6.先輩×スイーツ
月曜日。
葉月がいつも通りの時間に出社すると、陽菜が既にPCの前に座って待っていた。
「おはよう、梧桐さん。随分早かったみたいだけど、どうかしたの?」
「おはようございます、雨宮さん。あ、あの……っ」
「ちょっと待って。ひとまずパソコンスリープ状態にしてから、食堂行きましょうか」
珍しく切羽詰った様子の陽菜を一目見て、これは上司に見られたらなにを言われるかわかったものじゃない、と葉月はそう直感した。
そうなったら最後、いくら陽菜が「雨宮さんの所為じゃないんです」と訴えたところで逆効果、むしろ葉月だけ別室に呼ばれて延々嫌味を言われるに決まっている。
なので、出社時間が不定な上司に出くわさないためにもと、葉月はまだ誰もいない食堂に彼女を誘った。
更衣室では他の女性社員の目がある、給湯室では誰が入ってくるかわからない。
勤務開始まであと30分……時間的余裕はまだあるが、葉月の場合最低15分前に席についていないと「契約社員さんのペースに正社員をまきこまな(以下略)」という、朝から聞きたくもない小言を聞かされてしまう。
(って、なんでここまで気を使わなきゃいけないの……はぁ)
仕事の邪魔をするのはタヌキ部長も同様だが、部長の場合は嫌味を言うのではなく主に自分の都合で勝手に隣の席に座ったり、突然話しかけたりするだけなので、近寄ってきた時だけ対処すればそれでいい。
その手のことを一応念のためにとこっそり陽菜には伝えたが、彼女もなんとなくわかっていたようでその時は苦笑で返された。
「あの、私土曜日に電話当番だったんですけど……打ち込みしてたら、いきなりパソコンがフリーズしてしまって。仕方ないので作成中のデータを破棄して再起動したら、今度は上手く立ち上がらなくなってしまったんです」
「……トラブルってそういうこと」
「え?」
「ああ、うん。なんでもないの。それで、どうしたの?」
土曜日の電話当番は、各部署ともに最低各1名が出勤してお客様や取引先からの連絡に備える、というものだ。なので当然、出勤している社員数は普段と比べて激減する。
陽菜は突然のことでパニックに陥ったものの、偶々得意先から戻ってきた営業本部の稲葉という男性社員が状況に気づいてくれ、すぐにシステム課に応援を頼んでくれたらしい。
その結果、システムはどうにか復旧したものの、その日の作業は全てゼロに戻ってしまった。
そのことで、彼女は責任を感じているようだ。
「梧桐さんが責任を感じる必要もないと思うんだけど……シス課の人は原因について何か言ってた?」
「いえ、それが……どうやら週末にバックアップを取るように設定してあったようで、それが処理の妨げになったとか何とか」
「ああ、それじゃ梧桐さんの所為じゃないわよ。バックアップ処理って、通常作業と並行させるとシステムに負担がかかるものなの。フリーズもその所為かもしれないわ。だから落ち込まないで、ね?」
「……それ、シス課の方にも言われました」
「でしょ?」
ようやく顔に笑顔が戻った陽菜、その肩を軽くポンと叩いてから葉月は「戻りましょうか」と席を立った。
(シス課の出勤者が月城さんだけとは限らない。でも多分……)
トラブルとやらが起き、彼らしからぬ焦った様子で電話をかけてきた月城。
その状況から察するに、陽菜の直面した問題に月城がなんらかの形で関わっているのは間違いない。
彼はこの本社内、総務部とはフロアの端と端という位置にある技術部内のシステム課に所属するエンジニアだ、システムエラーを復旧させるくらいなら容易いだろう。
ただ、バックアップの所為でデータの一部が失われてしまったことで、そのフォローも兼ねて日曜日も続けて休日出勤となったらしい。
戻りがけにそろそろ人が増えてきたフロア内を見渡してみるが、月城の姿はない。
恐らく休日出勤分の振り替えとして休みを貰ったのだろう。
「…………」
「あ、あれ?私、土曜日に出来なかった分の資料……ここに積んでおいたんですけど」
「ああ、梧桐さん。その資料なら雨宮さんにお願いしましたから。ほら、土曜日は大変だったでしょう?ですから今日は一日、僕の手伝いをして欲しいんです」
『お願いしました』と口では言っているが、葉月はきちんとお願いされた記憶はない。
ただ、やれよ、とばかりにデスク上に放り投げられている資料の山があるだけだ。
この状況のことを『お願いした』と言うのだと、上司の辞書にはそう書かれてあるらしい。
大概そういう丸投げにも慣れてきた葉月が黙ってPCを立ち上げにかかると、陽菜がすまなさそうな視線を向けてきた。
それもこれも彼女の所為ではない。
上司の言うように彼女を甘やかして守ってやる気は毛頭ないが、彼女自身に非のないことを恨んでも虚しいだけだ。
手早くキーを叩いてパチパチと打ち込みを始めた彼女は、横顔に感じるじっとりと湿った視線を完全に頭の中から除外して、未処理分の資料の山を着実に減らしていった。
途中、何度か鳴った電話は他の社員達が協力して取ってくれたおかげで、山積みになっていたはずの未処理の文書があっという間に片付いていく。
「雨宮さん、シス課の佐々木主任がヘルプに入って欲しいって。行けそう?」
「ありがとうございます。ちょうどキリがつきましたので、行ってきていいですか?」
「相変わらず速いわねー。後のことはやっとくから、大丈夫よ」
「すみません。それじゃ席を離れます」
カタン、と手を止めた時には、既に雑然と積まれてあった未処理の山はなく、かわりに整然と箱の中に仕舞われた処理済の書類が溢れんばかりになっていた。
ふぅ、いい汗かいた。とばかりに葉月は静かに席を立ち、「大変ね」「頑張ってね」と声をかけてくれる総務の先輩達に一礼してから、フロアの端にあるシステム課へと足を向けた。
総務から技術部に向かう途中にある営業本部は、殆どの社員が出払っており閑散としている。
残っているのは契約書を作成したり資料整理をしたりする事務員くらいだ。
そこからまた少し歩くと、営業部同様閑散とした雰囲気の技術部エリアに到着する。
基本的に技術部では営業職の社員とセットで動くことが多いため、営業部が静かな時は大概技術部も静かである。
「ああ、来た来た。雨宮さん、こっち」
おいでおいで、とパソコン越しに手だけ伸ばして合図を送ってくるのは、葉月を呼び出した張本人である佐々木主任だ。
葉月の所属は基本的に総務部だが、例外的に他所の部署からのヘルプ依頼があれば断らずに応じるように、と2回目の契約更新時に言われている。
こうして彼女が他部署に頼られること自体は野上にとっては面白くないのだろうが、そこはそれ。
社長秘書であり社長令息でもある瀧河恭一郎が瑠架から相談を受け、「所属部内のみに留まらず、他部署のヘルプもこなせる社員を雇用している総務部はさすがだ」とこっそり噂を流させてあるため、タヌキ部長はほくほく顔で葉月のヘルプ派遣を承認しているのだ。
「佐々木主任、今日はどうかしまし…………なんですか、このスイーツの山は」
「うちの新作ケーキ。甘いものは脳にいいって言うからさ、たくさん食べてもらおうと思ってね」
「……その分こき使いますよ、ってことですね」
あからさまです、と少し項垂れる彼女に、佐々木は総務部に聞こえないレベルの声で笑う。
器用にも、ケラケラと笑いながらも時々ケーキを口に運ぶ、というのが彼らしい。
まぁ食べて、と勧められるままに葉月もケーキに手を伸ばす。
佐々木の座る位置からは総務部は見えない。なので多少おしゃべりしていても、何かを飲み食いしていても上司に咎められることはないし、その点では安心できる場所のひとつだ。
「たくさん持ってきたのはいいんだけどさ、今日は稲葉君も月城もいないからね。日付も今日までだし、どんどん食べちゃって構わないよ」
「それだったら、後でうちの梧桐さんにもあげていいですか?」
「うん?……ああ、営業部の梧桐君のお姉さんね。それはいいけど、営業部の梧桐君には見つからないようにしてよ?彼に見つかっちゃうと、取り巻きの女の子たちの分まで用意しなきゃいけなくなるから」
あっけらかんとした佐々木の指摘に、葉月は苦笑しつつ頷く。
ヒーローレベル1、と勝手に認定した梧桐朝陽は、仕事の内容はともかくとして気性は真っ直ぐで人当たりが基本的にいい。
顔も整っていることもあり、その愛想のよさも手伝って支社の女性社員達の受けも良く、本社に来てからはあまりいい顔をしない社員も多いものの、それでもフリーの女性社員達にはモテているらしい。
例えば同じ営業部の先輩営業職員、例えば請求書発行の手続きなどでお世話になる経理部の若手、例えば役員秘書についているお姉様タイプの女性、などなど彼の周囲を取り巻いている女性達は確実に増えてきている。
佐々木が言っているのは、恐らく彼女達のことだろう。
「そういえば、土曜日は大変だったらしいですね。朝方梧桐さんから話は聞きましたけど、週末一杯データ復旧に使ったって本当ですか?」
「ああ、もしかして月城から連絡でも行った?そうなんだ、システムの復旧自体はすぐ終わったんだけどね。バックアップの取れなかったデータの復元ができないかどうかとか、通常処理と重なった部分のバックアップデータの整合性チェックとか、月城なりにあれこれ試してたらしいよ。梧桐さんが相当テンパってたらしいから、さすがに可哀想になったんじゃないかな。とはいえ、約束より優先するほどでもないと思うんだけどね」
最後の言葉だけ小さく呟くように吐き捨てて、佐々木はふっと笑った。
先ほどまでのおかしくてたまらないという笑顔ではなく、裏にいくつも含みを持たせた彼独特の黒のような白のようなグレーのような、印象の定まらない意味深な笑顔だ。
彼はこのフロア内で唯一、月城と葉月が『いまどき幼稚園児でもやらない、おままごとのようなお付き合い』をしていると知っている人間だ。
といっても、彼らから明かしたわけではなく、葉月とはまた違った意味合いで色々なことが見えてしまう佐々木が、「もしかして付き合ってるの?」と直球ストレートで聞いてきて以来、こうやってたまに話題にさらりと出されたりする。
「まぁ、いつものことですから。月城さん、仕事に対して凄く真面目ですし」
「それ、まるで僕が真面目じゃないみたいなんだけど?」
「真面目な人は仕事しながらケーキなんて食べませんよ」
「それもそっか。でも食べたから君も同罪だからね?」
そう言って、なにがツボったのか佐々木はまた声を立てて笑った。
今度は、邪気のない明るい笑顔で。