第三話
重い足取りで一階に下りると、再度芳醇なシチューの香りに出迎えられた。普段なら喜び勇んで食卓に向かう所なのだが、今はどうしてもそんな気にはなれず、最後にもう一度と降りてきたばかりの階段を仰ぎ見る。二階には愛猫の姿も不審な影も無く、しんと静まり返っていた。その代わりに、台所の方向から明るく楽しげな話し声が流れてきて、少年は声のする方に向き直る。
(あれ? 誰だろう。お客さんかな)
長明は最初夫婦の会話かと思ったが、直ぐに聞き慣れた母の声と話を交えているのが若い女性の声だという事に気付く。声に聞き覚えは無い。この時、少年の心中にふつふつと違和感が湧き上がった。母の客人なら普通は居間に通し、台所に入れるような事はしない筈であり、さらに言えば、智江は夕飯時に家を訪ねて来るのは非常識と考えている為、彼女の知人にそんな人物が居るとは考えづらかった。
台所に近付くにつれて会話の内容が鮮明になってゆく。母親と親しそうに話す女の声。その人物が相手を「お母さん」と呼んでいる事に気付いた時、少年は混乱のあまり歩みを止めてしまう。智江をそう呼んでいる人間は長明だけであり、客人の言動は彼にとってどう考えても異常にしか思えなかった。
少年は意を決して台所に入る。手前にある食卓の中央にはすでにシチュー鍋とサラダボウルが用意されており、周囲に規則正しく食器が並べられている光景は、長明にとってすっかり慣れ親しんだ物だった。これでもし、奥で母と見知らぬ女性が談笑をしていなければ、全く以っていつもと変わらぬ日常だったろう。その女は、智江よりも頭一つ分位背が高く、年齢は見た目で二十代前後といった風で上下ライトグレイのスーツを身に纏っていた。背は高めで胸が大きく突き出ていたが体型自体は華奢な部類であり、腰は見事にくびれていて、スーツから伸びる黒ストッキングに包まれた足は細長く、形の良さがくっきりと表れていた。
「あの、お母さん。その人、だれ?」
どうしても初対面の女性に話し掛ける勇気がわかずに、仕方なく母親に質問を向ける。すると、二人は会話を中断して少年の方に向き直った。スーツ姿の女は少年が見惚れる程の美人だったがやはり知らない顔で、向かいに立つ母は、今まで見た事も無いような険が抜け落ちて弛緩し切った顔付きで、気味の悪い薄笑いを浮かべて一人息子を見遣っていた。その普段とはあまりに懸け離れた様子に、少年は背筋に寒い物が込み上げて来るのを感じていた。
「何を言ってるの長明。お姉ちゃんに向かって誰だなんて。もしかして寝ぼけているの」
「え? あの……」
明らかに様子のおかしい母の物言いに、思わず長明はたじろいでしまう。そんな少年に向かって、謎の女が不敵な笑みを浮かべつつ一歩また一歩と近付いてゆく。
黒く艶やかな長髪を揺らして接近してくる女の姿は、身体だけでなく顔全体も鋭利な刃物のようにすっと整っていて、少し釣り上がった目は獲物を狙う肉食獣のように爛々としていた。
「長明。私は貴方の姉で、いつも一緒に暮らしているでしょう。早く思い出しなさい」
直ぐに分かるような嘘を並べている女の両目が、赤く妖しい光を放ち始める。その奇怪な様子を目の当たりにした長明の脳裏に激しく警鐘が鳴り響いた。相手は人間じゃない、その確信が恐怖となって全身を硬直させてしまう。今直ぐ逃げなくては、と少年が焦れば焦るほど手足が震えて思うように動かず、額からは粘つく嫌な汗がにじみ出ていた。
「な、何言ってるんだ。僕に姉なんて居ない。お前は一体……」
「ほう、なるほどな」
進退窮まった長明が苦し紛れに言葉を搾り出す。そんな窮鼠を黙って眺めていた女が、顔に喜色を浮かべて口の端を吊り上げた。
「お前が、主、か……」
「えっ?」
女はそう言って何か納得したように目を細めると、右手を握り締めて前方へ無造作に突き出した。
「ぐはっ」
その拳の動きに連動しているかのような、何か正体不明の強力な力によって長明は全身を殴られ、台所の入り口から廊下の階段前まで跳ね飛ばされてしまう。この時、少年は一瞬だけ自身に迫る青紫色の大きな塊を見た気がした。
長明は何が起こったか分からないまま、とりあえず立ち上がろうと試みるも女はそれを許さなかった。少年を軽く弾いた女は間髪を容れずに突き出した右手で空気をすくうような動作を取る。すると、今度は見えないフォークリフトに持ち上げられたかのように少年の身体が宙に浮いてゆく。彼は空中で訳も分からずに手足をじたばたさせるが状況が好転する様子は一切無く、その姿は陸に釣り上げられてもがく魚のようだった。
「では、鳴いてもらうとするか」
女は勝ち誇ったような声で短く言い放ち、今度は右手で棒状の物を握るような動作を取った。直後、長明の胸から腰にかけて抗し難い圧力が加わり、たまらずに苦悶の悲鳴を漏らす。彼はこの苦痛から逃れようと遮二無二になって両足を振り、自分を締めている何かを排除しようと両手で胴体をまさぐるも、むなしく空を掻くだけだった。自分が使い魔の主だと見抜いている時点で、謎の女がディアの言う、敵、なのだと確信はしていた。しかし、こんなにも強い力を持っている事は全くの想定外で、少年は苦しみと共に深い絶望感を味わっていた。それでも、何とか現状を打破しようと、右手に全力を込めてズボンのポケットに伸ばす。
(よし。あと少し)
「おい、三下。早く来ないと主が死ぬぞ」
「ぐぁっ」
手の指先が銀食器に掛かった途端、さらに締める力が強くなって指を滑らせてしまう。うめき声を上げながら悔しそうに歯を食いしばる少年とは対照的に、女は相手がもがき苦しむ様子を眺めながら心底楽しそうな笑みを浮かべていた。
「マ、マスターを、はにゃせぇぇぇぇぇ~~」
階下の異変に気付いて階段を駆け下りたディアが、気合と共に矢のような勢いで侵入者に飛び掛かる。その動きを完全に予測していた女は余裕を持って待ち構え、突っ込んできた黒猫に左手の裏拳を叩き付けた。
「ぐみっ」
殴られた猫が苦悶の声を残して台所の壁に激突し、大きく弾かれて床に落下した。硬い物に小動物が激しくぶつかる物音に、長明は背筋の凍るような最悪の想像を抱いてしまう。その位置は長明からは死角になっていて、目では今、愛猫がどんな状態なのかは分からないものの、台所から聞こえてくる弱々しいうめき声が、少なくともディアが生きている事を少年に伝えていた。
「ぐっ、ディアっ! は、早く、逃げ……」
「うるさい人間だな。まずはお前から殺すか」
女は蝿を叩くのと同じと言わんばかりの軽々しさで死刑宣告を吐き出すと、突き出した右手に力を込める。それと同時に長明の胴に巻き付いていた圧力が急激に強くなっていった。強烈な力に翻弄される少年。その姿を前に冷笑を浮かべる女の、突く、すくう、握る、それぞれの動きに合わせて掛かる力が変化している事に彼は気付いていた。だが、見る事も触る事も出来ない物にどう対処してよいか分からず、切り札の銀を使おうにも苦しさのあまりに手を自由に動かせなくなっていた。
「クソ……壁を壊す時に使った魔力がまだ回復していないのか。まぁいい。ならば両手でくびり殺すまでだ」
(壁を、壊したのは、こいつだったのか。でも、何で)
とにかく時間を稼ぎたい。長明はその一心で力を振り絞り、右手に左手を重ねようとしている女に向けて声を出す。死が喉元に迫っている少年にとって、それだけが唯一手の届き得る望みだった。
「な、何で、壁を……」
「ん? 最後に何か言い残したい事でもあるのか」
勝利を確信している女は、哀れな獲物が今になって何を言いたいのか、そこに俄然興味が湧いて聞き返す。少年は左手の動きが止まるのを見届けてから、強引に息を吸って押しつぶされそうな肺に空気を送り込んだ。動きを止めた敵を見据えている彼の心には安堵も喜びも無く、只々母親とディアが回復して逃げられるまでの時間、相手の注意を引き付ける、その事しか頭に無かった。
「何で、壁を、壊したの? そんなに、強いなら、壊さない方が、良い筈……」
「なっ、クソっ。お前!」
長明の言葉に、今まで余裕の笑みを浮かべていた女の表情が一変して、真っ赤な憤怒の形相に様変わりした。
「あいつ、あいつさえ居なければ、こんな、逃げるような真似なんかせずとも……」
女は苦々しげに吐き出すと、恥辱に耐えるように唇を噛み締める。この反応を少年はある程度予想していた。かつて行われていた閉鎖空間での殺し合い。もし彼女が一番強いのなら、わざわざ壁に穴を開けて外に出るよりも、閉じられた中で殺し合いを続けた方が有利な筈であった。そう考えると、牢からの脱出は強者からの逃避が目的なのでは、との憶測が浮上するのも自然な流れといえた。
敵の激しい態度から見て、彼の推測が正しかったのは明白であり、この後の反応もまた明白だった。
「もういい。死ね」
しばらくの間地団駄を踏んでいた女が、何かを思い出したように我に返って怒りに血走った目を少年に向ける。その熱烈な視線に反して、発した声は重く、顔は氷のような無表情だった。呪詛に似た殺気を直にぶつけられて、少年はこれまでかと天を仰ぐ。母と愛猫が逃げられたか気になっていたが、もう彼にはどうする事も出来ない。成す術も無く宙に浮きながら、ここまで何とか時間を稼げたのは、襲撃者の傲慢と油断と好奇心が生んだ奇跡だと考えていた。
もう諦観し切っている長明の方に女が力のこもった左手を向けてゆく。その直後。
「ぐぅらぁにゅぅぅぅ~~~とうっ!」
家中に響くような雄たけびを上げて、黒い毛玉が女の顔面の張り付くや思い切り爪を立てる。一瞬で毛玉の正体に気付いた少年は、愛猫の無事を喜ぶ反面、逃げなかった事に落胆していた。相手は立ち向かっても絶対に勝てない化け物なのだから、逃げられるのなら逃げた方が良いに決まっている。そう思って時間を稼いだ長明は、自分を助ける為とはいえ死地に頭から飛び込む事を選んだディアの決断を悲しいと感じていた。
少年の胸中に絶望感が広がる中、思わぬ奇襲を受けた女が苦悶の声を上げてよろめく。その時、長明の目にうっすらと、自身の胴体をつかむ青紫色の大きな手のような物が見えた。そしてそれは女の突き出した腕から伸びていた。
女は皮膚に深々と爪を刺している黒猫を左手で掴むと、皮が裂けるのもかまわず強引に引き剥がした。そして、恨みを込めて床に投げ付ける。投げられたディアも、今度は上手く身体をひねって無事に着地をし、全身の毛を逆立てて襲撃者を威嚇していた。
「この……雑魚の分際でぇっ」
左手で引っ掻かれた顔をおさえて怒気の滲む声を発し、手の隙間から憎々しげに黒猫を睨め付ける。こうして敵の標的が少年から猫に移り変わった結果、長明を拘束している力が徐々に弱まっていった。圧力の減少に伴って、苦痛のあまり今まで満足に動かせなかった少年の両手が活力を取り戻してゆく。美女の姿をした怪物は、今や完全に黒猫の方に注意を向けていて長明の方を見向きもしなかった。今でも逃げた方がよかったと思ってはいても、愛猫が戦うと決めた以上は長明も一緒に戦うしかない。ディアが死に物狂いで作ってくれたこの機会。少年は絶対に無駄には出来ないと感じていた。
先程見えた青紫色の手は再び姿を消していたものの、圧力が消えていない事から見えない手は引き続き同じ所に在るという事が分かっていた。少年は目で女の様子を追いながら、右手をズボンのポケットにそっと差し入れる。銀を見た時のディアの様子から、ここから女に銀食器を投げ付けても十分な効果が期待出来たが、彼は思う所があって別の行動を取る事にした。意を決し手探りでフォークを掴むと、力が巻き付いている自分の胴体に向けて思い切り突き刺す。すると、食器は見えない抵抗で胸に到達する前に止まり、少年の手には肉を割く確かな感触が伝わった。
「ぎにっ、ぐにぁぁぁっ」
突然、女の右腕が血しぶきをあげて弾け飛び、苦痛に満ちた悲鳴を上げて膝から崩れ落ちた。仕掛け人の長明も次いで固い床に落下し、そのままの勢いで尻餅をついてしまう。強敵を前に今まで精一杯虚勢を張っていた黒猫が、何が起きたか分からず目を見開いている中、うずくまっている女の身体から黒い霧のような物が吹き出し始める。その黒い濃霧に身体全体が覆われた直後、発生した時と同様突如として霧消し、後には右前足から血を流す灰色の猫が残されていた。
広がり続ける血溜りに浸って、それでも一人と一匹に射抜くような視線を送り続ける灰色猫。見慣れていない流血と容赦無く放たれる気迫に圧されて長明達は即座に反転攻勢が出来ずにいた。その迷いが相手にとって最高の助け舟となった。敵が直ぐに動かないと察した灰色猫は、死力を振り絞って青紫色の手を出すや台所の窓ガラスを割り、そこに右前足が無くなっているとは思えない程の素早い動きで頭から突っ込んだ。
(あ、まずい)
窓まで続く赤い足跡を見て、少年はやっと事の重大さに気付く。後一歩の所まで追い詰めていたとはいえ、それは相手の油断があってこそであり、絶望的な実力差は相変わらず歴然としていた。このまま取り逃がして態勢を立て直されたら、全く勝ち目は無くなってしまう。少年は逃げる事もまた立派な戦法だという事実を苦味と共に噛み締めていた。
「ディア、直ぐに追いかけよう」
「了解です、マスター」
長明は自分と同じく呆けていた愛猫に声を掛けて頷き合い、並んで破られた窓に向かう。窓の外は月光に照らされた竹林が広がっていて、そこから吹く夜の寒風が容赦無く室内に入り込んでいた。少年は鋭利なガラス片を避ける為に窓を開けた所で、今の自分が裸足だという事に気付く。いくらなんでも土足で追いかける訳にはいかず、かといって正面玄関で靴を履いて戻ってくるような猶予も無い。そんな時、ふと虚空を見詰めて立ち尽くしている母親の姿が目に入った。
「お母さん」
「……え、あれ? 長明……私、今まで一体……」
智江は声を掛けられて反応するも、未だ放心したような顔で息子を見遣っていた。口元は緩み、目は虚ろで焦点が合っておらず、本当に長明が見えているかも分からない。さらに、あの潔癖な母が、床を汚している血や割られた窓ガラスに注意を向けるどころか気付いてすらいない様子を見て、少年の胸に息苦しくなるほどの不安が湧き上がっていた。しかし、彼は見るからに回復していない母親の様子を気に掛けつつも、危機的な緊急事態に対応するべく口を開く。
「お母さん、ちょっとスリッパ貸して」
「え? ええ、良いわよ」
普段なら、まずは理由を聞いて、その理由に納得してからでないと他人の要求には応じない智江が、何も質問する事無く、素直に言う事を聞いて後ろに下がった。少年は、時が経つか、あるいは、妖しげな術を掛けた元凶を退治すれば、母は元に戻ると無理矢理信じて、床に残った桃色のスリッパを引っ掴むと開いた窓から外に落とした。
長明が窓枠を飛び越えてスリッパの上に着地すると、いつの間にか外に出ていたディアが待ちかねたように声を掛けてきた。
「マスター、こっちです」
黒猫が塀の外に向かって細く伸びている血痕を目で示す。それは、敵の行き先だけではなく、出血量も如実に表していた。これなら難無く追い付ける、少年はそう確信して静かにうなずく。相手は常識外れの化け物、であっても、元は猫であり出血すれば当然体力は衰えるだろうから、油断さえしなければ勝てるような気がしていた。
雑草一つ無い敷地の奥には疎らな竹林が広がっていて、揃って夜風に揺れていた。長明は自分の靴に履き替えられなかった事を悔やみながらも、母の温もりが残るスリッパを履いて、意を決して胸の高さまであるブロック塀を乗り越える。
赤い目印は竹の間にある獣道らしき場所に続いていた。そこは小動物が踏みならしたせいで草の丈が他より低くなっており、少年は肩幅程度に開いた竹の隙間に身体を捻じ入れて注意深く進んでいく。
今までは窓から射す台所の明かりと月の光で長明にも血痕が見えていた。しかし、竹林内に入ると、辺りは重なり合う笹の隙間から漏れる月明かりが頼りなく周囲を照らしているのみであり、夜目の利くディアの先導が無ければ追跡は困難だった。視界の暗さと風になびく笹の音、そして姿の見えない敵の存在が少年の恐怖心を無遠慮に煽っていた。草の背が他より低いとはいっても、その高さは少年の膝まであり、足元が全く見えない中を黒猫が掻き分ける草を頼りに進んでゆく。四方はぼんやりと青白く、枝葉の形に明暗が分かれていて、鈴虫の音が近付けば消え、離れればまた鳴り出す、という事を繰り返していた。
「ねぇ、ディア。まだ見付からない?」
「……はい」
ここにきて、少年はある違和感を覚えて顎をさする。当初の出血量から考えれば、もうとっくに動けなくなっている筈であった。
「じゃあディア。血の量は?」
「えと、竹林に入ってからは急に少なくなって、今は小さい点々がまばらに続いる状態です」
「やっぱり……」
ディアの返答に長明は得心していた。出血したままでは追い付かれるか野垂れ死ぬのが関の山であり、外に逃げるよりもそのまま台所で戦った方がより勝算が大きかったに違いない。敵がその事を十分に承知した上で逃げたとするならば……。今、自分達が追っている灰色猫は、恐怖から場当たり的に逃走してのではなく、形勢を逆転する為の明確なビジョンに従って行動していた事になる。
やはり相手は強大な魔物であり、油断など絶対に許されない怪物だった。
主人と愛猫がお互いに無言のまま、只黙々と進んでいると、竹の間から白く光る平地のような場所が見え出してきた。さらに前へ進むと、長明は光っている部分が道路だった事に気付く。そこは、林業従事者が整備している林道で、舗装はされていないが砂利が撒かれており、わだちに沿って土が露出していた。遠くから見て白く光っているように見えたのは、敷き詰められた砂利が月明かりを反照している為であった。
「マスター、居ました。正面の道路です」
「え、どこ」
ディアの視認報告によって、長明の背に凍て付くような緊張が走った。そして、ずっと足元ばかりを気にしていた目線を上げて、奥に白く見える林道を目を凝らして凝視する。それでも道まではそれなりに距離があり、捜査対象も小さい故に発見には時間を要したが、確かに、猫の言っていた通り、砂利道の丁度反対側に灰色の小動物が横たわっていた。
敵の灰色猫は四肢を投げ出して力無く横たわっている風であり、長明達の接近にも気付いた様子を一切見せなかった。しばらく経っても反応するどころか全く動かない相手に対し、猫と主人は全神経を用いて警戒しつつゆっくりと近付いてゆく。どんなに息を殺して忍び足で移動しても、踏み分けた草の音までは消せない。長明はその音に敵が気付かないようにと必死に祈っていた。
冷たい夜気の中、息苦しい程の緊張感に耐え続け、何とか道路まで三メートルの距離に達した所で、不意に倒れていた灰色猫が首だけを持ち上げて追跡者を目線で捉えた。丸い両目を光らせて竹薮内を正確に見据える様は、落ち着いていて迷いが無く、敵の到着が予定通りといわんばかりであった。
「意外に遅かったな三下。どうした、来ないのか? 早く決着を付けないと、他の使い魔から横槍が入るぞ」
「か、かか、観念しれにゃ。い、今はこちらが有利ですにゃ」
敵に発見され動きの止まった長明達に対して、追い詰められている筈の灰色猫から声が掛かる。それは、夜の空気に良く通る、自信に満ちた若い女性の声だった。対して黒猫が応ずるも、相手とは対照的に口調は歯切れが悪く声は震えていた。
灰色猫は明らかに挑発していたが、ディアの方は警戒心をあらわにして動く気配すら見せない。長明はその様子を見て安堵の溜め息を漏らす。敵は何か罠を用意して相手が誘いに乗るのを待っている可能性があり、ここは、ディアと緊密に連携して行動するのが最良だと考えていたからだ。
「随分と偉そうな口を利くようになったな。コソコソと私の後を付け回していた雑魚の分際で」
「なっ、なっ、なっ、それは……」
灰色猫の忌々しげな物言いは、どうやらディアの過去についての物だろうと長明は察していた。愛猫の辛い身の上は知っていて、軽はずみに詮索出来るような事ではないと分かってはいても、明らかに周章狼狽している黒猫の様子を見るにつれ、かつて囚われていた時期に一体何があったのだろうとつい気になってしまう。そして、もっと気になったのは、今さらそんな昔話を持ち出してきた理由とその思惑であった。
「ディア、大丈夫?」
「はにゃん! にゃ、にゃんでもありません。マスター」
居ても立っても居られず左右に行ったり来たりしていた黒猫が、不意に後ろから声を掛けられて飛び上がらんばかりに驚く。声の方に振り返った猫は、今にも泣き出しそうに目を潤ませていた。それを見て少年は不用意な声掛けを心底後悔した。
「小賢しく隠れながら、私の食べ残した死体を貪っていたくせに。分をわきまえろ三下」
「ぐ、ぐ、ぐにゅにゅ……」
敵の横柄な発言に、ディアは何かに耐えるように小刻みに震えていた。長明には、それが羞恥によるものか憤怒によるものか分からない。ただ確実に言えるのは、灰色猫の言っている事は真実であり、もう一つ、このままでは相手の目論見通りにディアが挑発に乗ってしまうという事だった。少年は危機感から、何とか愛猫をなだめようとした矢先。
「マ、マスターの前で、変な事言うにゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
結局長明の声は間に合わず、遂に我慢の限界を迎えたディアが猛然と灰色猫に向かって突進してゆく。生きる為にした事、自分一匹だけだったなら中傷に耐える事が出来たろう。しかし、敬愛する主人の前で、己の醜悪な過去を暴露されるのは我慢がならなかったのだ。
そんな黒猫の動きを見て、灰色猫は邪悪な笑みを浮かべると、予定通りに力を振るう。例の見えない手は、長明達が来る前から、とある場所に伸ばしてあった。
愛猫の進む道路に血痕が見当たらない事に気付いた長明は、直ぐに制止しようと声を出しかける。それとほぼ同時に、突然何本もの竹がメキメキと音を立てて彼の頭上から降ってきた。少年は咄嗟に後ろに倒れ込んで回避する。あと一瞬逃げるのが遅れていたら、竹が頭部に直撃して、身体全体が倒れた竹の下敷きになっていたに違いない。さらに幸運な事に、直近の竹が支えになって足が埋まるのを防いでいた。
「ぎゃふんっ」
山と積まれた竹の奥からディアの悲鳴が聞こえてくる。少年は迷った。弾力がある上に表面に油のある竹の山をよじ登った方が早いか、周囲の竹の間を半身をずらして回り込んだ方が早いか。そして、どちらも到底間に合わないと結論付けて、満天の星が輝く澄んだ夜空を見上げる。
「馬鹿な奴だ。さて、残念ながらいたぶっている余裕は無い。まずは手早くお前を殺して魔力と右足を回復させるとしようか」
「ぎぃにぅ~」
灰色猫が青紫色の手で黒猫に止めを刺さんとしていた最中、付近で砂利が何か固い物を弾いたような物音が響く。と、同時に、全神経を引き千切られるような苦痛が二匹を襲った。
長明が竹の束を迂回して農道に到着すると、灰色猫が来た時と同様に横たわっていた。彼はジャージに付いた土汚れを払いもせずに、銀のナイフを片手にゆっくりと近付いてゆく。そこに居るのは敵の猫一匹だけで、軽く周囲を見回しても愛猫の姿は見当たらなかった。
ある程度進んでから、十分な距離を保った状態で立ち止まり、持てる集中力を総動員して相手の現状を精察する。灰色猫の右前足からは出血が再開していて、少年が近寄っても首を上げて姿を確かめる事も無く、顔を地面に預けたまま荒い呼吸を繰り返していた。その、激しく胸部が上下する様から、敵にはもう反撃する余力すら残っていないのが容易にうかがい知れる。猫の直ぐ前には、少年が竹薮から放り投げた銀のフォークが転がっていて、青白い月光を反射して鈍く輝いていた。
これは、賭けであった。倒れた竹によってディアと分断されてしまった少年が、他に方法も無く、えいやという心持ちで灰色猫の居たであろう方角に銀食器を放り投げたのだ。もしかしたら、食器が敵に当たらずに相棒の方に当たるかもしれない。そういう可能性はあっても、ディアが独力で相手を倒すのを待つよりはよっぽど分の良い博打だと彼は咄嗟に判断した。
「……くそ、生きていた、のか、せっかく、挑発して、確実に、はぁ、はぁ、おのれ、この、わたしが、はぁ、はぁ……」
「あの、大丈夫? こっちは死にたくないから戦っただけで、別にこれ以上苦しめるつもりは無いから」
相手は得体の知れない化け物で、しかも殺されかけたにも係わらず、長明は憐憫から二つの銀食器をポケットにしまうという形で矛を収めた。この名も知らぬ灰色猫も、ディアと一緒で元は罪の無い猫であり、望んでいないのに使い魔に変えられただけ、という同情心もあって、どう見ても瀕死の相手を死ぬまで苦しめる必要は無いと判断したのだった。最初は愛猫を守る為に、相手を殺す事も辞さないと覚悟を決めたつもりだったが、いざとなると、生き物を、しかも人語を解する知的な生物に止めを刺すのはさすがにためらわれた。それに、もうその必要も無かった。
「……甘い、な……でも……」
最初は、勝ち誇って自分を見下していると感じていた猫も、少年の心底労わるような優しい気配を察して完全に毒気を抜かれてしまう。そして、朦朧とした意識の中で、自分の死期を悟った猫は、ゆっくりと目蓋を閉じた。
小刻みだった呼吸も止まり、完全に動かなくなった灰色の死骸を少年がやりきれない思いで眺めていると、付近の草むらから草の揺れる音がして、そこから黒猫がひょっこりと顔を出す。ディアは銀食器を認めた途端、脱兎をも凌駕する速度で竹林に飛び込んでいたのだ。草の陰に身を潜めていれば銀の影響を受けずに済む。この黒毛の使い魔は、逃げる事と隠れる事だけは誰にも負けない自信があった。
「どうやら、死んだみたいですね。それにしても驚きました。いきなり酷いです、マスター」
「あ、ごめんごめん。他に方法が思い付かなかったから」
「あ、いえ、、ええと、別に怒っている訳では……。その、助かりました、マスター。で、ですね、あの、奴の言っていた事なのですが……」
「あぁ、それは、ディアが生き残る為にやっていた事だし、別に気にしてないよ」
気にしていない、言葉だけでなく態度で示すべく、彼は屈んで黒猫の垂れた頭を優しく撫で回す。
「にょふん。おお、何と器の大きい。凄いですマスター。今、正に、私の忠誠心は未曾有の大フィーバーですぞ」
「うん。それは良かった」
どこか後味の悪さを覚えつつも、危機を脱した安堵感から普段の調子に戻って語り合う一人と一匹。その目の前で、地面に横たわった灰色猫の口が内から押し出されるように大きく開き、そこから飴玉のように小さくて丸い物体が迫り出てきた。それは、白い微光を放ちながら宙に浮き上がり、徐々に黒猫の方に近付いてゆく。
どう見ても正体不明の玉を、ディアは何の躊躇いも無く一気に丸呑みしてしまう。その横で、形は飴玉に似ていても、まさか食べられるとは思っていなかった長明は、驚きのあまり口を開けたまま絶句していた。
「ぬふぉぉぉぉっ。私は今、猛烈にパワーアップしました。どうですか? 分かりますか? マスター」
「いや、そう言われても、特に変わったようには見えないけど……」
「むむむっ。仕方ないですね。では、後でじっくりと解説する事にしましょう、私がどれだけスペシャルな存在になったかをっ!」
そう言って猛牛のように鼻息を荒げているディアを、少年はやや呆れた笑顔で眺めていた。
「じゃあ、こいつを埋めてやらないといけないし、一度家に戻ろうか」
「はい。マスター」
主従は頷き合うと、来た道を戻り始める。まだどれだけの敵が残っているか分からず、全ての敵に位置情報が知られている分、依然として不利な状況なのは変わらなかった。それでも少年は、自信満々に強くなったと自称している愛猫を信じて、一人と一匹で力を合わせて難局を乗り切る決意を固めていた。