんわりと妙な気分が沸き起こってしまうのだった。
「……あのさ。ディアの魔法って、他にどんな物があるの?」
泡をシャワーで流しつつ、長明は照れ隠しのつもりでディアに質問を投げ掛ける。それに対して黒猫は。
「それに付きましては、部屋に戻った後でゆっくりと……」
「え? あ、うん。まぁ、部屋の方が落ち着いて話せるよね」
「にゃひひ。楽しみは後に取って置く物ですぞ、マスター。おあずけの後には、素晴らしいサプライズが待っていますのにゃ」
「サプライズ?」
自信に満ちた忍び笑いを浮かべるディアに、長明は怪訝そうに首をかしげながら湯を掛け続けていた。
少年の自室にて、湯上り直後でほっこりしている一人と一匹が、青いパジャマに着替えた長明は椅子に、ディアはベッドに、という形で腰を下ろしていた。お座りの姿勢でいかにも何かを聞いて欲しそうに主人を見ている黒猫に、こちらも猫の言うサプライズを含め聞きたい事が山ほどあった少年は、椅子を猫の方に向けて質問を口にする。
「じゃあ、落ち着いた事だし、ディアの使える魔法について教えてよ」
「はい。承知しました、マスター。えーと、ですね。うーん……」
待ちに待っていた瞬間、の筈なのに、いざとなると一体何から話せば良いのか分からなくなってしまい、黒猫は天井を睨みつつ小難しい顔で唸っていた。
「結界と探知についてはもう言いましたし、あ、そうだ。見ていて下さい、マスター」
「あ、うん」
一転して黒猫は自信に満ちた声で告げると、真剣な表情に変わり力を溜めるように身体を震わせる。すると、ゴミ箱が小刻みに揺れて、中から炭酸飲料の空き缶が浮き上がったきた。
「うぉあたっ!」
少年が宙に浮いた青い空き缶を息を呑んで凝視していると、気合一閃、猫は振り上げた前足を一気に振り下ろす。直後、キンッ、と金属音を響かせて缶が一瞬で両断されてしまった。綺麗に分断された空き缶を見て、結果に満足した黒猫が脱力するのと同時に、缶が支えを失ってそのままゴミ箱に落下した。
「どうですか? これが魔力の腕です、マスター」
「す、凄いね……」
疲労で息を切らせてはいても、ディアは達成感に満ちた顔で胸を張る。その自信の裏付けとなっている強大な力に対して、長明は素直に関心していた。目には見えなくても、名前と効果から、彼は灰色猫が自分に使っていた力と同等の物だという事を察していた。そして、使い魔には個体差がさほども無く、灰色猫が出来る事は、全て今のディアにも出来ると考えると、サプライズとやらの正体にも大体見当が付いてしまう。
「さぁて。次はいよいよ驚天動地の荒業ですぞ、マスター。にゃふひひ」
もう気付いている主を他所に、黒猫は悪戯心の浮いた顔で口に前足を当てて笑い声を漏らす。
「では行きます。チェインジ・フォォォーーームッ!」
ディアは声高らかに叫ぶ。部屋中に響き渡る大音響に、絶叫の美学を解さない長明は魔法を使うのにこんな大声を出す必要があるのかと疑問に感じていた。
果たして、凄まじい形相で大口を開けたまま固まっている黒猫の周囲から、見覚えのある青紫色の煙が立ち込めて、猫の全身をすっぽりと覆ってしまう。その煙は次第に膨張していって卵のような楕円形を形作り、最終的には二メートル程の高さになっていた。
少年は自分が使い慣れたベッドの上に突如として出現した謎の卵を、ぽかんと口を半開きにして眺めていた。
眼前の怪奇現象による衝撃から少年が我に返る頃、青紫色の球体は出来た時と同様、徐々に萎んでいき、上部からは黒く艶やかな毛髪が、下部からは細く生白い人間の足が、玉の縮小に伴って露出してゆく。そして、華奢な肩の下、豊満な乳房が露出するや、その谷間に残りの煙が吸い込まれていった。ようやく変身の全貌が明らかになり、呆然と眺めていた少年は言葉も無く固い生唾を飲み込む。煙の玉に隠されていたのは、細身でしなやかな美少女の裸身だった。
蛍光灯の白い光に照らされてベッドの上に佇む姿は、肌は眩しい程に白く、小柄で全体的に華奢なのだが、どこか健康的で、胸の膨らみは大きく、見るからに柔らかそうな双球は存在を主張するかのように上を向いていた。くびれた腰から伸びるヒップラインも滑らかで形が良く、その肉付きは胸に負けない位に扇情的に見える。黒猫が唯一身に着けていた赤い首輪は、変身後、彼女のか細い右足首に巻かれており、まるで足枷のようなそれは、少女が主に隷属している事を示しているかのようであった。艶のある黒髪は強くカールの掛かったセミロングヘアで、前髪部分が俯いている少女の顔を隠している。
ギシ、とベッドのスプリングが音を鳴らす。白い裸体は軽い動作で寝台を飛び降り、空中で長明の方に正対して静かに着地した。
「あ、あの……」
床の上に移動した後も俯いたままで一言も発しない全裸少女を前に、少年が恐る恐る声を掛ける。その正体は分かっていても、未だ顔の見えない無言の少女を愛猫の名で呼び、今までと同じ態度で接する事がどうしても出来なかった。
「どうですか? マスター」
不意に、はつらつとした声と共に少女が顔を上げる。ようやく露わになった素顔。それを目の当たりにした少年は、思わず、ドキリ、と心臓が高鳴ってしまう。少女は、眩いばかりに可憐だった。
肩まである癖の強い髪の毛はふんわりと柔らかく、いかにも撫で心地の良さそうな質感を持っていた。顔付きは、成熟した身体に比してどこか幼さが残っており、輪郭は小ぶりで鼻筋も細く伸びている。唇も小粒といえるサイズながら、艶と肉付きが良く、薄桃色の膨らみは可愛らしい笑みを浮かべていた。その中にあって目は大きくてクリリと丸く、澄んだ瞳は好奇心で爛々と輝いており、上にある若干垂れ気味の眉は、隠れた意思の強さを表すかのようにくっきりと太かった。顔の部位はどこも形が良く綺麗に整っていて、それに加えて温かみのある可愛らしさも備えていた。
「えと、その、ディア、だよね?」
「はい。私はディアです。驚きましたか? マスター」
長明が恐る恐る出した質問に、自信に満ちた声色で滞りなく返答するディア。姿はかけ離れていても、声と口調は黒猫の時と全く同じ物だった。美少女の正体は判明した。しかし、そんな事よりも、少年には気になっている事があった。
「でもっ、あのっ、な、何で裸なのさっ!」
「はえ? 私はいつも裸ですが」
「だから、さ、ぼ、僕は、女の子の裸とか、生で見た事が無いというか、その、慣れてないというか」
「ほえ? 私の裸なら何度も見ているではありませんか」
「だ、だからっ」
何も無い天井を見上げて、赤熱した顔から冷や汗を垂れ流している少年を、全裸少女が愛らしく首をかしげて見詰める。トイレは駄目で裸は大丈夫、彼は今、心の底から羞恥心の基準が分からないと痛感していた。
「要するに、今直ぐ人間のように服を着ろ、という事でしょうか?」
「う、うん。その通りっ」
「分かりました。ではっ……」
ディアは納得したようにうなずいて、再度力を貯める仕草を取った。長明は長明で、何か女の子でも着られる服を探すべく椅子から腰を浮かせる。しかし、立ち上がる直前に、再び少女の周囲から青紫色の煙が立ち込めて白い柔肌を覆い始めた為、立つのを止めて椅子に座り直した。
少年が黙して凝視する中、少女の全身を覆っていた煙は卵型にならずに胸へと吸い込まれてゆき、今度は全裸ではなく、彼が望んだ通りに服を着た姿が露わになった。下は白い靴下に黒のジーンズ、上は濃紺のトレーナー、地味な暗色で揃えられた衣服は、全て少年にとって見覚えのある物だった。理由は、同じ物を母の智江が普段着として愛用していたからだ。
「これで、よろしいですか? マスター」
軽く息を吐いて美少女が問う。斯くして、少年の要求通りになったものの、体型が色濃く浮き出る服が幸いにも災いして、大きく膨らんだ胸部から細く引き締まった腰へと流れるライン、肉付きの良い臀部から伸びる美脚、等々の性的な魅力に溢れた肢体が浮き彫りになっており、初心な主人はまたもや目の遣り場に困ってしまう。
「あ、ええと、大丈夫。うん」
「あの、それで、どうでしょうかマスター。今の、私は……」
ディアは期待と不安の入り混じった表情で問うと、頬を赤らめて白い布に包まれた小ぶりな足をもじつかせる。そのあからさまな様子に、長明は直ぐに質問の意図を察した。ここは、いくばくかの照れはあっても、率直に所感を述べるべきだと心得ていた。最高に可愛い、と。
「……可愛いよ、すごく。正直、ちょっと驚いちゃった」
本当はちょっとどころでは無かったのだが、少年はつい見栄を張ってしまう。それでも、少女にとっては想像以上の高評価であり、大きな瞳を星空のように輝かせてニンマリと満足気な笑みを浮かべていた。
「ほ、本当ですか? マスター。そうですか。可愛いですか………にゃふひひひ」
折角整っている容貌を崩して、締まりの無い恵比須顔で含み笑いを漏らすディア。その頭頂部、緩やかにウェーブの掛かった癖髪の上に、一瞬だけ三角形の影が二つ浮かんだような気がして、少年は目をしばたたせる。しかし、まばたきが終わるのと同時に影は跡形も無くなっていた。彼は、きっと気のせい、と即断して視線を戻す。
「人間の姿に化けるのは初めてなので少し不安でした。でも、気に入って頂けて良かったです」
猫娘は安堵の表情でそう告げると、ベッドの上に勢い良く腰を下ろす。その際、これ見よがしに大きく突き出た胸が揺れて、またもや清純な男子の心を掻き乱した。
「ねぇ、ディア。その変身って、時間制限とかはあるの?」
長明は心頭を滅却させて頭から煩悩を追い出し、改めて相棒への質疑に集中する。
「えーと、ですね。昼間は魔力の消耗が激しいので長時間は無理ですが、夜間なら魔力消費も無いのでずっと変化を維持出来ます」
「そうなんだ。やっぱり、昼と夜とでは違いがあるんだね」
「はい。仰る通りです。全く以って、日差しは魔力の天敵なのです」
「あれ? それだと結界とかは大丈夫なの?」
「あ、それなら心配ありません。結界なら魔力消費自体が少ないので昼の間も維持出来ます」
「良かった。それなら安心だ」
丸いお尻をベッドに沈めて行儀良く座っている若い娘から、湯上りという事もあって何とも甘い体臭が周囲に漂っている。少年はその芳香に胸を焦がしながらも、何事も無かったかのように微笑む。これは、男の意地であった。
「それにしても、使い魔って本当にいろんな事が出来るんだね」
「はい。一応、使い魔は魔法使いの支援が役目ですから、それなりに。魔力が上がれば、もっと凄い魔法が使えるようになりますよ」
猫娘はそう言うと、自信あり気に鼻孔から勢い良く鼻息を噴出させる。
「と、いう事は、魔法の使い方は知っていても、魔力が足りないから使えない、って事なの?」
「えっと、はい。魔法の使用方法や効果は既に理解しています。あぁ、そういえば、説明がまだでしたね。私達使い魔は、魔法使いに作られた時点で、術者から言語や魔法の知識を受け取っています」
「なるほど。魔法使いのサポートには、魔法だけでなく意思の疎通も必要だもんね」
「そうです。あと、他にも人間社会についての雑多な知識等を得ているのですが、導師は同じなのに使い魔が受ける影響は個体差が大きいようです」
言われて長明は灰色猫の言動を思い出す。確かに、ディアとは性格に随分と差があると感じていた。
「それって、猫だった時の経験が違うからじゃないかな」
「いや、私にもはっきりとは分かりません。恐らく知性が低かった為でしょう。私には猫だった頃の記憶はほとんどありませんし。あ、でも、人に飼われていた事だけは、おぼろげながら覚えています」
「じゃあ、きっと感受性の問題だね」
「んー、それもあると思います、が……」
「え?」
「私はマスターに助けて頂いてから側でお仕えしてきました。ですから、今はマスターからも多分に影響を受けていると思います」
主人との出会いを思い出していた少女は、感謝を込めて言い切ると頬を染めてはにかむ。そんな仕草の一つ一つが、雌猫の本性か、幼い顔付きにも係わらず妙に色気があった。
「そう、なんだ。いや、何だか照れるな。出会った時は、見るからに今にも餓死しそうだったからね。こんなに元気になってくれて、ディアを助けて本当に良かったよ」
「あ、それなのですが。実は、使い魔は毒や飢餓では死なないのです」
「え、そうなの? でも、それじゃあ……」
僕が助けた事にはならない、と長明が続ける前に。
「いえ、えと、それは、単に死なないというだけで、使い魔でも毒を食らえば苦しいですし、飢えたら動けなくなります。そうなると、後は他の使い魔に殺されるのを待つだけ、という事態に陥ってしまうのです」
「動けなくなるのは死ぬのと同じ、か。言われてみれば、殺し合っている敵が居るんだから当然だよね。うん。良く分かったよ」
「ふぅ。分かっていただけて何よりです」
主の誤解が解けて、ディアはほっと胸を撫で下ろす。そんな微笑ましい位に素直な反応を眺めながら、美少女と二人きりの会話に大分慣れてきた長明は、これからの共同生活について思案していた。
「ディア。一応言っておくけど、お父さんとお母さんに見られるとまずいから、今後家の中で人間に化けるのは原則禁止だよ。分かった?」
「はぅにぃ。マスターがそう仰るなら」
主人に可愛いと言われて浮かれていた少女は、人への変化を禁じるつれない決定を受けて、さも残念そうにうつむいていた。その哀愁漂う表情に、早くも少年の決意が揺らいでしまう。
「あ、やっぱり止めた。えーっと、部屋で二人きりの時なら大丈夫だろうから、その時だけなら良いよ」
「は、はいっ。さすがはマスターです。乙女心を分かっていらっしゃる。にょほほ」
あたかも、マスターも人が悪い、と言いたげな目付きで含み笑いを浮かべる猫娘。その態度から猫が色恋方向に勘違いしているのは明らかだった。
「い、いや。別に、そういう訳じゃあ……」
少女への温情を変に解釈されてしまい、彼は慌てて否定する傍ら、何とか話題を変えようと口を開く。
「あの、さ、ディアって人間の姿だと食べる物も人間と同じになるのかな」
「さぁ。私は人間の餌を食べた事が無いので、実際に食べてみないと分かりません」
「でも、人が食べる料理は塩分が高いし、人間には大丈夫だけど猫にとっては毒になる食材とかもあるから、試すのは慎重にしないと」
「あ、それなら心配無用です。生体機能は普通の人間よりもむしろ強い位ですし、使い魔は毒では死にませんから」
「あ、そうだったね。じゃあ、少し食べてみる?」
「はい。是非とも」
「うん。それなら下で何か食べる物を探してくるから、ディアは大人しくここで待ってて」
「了解です、マスター」
元気良く返事をするや、期待に目を輝かせて生唾を飲み込んでいる食いしん坊万歳な少女を残して、少年は夕食が残っている事を願いつつ部屋を出た。
長明が食卓の鍋を覗くと、運良くシチューが一食分残っており、父親が食べる時に温め直されていた為、まだ微かに湯気を上げていた。彼は台所で洗い物をしている母に、猫に残飯を食べさせる、と言って食器棚から皿を引っ張り出すと、鍋の中身を全部移す。他にも、工作に使うという名目で、使われなくなった箸とスプーンを貰い受けて自室へと戻っていった。
シチューの乗った皿を手に部屋に戻った長明を、言われた通りにベッドの上で待っていたディアが喜色満面で迎える。少し奔放な所もあるが、自分の言う事には素直に従う美少女。そう意識するでけで、少年の胸中にむず痒い感情が去来するのだった。
「夕食のシチューが残ってたから持ってきたよ」
「おお。これがシチューという食べ物ですか。知識としては知っていますが、一体どんな味がするのか、非常に楽しみです」
「期待は裏切らないと思うよ。さ、食べてみなよ」
「はい。いただきます」
少女は主から皿と食器を受け取って、まじまじと料理を見詰めながらスプーンですくう。それを鼻先に近付けて匂いを嗅ぐと、えいと口に入れた。瞬間、彼女の目が大きく見開かれる。
「うっ、うっ、うーまーいーにゃぁぁぁぁぁぁ! この何とも言えない白い塊に赤い塊、そして肉! 肉ですぞ肉! おぉ、はぅ、はぁーりぃぃぃうぅーーーっど」
「……うん。どうやら人間の食べ物も大丈夫そうだね」
「肉は旨いにぁぁぁ」
目一杯に感動して懸命に料理を掻き込む美食少女。その頭にはいつの間にか猫の耳が生えていて、波の形に整った黒髪の上で嬉しそうにピクピクと蠢いていた。興奮すると変わるのは口調だけでは無い模様、であった。
◇ ◇ ◇
夜が深くなった頃、五十鈴家夫婦の寝室のドアがひとりでに開き、隙間から黒猫が滑るように侵入した。
部屋にあるベッドの上では、夫婦が気持ち良さそうに寝息を立てている。その直ぐ横を猫が音も無く通り過ぎ、ウォークイン・クローゼットの入り口前で止まる。その仕切り戸も勝手に開き、中の衣類に黒猫が飛び跳ねながら前足を付けていった。
◇ ◇ ◇
さらにさらに夜が深くなった頃、長明は奇妙な息苦しさを感じて目を覚ます。重くて苦しく、柔らかくて温かい、相反する感覚が何故か同居していた。彼には原因に心当たりが無く、首を浮かせて寝ぼけ眼を下に向ける。視線の先には見慣れた掛け布団があるだけ、なのだが、それは異様に盛り上がっており、時折声のような物が漏れ聞こえていた。
少年は息を呑んでそっと布団をめくる。すると、黒い猫耳付きの美貌が自分の胸に頬を預けていた。それだけでなく、少女は一糸まとわぬ全裸であり、身体全体で主人に覆い被さっている様子であった。
「ふにゅう……」
温かい寝息を漏らす白い顔は、表情が弛緩し切っていて、あまりの無防備さに少年は愛情と保護欲がない交ぜになったような浮ついた気分になってしまう。さらに、柔軟な感覚の正体は少女の肢体であり、頬を含めてどこもふんわりと柔らかく、中でも押し付けられた胸の大きな膨らみは少し固い乳突起による刺激と相まって少年に格別の心地良さを提供していた。
体温、感触、匂い、どれもがうら若き少女の物であり、性経験が皆無の少年にとってこれは強烈すぎる体験であった。しかも、彼が望めば恐らく、いや、確実にその先、今まで本でしか知り得なかった事態へとなだれ込む事が可能なのである。その事実が、初心な少年の心を否応無くかき乱すのだった。
「……ますたぁ……ますたー……」
「ん?」
突然猫娘に呼ばれた少年は、彼女が実は起きていて色香に迷う自分の反応を楽しんでいるのでは、と訝って引き続き様子を伺う。長明の視線を一身に浴びても、ディアは動じる事無く気持ち良さそうに口を半開きにして、時折艶めかしく唇を舐めていた。
「…………ぽちょむきん……むにゃ」
その後に続いた言葉が意味不明だった為、単なる寝言だと気付いて溜飲を下げる。この時、ふと、何故ディアはわざわざ人間の姿になって寝ているのだろう? との疑念が湧き、少年は考える。
もしかしたら、当初は誘惑するつもりで美少女に変身し、裸身で絡みつつ主の目覚めを待っていたら、待ちきれずにそのまま寝てしまったのではないか。そんな、限りなく確信に近い推測を立てて、長明は改めて少女の寝顔を見遣る。
心底安心しきった無防備な寝顔。この猫娘が本当に寝ているのであれば、今からわざわざ起こすのも忍びない、という止むを得ない、本当に心底止むを得ない事情により、少年は日が昇って使い魔の変身が解けるまで身動きの許されない夜を過ごすのであった。