第一話
三社で一次落ちをした作品です。
もう絶望したので晒します。
厚い壁に四方を囲まれた広く薄暗い部屋の中、そこには照明の類が一切無く、唯一、高い天井に空けられた小さな窓から、青白い月光が帯となって闇に射し込んでいた。この寒々とした空間で、小窓から漏れる淡い光が照らす箇所を、小さく素早い影が行き交っていた。時折、双眸が月の光を反射する事から、影の正体が夜行性の小動物だという事が見て取れる。ここには外気を取り入れる為に空けられた天井の穴以外に、人間が利用するならば必要になる出入り口や窓の類は無く、コンクリートで四方を固められた堅牢な室内には、もし人が入れば嘔吐しそうな程の腐敗臭が満ちていた。
この人間が入れない箱は、明らかな人工物ではあるものの、何を目的として作られた場所なのか、外観からうかがい知る事は出来ない。その、淀んだ空気の中で音も無く獣が動き回るだけだった室内に、突如として轟音と共に異変が訪れる。空間を固く閉鎖していたコンクリート製の壁、一面に無数の赤黒いシミが付いたその壁の一角が、正体の分からない何か強大な力によって破砕されたのだった。発生した大きな衝撃波が室内を激しく揺らし、コンクリ片による粉塵が舞う中、眼前でコンクリートが崩れるさまを凝視していた一匹の獣が、力を使い果たした様子で、覚束ない身体を引きずりながらも瓦礫を登って外に出る。その後に続いて一匹また一匹と、露出した鉄筋の間を縫うようにして、外部へと漏れ出る重い空気と共に木々が生い茂る野に飛び出していった。
室内から動く物が全て逃げ去った後、しばらくして、汚れの目立つ壁に人影が浮かびあがった。まるで鉄筋コンクリートが存在しないかのようにすんなりと入り口の無い部屋に入ってきた人物は、全身を黒いローブで覆い、頭には深くフードを被っていた。そのせいで顔の表情はよく分からないが、かすかに覗く口元は薄く笑っているように見える。薄暗い中でおぼろげに浮かぶ立ち姿は、それでも広い肩幅や高い背丈のせいもあって異様な存在感を放っており、その右肩には、漆黒の羽に覆われた鳥、外観は烏に近いが大きさは大型の猛禽類程もある奇妙な鳥がとまっていて、赤く光る目を周囲に走らせていた。
「あーあ、逃げられちゃったか。予想よりも随分と成長の早い子が居たみたいだね」
周囲に充満した強烈な腐臭を気にする素振りも見せずに、壁が崩れ光量の増した箇所を見詰めながらローブ姿の人物がぼそりと言葉を漏らす。声は成人男性の物で、発している重苦しい雰囲気とは裏腹に何とも軽々しい口調だった。
「全固体の居場所はすぐに特定出来ます。回収いたしますか?」
今度は朗々とした若い女性の声。発しているのは肩の大烏だった。
「いや、これはこれで面白いし、追跡だけで良いよ」
「はい。仰せの通りに……」
黒ずくめの男が引き続き軽い調子で問いに応え、指示を受けた鳥はうやうやしく一礼してから肩を飛び立ち、大きく空いた壁の穴から夜空に姿を消した。その様子を眺めていた男がフード内の顎をさすりながら声を漏らす。
「さて、これはこれでどうなるか楽しみではあるな」
それは、無邪気で、心底楽し気な声であった。
◇ ◇ ◇
濃紺のブレザーに身を包んだ男子学生がのんびりとした足取りで帰宅の徒についていた。彼の着ている制服は県内で唯一の工業高校が指定している物であり、胸ポケットには歯車を模した独特なデザインの校章が縫い付けられていた。生徒の胸に燦然と輝く、ブレザーから少し浮いた感じのする校章には、工業高校である事を示すと共に、『少年よ、社会の歯車たれ』という創業者の願いも込められていた。
この少年は身長も容姿もごく平均的で、線の細い温和そうな顔付きと道路工事のアルバイトで慣らした体格以外には、特にこれといった特徴の無い、どこにでも居るような平々凡々とした男子学生であった。
彼がすっかり歩き慣れてしまった通学路は、最近になって宅地造成された区画であり、彼自身も半年前に引っ越してきたばかりだった。最寄り駅からは距離があり、父親の通勤には不便極まりない立地なのだが、彼にとっては通っている高校が前よりもずっと近くなり、徒歩で十五分程度の距離になった為、父親の苦悩を他所に素直に喜んでいた。
付近の景観はまだまだ家がまばらで空き地が目立ち、アスファルトで塗装された道路は真新しく、通勤で混雑する時間から外れている事もあって車通りもそれほど多くはない、典型的な新興住宅地であった。更地の混ざった住宅街の奥には田畑や竹林が青々と広がっており、空気が良く、周囲の景観もさほど悪くはないと少年は感じていた。
残暑もようやく過ぎ去り、彼が秋口の朗らかな天気とほほを撫でるそよ風に気分を良くしていると、傍らの空き地から、微かに、猫のような鳴き声が耳に届いた。その声に何か切迫したような響きを覚えて、彼はどうにも気になってしまい、声の発生源を求めて雑草の目立つ空き地に足を踏み入れる。少年が丹念に周囲を見回しながら更地の中央付近まで来ると、人が近付くのを待っていたかのように、背の高い野草の影から、一匹の黒い猫が今にも倒れそうな足取りで姿を現した。
(やっぱり野良猫か。でも、これは……)
声の正体は少年の予想通りだったものの、野良猫の様子は予想を遥かに超える物だった。その黒猫は身体全体がまるで煎餅のよう酷く痩せ細っており、人間を見上げて必死に泣き声を搾り出す様が、彼の目には『助けて、助けて』と何度も訴えているように見えてならなかった。その姿があまりにも不憫で、少年は迷う事無く助ける決意を固めるのだった。
「ちょ、ちょっと待っててね。今すぐ何か餌を持ってきてあげるから」
この哀れな猫を助けると決意した少年は、早速猫に優しく言葉を掛けてから出発する。言葉の意味は分からなくても雰囲気で救助の意思を察してくれれば良い、そう思っての行為だった、が、黒猫はまるで言葉を理解しているかのように小さくうなずいてその場に腰を下ろした。
彼はついさっき通り過ぎたばかりのコンビニエンスストアに急いで戻るや、猫は牛乳が好き、という先入観から紙パック入りの牛乳を選択して購入する。ふと、冷えたままでは胃が受け付けないかもしれないと考え至り、口を開けて電子レンジで少し温めてから再度取って返した。それから、短い道中にあるごみ置き場から何とか使えそうなお椀を回収して野良猫の待つ空き地へと駆けてゆく。
少し息を切らせながら目的地に到着すると、彼に言われた通り素直に待っていた黒猫が、目を輝かせて甘えた声を発しながら足元に近付いて来る。この猫が人間に対して全く警戒心を抱いていない事から、少年は捨て猫か迷い猫のどちらかだろうと推察していた。
「こ、こらこら。少し落ち着いてよ。今飲ませてあげるから」
喜色の浮いた表情で足にまとわり付く黒猫に対して、彼は少し困ったようにはにかみつつ膝を曲げてしゃがむと、手に持った食器を地面に置く。その際、側のわずかに欠けた部分に親指を引っ掛けてしまい、少量の血が椀の中に流れ込んでいく。それでも少年は痛みを気にする様子も無く牛乳を薄汚れた食器に注いでいった。椀の底に流れた血は直ぐに牛乳と混ざり合い、注ぎ終わる頃には白一色に染まっていた。
容器内に乳白色の液体が満たされ、生暖かい牛乳パックを下げた直後、待ちかねていた黒猫がお椀に顔を突っ込むようにして小さな舌で牛乳を掻き込む。そんな様子を少年は切れた指をポケットティッシュで拭いながら、元々細い目をさらに細めてのんびりと眺めていた。
『……契約が成立しました、マスター』
そんな折、突然どこからともなく若々しい少女の声が発せられた気がして、少年は反射的に周囲を見回す。彼が聞こえたように感じたのは、澄んでいて心に直接響くような声だった。しかし、近くにも遠くにも人の姿は無く、何とも不可思議な体験に首をかしげていると、いつの間にか餌を飲み尽くした猫が容器を舐め始めており、彼は慌てて頭に掛からないように残りの牛乳を注ぎ入れる。空になった紙パックを畳んでからも、引き続いて猫が吐き出したりしないか見守り続けていた。
「さ、これでしばらくは大丈夫だろう。達者で暮らせよ」
少年はお椀が空になるのを見計らってから、猫に別れを言い残して空き地を立ち去る。その表情はいたく満足気で、小さな命を救ったという充足感に満ちていた。
そして、ある程度歩を進めて、新築家屋の塀で空き地が見えなくなる直前、最後にもう一度だけ、というつもりで振り返る。すると、もうとっくの昔に居なくなっているだろうと思っていた黒猫が、少年の直ぐ後ろに音も無く付いて来ていた。振り返った彼と目が合った猫は、嬉しそうに一鳴きしてまた足にまとわり付く。これは少年にとって全く予想外の、そして困った事態でもあった。痩せた猫を憐憫から助けはしたが、拾って飼う気など毛頭無かったのだ。
「お、おいお前、ちょっと待ってよ。うーん、参ったな。どうしよう」
ほとほと困り果てて頭を掻いていると、足元の猫が細い瞳を救ってくれた恩人に向ける。救い主を静かに見上げる双眸は唯々一途で、好意以外の感情は一切混ざっていなかった。元々動物好きだった少年が、助けた猫にこんな目で見詰められては、もう腹を括るしか道は無かった。
「よし、決めた。お母さんに飼って良いか頼んでみよう」
決心してしまうと逆に心が軽くなるようで、少年は仕方ないなと呟きながら屈んで黒猫の頭を優しく撫でる。対する猫も、気持ちよさ気に目を細めて完全に身を任せていた。
黒猫を連れた少年は五十鈴と表札に書かれた自宅の玄関前に到着すると、少し心を落ち着ける為に深呼吸をする。彼の眼前にそびえる五十鈴一家の住居は半年前に新築したばかりの一軒家で、父親である五十鈴晴好の汗と血と涙とローンの結晶だった。それ故に、衛生面にうるさい母親が家でペットを飼う事を許容するのは困難だと覚悟していた。
玄関に入って靴を脱ぐと、早速猫を抱きかかえて居間に向かう。彼の母は夕食の準備に入るまでそこで読書をしている事が多く、学校帰りには一度顔を見せてから二階の自室に戻るのが常であった。
少年が恐る恐る室内を覗くと、母親はいつものようにソファーでくつろぎながら読書に耽っていた。
彼の母、智江は細身かつ小柄な体格をしており、短く切り揃えられた髪型も黒いジーンズに濃紺のトレーナーという服装も地味そものも、そして顔付きは繊細で全体的に華奢な印象を持っていた。それでも、派手さが無い分、眼鏡の似合う知的な顔付きをしており、一見冷徹そうな瞳の奥には経験に起因する深みを湛えていた。彼女は外見と内面両方がもたらすイメージに相応しく元小学校の教師という肩書きを持ち、教育者として何人もの少年少女と正面から向き合ってきた事が母親としての智江を形作っていた。それ故に、自身が高学歴でありながら一人息子に対して勉強を強要するような真似はせず、その代わり甘やかすような事も一切無い、そういう人物だった。だからこそ彼も母に対しては嘘偽り無く真摯にお願いをするしか道は無いと考えていた。
未だ言葉に迷いながらも少年は思い切って、集中した表情で本に目を落としている母親に声を掛ける。
「ただいま、お母さん。あの……」
「あ、お帰りなさい長明って、何? その猫。まさか家で飼う気じゃないでしょうね」
智江はクイと眼鏡を持ち上げて、強く畳み掛けるように息子の真意を問い質す。当初の予想通りとはいえ、母の厳しい物言いに、事態を覚悟していた筈の長明はつい口ごもってしまう。彼が二の句を告げられずにいる間に、智江の猫を見る目がみるみる険しさを増してゆく。原因は黒猫の見た目にあった。少年が腕に抱いた猫の身体はほとんど骨と皮だけといった状態で、栄養状態の悪さが毛並みにも悪影響を与えており、不衛生かつ不健康といった印象を見る者に強く与えていたからだ。
両者の様子から事態を察したのか、抱きかかえられた黒猫が潤んだ瞳で少年を見上げ、不安げなか細い鳴き声を漏らす。それが、強烈な後押しとなった。
「お、お母さん。この猫、近くの空き地でお腹を空かして死にそうになってて。助けたら付いて来ちゃって。何か他に当てが無いみたいでかわいそうだし。だから、その、家で飼わせて下さいっ!」
少ししどろもどろになりながらも、彼は明確に要望を告げて頭を下げる。そんな息子の様子に智江は思わず目を緩めてしまう。哀れみから餓死寸前の小動物を助け、その後も同じ目に遭わないように面倒を見たいと願う事は、人間にとって美しい感情だと感じたからだった。
「そうね。そんなに言うなら……」
長明が顔を上げる直前に素早く真顔に戻った智江は、少し考える素振りを見せた後に条件を切り出した。
「良かったなお前。じゃ、まずはシャワーからだ」
智江から与えられた条件は三つ。まず一つ目は、ノミ対策を兼ねた衛生管理。それを果たす為に今、長明は猫を抱いたまま風呂場に向かっていた。
彼は当初、この作業は簡単に終わると思っていた。それは、親子共に猫を飼った経験が無いせいで、猫が水を嫌うという事実を知らずにいたからだった。もし風呂に入れさせたりシャワーを浴びせる場合は、子猫の時分から水は安全だと根気よく慣れさせる必要がある。そういう事を知らないからこそ出た要求であり、少年も何の問題も無く猫を風呂場で洗えると思っていたのだ。
長明が風呂場に到着すると、黒猫がとたんにそわそわしだす。そんな様子に小首をかしげながらも猫を下ろしてシャワーのバルブを開けると、黒猫は情けない声を出しながら流れる水を避けるように風呂場の端で固まってしまった。
「ん? もしかして、水が苦手なの?」
猫が水を怖がっている事に気付いた少年がお湯を止めて何気なくつぶやく。すると猫はその通りですと言わんばかりにコクコクと何度もうなずいていた。だがそれでは与えられた条件が早くも頓挫してしまう。そう考えた少年は少し強引にでも猫を洗う事にした。
「大丈夫。頭には掛からないようにするから、な? 頼むから大人しくしてくれ」
これもほとんど独り言のつもりで言ったのだが、またしても黒猫は小さく首肯して四肢を小刻みに震わせつつも少年の元に歩み寄る。そこで、何だか猫に言葉が通じているような気がしてきた長明は、試しに人語による意思疎通を図ってみる事にした。
「よーし、良い子だ。いくぞ」
果たして猫は、即座に「みゃー」と一鳴きして身を固くする。
(やっぱり)
黒猫の明確な反応に、今まで半信半疑だった事が確信に変わり、本当に自分の言葉を理解している事に少年は驚く。しかし、この時は長く人に飼われていて、飼い主に言われた事を大まかに判別出来る頭の良い猫、という程度の認識しか持たなかった。
拾ってきた猫が物凄く利口で、しかもいたく信頼されている事に嬉しくなってきた長明は、上機嫌でぬるま湯を尻尾の辺りから掛けてゆく。対する猫は固く目をつむり、じっと動かずに主人が洗い終わるのを唯々待っていた。
水に対する恐怖がありありと浮かんでいた猫であったが、いざ長明が愛用のシャンプーを使って背中を洗い始めると、次第に恐怖で硬直していた身体から力が抜けていき、途中からは毛元をマッサージするような指の動きに心底気持ち良さ気な顔で身を任せていた。そんな状態が、尻尾の先から首までを洗い終えるまで続き、残った泡を落としてお湯を止めた途端に、全身を激しく振って水気を飛ばした。
「よし終わったぞ。気持ち良かったか?」
一仕事終えた長明がそう言って、見事に恐怖を克服した黒猫の頭を撫でる。対して猫の方は、返事を聞くまでもない位にほっこりした顔付きで頭を委ねていた。それから脱衣場にて、タオルとドライヤーで残った水気を取り除いてゆく。心地良い温風によって丁寧に乾かされた猫は、父が風呂上りに見せるような弛緩しきった表情で床に座っていた。
猫を洗い終わると、少年は間髪を容れずに黒猫を抱いて二階の自室に駆け込む。長明の部屋はフローリングの床にベッドと机と本棚、壁にはアイドルのポスターとカレンダーが張られ、液晶テレビとゲームのセットに大小二種類の工具箱と基盤や電子部品の詰まったダンボール等々が小奇麗に整頓された状態で置かれていた。その、主の個性を余す所無く体現したような部屋に猫を置くや、少年は取って返すように自室を出てゆく。
母から出された二つ目の条件は、猫が糞尿を家族に迷惑の掛からない場所でするよう躾ける事だった。只、これはそれなりに時間が掛かるだろうという母の読みもあり、キッチンと絨毯のあるリビングと畳の客間は躾が完了するまで原則進入禁止という一文も付け加えられていた。この条件に関しては部屋に古新聞を敷いてそこでさせるか、兆候があれば庭に連れて行くしかないと軽く結論付けて、早速玄関先に置かれた古新聞の束を部屋に持ち込む。一応の対応策は決めたものの、いくら猫が利口でもこればかりは思惑通りにいかないかもしれないし、もし、上手く行かない場合はどうするべきなのか、と長明は始める前からあれやこれやと思い悩んでしまう。何にせよ、ペットを飼う際、糞尿の処理が最初の難関なのだと否応無く実感させられていた。
「おしっことかうんちがしたくなったら、この上でするんだぞ」
長明が畳まれた一日分の古新聞を指し示して簡単な指示を出す。するとまたしても猫は主命を理解したかのように一鳴きしてコクリとうなずいた。
「よしよし、本当に利口だなお前は、って、えーと、そういえばまだ名前付けて無かったっけ。うーん、そうだなぁ……」
猫の素直な反応に悩みが大分軽減したような気がして、嬉しくなって撫でごろサイズの頭を可愛がっている途中、ふと目の前の猫にまだ名前を付けて居なかった事に気付く少年。その様子を猫は期待に目を輝かせながら見上げていた。
そうは言っても、ペットの名前というのはいざという時になかなか思い付かないもので、長明は顎に手を当てて何かヒントになるような物を求めて周囲を見回していた。
そうやって視線を彷徨わせているうちに、本棚にある『ディア フレンド』という表題の本が目に留まる。と同時にその言葉が持つ韻の響きが妙に気に入ってしまい、彼はこの題名から名前を頂戴する事に決めた。
「よし決めた。ディア。お前の名前はディアだ」
長明が新しい名を告げると、猫は満面に喜色を浮かべて甘い声で鳴き、主人の足に身体を擦り付ける。反応を見るに黒猫が自分の名前を気に入ったのは明らかで、命名した方も単語の正確な意味は分からないが、とても良い言葉だという事は何となく分かっていた為、双方にとって満足のいく幸せな命名式となった。
本来ならここで初めてペットに名を与えた感動に心行くまで浸る所なのだが、彼にはまだする事があり、そうする訳にもいかなかった。長明は肩に掛けた学生カバンをベッドに放り投げ、しゃがんで足にじゃれついているディアの頭を撫でながら用件を告げる。
「じゃあディア。これからちょっと買い物に行ってくるから、大人しく待ってるんだぞ」
しばしの別れを告げられ、黒猫はどこか寂しそうな声で鳴くと、言われた通りお行儀良くその場に座る。不思議と少年にはこの鳴き声が、早く帰ってきてね、と言っているように思えてならなかった。
長明は外に飛び出るやすぐ横にあるガレージに突入し、奥から愛用していた青いカゴ付き自転車を引っ張り出してそれにまたがる。引越しに伴い通学で使われる事がなくなり、タイヤの空気圧が若干低下していたものの、使用には十分耐え得る状態にあった。
彼がディアと暮らす為に達成しなければならない最後の条件、それは猫の生活に必要な物は全て自分でそろえる事であった。つまり、残飯が出た時は提供してもらえるが、出なかった場合に備えて餌を用意し、その他猫を飼うのに入用になる物も全て自前の持ち金で購入しなければならない。幸い、彼には道路工事のアルバイトで貯めた潤沢な資金があり、智江もそれを知っているからこそ出した条件だった。だが、貯金の本来の目的は原付バイクの購入と運転免許の取得であり、少年は心の中で、さらば未来の愛車! と叫びながら自転車のペダルを全力で回し続けた。
少年の行動圏にペットショップの類は無く、大規模なホームセンターで揃えるのが一番確実だった。その目的地である郊外型の大型ホームセンターは駅のさらに奥にあり、片道だけでも自転車で四十分程時間がかかる。長明が全速力で急行したにもかかわらず、息を切らせて到着する頃にはすでに夕日が沈みかけていた。
彼は息を整えながら駐輪場に愛車を置き、電灯で煌々と照らされた店内に足を踏み入れるや否や、一路ペットグッズのコーナーを目指す。この店は引っ越す前に住んでいた場所に近い事もあって、以前はよく工具や玩具漁りに利用していたのだが、広い店内の端にあるペット用品専門の売り場に行くのは今日が初めてだった。
当初は、とりあえず猫の餌を買えれば良いと思っていた。しかし、彼の想像以上にペット用品の種類が豊富であり、色々と便利そうな商品を見ている内に、あれも良いこれも良いといった具合に長明はすっかり買い物を楽しむようになっていた。そして彼は遂に発見してしまう、猫用のトイレを。楕円のドーム型をしたこの商品を目の当たりにした瞬間、長明の脳裏に電流が走る。これこそ正に彼が自転車に跨っている間ずっと、こんなのあったら良いな、と思っていた代物であった。この出会いに少年は運命的な物を感じて、ひとり目頭を熱くさせていた。
結局、袋詰めと缶詰めの餌以外にも、トイレとそれに使う砂、爪研ぎ用シートに猫用シャンプーと猫用ブラシ、それに皮製の赤い首輪を購入した。その間、店員を捕まえて雑談交じりに商品の使い方や注意点等のレクチャーを受けるのも忘れていなかった。彼が得た知識の中で一番重要だったのは、猫というのは一度糞尿をする場所を決めたらずっと同じ場所でするようになるので、室内で猫を飼う場合は最初に猫用のトイレで用を足すよう躾けるのが重要だという情報だった。下の問題は少年が最も頭を悩ませていた事であり、その意味では非常に心強い知識を得たと実感していた。
支払いを済ませた長明が満足気な面持ちで店を出る頃には、空一面にすっかり夜の帳が下りていた。彼は大きすぎて買い物カゴに入らない猫用トイレを自転車の荷台に縛り付けると、他をカゴに入れて帰路に就く。帰りの道中、予想以上の収穫にすっかり浮かれてしまい、何か大漁旗を掲げたい気分で颯爽と夜風を切っていた。
「ただいまー」
両手に大荷物を掲げて帰宅した長明が、奥のキッチンで晩御飯の準備をしているであろう母親に声を掛ける。本日のメニューは肉料理らしく、母の炒めている肉の香りが玄関まで漂って来ていて、運動ですっかり腹が減っていた息子は音を出して生唾を飲み込んでいた。
「あ、おかえりなさい長明。ちゃんと猫の餌は買った?」
「うん。しかも餌だけじゃなく、猫用トイレとかシャンプーとかも色々買ったよ」
智江は調理中で手が離せない為、声だけで返事をする。それに対し少年は足で器用に靴を脱ぎながら得意気な声で成果を報告していた。
「あら、今は猫用のトイレまであるの。良かったわね」
「本当に良かったよ。じゃあ早速トイレ使わせてみる」
そう言うや、二階に全ての購入品を持って上がり、自室のレバー型をしたドアノブを白い買い物袋を持ったまま手首で押し下げて戸を開ける。すると空いた隙間から黒猫が待ちわびたような顔を覗かせて、甘えに甘えた声で彼の足、ではなく餌の入った買い物袋の方にまとわり付く。
「おっと、こらこら。匂いで分かったのかな」
「はい。凄く美味しそうな匂いがします、マスター」
「ん? 今何か聞こえたような……うーん、ま、いっか」
長明はついさっき猛烈に足元の猫が喋ったような気がしたが、直ぐにそんな筈は無いと思い直して部屋に入り照明を点ける。そして疑惑の黒猫もまた、白いビニール袋に釣られるようにして室内に入った。
大量の荷物を全て床に置き、さてと気合を入れて袋の中身を広げるも、数が多すぎて何から手を付けたら良いか悩み出す。しばらく考えた末、まず最初はディアに赤い首輪を着けてやる事にした。何色かある中で赤色にしたのは、黒猫には一番合う色だと考えたからだった。
「さ、ディア。今、首輪着けてやるから、少し大人しくしてろよ」
言われた通り大人しく座っているディアに首輪をしっかりとはめる。彼の見立ては正しく、黒毛に赤い輪がよく映えていた。
「よーしよし。良く似合ってるぞディア」
「そう言ってもらえると嬉しいです。ありがとうございます、マスター」
またもや他に誰も居ないのに響く澄んだ少女の声。そして、少年はある可能性について、まさかそんなはずはと思いながらも口を開いた。
「も、もしかして、今喋ったのは、ディアなの?」
「はい、そうです。夜になってやっとマスターと言葉を交わせるようになりました」
「…………え、えぇぇぇぇっ!?」
黒猫の口から飛び出したあまりにも衝撃的な真相に、彼の発した素っ頓狂な叫び声が室内に木霊する。そんな主の様子を猫はさも不思議そうに眺めていた。
「どど、どうして猫が喋れるの? ディア、お前一体……」
混迷し切った長明の疑問に対し、ディアは少し考えるような仕草を見せてからコホンと一つ咳払いをして説明を始める。
「私はマスターにお仕えする使い魔です。その、普通の猫とは違うので夜になって魔力が高まると、こうして言葉を話す事も可能になります」
「つ……使い魔?」
「はい」
長明がオウム返しに問い返すと、黒猫は大きくうなずいて疑いようも無い位にはっきりと肯定した。
これは少年にとって俄には信じられない事態ではあったが、かといって実際に目の前で起きている事を無理矢理否定するような事も出来ずにいた。
「えと、ディアがただの猫じゃなくて使い魔で、それで、命を救った僕に仕える事にしたって流れ、なの、かな?」
未だしどろもどろな彼の発言に、猫は小難しい顔をして首を捻る。それは推測が、当たらずとも遠からず、という事を意味する態度だった。
「いいえ。それは少し違います。たしかに救ってくれた事には感謝していますが、それと主従の契約とは全く関係ありません」
「え、そうなの?」
猫の発言に、今度は長明の方が小難しい顔で首を捻る。
「はい。私が貴方を主と定めたのは、正式な契約によってです」
「えっと、そんな契約した覚え無いけど」
ディアの言う、正式な契約、とやらに全く身に覚えの無い長明は困惑顔で頬をかく。そんな彼に対し、猫は教師のような気分になって背筋をのばし、未だ状況の飲み込めていない主に対して知識を解説する。
「私に、自らの血を飲ませたではありませんか。あれこそ魂と魂を繋ぐ立派な儀式です」
「あー、そういえば空き地で牛乳を飲ませた時に血が混ざっちゃったような……。えーと、うん、なるほど。まぁ大体は理解出来たよ」
「ふぅ。分かって貰えて何よりです」
少年は、今日飼い始めた猫が実は使い魔だったのです、という、何とも常識から逸脱した事態を全力で飲み込んで引きつった笑みを見せる。その様子を眺めていたディアは、無事に一仕事終えた様子で安堵の溜め息を漏らしていた。
「でも、ディアって生まれた時から使い魔だったの?」
「えっと、私も最近までは普通の猫でした。ある日、恐ろしい魔術師に捕まってしまって、それから額に使い魔の刻印を打たれて魔物に変えられてしまったんです」
「じゃあ、今ここに居るって事は、その魔術師の所から逃げ出して来たんだ」
「はい、その通りです……」
そこまで言ってディアは何かを思い出したように恐怖で顔を歪めて口ごもる。少年は黒猫の様子から心情を察知して過去の詮索を止める事にした。ふと、最初に出会った時の惨状が頭に浮かぶ。得体の知れない魔法使いの元から逃げる、それがどれだけ恐ろしい体験なのかは彼にも何となく想像する事が出来た。
「そうだったんだ。では改めて、これからよろしくね、ディア」
少し重くなってしまった部屋の空気を変えるべく、長明は努めて明るく人懐っこい笑顔で黒猫の頭を撫で回す。その愛撫は彼の思っていたよりも効果がてき面であり、ディアは心底嬉しそうに目を細めて喉を鳴らしていた。
「あっふん、こちらこそ、にょふぅ、よろしくおね、ふにぃ、お願い、します。あ、それと、それとですね。突然で申し訳ないのですが、今からとても重要なお話があります」
ディアは撫でられて弛緩した顔付きから、急に背筋を伸ばして表情を引き締めると主を見上げる。それにつられて少年も撫でていた手を戻して姿勢を正した。
「ん、何? 急に改まって」
「良いですかマスター。心して聞いて下さい」
「う、うん」
猫は少年が神妙な顔付きになったのを確認してうなずくと、またコホンと一つ咳払いをしてから至極真剣な声と口調で語り出す。
「たしかに私はマスターにお仕えする使い魔になりました。で・す・が、だからといってどんな風に扱っても良いという訳ではありません。重要なのは絆。そう、絆なのです。分かりますか? マスター」
そう断言するや血走った目で少年にずいと詰め寄るディア。
「え? そ、そりゃあ、分かるさ。うん」
「だ・か・ら、だからですね。その、何と申しましょうか。ほったらかしになんかせずに、撫でて可愛がったり、一緒に遊んだり、美味しい物を食べさせたりする必要があるのです。えぇ、あるのです。分かりますか? マスター」
ディアのささやかで可愛らしい要求に、少年は思わず吹き出しそうになるのをグッと堪える。そして、言われるまでもなくそうするつもりだった彼は、悪いとは思いつつも少し意地悪な問いを返してみてくなった。
「じゃあ、放置とかしたらどうなるの」
「なっ、ななっ、そそそ、それはですね。えと、えーっと、そうだ。私の忠誠心が下がります。それはもう凄い速度で急降下する、筈です、多分……」
言いながら目線を下げて小さくなっていく黒猫を見て、少年は遂に我慢が出来なくなって忍び笑いを漏らしながら涙目になっている猫の頭を優しく撫で始めた。
「ごめんごめん。分かったよディア。ずっとこうして可愛がってやるからな」
「にょふん、ありがとうございますマスター。にゃぁ、とても、気持ち良いです。おお、喜んで下さいマスター。忠誠心が少し上がりました」
「随分と簡単に上がるね」
目を輝かせて大真面目に言うディアを、長明は少し呆れながらも頭を撫で続ける。その時、猫のお腹からグゥと虫の鳴く音が室内に響いた。途端にディアは恥ずかしそうに目を伏せて、チラチラと主の顔を窺う。
「マ、マスター。これは、その」
「何だ、腹が減ってたのかディア。遠慮なく言ってくれれば良いのに。よし、じゃあ夕飯を出すか」
羞恥でかしこまっている愛猫に優しい微笑みを向けて、少年は買い物袋から缶に入った生タイプのキャットフードを取り出す。腹を空かせた猫の前に現れ出でた金色に光るマグロ入り猫缶『マグ・マックス』その堂々とした佇まいに、ディアの期待が膨らみ目がキラキラと輝いてゆく。部屋に入る時にディアが嗅ぎ取った僅かな匂いだけでなく、缶のラベルに写った商品名と中身の写真からも猫は美味しい餌に違いないと確信していた。一方、黒猫の熱視線に気付いていない長明は、缶を持ったまま中身を空けられる容器がないかゆっくりと周囲を見回していた。
「お、あったあった」
少年は安堵の表情でゴミ箱の中からピーナッツ入れに使っていた紙皿を取り出すと、一応周りをティッシュで拭ってからそわそわした感じで尻尾を揺らしている猫の前に置く。そして、皿の上で缶のプルを一気に引っ張った。途端に濃厚な魚介類の香りが辺りに漂い、ディアは目を大きく見開いて鼻をヒクヒクと蠢かせながら溢れる生唾を飲み込んでいた。そんな今にも缶を持つ右手に飛び掛ってきそうな愛猫に、少年はもう少し待ってろよ、と呟いて紙皿の中央目掛けて一気に缶を逆さまにする。
「さ、もう食べて良いぞディア」
長明は待ちかねている猫に優しい声でそう言う。主の許しが出るや、ディアは皿に盛られたペースト状の餌に鼻先を近付け匂いを存分に楽しみ、舌で何度も嘗め回して風味を楽しんでから、小山に顔を突っ込むように大口を開けてむさぼり始めた。
「こっ、これは。滑らかな舌触りに、濃厚な味、そして凄まじい旨味。こんなにも、こんにゃにも美味しい物を食べたにょは、生まれて、生まれて初めてですにゃぁぁぁぁ~」
ディアは興奮すると口調が変わるようだった。
「そうか。そんなに美味いか」
夢中になって餌を咀嚼している黒猫を眺めながら、長明は少し値が張ったけど缶入りの餌を買って良かったとしみじみ考えていた。最初に人間の言葉を使われた時は驚きもしたし得体が知れない事への恐怖も感じていたのだが、実際に会話を重ねてみると、相手が自分をマスターと呼んで慕っている事もあって、随分と打ち解けたという実感を抱いていた。それに、言葉が通じる事のメリットも多い。これからも、ディアの言う主従の関係ではなく、良き家族として一緒に暮らせれば良いなと、そう願っていた。
等々の思いに耽っている間に皿の餌は全て食べ尽くされ、猫が名残惜しそうに紙皿を舐めていた。そして、紙の味しかしなくなると顔を上げ、主を見据えつつお行儀良く床に座る。
「ふぅ、とても美味しかったです。喜んで下さいマスター。忠誠心がもの凄く上がりました」
「本当に簡単だね」
満足気に口の周りを舐めてから、背筋を伸ばしてキリリと引き締まった表情で言うディアを、長明は半ば呆れながら見ていた。そんな折、ふと少年の頭に、拾ってきた猫が実は人語を話せる使い魔だと知ったら家族はどう思うだろう、という疑念が沸き起こってしまう。おおらかな性格で少々の事では動じない父はともかく、現実主義で潔癖な母が知れば気味悪がって捨ててきなさいと命じる事態は十分に想像出来た。そんな思いから少年は猫に話を切り出す。
「なぁ、ディア。ちょっと頼みがあるんだけど、良いかな」
「おお、早速私を使役する気なのですねマスター。何でも言ってください。このディア、マスターの為ならたとえ火の中水の中ですぞ」
鼻息を荒くして自信満々の顔で胸を張るディア。その目には根拠の無い自信がありありと漲っていた。
「あのさ。お父さんとお母さんにはディアが喋れる事を秘密にしておきたいんだ。だから二人の前では絶対に言葉を話さないで欲しいんだ」
「何だ、そんな事ですか。それなら大丈夫ですマスター。私の言葉は契約を結んだ主と魔術師にしか通じませんから。普通の人が私の声を聞いても猫の鳴き声にしか聞こえません」
「そうなんだ。ふぅ、良かった。じゃあ大丈夫だね」
心配の種があっさりと杞憂に変わり、長明はほっと胸を撫で下ろす。だが安心したのも束の間、人前でディアと話せば自分の方が変な目で見られてしまう為、結局両親の前では会話が出来ない事に気付き、再度対策を考える羽目に陥った。
「いや。人前で僕がディアと話していたら僕の方が変に思われるから、ディアが僕に話し掛けるのは自由だけど、人が見てる所じゃ返事は出来ないから、それは承知しておいてね」
「なるほど。そう言われてみればそうですね。了解しましたマスター」
今度こそ本当に問題が解決して、次はディアがこの家で生活するに当たって知っておかなければならない事や猫用トイレの使い方等の説明に取り掛かる。ここにきて、飼い猫が人間の言葉を理解出来るのは躾の手間が掛からずに本当にありがたい、としみじみ実感していた。
「よしよし。じゃあ次はトイレと爪研ぎだな。うーん、まずはこっちにするか」
少年は少し迷ってから、傍らに手を伸ばして網状のシートをつまみ上げる。
「これ、何に使うか分かる?」
「さぁ、分かりません。あ、もしかして寝床ですか?」
「外れ。正解は猫が爪を研ぐ為のシート」
「おお。そうだったのですか」
謎の網が爪を研ぐ為の用具だと教えられた黒猫は、素直に感心している様子で床に置かれたシートを見詰める。その純粋な驚きに満ちていた瞳が次第に欲望の光を宿していき、うずうずと小刻みに身体を揺すり始めた。そんな愛猫を見て少年は。
「じゃあ、早速試してみるかディア」
「は、はいっ。では、お言葉に甘えまして。いざっ」
主の言葉と共に猫は獲物に飛び掛かるようにシート目掛けて身を躍らせた。
「おおおっ。こっこれは(カリカリ)物凄く(カリカリ)研ぎ心地が(カリカリ)良いですぞ(カリカリカリリッ)マスター」
ディアは恍惚とした表情でシートを引っ掻き回す。買った時には想像すらしていなかった大好評に、長明もつい嬉しくなって頬を緩めていた。
「うんうん、そうか。ディアがこんなに喜ぶとは思ってなかったよ。買って良かった」
「むぅぅっ。(カリカリ)来てます。(カリカリ)私の忠誠心にビンビン来てますぞ(カリカリカリリッ)マスター」
「じゃあ大切な決まりを一つ。爪を研ぐのに使って良いのはこのシートだけ。他の机や柱とかには決して爪を立てない事。分かった? ディア」
「うほほっ。(カリカリ)承知しました(カリカリ)マスター」
シートを引っ掻くのに夢中になって生返事を返すディアを見て、長明は本当に指示が分かっているのか心配になってくる。そんな主の懸念を他所に、黒猫はまるでピアニストのようにダイナミックな動きで爪を研いでいた。
猫のリズミカルな動きをのんびりと眺める事約三分。ディアは掻くのを止めて充足感の滲んだ満面の笑みで極限まで研ぎ澄まされた爪を天に掲げる。
「爪研ぎが完了しました。見て下さいマスター、この爪の輝きを」
「うわ。確かに凄い」
すっかり磨かれて蛍光灯の光を反射している爪を目の当たりにして、彼は呑気に感心していた。が、急に今は飯時だという事を思い出して、感心している場合じゃない、と頭をふって時計に目をやる。智江が食事を作り終える時間はほぼ決まっており、時計の針は夕食時が迫っている事を示していた。母が時間に厳しい事を身をもって熟知している彼は、何とか夕飯前にトイレの使い方を教えておかねば、と決意を新たにして真横の猫用トイレに目を向ける。
「いやはや、最高の研ぎ心地でしたマスター」
「よしよし。じゃあ、次はこれの使い方を教えるぞ」
長明は最後の一仕事といった風で、ドーム型をしたプラスチック製のトイレをディアの前に置いた。
「ディア、こっちは何に使うと思う?」
「さぁ、分かりません。あ、もしかして寝床ですか?」
「また外れ。正解は猫用のトイレ」
「おお。そうだったのですか」
驚いたように目を丸くしている猫の前で、少年はドームにトイレ用の砂を入れる。それが終わると非常に爽やかな笑顔で。
「さぁ、準備完了だよディア。小便でも糞でも、したくなったらいつでもここでして良いんだよ」
「あぅ。一応、分かりました、マスター」
「因みに、この中以外では絶対にしないでね。ん? どうしたのもじもじして。早速使ってみる?」
少年の不用意な一言に、ディアは信じられない物を見るような目で主を見上げる。対して、長明は猫が何故そんな目で自分を見るのか理由が分からず首をかしげていた。
「マスターはデリカシーが無さ過ぎです。そんな事を言っていると私の忠誠心が下がりますよ」
ディアは頬を膨らませてそっぽを向く。少年も即座に失言を認めて素直に頭を下げた。
「ごめんディア。何というか、そんなに気にするとは思って無かった」
「いや。分かって貰えたのならそれで良いです。それよりも、その、このトイレはどこか目立たない所に設置して頂けると嬉しいのですが……」
「そ、そう言われればそうだよね。うん、分かった。じゃあ、どこが良いかな」
長明はディアが妙に下の事を気にするのに釣られてトイレの置き場探しに照れ隠しが加わってしまい、不必要に大げさな動きで首をふって室内を見回す。
もしも、猫の発する声が男の物だったら彼がこんな気分になる事は無かったろう。だが実際の声はうら若き少女の物であり、多感な少年はどうしても気になってしまうのだった。
「えっと、ここが良いな。よし」
少年はことさらにわざとらしく言って、丁度ベッドの影になっている場所にトイレを運んだ。
「うん。ここなら良いでしょ? ディア」
「はい。ここなら大丈夫です。あの、わざわざありがとうございます、マスター。で、では、早速……」
「う、うん。あー、何というか、しばらく外に出てようか?」
「いえ、そこまでする必要はありません。これからの事を考えるとマスターに悪いですし、私の方も早く環境に慣れなくてはいけないので」
「そ、そうか。ディアがそう言うなら」
「では……」
そうは言ってもやはり主人の目が気になる様子で、ディアはありありと羞恥の浮かんだ表情でそろりそろりとベッドの影に向かう。そして、長明の視界から完全に外れると固い砂を掻き分ける音が耳に届いた。さすがに水音までは聞こえてこなかったが、その代わりに押し殺したような少女の声が聞こえてきて、少年は何とも居たたまれない気分になってしまう。
「長明ー。晩御飯ですよ」
そんな時、階下から救いの声が上がった。
「あっと、うん。今行く」
母の呼び声に彼は元気良く返事をして、出来るだけベッドの方は見ないように部屋を出た。
部屋の主が去った後、用を済ませた猫が布団の上で丸くなる。そんな平和と安全に満ちた部屋。そのすぐ外に危機が迫っている事に、一人と一匹は最後まで気付く事が出来なかった。窓の外にある電柱から鷲のように大きくカラスのように黒い鳥が、赤く光る眼でずっと一人と室内を覗いていたのだ。