8.気遣い×無神経
しばらくシフト上のすれ違いが続いたある週末のこと。
家に戻ってみると、置きっ放しにしてある4つ目の携帯にメールが届いていた。
そこには、この週末にようやく休みを取れること、先日の埋め合わせとして遠出したいことなどが綴られており、葉月の都合を訊ねる一文で締めくくられてあった。
(久しぶりの休みなんだし、ゆっくりしてればいいのに)
彼なりに気を遣ってくれているだろうことは彼女にもわかる。
恋愛感情が伴っているのかどうかはともかく、彼は彼なりにゆっくりと葉月に歩み寄ってくれている。
兄に言わせれば、20代の貴重な時間を3年も使ってやっているのにまだその程度なのか、ともどかしさを通り越して腹立たしくなるそうだが。
葉月の場合、これは双方にとっての猶予期間だと考えている。
月城に誰か心惹かれる相手が出来て、それを葉月に宣言すればこの関係はそこまで。
葉月は葉月で、気持ちの整理がついて月城を結婚相手として見られるようになり、その時月城も同じ気持ちであればようやく二人の関係は進みだす。
(確かに、月城さんをいいなと思う気持ちはある。このまま結婚してもいいかな、とはまだ思わないけど……)
遠出も、旅行も、派手な挙式や披露宴だって望まない。
厳しい顔立ちからは想像がつかないが、植物を育てることが趣味な月城は植物園に出かけたり森林浴をしたりするのが好きらしい。
対して葉月は、ふらりとドライブに出かけたり海外に行ってみたり、息抜きにクラシックコンサートに出かけたりするのも好きだ。
そんな趣味の噛み合わない二人が、それでも背中合わせになって寄り添っていられたらどんなにいいか。
彼の醸し出すのんびりとした穏やかな時間を、わかちあっていられたらそれだけで楽しいだろうに。
そう思うくらいには、葉月は月城への好意を自覚している。
どれだけ大きな愛情を裏に抱えていたとしても、それと月城に向けられる想いはまた別だ。
そういった妹の複雑な思いをわかっているからこそ、兄としてはなんとかならないかともどかしい思いに駆られているのだろう。
葉月が迅速に返信したことで、日曜日は朝から関西の水族館に出かけることになった。
月城が土曜日にまた出勤したことを聞き、それなら車を出しますねと葉月の方から運転をかって出る。
両手で数えられるほどしか行ったことのない彼の家を訪れると、花壇に咲いた花の様子を見ながら彼が前で待ってくれていた。
「花壇のお世話されてる間、ここで待ってますね」
「いや、行こう。やり始めたらきっと夕方になってしまうから」
(……知ってましたけど、そこまでお花好きですか)
花壇の前にいる彼は、優しい眼差しで花や苗木を見つめている。
趣味や片手間というレベルを超えて、世話が生活の一部になってしまっているのだろう。
それなら遠出はやめて一日ずっと土いじりでいいじゃないか、と葉月はそんなことを考えてしまってから、それでは月城が『埋め合わせ』のつもりで誘った気持ちを無視してしまうことになる、と気づいて黙り込んだ。
これは、埋め合わせなのだ。そこには、彼なりの彼女に対する精一杯の誠意がこめられている。
手を洗ってから車に乗り込んできた月城は、やはりどこか疲れて見える。
「お疲れですね。面倒なお仕事ですか?」
「ああ……先月トラブルのあった総務部のネットワークについて、設定の見直しやデータベースのバックアップ方法の変更依頼をするのに、書類を作成していたんだ。うちの部長に承認を貰って初めて、部長名義で総務部に連絡が行くから」
「月城さん、総務部のネットワーク保守担当でした?」
「いや。ただ……ああも困り果てた顔を見てしまっては、放っておくことができなくて」
たまたま居合わせたからな。と彼はそう締めくくった。
それ以上話すことは特にない、という態度だ。
彼の声音、表情に嘘はない。恐らく、陽菜が困っている現場に居合わせ、打ち込みしたデータが壊れてしまったのだと、そう嘆く彼女を放っておけなかったということなのだ。
その言葉にそれ以上の意味はない、らしい。
遅かれ早かれ今回の休日出勤の話を耳にするだろう佐々木には、「月城さあ、プライベートの約束より総務の新入りさんのデータ復旧のが大事なんだ?ふぅん?」と嫌味を言われてしまうだろうことは、ほぼ間違いない。
ぽつぽつと会話しながら、最初のサービスエリアを通り越して2つ目のそこそこ大きなSAに入る。
着きましたよ、と声をかけても返事はなく、よくよく覗き込んで見てみると窓ガラスに額を預けたまま、彼は静かに寝息を立てていた。
余程疲れていたのだろう。
こんな無防備な寝顔を見たのは、葉月も初めてだ。
起こそうか、と考えて葉月は伸ばしかけた手を止めた。
(義務感だけの埋め合わせなんて……いらないんですよ、月城さん)
入ったばかりのSAから出て、彼女はぐるりと回りこんで反対車線に乗った。
彼が起きてしまわないように時々横目で様子を伺いながら、車は元来た方向に向かって進んでいく。
「月城さん」
「っ!…………ああ、もしかして」
「熟睡、されてました。よっぽど車の揺れが心地よかったんですね」
「そうか、すまない」
それで、と顔を上げた月城は、フロントガラス越に見える見慣れた自宅の庭を数秒眺め、ぱちぱちと瞬きし、そして首を傾げるようにして葉月に視線を移した。
「せっかく誘っていただいたんですけど、兄から急な連絡が入りまして。すみません」
「…………そうか。いや、こちらこそ寝てしまって悪かった」
「いえ。ゆっくり休んでください」
無理しないでくださいね、と付け加えると、彼は困ったようなばつが悪そうな、そんな表情で頷いた。
車を発進させて、少ししてからサイドミラーで家の方を見てみると、彼はもう中に入ってしまったようでそこにはいなかった。
見送って欲しいわけではないが、あっさり中に入られるとそれはそれで少し寂しい。
(嘘つくのも、上手になっちゃったわね……佐々木主任になら見抜かれるでしょうけど)
月城に面と向かってそれを指摘されたことはない。
気づいているのかもしれないが、あえてその言葉を嘘ごと受け止めてくれているのだろう……と、葉月は好意的にそう解釈することにしている。
ひとまず家に戻り、さてどうしようかと考えた結果、葉月は月城が到底出かけないだろう人ごみの中に出向くことにした。
名目は、衣替え前の夏物購入だ。
きっと予定が入っているだろう友人や忙しくしている兄は誘わずに、ぶらぶらとウィンドーを眺めて歩く。
時折【特価】という魅力的なラベルのついたPCや時計などが目に入り、ふらりと立ち寄ってしまいそうになっては慌てて我に返る。
実家はそこそこ裕福でも、彼女自身はそれほど贅沢はしていない。
マンションは兄や叔父の言いつけなので仕方ないとしても、身の回りの品や化粧品も有名ブランドとはほど遠い、ごく普通の量販品ばかりだ。
「あれ、雨宮……さん?」
通りにまでいい香りの漂う雑貨屋に入ろうかと扉に手をかけたところで、中から出てきたラフな格好の青年に呼び止められる。
一歩距離を置いてその顔を見上げてみると、確かにそれは知った顔だった。
「梧桐くん、だったかしら?」
「はい!ろくに挨拶もしてないのに覚えていてもらえて嬉しいです」
「…………私もろくに挨拶していないはずだけど、名前を覚えていてもらえて光栄だわ」
思ってもないことを、と自嘲しながらも葉月はそう答える。
彼と葉月がろくに挨拶もしないような間柄であることは間違いない。ただそれは、彼が営業部の人間であり、日中……下手をすると朝いちから定時後までずっと外に出ているからだ。
他の社員の場合、彼に少しでも気があればどうにか接点を持とうと帰社タイミングを見計らったりするが、葉月の場合完全攻略対象外して見なしているためそんな面倒なことはしていない。
(ろくに挨拶もしてないなんて……普通なら嫌味だと取るわよね)
それも彼以外なら、という例外条件がつく。
双子の姉である陽菜曰く、朝陽は他人の感情……特に恋愛絡みの感情には敏感で、彼自身好かれて悪い気もしないのかそういった相手を拒むことはない。
だがそれ以外のことに関してははっきり言われなければわからないほどに鈍感で、言葉の使い方も少々難ありとホテル部門時代もよくそうやって叱られていたらしい。
『すみません。悪気はないんですよ。いつか痛い目見るんじゃないかって心配なんですが』
でも痛い目みないとわからないでしょうか?
最後の方は茶目っ気を含ませてそう言っていた陽菜の様子からも、朝陽を可愛がって甘やかしているという贔屓目は見られない。
なので、陽菜に引継ぎをしなければならない立場の葉月としては、朝陽に関しては迷惑をかけられない限りは全面放置、というスタンスで通している。
「もしかして、雨宮さんもこの雑貨屋さんに用事ですか?」
「ええ、そんなところかしら。前を通りかかったらいい香りがしたから、ちょっと覗いてみようかと思って。梧桐くんは?」
「ああ、俺もなんです。いい匂いだなーってふらふらっと中に入ったんですけど、どうにも陽菜の好きそうなファンシーなものばっかりで。俺が買うにはちょっとなーって出てきちゃいました」
「梧桐さんってファンシーなものが好きなの?なら、教えてあげたら喜ばれるかもしれないわね」
「もちろん、そのつもりです」
素直に応じておいて、朝陽は「あ、そうだ」と急に鞄をがさごそとあさり始めた。
そして取り出したのは、少し皺の寄った甘い匂いのする紙袋。
(あら?その紙袋って前に……)
月城が現在休みを削ってまで取り組んでいる総務部内のネットワーク整備、そのきっかけとなったトラブルの場に居合わせた陽菜が、即座に復旧に取り掛かってくれたお礼と称して月城と稲葉に渡していたのが、これと同じ紙袋だった。
稲葉には、缶コーヒーと小さな紙袋。
月城には、ドリップコーヒーと少し大きめの紙袋。
どうして両者で差があるのかというと、稲葉はあくまでも通りすがりに月城を呼びに行ってくれただけであるからだ。
「これ、陽菜が作ったあまりなんですけど、良かったらどうぞ。俺、試作の段階で結構食べてるんで、誰かに会えたらあげようと思ってたんです。……あ、でも雨宮さんだったら明日また陽菜からもらいますよね?」
「え?明日また作って持ってきてくれるの?」
そんな話は聞いてない。とはいえお菓子作りが趣味だと言っていた陽菜のことだ、休日に作って出来がよければおすそ分けをと考えてもおかしくはない。
「あ、ええ。なんか前にお世話になったシス課の人に、クッキーのお礼を言われたそうなんですよ。すごく褒めてもらえたから、また作っていくんだってもう張り切っちゃって」
「…………そう」
(月城さん、甘いもの苦手なはずなのに。よっぽど口にあったのかしら)
そんなことを考えながら、葉月は礼を言ってクッキーの袋を受け取った。