7.潔癖×チョロイン
「わあ、美味しいですっ!チョコなのに甘すぎないし、しつこくもないし。生クリームってわけでもなさそうですけど……なんだろ?ちょっとアーモンドっぽい香りもしますね」
定時終了後、どうしてもやり残したことがあるからと残業を申請した陽菜は、「どうしても雨宮さんに教わりたいことがありまして」と渋る上司に無理やりねじ込み、葉月の残業申請も通してしまった。
結局一日ずっと上司の傍でコピーやら資料整理やら手伝わされていた所為で、確かに処理できていない仕事は残っている。
それは葉月が手伝おうと思えばできる内容の仕事だが、上司によってはっきりと『これは梧桐さんにやってもらう割り当てなので』と宣言されたこともあり、野上もこればかりは葉月に丸投げはできなかったらしい。
上司が定時に帰り、しばらくして部長も帰り、周囲の社員達が「お先に」と帰って行って、残るは陽菜と葉月の二人だけ。
そんな状況になってようやく、葉月は昼間佐々木から分けてもらった新作ケーキを陽菜にふるまった。
勿論、営業部の予定ボードで梧桐朝陽が【退社】になっているのを確認してからだ。
「佐々木主任のおうちって、あのエトワールと提携してる会社を経営されてたんですね。そこの新作ケーキだなんて、得しちゃった気分です」
「きっと、佐々木主任がその感想聞いたら喜ぶわよ?話しかけるきっかけにもなるし、声かけてみたら?」
「え?…………え、っと……でも、なんだか私、あまり好かれてないみたいで。今日も、月城さんはお休みですかって聞きに行ったら、嫌な顔されちゃいまして」
「虫の居所でも悪かったのかしら。珍しいわね」
そうは言ってみるが、葉月にはどうして佐々木が陽菜に対して不機嫌な対応をしたのか、その理由に心当たりがあった。
(一見すると癒し系だし優しげなんだけど、意外と潔癖なのよね……主任って)
彼は月城とそれなりに親しい。加えて、葉月とも親しい。
そんな二人がぎこちなくも互いに歩み寄ろうと付き合いを続けているのを知っているからこそ、彼は月城が葉月との約束を反故にせざるを得なくなった今回のトラブルに対し、腹を立てている。
それは、直接的には陽菜の所為ではない。
むしろ、陽菜の分のネットワークを増設したことに伴って、何を考えたか社員がちらほら出勤する土曜日の昼間にバックアップを取るように設定を変更した、総務部次長の野上に対して怒るべきことだ。
……否、野上に対しては既に怒りを通り越して諦めすら抱いているだろう。
だからそこで陽菜に対して彼らしからぬ不機嫌な態度をぶつけてしまったのは、きっと何か理由がある。
「思い出させるようで悪いんだけど……佐々木主任のところに行った時、月城さんがお休みかどうか訊ねただけだった?他になにか言ったとか聞いたとか言われたとか、そういったことは?」
「特には、思い当たりません。あ、でも『どうしてあいつのこと探してるの?』とは聞かれました。なので、土曜日のお礼を言いたいからって……えっと、それと……」
『どうしてあいつのこと探してるの?』
『あの、土曜日に総務のシステムがダウンした時、あっという間に復旧してくださったんです。それで、そのときのお礼をしたくて』
『……社内ネットワークの復旧なら、もともとうちの仕事だから特にお礼とかいらないよ?』
『いえ、その。その時、私が直前まで打ってたデータが全部消えちゃったみたいなんです。それをお話したら、じゃあ復旧できないかやってみるからって言ってくださって。帰り際もまだ残っていらしたみたいだし、ずっと気になっていたんです』
『ふぅん。……ああ、そう』
その瞬間、佐々木の表情から笑顔が消えた。
彼は突然不機嫌そうに視線をそらし、『とにかく、君がお礼を言う必要なんてないよ』とボソリと告げて、仕事に戻ってしまったのだという。
(それ、梧桐さんに対して怒ってたんじゃないんじゃないの?)
陽菜は、事実を告げただけだ。そして、そのことに礼をしたいと申し出ただけ。
佐々木のその不機嫌さが月城と葉月の付き合いに関することなら、問題があるとすればデータの復旧を申し出た上に、総務部のシステム管理人として不適切な設定をした野上の尻拭いでもするように、バックアップデータの整合性チェックまで手を伸ばした月城の妙に積極的な行動くらいだ。
「別に、さっき梧桐さんの話題を出してもそんな態度は見られなかったし。たまたまじゃないの?」
「そう、なんでしょうか」
だといいんですけど、と陽菜はケーキの最後の一口をゆっくりと噛み締めながら、小さく苦笑した。
息抜きを終えた二人は、残っている仕事を手分けして片付けていく。
まだ一人での仕事を任されていない陽菜は、いつもは定時前に片付けて上司のデスク上にある未決済フォルダにそれを入れてから帰宅する。
この日は陽菜がデータを打ち込み、社内ネットワークのリアルタイムチェック機能を使い、ざっと葉月が内容を確認して誤りがあれば訂正、そして陽菜にOKを出して先に進めるという形を取っている。
一通り片付いたところで、陽菜がふぅっと大きく息をついた。
どうやら処理が終わったようだ、そう気づいた葉月も軽く伸びをする。
「さてと、申請時間までにはまだ余裕があるけど……もう帰れそう?」
「はい。一緒に残っていただいてありがとうございました」
「梧桐さんにはこれからどんどん引継ぎを受けてもらわなきゃいけないから、フォローできるところはやらせてもらうわ。私もいつまでここにいられるかわからないし」
「……え?」
辞めちゃうんですか?と一気に不安げになった陽菜に、今度は葉月が苦笑する。
「だって私、契約社員だもの。もともと今回の契約更新だって、貴方への引継ぎが理由なんだし。……実際、梧桐さんだって見てるでしょ?私にとって、それほど居心地がいいわけじゃない、って」
「あ、……それは、はい」
「だから、今年中には引継ぎを終わらせるつもり。年度末までには戦力になってもらえるように、できるだけフォローはするわ。でも人脈までは引き継げないから、その辺は頑張ってね」
(賢い彼女のことだもの、媚を売れってことじゃないってわかってくれてるはずよね)
今葉月の味方になってくれているのは、彼女が相応の実力を示したから。そのことに驕ることなく、ほんの些細なことに対しても頭を下げ続けた結果、彼女を信頼してくれた人達ばかり。
陽菜も、世話になったからと礼を言いに行くだけの礼儀は心得ている。
そして、不機嫌な佐々木の感情を感じ取ったように、人の気持ちを思い遣る分別も備わっている。
あとは、変な輩に引っかかってがっつり洗脳されてしまわない限りは、おのずと本当の意味で味方になろうとしてくれる人が必ず出てくるはずだ。
いつの間にか駐車場まで来ていた二人は、そこで一旦足を止めた。
陽菜はここに停めた車で帰宅、駐車場すら割り振ってもらえなかった葉月はここから更に駅まで歩いて、電車で帰宅する。
(あ、この時間帯だったら兄さんにかけても大丈夫そう。迎えに来てもらおうかな?)
葉月の兄は弁護士だ。
仕事は企業相手が殆どだが、たまに紹介されて個人の依頼も請け負っているという、中々に名の売れた事務所に所属している。
毎日帰宅時間は遅い兄だが、この日は葉月も残業したためそれなりに遅い時間になっている。
遅くなる時は連絡しなさい、と前に言われていたことを思い出し、電話しようかと家族用の携帯を取り出した、その時
「……あの、雨宮さん」
「なに?どうかしたの?」
「こんなこと、雨宮さんに聞くのもどうかなって思ったんですけど、でも相談できる人がいなくって。その、月城さんのことなんですが」
「月城さん?」
(なにかしら。嫌な予感しかしないんだけど)
陽菜はまだ異動してきて間もない上に、21歳と若い。
さすがに今年30歳になる月城に対して、フォローをしてもらったので好きになっちゃいました!というチョロイン並のちょろさはないだろう。
月城も、万人受けするようなイケメンとは程遠い。
背はそれなりに高いが全体的に痩せ過ぎており、顔立ちもそういえば整ってるかな?という程度。
佐々木の顔立ちが穏やかだと言えるなら、月城のそれはどこか排他的で険しさすら感じられる。
その所為なのか、それとも彼の口下手なところが裏目に出ているのか、社内で彼と親しくしているのは佐々木や物怖じしない稲葉、あと付き合いの長い技術部の男性社員数人程度だ。
無意識に警戒しながら先を促すと、陽菜はつっかえつっかえになりながらも、やはり月城にお礼をしたいこと、あと、トラブルに気づいてくれた営業部の稲葉にも何か渡したいことを告げ、なにがいいでしょうか?と相談を持ちかけてきた。
「なにって……佐々木主任の言うように月城さんの場合は仕事の一環だし、稲葉さんの場合は通りすがりでしょう?だったら高価なお礼は逆効果だし、コーヒーを差し入れるとかでいいんじゃないかしら」
「コーヒーですね。あと、あの、私お菓子作りが趣味なんですけど……クッキーとかつけたらご迷惑でしょうか?稲葉さんは甘党だって知ってるんですけど、月城さんは甘いものとかお好きかな?って気になって」
「…………さあ」
私も知らない、と葉月は小さな嘘をついた。
葉月と月城は、会社内では殆ど関わりを持たない。佐々木が二人の関係性に気づいたことの方が不思議なくらい接点もない。
そんな彼女が月城の嗜好について知っていたら、その方が違和感があるだろう。と、そう考えたからだ。
決して、『若くて可愛い新入りさんに興味を持たれて良かったわねー』というモヤモヤとした悪感情からではない、はずだ。
しょんぼりと項垂れてしまった陽菜。
礼をしたいという彼女の思いに偽りは感じられなかったし、恋愛感情のような甘くて切ない色合いも含まれていないのはわかっている。
ちょっと意地悪だったかな、と葉月はお詫びもかねて「プレーンなクッキーなら誰でも食べられそうだけど」と少しだけフォローをしてみた。
「あ、でも会社に持ってくるならこっそりね。間違ってもうちの上司なんかにはバレないように。いい?」
「はいっ、早速帰って作ってみますね!」
なにもすぐ作らなくったって。
驚き半分呆れ半分で呟いた葉月の言葉は、よし!と意気込んでいる陽菜の耳には届かなかった。