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使い魔一年生  作者: 多文 亀之助
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第十話

「そんな馬鹿なっ!」

 旧客間でくつろいでいた美雪が、突如閉じていた両目を見開いて叫ぶ。今まで、遥か遠くをうろついていたディアの反応が、急速に、そして最短距離を縫うような順路で迫っていたのだ。

「早い……まさか、車?」

 迷う様子もなく近付いて来る相手の速度は、猫や人にはとても出せないような高速だった。敵は恐らく自動車で移動している。そして、この場所を知っている車は一つしかない。

 しまった、そう美雪は心中で呻き、自らのツメの甘さを呪った。あの黒猫は、何らかの方法で美雪が使い捨てにしたタクシーを見つけ出し、逆に利用して自分の主に合流する腹積もりなのだ。そう気付いた白猫は悔しさのあまりギリギリと歯軋りをする。

 だが、まだ到着まで幾ばくかの間がある。今直ぐに行動すれば、厄介な結界服を脱いだ長明を捕らえて人質にとる事は十分に可能だった。これが上手く行けば、当初の予定通り、という結果になる。

 兎にも角にも、今は時間との勝負、勝利の為には一刻も早く行動に移らなければならかった。

 正にその折、廊下に続いている引き戸の奥から親しげに話す晶子の声が漏れ聞こえてくる。それを聞いて、まだ自分に運が残っている事を確信した美雪は、可憐な少女の姿に変じて引き戸に手を掛けた。


 ◇ ◇ ◇


 長明と晶子がのんびりとした足取りで、揚げ物の芳ばしい匂いを放出している居間に向かっていると、突如として居間の引き戸が勢い良く開き、中から血相を変えた美雪が飛び出してきた。

 その顔付きは先程の人懐っこい笑顔とは懸け離れた物で、焦りの色濃く浮かんだ形相で血走った目を長明に向けていた。

「ど、どうしたの美雪。そんなに慌てて」

「うるさい。黙れ」

「あ、はい」

 突然の事に驚いて妹に声を掛ける晶子。そんな姉に対して、美雪は苛立ちを隠そうともせずに一喝した。この、あまりにも一方的かつ無礼な妹の態度にも係わらず、姉の晶子の方が怒りもせずに唯々諾々と言に従う。

 長明にとってもこれは予想外の出来事であり、咄嗟に隣の晶子を見遣る。客人の手前、彼女が怒りを抑えているのだとしても、不快感は顔に出ていてもおかしくない。それなのに、隣の少女は怒るどころか全くの無表情だった。そして、感情の一切が抜け落ちた晶子の表情には見覚えがあった。

「まさか美雪ちゃんが……」

 少年は思わず漏らす。その顔面は蒼白で、震える足を引きずるように後ずさっていた。昼間に人の姿で現れたのは正体を隠す為の仕掛けだった事に今さら気付いて、少年の心中では怒りと悔悟の念が渦巻いていた。

 一瞬にして窮鼠と化した少年の滑稽な様子を目の当たりにして、対峙している美雪はかつての余裕を取り戻してゆく。もう既に、勝敗は決したも同然であった。

 夜になって万全となった美雪は、魔力を放出して青紫色の巨大な腕を作り上げる。実体か幻か、空中を陽炎のように揺らめく魔法の手が、主の気合と共に獲物へと襲い掛かった。

――バシンッ――

 長明の全長よりも大きな手が彼を鷲掴みにする刹那、強力な見えない何かによって弾き返された。

「なっ、くそっ」

 美雪は驚愕に目を見開いて、突き出した腕を庇うように引っ込める。それに合わせて、魔力の腕も後退していった。

「お前、服を替えた筈なのに、何故……」

 彼女の問い掛けにも、少年は安堵の溜め息を漏らすばかりで答える気配は無い。美雪は今、混乱の只中にあった。今、長明が着ているのは、間違いなく志乃が用意した物であり、その格好は物事が計画通りに進んだ事を雄弁に物語っていたからだ。

「ま、まさか」

 服が原因じゃなければ一体。そう思案する美雪の脳裏にある可能性が閃いた。原因は外ではなくて内、彼が着ている服の下にあると考えれば辻褄が合ってしまう。

 彼女の推測は正しく、長明の求めに応じてディアは服だけでなく下着にも結界を張っていたのだ。彼はその中から、肌着であるTシャツのさらに下に着込んでいた白のランニングシャツを抜いて脱衣場の棚に隠し、緑茶の匂いを落とす為に染みの部分だけを洗面台で軽く水洗いをしてからドライヤーで乾かし、生乾きの心地悪さを我慢して着続けていた。にも係わらず今まで不安気だったのは、水洗いをしても結界の効果が残っているか半信半疑だったからだ。

 焦りの色がありありと見える少女を尻目に、長明は布ズボンのポケットに手を入れて銀色に輝くフォークを取り出す。途端、美雪の全身に息が詰まる程の重圧がのし掛かった。

「くっ、くぅ」

 猫少女は苦悶の表情で一歩後ずさる。今や形勢は完全に再逆転していた。しかも、強力な援軍が直ぐそこまで迫っている。そんな折、少年の傍らで呆と立ち尽くす晶子の姿が目に入った。

「晶子っ、今直ぐこいつの下着を脱がせ!」

「うん。分かったわ美雪」

「え? あ、ちょっと待っ」

 全くの無警戒だった晶子に突然抱き付かれて、少年は彼女と抱き合ったまま床に倒れ込んでしまった。

「長明君。お願い、服を脱いで。私も手伝うから」

「あ、あのっ、いきなりそんな。あふんっ」

 そして、さらに。

「もぅ。何廊下で騒いでいるのよ」

 廊下での異変に気付いた志乃も居間から顔を出す。そこにすかさず美雪の指示が飛んだ。

「志乃。お前も長明の服を脱がせ」

「え? えぇ。美雪のお願いなら仕方無いわね」

「な、そんな」

「じゃあ、長明君。じっとしててね。私が服を脱がせてあげるから」

「あ、お母さん。私も手伝う」

「あら。では私が上着を脱がせるわね」

「うん。それじゃあ、私はズボンの方を……」

 県内屈指の美女と美少女二人に密着された上に、身体をいいようにまさぐられて、少年は目を白黒させて悶える。志乃の柔らかく豊満な胸が、晶子のしなやかな身体が、長明の全身にこれでもかと絡まっていた。首筋に掛かる熱い吐息、ふにと押し付けられた柔肌から伝わる温もり、彼にとってはかつてない至福の時ではあったが、このまま快楽に流されては敵の思う壺になってしまう。ここは、女性二人に細腕とは思えない力で組み付かれていても、全力で抵抗して出来るだけ時間を稼ぐしかなかった。

 長明が必死の形相で美女達を引き剥がしに掛かっていると、玄関の奥から車のブレーキ音が響き渡る。


 ◇ ◇ ◇


 鳳家の玄関前で急停車するタクシー。直後、中から一人の少女が飛び出した。黒く艶やかなショートヘアをなびかせて玄関に向かう少女は、故あって藍色の袴を身に付け腰帯には刀を二本差していた。これこそは正に、彼女が智江と共に熱中している傑作時代劇『二天一流』の主人公そのままの格好であった。

 しかし、武器は揃っていても身体の方は万全ではなく、少女の右手人差し指の爪は無残にも丸ごと剥がれており、指全体が血で赤黒く染まっていた。命に係わる怪我ではなくとも、これでは戦闘の方に影響が出てしまう。にも係わらず、彼女の顔に不安や苦渋の感情は微塵も現れていなかった。今は、一刻も早く主人を救う、その事しか頭になかった。

 黒猫がタクシーから振り落とされる際、猫はトランクの端に爪を食い込ませ、それを根元から引き千切る事で自らの一部を車に残していた。使い魔の爪や血液は魔法の触媒となる。それを使えば、例えどんなに離れていても追跡が可能だった。当然、痛みと苦痛を伴う行為ではあったが、ディアは一切迷う事無く自分を犠牲にしたのだ。もし、一瞬でも躊躇していれば、何も出来ずに車から転げ落ちていただろう。

 後は、件の車に追い付いて運転手に術を掛け直せば良い。そうして、敵の位置情報だけでなく移動手段も同時に手に入れたのだった。


 ◇ ◇ ◇


「小次郎敗れたりぃっ」

 ドラマの決め台詞と共に、大刀を鞘走らせたディアは玄関のドアを木っ端微塵に切り刻んで突入を果たす。抜刀も剣捌きも、目にも留まらぬ早業だった。

「くそっ。もう来たのか」

 刀を携え仁王立ちする猫娘を、美雪は苦虫を噛み潰したような顔で迎える。玄関先から続く廊下の奥では、ディアが敬愛す主に二人の女が淫らに抱き付いていた。猫がその光景を目すると、瞬時にして怒りが頂点に達した。

「下郎奴っ。マスターから離れるにゃ!」

 二刀目を抜き放って廊下中に響くような怒声を発するディア。しかし、怒りのまま主人の元に突進する様子は無い。それは、単なる使い捨ての人間よりも先に倒すべき相手がいる事を知っているからだった。

 武器を持った相手に殺気を向けられた美雪も、青紫色の煙を出して対抗する為の刃物を作り出す。彼女が作り出したのは、サーベルに似た諸刃造りの剣だった。

「二天一流、ディア本武蔵」

 ディアは敵の準備が整った事を確認しから名乗りを上げる。相手が抜く前に襲い掛からないのは、黒猫にとって常識的な様式美だった。口上は元となった傑作時代劇とは微妙に違っているが概ね同じ物で、名乗れと言われなくても名乗りを上げる、それがディア本流であった。

 玄関先で正面から対峙する二匹の獣人。両者の得物が照明の光を反射して白く輝く様は、一撃必殺の切れ味を如実に物語っていた。

「てぃやっ」

 先に動いたのはディアの方だった。彼女は気合を込めて右の太刀を振り上げ、力一杯に振り下ろす。予備動作が大きい代わりに威力の大きな一撃。それを、美雪は両手持ちの剣で受けて弾く。キィンッ、と軽い金属音が鳴るのとほぼ同時に、今度は左の脇差が隙だらけとなった右側面に襲い掛かった。初撃と違い、予備動作のほとんど無い下からの斬撃に、美雪は咄嗟に床を蹴って後方に飛ぶ。間一髪、回避は間に合い、白いワンピースを切られるだけで済んだ。

 相手の猛攻をかわし切ったものの、壁際に追い込まれた美雪は息を呑む。しかし、ディアは追い討ちを掛ける事はせずに、回り込んで長明の前に立ちはだかった。

 美雪は気付いていた、最初の大雑把な一撃は、より第二撃を生かす為の仕掛けだった事を。二刀に対しに単剣のみでは勝負にならない。そして、考え得る唯一の解決策は単純にして明快であった。

 窮地の白猫少女は意を決して、剣を、そして身に付けている物全てを魔力の煙に変える。最早、男性の視線を気にしている余裕は無くなっていた。使い魔が物質化できる量は、当然、魔力の総量に比例している。その為、戦闘に必要の無い物は全て武器に回さねばならなかった。かくして、ようやく作り出したのが、小太刀二振りであった。

 全裸で二刀を構える美少女を、長明は迫る柔肉を押さえながら限界にまで目を見開いて凝視する。その眼光は猛禽の如く鋭い物で、一挙手一投足も見逃さないという信念に溢れていた。

「ディアっ! 相手は懐に潜り込むつもりかもっ。気を付けて」

「ちっ」

 愛猫に主人の忠言が飛び、美雪は余計な事をと舌打ちをする。その態度が、長明の眼力が極限にまで研ぎ澄まされている事を物語っていた。

「承知」

 ディアはゆっくりと頷き、二刀を十字に構える。この構えこそ、劇中の宮本武蔵、必殺の構えであった。正面で大刀を垂直に立て、胸の高さで小刀を真横に重ねる。腕に覚えのある者が見れば利点のさっぱり分からない構えかもしれないが、威圧感と格好の良さは抜群であった。

 剣呑な空気漂う照明の下、遂に美雪の白い裸身が踊り出る。身体は華奢な少女だが、身のこなしは得物を追う猫そのもの、素早くしなやかで躍動感に溢れていた。その挙動に迷いは無く、既に覚悟を決めている様子だった。

 突進してくる敵に、ディアは十文字の一の脇差を真横に薙ぐ。すかさず美雪は身長差がある黒猫からの斬撃を身を屈めてかわし、速度を落とさずに間合いを詰める。しかし、その動きに合わせるように切り下げられた大刀の二撃目によって、その突進は塞き止められた。

 足を止められはしたが、美雪は左手の小太刀でしっかりと刀を受け止め左に流していた。そして、受けた刃を滑らせながら相手の懐ににじり寄ってゆく。ここまでの流れは、彼女にとって当初の予定通りだった。

 この段になってようやく相手の意図を察したディアは、慌てて最初にかわされた刃を返して三撃目を繰り出した。その苦し紛れともいえる斬撃を、美雪は右の小太刀で受け止めて力一杯に弾き返す。もうすでに、ディアの胴は間合いに入っていた。

 脇差が弾き飛び、美雪はがら空きとなった腹部を狙って小太刀を返す。対するディアは即座に脇差を捨て、受け止められている右の太刀を諸手で握り全力を注いだ。間一髪、左手一本で大刀を受けていた白猫は大きく体勢を崩し、腹部を狙っていた右手の小太刀が宙を泳いでしまう。

「うぉうりぁぁぁぁぁ~~~」

「ぐあっ」

 今や完全に勢いを失った敵に対して、ディアはさらに容赦なく刀に力を込めた。

 初撃を身長差を利用して避けた美雪。しかし、今はその体格差が災いして小太刀が敵の胴を裂く直前に身体ごと飛ばされる結果となってしまった。

 右手の怪我を物ともしない黒猫の剛力によって真横の壁に叩き付けられた美雪が、苦悶の声を上げて床に倒れ伏す。間を置かずに大刀が無防備な獲物に襲い掛かる。この絶好の機会を逃す手は無かった。

 勝負あり。ディアの幹竹割りが美雪の額を両断した。体勢を立て直す暇も無く、恨めしげに敵を見遣っていた猫少女は、割られた顔から大量の血を撒き散らして息絶える。彼女の絶命後、血の海に浸かった全身から青紫色の煙が噴き出し、煙が晴れた後には赤く染まった白猫の死体が残っていた。

 その、白猫から眩い輝きを放つ玉が現れ、肩で息をしている勝者の口内へと吸い込まれていく。

「ふんにょぉぉぉぉぉ」

 突然身体の奥で渦を巻く魔力の奔流に、ディアはたまらずに雄叫びを上げる。強敵二匹分の天を突くような圧倒的魔力。この時黒猫は、何故他の猫が施設を抜け出して自由になった後も積極的に戦い続けたのか、理由が分かったような気がした。今の自分ならどんな敵が来ても主を守り通す事が出来る。そんな、万能感に似た感情が沸々と湧き上がっていた。

「マスター。ご無事ですか?」

「う、うん」

 闘いが終わり、溜め息を吐いて脱力する長明の眼前にディアの手が差し出される。その手は、剥がれた爪が元通りに戻っていて、こびり付いていた血も消えていた。

 長明は相棒の手を取り、呆然とした顔で覆い被さったままの美女二人から何とか抜け出す。そして、しっかりと立ち上がって人心地ついた所で、改めてディアの顔を眺めた。心底嬉しそうに主を見遣るディアは、容姿はほとんど変わっていないのに、何故だか随分と色気が増したような気がして少年は思わず生唾を飲み込んでしまう。

「あら……あれ?」

「うぅ、私、一体……」

 床で自失していた鳳親子も、術が消えた事で次第に正気を取り戻していき、何事かを呻きながら未だ虚ろな目を左右に向ける。その様子を見て、長明の顔から急速に血の気が失せた。粉々に破られた玄関、猫の死体に血だらけの廊下、そして不法侵入者としか思えない見知らぬ男女。見付かれば即座に警察を呼ばれてもおかしくない状況であった。幸い、まだ二人は完全には覚醒しておらず、逃げるなら今の内だというのは明らかなのだが。

「ディア、彼女達に術を掛けて」

「了解です、マスター」

 少年は今直ぐにでも逃げ出したいのを我慢してディアに指示を出す。事後処理をせずにこのまま去るわけにはいかなかった。

 彼が使い魔にやらせたのは、晶子に対しては『一目惚れだと思って付き合ってみたけれど、色々と幻滅して直ぐに別れた』という事にして、志乃に対しては『娘の連れてきた彼氏は印象の薄い普通の学生だった』と思い込ませる事であった。志乃はともかく晶子に関してはすでに彼女の友人達も関わっている為、長明との記憶を再び植え付ける必要があった。

 長明が魔猫の施術を眺めていると、ふと、この美少女との甘酸っぱい思い出がよみがえり、恋愛経験の寡少な彼にとって、率直に少しもったいない気がしていた。だが、元々が魔物の策略による偽の感情なのだから、と自分に言い聞かせて邪念を追い払う。それに、今は側にディアが居てくれる。それだけで充分以上に幸せだと感じていた。

 ディアの術により白痴のように立ち尽くす美人親子が魔術の影響下から抜け出す前に、今度こそ本当に黒猫とその主人は鳳家から逃げ出していた。


 ◇ ◇ ◇


 夜観がアジトである古い洋館に戻ると、直ぐに異変に気付く。室内の本棚を埋め尽くしていた書物が全て無くなっていたのだ。

「導師様。これは……」

 大烏は椅子の背に留まり、窓際で外を眺めている主に理由を問い掛ける。

「奴らに気付かれた」

 魔導師はぼそりと呟く。その一言で説明は十分だった。

「まさか。そんな」

 主人の言に烏は驚き、次いで口惜しそうに頭を垂れた。明らかな任務失敗。夜観は自分が役立たずの不良品として処分される事を覚悟していた。

「直ぐに逃げるぞ。その為に待ってたんだから」

「え、あ、あの」

 魔導師の意外な物言いに、烏は驚いて主を見上げた。

「ですが、私は役目を果たせませんでした。最早、導師様にお仕えする資格は……」

「気にしない、気にしない。そもそもの原因は私が人里での戦闘を是とした判断ミスにある。反省すべきは、いつもの悪い癖でリスクと余計な仕事を増やした私の方なんだからさ」

「いえ。私がもっと慎重に事を運んでいれば」

 なおも自分の失態だと食い下がろうとする夜観の頭を、いつの間にか直ぐ隣に移動していた魔術師が優しく撫でる。これだけで、烏はこれ以上の自省は無用である事を悟った。

「導師様……」

「もういいよ。それに、使い魔の主になったあの少年。彼は多分、数奇な運命を背負っているんだと思う。最初からこうなる事は決まっていたのかもね」

 そう言って魔術師は呆れたような笑顔で続ける。

「さ、もう行こう、夜観」

「はい。導師様が望む限り、夜観はどこまでもお供致します」

「うん」

 主人の満足気な返事を最後に、朽ちた洋館の書斎から一人と一羽の姿が音も無く霧消していった。


 ◇ ◇ ◇


 死地から脱して無事に帰宅を果たした主従コンビは、例によって別々に夕食をとってから自室にて存分にくつろいでいた。長明はパジャマに着替えて机の椅子に座り、ディアは魔力の回復を早める為に黒猫の姿をとってベッドの上に寝転がっている。

 人智を超えた使い魔との戦闘。今日一日、危機に次ぐ危機の連続ではあったが、勝ってしまえば恐怖も思い出に変わってしまう。両者共に、疲れと充足感に満ちた表情で脱力していた。

「ところでさ、ディア」

「はい。何でしょう、マスター」

 猫は主に呼ばれて、起き上がって伸びをしてから正対する位置に座り直す。

「その、また新しい魔法とか、使えるようになったの?」

 共に戦う少年にとっては当然の質問だった。これを知らなければ連携など出来ない。まだ、壁に穴を開けた強敵が確実に残っているのだから。

「おぉ。聞かれるのを待っておりましたぞ、マスター」

 黒猫も目を輝かせて応じる。こちらの動機は単純で、ただ主に褒めて貰いたいからであった。

「では、見ていてください」

「う、うん」

 猫は真剣な顔付きで気合を溜める。しばらくして、猫の黒い姿が徐々に薄くなっていった。

「あ、あれ?」

 長明が驚きの声を上げる頃には、ディアの影も形も見えなくなっていた。しかし、布団の凹みはそのままで元に戻っていない。

「どうですか、マスター。私が見えますか?」

「いや。全然見えないよ」

 ディアの居た方から声が掛かり、さらに驚く長明。

「にゃほほほ。これが透明化の魔法ですにゃ」

「す、凄いね、これ……」

 透明の猫は移動しながら声を発する。少年は四方八方から迫る声に、驚嘆のあまり息を呑んでいた。

「さて、もうそろそろ元に戻りますか」

 満足気にそう言って猫は術を解く。そして、消えた時と同様、ベッドの上で次第に毛の色がはっきりと現れ始める。

 猫の姿が元に戻った時、何故か数が二匹に増えていた。

「ん?」

 長明は目の錯覚かと目を擦ってから改めて凝視する。しかし、猫の数は変わらなかった。

「ディア。横、横っ」

「んぁ…………だぁぁうぃんがっ!」

 ディアは突如として現れた謎の猫に驚いてベッドから転げ落ちる。一方の猫は、その様子を冷ややかな目で見詰めていた。

 ベッドの上に座る猫は、白い毛に黒い模様の入ったアメリカンショートヘアと呼ばれる品種で、ただ、他の猫と違うのは、額に大きな白い宝石が埋め込まれている点であった。

「ほ、本拠地に直接乗り込んで来るとは良い度胸にゃ」

 床に転がったままの姿勢でうそぶく黒猫には目もくれずに、宝石猫は魔力を発する。狙いは、ディアではなく長明の方だった。

 何やら分からぬまま咄嗟に身を固くする長明の脇を冷たい微風が流れる。

「あれ?」

 てっきり魔法攻撃が来る物だと思っていた長明は、風以外に何も変化が無い事に驚いていた。念の為に身体にも変化が無いか確かめてみると、小指の先が切れて少量の出血があるだけで、他は全く異常が無かった。

 どういう事だろう、と、再び侵入者に目を向ける。すると、今度は猫本体が体当たりする勢いで少年に襲い掛かってきた。

 またもや反射的に身を守る長明の膝に猫が乗り、舌を出して小指の傷を舐め始める。そのザラザラした感触に、少年の背筋に冷たい物が這い上がってきた。

「な、何を」

「これで契約は完了しました。えーと、どうお呼びすれば良いのでしょうか」

「え、あ?」

「では、旦那様と呼ぶ事にします。宜しいですね」

「あ、はい」

「にゃ、にゃ、にゃんだってぇぇぇぇ~~~」

 ディアの叫びが五十鈴家に木霊した。


 嵐のような出会いから五分後、表面上は落ち着きを取り戻した長明が、涼しい顔の白黒猫に質問を投げ掛ける。

「あの、君って、使い魔だよね」

 あまりにも当たり前な問いに、猫は一つ溜め息を吐いて答える。

「はい。その通りです旦那様」

「でも、何で」

 この短い質問には多くの疑問が含まれていたが、長明が最も知りたいのは、何故自ら進んで自分の使い魔になったのか、その理由であった。宝石猫も主の意を汲んで静かに頷くと口を開いた。

「私はずっと分身を使って貴方達の戦い振りを見ていました。そして決めたんです。あの悪辣な魔術師に契約者を決められるよりも、自分の意思で仕える主を決めてしまおう、と」

「ふむ、なるほど」

「ぐぬぬ……」

 白黒猫の言い分に、長明は納得顔で頷き、ディアは立ち位置を奪われる危機感から歯軋りをしていた。

「さて、私の主になったからには、旦那様にもそれに相応しい人物になって頂きます。もちろん異論は無いですよね。もしあっても聞きはしませんが」

「そんな。でも、だって」

 主従関係を押し売りしておいて、そう文句を言おうとする長明を、猫は一睨みするだけで制する。異論は受け付けないという物言いは本気の様子だった。

「とほほ。何でこうなるの」

 母親以上に小うるさい新たな同居人に、長明は天を仰いで嘆く事しか出来なかった。

「あれ? でも」

 ある疑問に気付いて声を漏らす長明と、それを見詰める新旧使い魔。彼は直ぐに確認するべき問題だと判断して二匹に問い掛ける。

「その、この場合って、使い魔同士の戦いはどうなるの? もしかして最後まで……」

「あら、そう言われてみれば、最後の決着が残っていますね」

 新使い魔は意味あり気に頷いて床に転がったままの黒猫に流し目を向ける。果たして、視線に気付いたディアの表情からみるみる血の気が引いていった。

「にゃにょおぅ。くくクるならコイにゃ」

「ふぅ、冗談ですよ。まさか忘れたんですか? 主が同じなら殺し合わなくても使い魔として完成出来るって」

「あ、そういえば、そんな決まりもあったような気が」

「そ、それじゃあ、ディア達はもう戦わなくて良いの?」

「はい。使い魔作成の儀式はこれで終了です」

「そうなんだ。やっと、やっと終わったんだ」

 そう漏らして脱力する長明に、白黒猫が狙いすましたかのように飛び掛かる。次いで、驚く主人を尻目に、椅子に座る主のふとともで丸くなった。

「なっ、にゃっ!」

「あ、あの……」

「さ、旦那様には最初の責務を果たして頂きます。この私めに、存在に見合った素晴らしい名前を授けて下さい」

「え、そんな事急に言われても」

「お、お前なんか名無しで十分にゃ」

「雑魚はお黙りなさい。ささ、旦那様。早く私に極上の命名を」

「ぐにゃおぉぅ~~~」

 尊大な使い魔と、嫉妬に狂う使い魔に挟まれ、再度天を仰ぐ長明であった。



                               終


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