第二話
長明が1階に降りると、生姜焼きの香りが鼻孔をくすぐる。その匂いに導かれるままキッチンに向かい、そこにある食卓の椅子に腰を下ろす。事前に父親から残業で帰りが遅くなるとの連絡があり、テーブルには母と息子二人分の食事が用意されていた。
「やった、今日は豚肉の生姜焼きか。今日は予定外の運動をしたからもう腹ぺこだよ」
夕食を前に嬉しそうに言いながらテーブルの上に用意されたポットから麦茶をコップに注ぐ。椅子に腰を下ろした彼の前には、炒め物の他にご飯とポテトサラダと白菜の浅漬けが並んでいた。
「では、いただきます」
息子が手を合わせると智江も向かいの椅子に座って同じように手を合わせる。そして、長明が嬉々としておかずを箸で掴むとの同時に智江が口を開いた。
「ところで長明。猫の方はどうなの?」
「え? うん。えーと、そうだね。随分と人懐っこくて、しかも賢いから躾とかは随分と楽だよ」
少年は母親がてっきり不潔な野良猫だったディアを毛嫌いしていると思い込んでいた為、母が真っ先に猫の事を訪ねてきたのに驚いてしまい、少ししどろもどろになってしまう。
「何だか凄く人間慣れしていて、人間の言葉とかもどことなく分かってる感じなんだ。あ、それと、猫にはディアって名前を付けてあげたよ」
「あら。その名前って何か由来があるの?」
「それは、えっと。名前を考えてたら部屋にある『ディア・フレンド』って本が目に入って、題名の意味はよく分からないけど響きが良かったから」
「そうだったの。ディア、か。とても良い名前ね」
長明はディアが人間の言葉を喋る使い魔だという事を隠しつつ、とても賢い猫という事にして母に説明する事にした。
猫に名前を付けた事を満足気に語る息子の様子に、智江もつい顔をほころばせてしまう。ディアという名前も、言葉の意味を知っている彼女にとっては良い命名に思えていた。
「人に慣れてるって事は、人に飼われていた猫が何らかの事情で捨てられてしまったのかもしれないわね」
智江は温和な笑みから一転して憐憫の情が浮かんだ顔で漏らすように告げる。言葉ではディアが捨て猫だったというのが仮定でしかないような物言いだったが、実際には強く確信している風でもあった。今まで猫に全く興味が無いと思っていた母がディアの不幸な境遇に同情し身を案じる様は、少年にとって意外な反面、懐かしさも覚えていた。それは、彼がまだ躾よりも保護が必要だった時分に智江がよく見せていた表情だったからだ。
「……僕もそうだと思う」
本当は悪い魔術師の元から逃げ出したという事情を知っている少年は、それでも正直に話す訳にはいかず、母の言に相槌を打って誤魔化す。それに、捨てられてとしても投げ出したとしても、等しく同情すべき境遇だという想いも彼にはあった。
「長明。拾ったからには責任を持って、ディアをちゃんと世話してあげなさいね」
「うんっ。もちろんそのつもりだよ」
智江は毅然とした反論を許さない態度で息子を説諭する。長明も最初からディアをないがしろにする気は毛頭無かったので、即座に明るい笑みで応じていた。
そして、彼は母が柔和な顔に戻るのを確認するや、いよいよ生姜焼きと白米を怒涛の勢いで掻き込んでいった。
◇ ◇ ◇
長明の父親が通勤に利用している最寄駅から五十鈴家を通り過ぎて、今まさに宅地造成が進んでいる箇所を越えると、なだらかで緑生い茂る山岳地帯が広がっている。今も昔も林業が盛んな山々。そのさらに奥の方に、もう使われなくなって久しい背の高い雑草に埋もれた山道があり、もはや道とは呼べぬような道の先には一軒の朽ちかけた洋館が建っていた。何の為に、誰が建てたのか、それを知る者はもう居ない。この、山道と同じく雑草に囲まれ、外壁はどこからか伸びた蔦で埋め尽くされている建物の一角。二階部分の角にある窓から灯火の明かりが漏れていた。
周囲の草むらに人の踏みならした痕跡は無く、人など住んでいよう筈の無い古びた館。しかし、その一室には、灯を点した人物が存在し、揺れる蝋燭の炎が室内と何者かを照らしていた。
そこは六畳程の広さがあり、唯一の窓と正面の扉以外の部分は本棚で埋め尽くされている事から、元々は書斎として使われていた部屋だったのが見て取れる。屋敷全体の規模からすれば小部屋ともいえる元書斎の中央には、光源である銀の燭台が乗った木製の丸テーブルがあり、その傍らでは黒いフード付のローブを身に纏った男が椅子に深く腰を下ろし、分厚くて見るからに経年劣化の激しい本に目を落としていた。
「只今戻りました。導師様」
ドアも窓も閉め切ってある部屋に、いつの間にか大きく黒い鳥が入り込んでいて、人語を発しつつテーブルを挟んで男の正面にある椅子に止まる。ローブの男は突然の出来事を気にする風も無く、慣れた様子で目線を落としたまま返事をした。
「お帰り、夜観首尾の方はどうだい?」
男がいつもの調子で掛けた声に対し、相手が珍しく口ごもった様子で即答してこなかった為、ようやく本に落としていた目線を上げて前方の大烏を見据える。鼻先にある炎に照らされた男の顔は、目の部分は黒い前髪に覆われているものの、顔全体は若々しく精悍な顔付きをしていた。
「それが、一つ大きな問題が発生してしまいました」
「ほう……」
何とも申し訳なさそうに目を伏せる夜観。それを見る主の顔には、不始末への怒りではなく、少年のように純粋な好奇心が浮かんでいた。
主人による無言の催促を受け、使い魔は忠実に事態を詳述してゆく。
「申し上げます。監視対象の一体が主を得ました」
「……ふーん。で、私の使い魔候補を横取りしたのは他所の魔術師かい?」
「いいえ。何も知らぬ一般人の少年です」
夜観の報告を受け取った魔術師は、さも不思議そうに右手で顎をさする。
「ふむ。それは妙だな。現時点で主人を得ても足手まといになるだけなのに」
彼が疑問に感じるのも無理はない。主従の契約方法を知っているのは魔術の知識がある者と使い魔だけであり、少年の方に知識が無いのなら使い魔の側から契約を申し出たと考えるのが妥当だった。そして男がつぶやいたように、使い魔として完成する前に何の力も持たない主を得ても意味が無いばかりか、契約した以上は主人を命懸けで守らねばならず、結果、主従の契りは重い足かせにしかならなかった。
「いえ、導師様。契約は偶発的な事故によって成立したようです」
「あぁ、そいいう事か。なるほどね。でさ。もしそいつが勝ち上ったりしちゃったら、ちょっと困っちゃうよね」
報告を聞き終えたフードの男は、顎をさすったまま言葉を漏らす。その声は穏やかな物だったが、重苦しい何かを含んでいるようでもあった。自身に向けられた魔術師の声を聞いた使い魔は、含まれている物を敏感に感じ取って緊張と恐怖で体を硬直させる。
「導師様。どうかこの夜観めに失態を挽回する機会をお与え下さい」
「え? 別に責めてる訳じゃないよ。相手が魔術師なら私の仕事だし、事故じゃ防ぎようもない。でも、ま、お前がそう言うなら対応は全て任せるよ」
必死さの滲む下僕の申し出に、男は軽い口調でそう返すと、話はこれで終わりとばかりに視線を落として読書を再開した。
「御下命、承りました」
大烏は主人に深々と一礼すると大きな翼を広げる。そして、来た時と同じく数本の黒い羽を残して部屋から姿を消した。
◇ ◇ ◇
翌日の夕方、長明の部屋では黒猫がベッドの上で惰眠を貪り、対照的に濃紺のジャージに着替えた部屋と猫の主は学校帰りに買い求めた猫に関する書物を机に広げて貪るように読んでいた。
柔らかい布団に身を沈め、主人の傍で安らかに寝息を立てているこの飼い猫は、超級の栄養価を誇るマグ・マックスと丹念なブラッシングの効果により、たった一日にして肉付きと毛並みに劇的な変化が訪れていた。全体的に丸みを帯び、光沢のある黒毛に包まれたその姿は、見るからに餓死寸前だった昨日とは雲泥の差といえる急速かつ凄まじい改善であった。
「うん。だいたい猫の飼い方が分かってきたぞ」
調べ物も一区切りついて、長明が組んだ両手を伸ばしながら椅子の背もたれに寄り掛かる。そして何気なく部屋に視線を移すと、布団の上で丸まって、呆れる位に安心しきった顔で寝息を立てているディアが目に入った。
「まったく暢気なもんだな。こっちはお前の為に頑張ってるっていうのに」
主人はやれやれといった表情でそう言いながらも、慈しむような眼差しで立ち上がり、夕日に照らされている無防備な愛猫の頭に手を伸ばす。
「ふにゃっ! にゃ、にゃにゃにゃっ!」
手の平が猫の頭部に触れる直前、ディアの耳が激しく揺れ、少年が驚いて手を引くと同時にがばと跳ね起きる。起き上がった黒猫は何事かと凝視する主を他所に、混乱した様子で忙しなくベッドの上を歩き回っていた。
「そんな。そんにゃ。な、何でこんにゃ事に……」
「ど、どうしたのディア」
猫の行動に尋常でないものを感じて長明は声を掛ける。そうしてやっとディアは主が心配そうに見詰めている事に気付いて足を止めた。
「ま、マスタぁー。ううっ。このままでは私、殺されてしまいますぅ」
「え? 殺されるって、そんな、どうして」
愛猫から何の脈絡もなく物騒な言葉が飛び出してきた事に戸惑う長明。率直に何か悪い夢でも見たのではないかと訝しんだが、大粒の涙を零しながら小刻みに震えている姿に本物の恐怖を感じ取って、まずは落ち着かせる為にも詳しく話を聞いてみる事にした。
「なぁ、ディア……」
「マスター! い、今直ぐに銀、銀を持ってきて下さい。お願いします」
「あ、えと、銀って金属の?」
「はい、そうです。急いで下さい。でないと、敵が」
「敵って……う、うん。分かった。じゃあ直ぐに探してくる」
またしても突然に、今度は意図の全く分からない要求を出されてしまい、少年は疑問を差し挟むいとまも無いままディアの鬼気迫る様子に押されるような形で部屋を飛び出す。
銀を探せ、といきなり言われても彼には全く以って心当たりが無く、とりあえず物置を漁る前に、一応台所で調理中であろう母親に聞いてみようと考えて階下へと降りていった。
「お母さん。ちょっといいかな」
「あら、長明。何?」
長明は台所に入るや包丁でまな板を叩いている智江に声を掛ける。何事かと振り向いた彼女の傍らには弱火で煮立てている最中の鍋があり、そこから濃厚なシチューの香りが漂っていて食べ盛りな少年の食欲を掻き立てたが、愛猫の為にも今は目的に集中するべしと口を開いた。
「あの、銀製の食器って、どこかに無いかな?」
「銀のって……そんな物何に使うのよ」
「いや、その、あー、うん。何かさ、本物の銀ってどれだけ綺麗なのか、磨いて確かめたくなっちゃって、それで……」
息子の様子から智江は口から出任せだというのを見抜いていた。しかし、それほど高価な物でもなく、彼の目には真摯な輝きが宿っていた為、今まで育ててきた経験則から、少なくとも正直に言えないような悪企みは無いだろうと判断した。彼が本気で物事に当たる場合は、よくこんな目付きをする。息子も思春期を迎え、何でも親に話すような年齢ではなくなった事に少々寂しさ感じつつも、彼女は顎に手を当てて記憶の糸を手繰っていく。
「そうね。確か新婚旅行でフランスに行った時に、ナイフとフォークのセットを買った覚えがあるわ。多分食器棚の中にしまってあるはずよ」
「食器棚だね。うん、分かった。探してみる」
「用事が終わったら、ちょんと元に戻すんですよ」
「うん」
長明はあせった様子で簡単に返事をするや、母親が視線で示す食器棚の引き出し部分に手を伸ばす。丁度腰の高さにある取っ手を引くと、探すまでもなく使い古された食器と区別されてブランド名の書かれた白い木箱が目に入った。直ぐに少年は『OLIVIER』とプリントされた箱を取り出して中身を確認する。中には銀色に光るスプーンとフォークとナイフが各二本づつ、計六本が整然と並んでいた。
「お母さん。これかな?」
「ええ、そうよ」
彼にはステンレスと銀の区別が付けられなかった為、間違いないとは思いつつも一応母親に確認する。智江は息子が手に持った箱を少し懐かしそうに眺めてから、うなずいて振り返るとそのまま調理に戻ってしまった。その姿が、好きに使え、という母なりのメッセージに思えた少年は「ありがとう」という言葉を残して二階に駆け上がった。
長明が急いで部屋に駆け戻り部屋の照明を点けると、窓際で外の様子を伺っていたディアが期待の滲んだ表情で主人の元に駆け寄った。
「どうでしたかマスター。銀は見付かりましたか?」
「うん。これで良いんだよね?」
そう言って猫に見えるように箱の蓋を開ける。直後に猫は。
「ひぃあぅうぃぃぃ~~ごっ!」
地獄の底から響くような悲鳴を上げて、部屋の隅まで後ずさると縮こまってガタガタと振るえだす。
「えっ? ディア、大丈夫?」
「はっ、はっ、早くその危険物質を、し、仕舞って下さいぃ~」
「あ、うん」
少年は猫に言われるまま木箱を閉じる。すると、一瞬にして入り口の反対側まで逃げていた黒猫が、ほっと胸を撫で下ろした表情で元居た所に戻っていった。
「ふぅ、死ぬかと思いました」
「ディアは、銀が苦手なんだね。でも、どうしてそんな物を用意しろなんて。それに、敵、って何の事?」
数々に及ぶ愛猫の怪奇な言動に対して、至急の用件を果たした少年は堰を切ったように溜まっていた疑問を並べ立てる。主の率直な問いを受けてディアは、少し言い辛そうに下を向くも、何かを決意したように向き直って口を開いた。
「まずは、簡単に事情から……あの、ですねマスター。私の他にも、魔術師よって作られた猫の使い魔が、その、たくさん居てですね。ずっとお互いに殺し合っていたんです」
「えっ? 殺し合うなんて。そんな、どうして」
「それは……強力な魔力を得て、完全な使い魔、になる為です。私達使い魔は、その為に生きているといっても過言ではありません」
「いや、でも。じゃあ、ディアも他の使い魔を殺したり……」
「そうです、と言いたい所なのですが、その、私は弱すぎてですね、ずっと逃げたり隠れたりするのが精一杯でした。そうこうしている内に何故か突然壁に大きな穴が空いて、喜び勇んでそこから脱出したんです」
そこまで話して、ディアは羞恥から俯いてしまう。狩る側の強者ではなく、狩られる側にいるという事実を恥と感じていたからだった。しかし、長明の方は逆に愛猫が同族殺しに参加せず隠れていた事に安堵していた。ディアが自分の思っていた通り、不器用で気の弱い善良な猫だと確信した直後に、遅れて疑問が湧き出してくる。
「壁に穴って、ディアはどこかに閉じ込められていたの?」
「おお、言い忘れていました。これは失敬」
ディアは思い出したように目を見開いて続ける。
「マスターの仰る通り、私達は暗くて広い場所に閉じ込められていました。そこでは餌も与えられず、食べられるのは同じ使い魔の死体だけだったんです。だから、食い殺されない為にも出来るだけ早く、その、強くならねばならなかったのですが、どうにも私は他と比べて狩りが苦手なようでして、面目無いです。もし壁に穴が空いてなかったら、とっくの昔に殺されていたでしょう」
「随分と、酷い話だよね。じゃあ、その地獄みたいな所を脱出した後に空き地で僕と出会ったんだ」
「はい。その通りです」
黒猫の肯定を境に、室内の空気が重く沈んでゆく。自分の周囲に流れる雰囲気を敏感に察知した長明は、猫を気遣いながら勤めて明るい声で場の空気を撹拌する。
「どうりで痩せていた訳だ。でも、結果的にはこうして僕と一緒に暮らせるようになったんだし、もう大丈夫じゃないかな」
言いながら少年は愛猫の頭を優しく撫でた。しかし、気持ち良さ気に目を細めて愛撫を受け入れているディアを見ても、放った言葉とは裏腹に不安が降り積もっていく。まだ、迫り来る敵については何も聞いていないのだ。
「はい、はいっ! 感謝してます、マスター。でも……」
感涙で目を潤ませつつ手の平に身を任せていた黒猫が、真剣な眼差しで主を見上げる。そんな様子を見て長明は、いよいよか、と思い撫でていた手を引いて姿勢を正した。
「残念ながら、もう平和ではいられません。つい先程、何者かから魔力によるメッセージを受信しました」
「それって、例の魔術師から?」
「いえ、口ぶりから察するに、魔術師の手下か何かだと思います。で、その内容ですが『今から、使い魔候補全員に、勝手に主従契約を結んだ固体の位置情報を送ります。魔導師様の定めた主人以外との契約は厳禁です。もし、禁を侵せば、必ずこのようなペナルティを科します』と言ってました」
「じゃあ、ディアの命を狙う敵全員に居場所がばれちゃったんだ」
「はい……」
「まぁ、道理は分かるけどね。魔術師も使い魔が欲しくてこんな事をしてるんだろうし。でもさ、契約を破棄してディアを普通の猫に戻す事が出来れば、もしかしたら許してもらえるんじゃないかな。僕、ディアが死んじゃうなんて嫌だよ」
「マ、マスター……」
ディアは主の純粋な想いに感無量となって目を潤ませる。しかし、この儀式は長明が思っているような甘い物ではないという、自分には変えられない現実が心に暗い影を落としていた。
「主従契約は魂と魂の間で交わされる物で、破棄も上書きも出来ません。それと、同儀式内の使い魔に殺される以外に元の動物に戻る方法は無く、もし主が死んでしまっても、使い魔は生まれ変わりをずっと待ち続ける事になります」
「そこまで強力な契約なの? ディアは偶然僕の血を飲んだだけなのに……」
「はい。だからこそ、相手はこういう手段を使ったのだと思います」
猫が言葉を吐き出し終えると苦々しげにうつむいてしまう。照明の下でうな垂れる主と僕の顔にさす影が、向かい合う両名の苦悩を端的に示していた。
しばらく無言で対応策を思案していた長明の耳に、階下から微かに呼び鈴の音が届く。父親は家の合鍵を持っている為、どうせ配達か来客だろうと判断して再び思考モードに入った。今の彼にとって重要なのは、猫の姿をした他の使い魔からどうやって愛猫を守り抜くか、只それだけだった。
「マスター、今の音は?」
「あれは来客を知らせるブザーだよ。夕飯時だから多分配達じゃないかな」
「そうですか……あの、マスター、あの」
「ん?」
黒猫は何とも言い辛そうな仕草で少年を仰ぎ見る。ディアには主人を危険な厄介事に巻き込んでしまった、という深い負い目があった。それでも、気合を振り絞って重くなってしまった口を開く。
「マスター。実に不本意なのですが、私は弱すぎてマスターを守る事が出来そうにありません。私達使い魔の弱点は銀です。ですから、自身に危険が迫った時はその銀食器を使って身を守って下さい。私の方も体を張ってマスターに危害が及ばないよう図りますから」
言っている事自体は情けない部類の物であったが、言い切った時のディアには悲壮な覚悟が滲んでいた。その様子から、愛猫が身を置いている世界がいかに物騒か、長明にはひしひしと伝わっていた。
苦しい現状をありのままに伝える事が良い結果をもたらすかどうかは分からない。ディアとしても、長明の不安を払拭する為に主の身は絶対に守ります、と言い切りたい所なのだが、安っぽい気休めを言うのが精一杯というのが現状であった。
そして、危険を顧みずに主を守るという使い魔の決意とは裏腹に、少年の方も何とかして新たな家族を守りたいと願っていたのだった。
「長明ー。晩御飯ですよ」
「あ、うん。今行く」
いつもの定刻通りに母の呼ぶ声がして、長明の思考が現実に引き戻される。
「ディア。ここはとりあえず、僕と一緒に……」
「いえ、敵の狙いは弱い私ですから、一緒じゃない方が多分安全です。私はここで外を見張っていますから、マスターは食事に行って下さい」
「うん。分かった。じゃあ、外を見やすいように部屋の電気消しとくね。あと、ドアも開けておくから、何かあったら直ぐに逃げるんだよ」
「はい。お気遣い感謝します、マスター」
長明はナイフとフォークを一本づつジャージのポケットに仕舞い、猫に後ろ髪を引かれるような思いで部屋を出る。先に言った通り明かりを消してドアを開け放つも、それだけの用心では心の不安は晴れなかった。