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使い魔一年生  作者: 多文 亀之助
4/10

第四話

「くっ、こんな筈では……」

 強敵に勝利して竹林内を凱旋する長明とディアの姿を、はるか上空から大きな黒い鳥が見下ろしていた。その大烏が、夜空を旋回しながら憎々しげに舌打ちを漏らす。

 実力の差は歴然だった。二番目の実力者である灰色猫と、最弱の黒猫。本来ならばまるで勝負にならないカードであり、戦う前から一方的な結果が決まっていた。にも係わらず、勝てる筈の無い黒猫が勝利してしまった。

 まさかの大逆転劇が発生した後も、血を流しながら逃げている灰色猫に体力と魔力の回復力が高まる術を掛けていた。しかし、それがかえって裏目に出てしまい、回復した猫は逃げ切る事に専心せずに罠を張って迎え撃つ選択をしてしまう。夜観の目論見通りに逃げていてくれれば、最低限、標的に第二位の力を与えずに済んでいた。不始末に不始末が重なってしまい、結果として対処がより困難になってしまった。このままでは主に合わせる顔が無い、そんな焦りが大烏をかつて無い程に苛立たせる。

 力を得ているとはいえ、今直ぐ眼下に居る主従を抹殺する位は、彼女にとって造作も無い事ではある。だが、それでは折角の儀式が台無しになってしまう。殺し合いは、用意した使い魔候補同士でやらなければならない。そういう決まりだった。だからこそ、不慮の事故に備えて自分の羽で作った分身を駆使して逃げた猫達を監視していた。

 使い魔となれる素質をもった動物は実に希少で、それ故に、夜観は主と共に日本中を駆け回り、半年もの時間を掛けてようやく定数を、しかも同種で揃えたのだった。自分はともかく、主の苦労を無駄にしたくはない。大烏にとって、これは絶対に失敗の許されない使命だった。

 さらにもう一つ、大きな問題が横たわっていた。ディアが二番目の強者となった今、まともに戦って勝てるのは一番強い猫のみなのだが、肝心の第一位が所在不明となっていたのだ。魔術師の天敵が居ないこの国で考えられる原因は只一つ。それは、大烏の羽分身が監視対象に潰された、という事だった。

 これも又、普通ではあり得ない事だった。分身とはいえ、完成した使い魔が羽に自らの魔力を分け与えて作った物であり、未完成の使い魔にとっては倒すどころか発見する事すら困難な代物であった。一位の猫には魔力を高める為の処置が施してあるとはいえ、それでも使い魔候補ごときに分身を倒されるというのは、夜観にとっては想像すら出来ない事態であり、非常に屈辱的な事でもあった。

 居所が分からず、わざわざ分身を倒した目的も分からない、しかも、一番有利な立場に居ながら狩りに消極的な第一位。大烏は今直ぐに利用するのが不可能と判断して、三番手以降の使い魔を利用する算段を始めた。


 ◇ ◇ ◇


 長明達が竹林を抜けて割れた窓の所まで戻って来た所で、ディアが自信満々に鼻を鳴らして口を開く。

「マスター。私は今から、家の周囲に結界を張ってきます」

「ん? 結界?」

「はい。これを施しておけば、私よりも魔力が低い使い魔は結界内入って来れません」

「へぇ、そんな事も出来るんだ。凄く助かるよ」

 これで何時襲われるか分からない不安から開放される、そんな本音の滲んだ感謝に、黒猫は丸く広がった瞳を輝かせて主を見上げる。

「私もやっとマスターのお役に立てて嬉しいです。では直ぐに取り掛かりますので、マスターは家でくつろいでいて下さい」

「うん。じゃあ、くれぐれも気を付けてね」

「はい。任せて下さい、マスター」

 ディアは揚々と言葉を残して玄関方面に駆けてゆく。残された少年も目だけで台所の様子を覗いてから後に続いた。

 長明は帰宅すると最初に居間を覗き、母が居ないと分かると今度は台所に向かう。彼にとって今一番気掛かりなのは、明らかに術の影響が残っていた母親の事だった。

 台所に入ると智江の姿は難無く見付かった。彼女は四つん這いになって、血溜まりのあった箇所を雑巾で磨いていた。

「ただいま。お母さん」

「あ、長明。今までどこに行っていたの、って、何? その格好……」

「えと、これは、その」

 息子に呼ばれて顔を上げた智江は、相手の姿を見て目を丸くする。長明の衣服も靴下も手に持っている愛用のスリッパもことごとくが土汚れにまみれていた。彼女は台所の異変を無心で片付ける事でようやく平常心を取り戻しつつあったのに、息子の身なりを目の当たりにして、一体長明の身に何が、と再び混乱の渦に突き落とされてしまうのだった。

 自分の知らない内に、いつの間にか床が血のような液体で汚れていて、台所の窓ガラスが割られていて、長明が全身泥だらけで帰ってきて、何故か自分の使っていたスリッパを持っていて、等々、今の智江にとっては全てが理由に見当が付かない不思議な事態ばかりだった。何が何だか分からない、そんな時は、まず目の前の事から片付ける。それが智江ルーティンであった。

「……ふぅ、説明は後で聞きます。とりあえず床が汚れるから、長明は服を脱いでシャワーを浴びてきなさい。今直ぐに」

「う、うん。分かった」

「あ、それと、私のスリッパは捨てておいて頂戴」

「うん」

 智江はいつもの有無を言わせない調子で息子に指示を出す。長明は唯々諾々と母に従うも、すっかり回復した智江の様子に安堵もしていた。


 少年は言い付け通りに脱衣場で服を脱いで洗濯機の中に放り込み、浴室で身体を洗ってから腰にバスタオルを巻いて二階の自室に戻る。その後、愛猫の事を気に掛けながら下着と深緑のジャージを身に着けた。

 着替えが済んで、母親に何て説明しようか、等と考えていると、部屋の窓がひとりでに開いて、そこから黒猫が室内に飛び込んできた。

「結界の設置が完了しました、マスター」

「ご苦労様。意外に早かったね」

「まぁ、範囲結界は決められた方位を起点に足跡を残して念じれば済みますので。今の私には造作も無い事です」

 そう言ってディアは胸を張る。結界とやらが実際に効力を持っているかは分からなくても、少年は愛猫の自信に満ちた振る舞いを頼もしいと感じていた。

「じゃあ、今からお母さんに何とか事情を説明してくるから、ディアはご飯でも食べて待っててよ」

「あの、マスターがわざわざそんな事をせずとも、母君に私が術を掛ければ一発で解決ですぞ」

「いや、それは駄目だよ。どうしても必要な時意外は、家族に魔法は使わないで」

「はい、分かりました。マスターがそう仰るなら……」

 今度は張っていた胸を引っ込めてしょげかえる黒猫。言った通り確かに魔法を使えば即刻解決する話ではあったが、敵に術を掛けられた母の様子を思い出すと、長明にはどうしても賛同出来なかったのだ。

「……今日のディアは凄く頑張ったから、今日の晩ご飯はマグ・マックスにしよう」

「はらっしょょょぉぉぉぉい! な、何という太い腹。さすがはマスターです。やったね私、明日はホームランですにゃ」

 喜びを爆発させて自分の尻尾を追いかけるようにグルグル回っている愛猫に、長明は買い置きしてあった猫缶を振る舞う。猫の飼い方を調べている内に、人間の食べ物は塩分が高くて猫には良くない、という知識を得ていた為、残飯を与えるような事はせずに餌は全て市販されている猫専用の物か、塩分を使わずに調理した肉や魚を食べさせる事に決めていた。

「僕も晩飯ついでに、お母さんに話してくるよ。えと、野良犬がやった事にすれば、どうにか説明が付くだろうし」

「もにゅもにゅ、健闘を、むにゅむにゅ、祈ります、マスター」

 紙皿に頭を突っ込んでいる黒猫に言い残して、少年は母の厳しい尋問を覚悟しつつ階下へと降りていった。


 長明は一階に降りると、母が居るであろう台所に向かった。台所では智江がガラスの割れた窓を前に、どうしようかと顎に手を当てて悩んでいた。

「あの、お母さん。その窓、修理業者が来るまではダンボールで塞いでおけば良いんじゃないかな」

「えぇ、そうね。じゃあ長明、頼めるかしら?」

 母親の様子から心配事を悟った少年が現実的な提案をする。父親の晴好が居れば息子がする必要の無い程度の作業ではあったが、今日も彼は残業で帰りが遅くなっていた。これは、決算前にどうしても成果を出さなければならないプロジェクトに関わっている為であった。

「うん。分かった」

「そう、助かるわ。じゃあ、随分と遅くなったけど、まずは晩御飯を食べてから……」

「いや。寒いから直ぐに始めるよ。多分、そんなに時間は掛からないと思うし」

「あら、そう。えぇ、その方がありがたいわ」

 長明の気遣いを察した智江は寒そうに二の腕をさすりながら安らかな微笑みを浮かべる。室内は外と同じ位に冷え込んでいても、心優しい息子のおかげで、心には確かな温もりを感じていた。


 母に見送られて台所を出た少年は自室に戻ると、愛猫が不思議そうに眺めている中、必要な資材と工具を集め始めた。

「マスター、何をしているのですか?」

「あぁ、これを使って割れた台所の窓を塞ぐんだよ」

 長明はクローゼットの床に積まれたダンボールを引っ張り出しながら猫の質問に答える。彼は部屋での工作用に床面を保護するダンボールの板紙を数多く常備していた。

「おお、そうだったのですか。あの、見学とかをしても大丈夫ですか?」

「え? でも、ディアは台所に入っちゃいけないから……」

 キッチンが愛猫の進入禁止エリアだという事を思い出し、猫の主は天井を見上げて暫し考え込む。この条件を出された時期はディアが人語を解すると分かる前であり、禁止された原因は智江が野良猫というのはいつ何処で粗相するか分からないと心配していたからだった。であれば、ディアが人間に飼われる事に慣れていて躾も高度に行き届いていると説明し、実際に証明してみせれば説得は可能だと少年は考えていた。

「うーん、お母さんに入れても良いか聞いてみるよ」

「はい。よろしくお願いします」

 黒猫は好奇心で目を輝かせて、嬉しそうに資材を抱えた長明の足に身体をこすり付けていた。少年は、愛猫が人間の事を知りたがっていると感じてほくそ笑む。たとえ面倒でも、出来るだけディアの旺盛な知識欲に応えてやらねば、と義務感に似た感情が沸き起こっていた。


 両手に必要な物を抱えて台所まで運び終えると、少年は開口一番、母に話し掛ける。ちなみに、猫には許可があるまで階段前で待っているよう指示してあった。

「あの、お母さん。ちょっとお願いがあるんだけど」

「ん、何? お願い事って」

「えーと、その……」

 言い出したはいいものの、道具を床に置いて話し辛そうにしている息子に対し、直ぐに作業を始めると思って居た智江は少し怪訝そうに応じた。

「えと、ディアの事なんだけど、驚くほど凄く躾されてて、トイレとか爪研ぎも決められた場所意外ではしないから、その、ディアを台所とか居間に入れても良いかな」

「そうね。そんなに行儀が良いなら入れても良いわよ。ただし、ディアが居間の絨毯を汚すような事があったら、以後は絶対に厳禁とします。それで良いわね?」

「うん。それで良いよ。ありがとう、お母さん。……ディア、もう来て良いよ」

 長明は大事な仕事が残っているにも関わらず、一仕事終えた心地で愛猫の名を呼ぶ。果たして、廊下から直ぐに甘えた泣き声が返ってきた。

 音も無く台所に姿を見せた黒猫は、興味深気に辺りを見回す。入ったのは初めてでは無いが、前回はとても室内を観察する余裕など無かった。

「あら、本当に良く躾けてあるわね。……さあ、ディア、こっちにおいで」

 智江はディアが息子の指示を理解している事に驚きつつも、床にしゃがんで猫を呼び寄せる。それにも黒猫は素直に反応した。

「うほっ。マスターの母君も、マスターと似た良い匂いがしますぞ。クンクン。にゃふぅ」

 黒猫は人語を話すが、ここで正しく聞こえているのは契約主である長明だけで、智江には普通の泣き声にしか聞こえていない。そして、彼女の前でちょこんと腰を落とした猫の頭を、感触を確かめるような動きでゆっくりと撫で始める。

「ふにゃおん。良いです。非常に良い撫で具合です。おお、マスター。母君はとても良い人ですにゃ」

 智江に優しく撫でられて、猫は気持ち良さそうに鼻を鳴らす。ディアにとって、優しく撫でる人間と良い人間とは無条件でイコールの関係にあるようだった。

 そんな様子を微笑んで見守っていた長明も、窓から入り込む冷たい夜風に身震いして自分の役目を思い出す。彼は定規を手に持つと作業に取り掛かった。

 まずは、窓枠の寸法を測り、工作で使い慣れた万能ハサミでダンボールを同じ大きさに裁断、後はそれを窓に貼り付けてから紙テープで固定して作業が完了した。工作慣れした長明にとっては簡単な仕事で、五分と掛からずに終わってしまった。

「お母さん、終わったよ」

「あら、早かったわね。……じゃあ、晩御飯にしましょうか」

「うん」

 猫を可愛がるのに夢中になっていた智江は、息子の終了報告に少し驚いたような返事をして名残惜しそうに立ち上がる。黒猫の、もう終わりなの、と言わんばかりのつぶらな瞳が猛烈に彼女の後ろ髪を引くも、息子の手前、何とか平静を保って食卓に着く。母親の様子を眺めていた少年は、今まで表に出さなかっただけで、実は猫のような小動物が大好きなのだろうと見て取っていた。

 夜半になって強まってきた風が音を立てて窓を叩く。それは、新聞紙でも張っておけば大丈夫だろう、という智江の考えが甘かった事を示していた。長明が居なければ今頃どうなっていたか。彼女は、気弱な筈の息子が急に頼もしくなったように感じていた。

 夕食に用意されたシチューは、智江が床を清掃した後に温め直していた為、鍋の蓋を開けた途端に白い湯気と共に濃厚な香りを室内に拡散させていた。皿に二人分移して、いざ食べようという時になって、今まで手持無沙汰な態度でうろついていた黒猫が、智江の膝に飛び乗って丸くなると直ぐに寝息を立て始めた。この気安く身体を預ける行為は、ディアにとって信頼の証であった。

「あら、この子ったら。まったく、随分と甘えん坊なのね」

 そう言いながらも、智江は満更でもないといった表情で猫の背中を撫でる。最初は猫を飼う事に難色を示していた母が、ディアの利口さと可愛らしさを認めて愛情を持って接する様は、長明にとっても嬉しい誤算といえた。

「さて、それでは長明。食べながら良いから、今まで何があったか事情を説明してもらえるかしら」

「うん。実はね……」

 少年はいよいよかという思いで母の詰問にうなずく。ただ、智江の方も記憶が曖昧だった為、さほど厳しい表情は見せず、静かに息子の言葉を待っていた。

「あのね。何か、野良犬みたいな動物が窓ガラスを破って台所に入ってきて、その、ガラス片で怪我をしたみたいで、直ぐにまた窓から外ににげちゃったんだ」

「それって何時の事? 私はずっと台所に居たのだけど……」

 智江が質問を挟むも、覚えが無いせいで何とも歯切れが悪い。

「あ、その時、お母さんは驚いて気が遠くなっているみたいだったよ」

「そう、だったの。何だか記憶が飛んでる気がするのは、そのせいかしら」

「それでね。えっと、直ぐに逃げた犬を捕まえなきゃと思って、お母さんのスリッパを借りて後を追い掛けたんだけど、裏の竹薮の奥にある道路の上で死んでたんだ。その時に足が滑って転んだせいで、ジャージを汚しちゃった」

「そんな事があったの」

「まぁ、大体こんな感じかな。僕も慌ててたからあんまし詳しくないけど」

「えぇ、分かったわ。随分と大変だったみたいね」

 長明の挙動不審な態度としどろもどろな物言いを脇に置いて、智江は納得したように溜め息を漏らす。息子の説明はおおむね筋が通っていたものの、細かい部分で疑問が残っていた。

 犬が外から窓を割って侵入してきた、という事なのに、ガラス片が全て外に落ちていた事や、そのガラス片で犬が怪我をした、という事なのに、血溜まりが出来ていたのは窓から遠い台所の入り口付近だった事、しかも、その血溜まりには肉片や骨片のような物が混ざっていた事、床に付いていた血の足跡が、どう見ても猫サイズの物で、そんな小さな身体では体当たりしてもガラスを割るのは困難だという事、等々、長明の証言と矛盾した痕跡が数多く存在していた。それでも智江は、息子が意味も無く嘘を吐く筈は無いと信じて疑わない。彼が嘘を吐く時はいつも納得出来る意図があり、それは、長年見てきた少年の真摯な眼差しからも明らかな事だった。

「あとさ、夕飯を食べ終わったら、その犬を土に埋めてやりたいんだけど、行って良いかな?」

「別に良いわよ。でも、行くなら汚れても良い服装で行く事。良いわね」

「うん。そうする」

「さ、話は分かったから、早く食べてしまいなさい。冷めてしまうわよ」

「そうだね。じゃあ、いただきます」

 結局、話している間は余裕が無くて箸の止まっていた長明は、仕切り直してシチューに舌鼓を打つ。智江の方も、直ぐに思考を切り替えて食事を続けていた。


 夕食も終わり、長明は自室でジャージの上から紺色の古いツナギを着込み、幅広のポケットに小型のライトと丸めた新聞紙と五重塔のミニチュア入れると、外に出掛ける前に台所へと立ち寄る。ディアが部屋に来ないから少年はもしやと思っていたが、案の定、気持ち良さ気に眠っている黒猫を起こすのをためらって、母が食卓から動けずにいた。

「あ、長明……」

 息子に困っている姿を見られて、智江は少し恥ずかしそうに微笑む。

「ほら、ディア、起きて」

 少年は母の柔らかい太ももで安眠している黒毛玉を揺すって覚醒を促す。猫は主の呼び掛けに応えて目を覚ますと、伸びをしながら大きく口を開いてあくびをした。

「ディア、一緒にあいつを埋めに行くよ」

「ふにょ? あ、ええと、はい。了解です、マスター」

「じゃあ、今から犬を埋葬してくるよ。あと、物置のスコップ、使って良いかな」

「えぇ、良いわよ。暗いから気を付けてね」

「うん。分かってる。大丈夫」

 ようやく猫から開放された母に見送られて、主従は玄関から外に出た。


 今度はしっかりと靴を履いて外出した少年は、庭の端にある物置の引き戸を開ける。中には智江が庭の草を刈る時に使っているシャベルや半月型の鍬等が立て掛けられていて、彼は迷う事無くシャベルを手に取った。それは引越し時に新調した物なのだが、潔癖な母によって早くも使い込まれていた。雑草を放置すれば虫が湧き、それが家屋に侵入するから、虫対策は草を徹底的に根こそぎ除去すれば良い、というのが智江ドクトリンであった。

 闇を照らすライト、遺体を包む新聞紙、墓標として用意した京土産のガラス製五重塔、そして穴を掘るスコップ、これで必要な物は全て揃った事になる。

 長明がわざわざディアを起こしたのは身動きの出来ない母を救出する為ではなく、まだどこに敵が潜んでいるか分からない今、夜中に一人で外出するのは危険だと考えていたからだった。かといって、哀れな灰色猫をこのまま放置すれば、早朝から往来の始まるトラックに遺体が轢き潰されてしまう。殺されかけていたとはいえ、そんな事になればあまりにも不憫な為、少年は危険な夜を愛猫と共に歩く決意をしたのだった。

 一人と一匹は塀を越えて自分達が踏みならした獣道を再び進み始める。風の勢いは強くなっていても、ライトと履き慣れた靴のおかげで、前回より随分と進み易くなったと感じていた。

 もしかしたら、風に揺れる竹林の影に敵が潜んでいるかもしれない。だが、今の少年には心強いパートナーがいる。そんな思いを胸に軽快な歩調で竹薮の中を進んでいく。

「マスター、寒いですぅ」

「ごめん、ディア。でも、少し我慢して。埋葬が終わったら一緒にお風呂に入って暖まろう」

「うひょっ、それは良い考えです。お風呂の為に頑張ります、マスター」

「うん、一緒に頑張ろう」

 強く、冷たい夜風にさらされて、黒猫は身震いしながら弱音を漏らす。作業に適した厚手のツナギでしっかり防寒をしている長明は、猫に対して少し申し訳なく思っていた。

「実はディアを起こしたのは、敵がどこに居るか分からないし、夜に一人で出歩くのが怖かったからなんだ。ごめんね」

「おお、そうだったのですか。これは私の配慮が足りませんでした。ですが大丈夫です、マスター。付近に敵は居ません」

「何だ、もう他の使い魔を感知出来るようになってたんだ」

「はい。さらには魔力の強さも分かったりします。ですが、魔力によって検知範囲が決まっていて、術を発動すると、範囲内で同じ魔法を使える相手にも自分の位置が知られてしまうというデメリットがあります」

 ここまで話してから、息を吸って一旦区切る。これは、気合を込めて結論を言い放つ前準備だった。

「だがしかし!」

「そうだよね」

 ディアが何を言わんとしているかを察した長明が、納得したようにうなずく。

「おお、さすがはマスター、察しが良いです。そう、もう私達の居場所は全ての使い魔に筒抜けなのだから、気にせずバシバシ使っていけます。これでもう極端に不利な状況からは完全に脱しましたぞ」

 得意気に尻尾を振り回すディア。しかし、長明にはもう一つ大きな懸案事項があった。

「あのさ、ディア。結界ってどれ位広く作れるの?」

「えぇと、ですね。大体、家二軒分あたりが限界です」

 それは少年が期待していた範囲よりもずっと狭かった。

「うーん、困ったな。僕は学校があるから家にずっと居れないし、かといって学校に猫を連れ込む訳にもいかない。それに、他の使い魔は無関係の家族まで平気で襲うみたいだから、お父さんの事も正直心配だよ」

 長明は声を震わせて不安な心情を吐露する。しかし、暗い表情でうつむく主を見ても黒猫は一切動じず、それどころか、満面の笑みで勢い良く尻尾を回転させていた。

「マスター、心配御無用です。この私にかかれば、問題は簡単に解決しますぞ」

「え? 本当に?」

 自信満々といった風で問題無いと豪語するディアを、長明は驚きと喜びがない交ぜになった顔で見詰める。これは、最初から猫に相談しておけば悩まずに済んでいた事であり、彼は用事が片付いた後にでも魔法の詳細を聞こうと考えていた。

「それでは今から術を掛けますので、マスターは動かずにじっとして居て下さい」

「う、うん」

 黒猫は珍しく落ち着いた声で指示を出し、受けた少年はこれから使い魔に何をされるのか分からず、若干緊張気味に直立不動の態勢で固まってしまう。猫はそんな主人の足元に近付くや、ツナギの裾にぽんと右前足を貼り付けた。

「とぅおぉぉぉ~~~ん………かぁぁぁぁぁっつ!」

 ディアのデスメタルな雄叫びが夜空を震わせた。

「よし。これで小結界は完成しました、マスター」

「え? もう終わりなの」

「はい。儀式は終了です」

 長明は布越しに肉球の感触を感じつつ思わず聞き返てしまう。予想に反して呆気なく儀式とやらが終了し、身構えていた少年は盛大に肩透かしを食らっていた。

「マスターの衣服に直接結界を張りました。その服さえ着ていれば、私より強い使い魔でないと手が出せません。ま、そんな奴が居れば、の話ですが。にょふふん」

「あの、居ると思うよ、ディアより強い使い魔」

「な、にゃ、にゃんですと?」

 今度はディアが驚く番だった。少年が何気なくつぶやいた一言によって、天にも届く勢いで鼻を高くしていた猫が、一転して、衝撃のあまりに目を見開いて口を大きく開けていた。長明はその様子に少し呆れながらも、論拠の説明を始める。

「前に台所で灰色猫が言ってたんだ。ディア達を閉じ込めていた壁を壊したのは、自分よりも強い相手から逃げる為だって」

「まさか、あいつよりも強い奴が居るなんて。ど、どうしましょう、マスター」

 つい先程まで見せていた余裕は完全に消え失せ、黒猫はあからさまに狼狽した様子で少年の周りを落ち着き無く右往左往していた。愛猫の醜態とは逆に、不思議と長明の方は落ち着き払っていて、考えるような仕草で月夜の空を見上げていた。

「ディアが知らないって事は、その強い猫って本当に他の猫を探し回ってるのかな?」

「さぁ、それは何とも。たまたま捜索範囲外だった、という事も考えられますし」

「うーん、そうなんだ。多分、灰色猫が言っていた猫が一番強い使い魔だと思うんだ。で、その存在があるからこそ、他の連中はおおっぴらに索敵が出来ないんじゃないかな。そんな事をすれば、自分よりも強い相手に見付かる危険があるから」

「おぉ、そう言われてみればそうですね。今までは、そのおかげで助かって居たのだと思います。ですが、これからは……」

「うん。もう全ての敵に居場所が知られているからね。これからは僕と協力して、何としても生き残ろう」

「はい。もちろんです、マスター」

 結論も出て、主従は互いにうなずき合う。ただ、少年の発言が、敵を倒す、ではなく、生き残る、だったのは、未だ彼に本当の覚悟が足りていない証左といえた。

 話も一段落し、気の弱い少年と狩りの下手な猫は共に歩みを再会する。両者は、単体だと問題外の弱さを誇るが、一緒だと何故か連携が噛み合って勝利してしまう、そういう不思議な名コンビだった。

「それにしても、使い魔同士の戦いって、自分よりも強い相手に勝つのが凄く難しいんだね」

 少年の感想はもっともだった。使い魔の結界は余りにも強く、実質弱者が強者に手を出すのが困難だったからだ。

「はい。ですから、私達使い魔は、いかに強敵を避けて自分より弱い敵を倒すか、という事に血眼になっています。自分が強くなれば、結果的に自分よりも強い敵は減りますから」

「なるほど。でも、理由は分かるけど、弱い相手を探し出して倒すっていう戦い方が、どうもね」

 ディアが身を置いていた非情の戦い。灰色猫の話から、ディアがそんな戦法を採るどころかずっと逃げ回っていた事は分かっていた。しかし、少年は弱者狙い撃ちを当然の事だと肯定する愛猫につい気を遣ってしまい、嫌悪の言葉も歯切れが悪くなってしまう。

「あぅ。マスターの気持ちは分かります。契約してから人情に触れている影響でしょうか。今の私もマスターと同じ感情を抱いています。ですが……」

「うん。分かってるよ。ディアよりも強い敵と対決する前に、出来るだけ弱い敵を倒しておいた方が有利なんだよね?」

「その通りです、マスター」

 前を歩く黒猫は首を横に向けて目だけで主の顔を見上げる。声は落ち着いていても、視線では不安そうに少年の表情をうかがっていた。それが自分からの批判や拒否を恐れている態度だと見抜いた少年は、愛猫を安心させるべく、精一杯の笑顔で決意を述べる。

「僕もディアに死んで欲しくなんかない。だから、必要な事は何でも協力するし、その為にディアがどう戦っても僕は文句を言わないよ。絶対に」

「ふにゃん。それは今一番言って貰いたかった言葉ですにゃ、マスター」

 主の言葉を受けて黒猫は感極まった様子で少年の足にまとわり付く。結果、少年は猫の胴体に歩行を阻害されてしまい、やれやれといった風で苦笑いを浮かべていた。

「それと、敵が強いからといって全く太刀打ち出来ないという訳でもありません。たとえば、強い奴が結界の外に出て狩りを行う時に不意打ちをすれば勝ち目もありますし、僅差の敵と戦って消耗した所を、結界に戻る前に襲う事も出来ます。魔力が強くなれば絶対有利ではあっても、絶対安全ではありませんから」

「でも、こっちの位置は敵に筒抜けだから奇襲は無理じゃないかな」

「あ、そうでした……」

 主従契約の悪辣なペナルティーを思い出し、ディアは意気消沈して頭を垂らす。が、それも束の間、直ぐに頭を上げて決意の眼差しで前を見据えると、力強く歩みを再開した。その様子を静観していた長明も、ディアの覚悟を肌で感じてから慌てて猫の尻尾を追う。

「やっと道路に着いた。ディア、敵はまだ居ない?」

「はい。近くには居ません」

 目的地に到着して、少年はやっと一段落と大きく息を吐く。砂利道の端で倒れている灰色猫の死体は、野生動物に荒らされる事無く別れた時と全く変わっていなかった。周囲は月光によって十分に照らされている為、持っていたライトをポケットにしまい、代わりに丸めた古新聞を取り出す。

「ちゃんと葬ってやるからな」

 長明は遺骸に優しく告げて、傍らに古新聞を広げると、三本になった猫の足を掴んでそっと持ち上げる。始めて触れた死体の感触は、外気温や時間経過の影響もあって、冷たくて、固かった。彼は否応無く込み上げてくる生理的な感情に耐つつも、新聞紙の上に灰色猫を乗せて全身を包む。これで即席の棺が完成した。

 次に、直ぐ近くの竹薮に入ってシャベルを構える。ディアが不思議そうに眺めている前で、手始めに邪魔な草を根から除去して脇に放り、土が露出した所へ力一杯にシャベルを振り下ろした。直後、固い物に当たって勢いが止まる。原因は竹の根だった。少年は土を掻き分けて当たったのが石でない事を視認してから、刀床部を踏み付けて根を切断しながら穴を堀り進めてゆく。一連の手馴れた動作はアルバイトの賜物であり、土方の経験が意外な所で役に立っていた。

 埋葬に必要な深さの穴を掘り終えて、少年はやっと二段落と大きく息を吐く。五分程度の小休憩を挟んでから、いよいよ墓穴に紙の棺を入れて、掘った土で出来た小山を切り崩すようにして穴を埋めていった。最後の仕上げに、墓標代わりにと用意した五重塔のミニチュアを置いて、月夜の下、一心に灰色猫の冥福を祈りながら手を合わせた。

「……安らかに成仏してね」

『ありがとう。私も、貴方のような主を得たかった』

 そう、耳元で若い女性が囁いた気がして、長明は反射的に辺りを見回す。しかし、付近に人影は無く、少年を不思議そうに見上げる黒猫が居るだけだった。

「え? あれ?」

「マスター。どうかしましたか?」

「あ、えと。ディア、さっき僕に何か言った?」

「いえ。何も言ってませんが……」

「そ、そう。きっと、空耳かなんかだね。じゃあディア、無事に供養も済んだし、家に帰ろうか」

「はい! 大賛成です。今直ぐ帰って温かい風呂に浸かりましょう、マスター」

 少年の提案に、黒猫は寒さで震えながら猛烈に賛同していた。

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